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マーヤ  作者: 白木
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辻褄の合わない二つの記憶



     ――①―― 辻褄の合わない二つの記憶










「記憶」、それは過去に体験したことや覚えたことを、忘れずに心にとめておくこと。辞書にはそう書かれている。

 その「心」というものはあまりにも抽象的過ぎる言葉だ。

 人の記憶とは一体、体のどこにおさめられているのだろう。

 頭だろうか、胸の奥だろうか。あるいは、それらとは別の部分に存在するのかもしれない。

 そんなこと考えたたところで、果たして意味を見出すことはできるのだろうか。

 おそらくは、不可能。

 建設的ではない。

 誰もがそう諦めて純粋潔白な日常を享受している。あるいは、そんな哲学的なことなんてわざわざ考えてるやつも少ない……か。

 でもそんな些細なことが、奇妙な能力を授かった俺にとっては重要なことで、それさえわかってしまえば、いくらか違った人生を送れそうな気がする。

 必要のない記憶と必要な記憶。そのふたつを簡単に区分してしまえたらどれだけ楽だろう。

 ここのところそんな生産性のないことばかり考えてる気がする。

 今となっては、それ自体がただの日常に様変わりしてしまっていて、諦めはついているものの、なぜかそこから離れることができないでいる。

 そして、その根源となった出来事。

 俺が中学2年の頃に起きた出来事が起因となっている。

 話といっても覚えていることはほんのわずかな断片だけ。それが何かの解決の糸口に繋がりそうなわけでもないし、効率性を重視する性格の俺からしてみたらそんなこと、もう忘れてしまえばいい、と自分に言い聞かせている。

 ちなみにそのとき授かった奇妙な能力というやつ、ファンタジーノベルみたいに炎を操れるだとか、モンスターを召喚できるとかいう類なら喜んで受け入れたのだが、中2だからといって厨二病的な恩恵は頂けなかったみたいだ。

 俺に与えられた能力は、「物事、人物を忘却の恐れなく完全に記憶できる」というなんとも使い道に困るものだった。

 ちょっとかっこよく言ってみたが、簡単に言えば、卓越した記憶力を手に入れたと言えばピンとくるだろう。

 その能力を手に入れてから早2年半が過ぎようとしている。

 今のところこれといった不便はない、それどころかこの記憶力を利便的に使う最良の方法を見つけてしまった。

 学生は勉強をするのが本業だ。頭の固い教師にそう言われた経験を誰もが持っていることだろう。

 勉強というものはほとんどが暗記科目で、公式や応用力が必要なものは限られてくる。

 つまりだ――それさえわかってしまえば簡単。

 俺はこの記憶力を行使し、勉学においてはもはや敵なし状態のところまで登りついている。

 まあもちろん、全国各地にいる、天才と秀才を合わせ持ったようなやつらを凌駕するまでは行かない。あくまで記憶しているだけだからな。

 それでも今通っている高校では成績学年トップをキープし続けている。それ以外に特徴らしい特徴はない、平凡な高校生だ。

 俺ほど当たり前の日常というものを愛している人間は恐らくほとんどいないだろう。

 しかし、どうも嫌な予感がする朝だった。

 俺にとっての予感というものはたいていネガティブな状況を暗示している。

 そんな今日という日は、高校生活2年目が始まる良い意味でも悪い意味でも記念すべき日だった。

 不安ばかりの俺にとっては、悪い意味でしかとらえられないのだが。

 そんな確たる立証もできないものを信じるのは俺の性分に反するのだが――。



 不吉な予感に多少神経質になりながら、20分ほど電車に乗ってると地元の駅から学校の最寄駅に到着した。

 都心から良い具合に離れている、電車を使えば1時間足らずで眠らない街へと出向くことができてしまう距離だ。

 学校帰りにわざわざそっちまで行くような暇人はいないみたいだが、休日どこかへ遊びに行くとなったらまず電車に乗るという行為がデフォルト。

 そんな相変わらずの景色を目の前にしていると、相変わらずの声が耳に届いた。

 まあこれもある意味デフォルトな出来事なのだ。

「新学期早々暗そうな顔してんなー。暗そうっていうか――あからさまに暗い!」

 そう言って声をかけてきたのは中学からの親友、星野誠(ほしのまこと)だ。

 こいつは紹介するなら一言で済ませることができる。

 短髪の愉快なスポーツ少年。かといってモブキャラでもない、チャラい方面に有り余った才能を持ち合わせている男だ。

 つまりは、俺と正反対。

 朝っぱらから不機嫌そうな表情で制服のポケットに手を突っ込んでいる俺にはあまりにも不似合いな親友。

「おいおい、無視すんなよー。ほんと、常に機嫌悪いよなー瑛司は」

「春休み明けの最初の挨拶で悪口を言われて無視しないやつがどこにいる」

 俺も相変わらずの皮肉たっぷりな口調で返してやった。

 まあこいつには通用しないってわかってるんだけどな。

「あれ? 無視も挨拶のうちだ、っていう決め台詞はやめたのか?」

「新学期だからな。心機一転というやつだ」

「心機一転ねえ……一転というほど変わってない気もするけど」

「細かいことは気にするな。脳みそは勉強のときにだけ使ったほうが効率的だぞ」

「勉強かあ……瑛司に言われたら妙に説得力あるんだよなー」

 安直な返しに星野はどうやら納得してくれたらしい。

 ちょっとした会話のあと、この状況に帰結するのがお決まりパターンだ。

 星野と言えば、俺には背負っても背負いきれない恩がある。

 もともと人見知りだった俺は高校に入ってすぐ、根暗なやつだとクラスのみんなから認識されていた。

 自分では意識のないことだったが、どうやら風貌や髪型もそれにマッチしているらしい。

 なるべく顔を公然の場に晒したくない、という信念に基づいた髪型だと自負しているのだが。

 そんな俺でも、少しづつクラスに馴染んでいけたのは、超明るいキャラの星野と仲が良かったおかげだ。友達の友達は友達、という単純な理論をやつは実現してくれる。

 それもごく自然に。

 そんな大きすぎる恩をいつか返したいと思ってはいるのだが、あまりにも悩みのなさそうなやつであるが故、そんな機会が訪れる気が全くしない今日この頃だ。

 それにそもそも、俺は根っから暗いわけではない――つもりだ……。

「そんなことより、俺はクラス替えという非効率的な定例行事のせいでどうにも本調子で新学年を始められそうにないんだが」

 毎年やってくる陰鬱な悩みである。

 今日は蓮実(れんじつ)高校2年生となる記念すべき日だったが、新しい学年になる際の無意味にしか思えない、新生活スタートみたいなノリがどうにも個人的に許せない。

「新しい友達つくるだけっしょ。特に何も変わんないと思うぜ」

 こいつは全く進歩のないやつだ。

 そりゃあお前にはなんの問題もないだろうよ。

 けど俺にとってクラス替えってのは政府が動き出してもいいくらいの災害レベルだ。

 なんせ、またクラスに馴染むのに一苦労しなきゃならないってんだからな。

「あー瑛司(えいじ)はまた友達づくりの努力をしなきゃいけないのか。まあ去年は大丈夫だったんだし今年は全員が知らない人ってことはないだろうから大丈夫でしょ」

「そういうもんか?」

 まあ知り合いは少人数に抑えたほうがいろいろと面倒が少ないかもしれないし特に気にする必要もないかもしれない。

 しかし、コミュ力が尋常じゃないお前に言われると逆に説得力がないんだよ!

「まあ、なんとかなるよ。なんとかならないことなんてない」

「なんかむかつく名言だな」

「だろ?」

 星野は嬉しそうにそう答える。

 むかつく、という形容詞が聞こえなかったのだろうか。

「また散々お前のお世話になるだろうけどな」

「構わないけどさー。また同じクラスになれるとは限らないぜ」

「安心しろ。去年の担任松本に釘を刺しておいた」

 成績学年一位という称号は時として権力にもなりうるのだ。

「相変わらず強引に物事を進めるなー。あと、安心するのはこっちじゃなくて瑛司のほうだと思うけど」

 ごもっともだ。

「たまにはまともな反応もできるんだな」

 俺はいつでもまともだ、と言い張る星野を軽くあしらいつつ、今となっては不安の象徴にしか見えない学校へととうとう到着してしまった。

 地元でも有数の進学校である蓮実高校は、俺たちが入学してくる年にちょうど再建築された。

 そのおかげで校舎はなんとも未来的な姿をしている。

 実際に聞いたことはないのだが、地元では「魔法学校」と呼んでいるやつらもいるらしい。

 かくいう俺も、そんな校舎に愛着が湧いてきてしまってはいるのだが――だってこの外観だぜ?

 もはや学校じゃないだろこれ。

 ファンタジー映画のロケ地に選ばれてもさして驚きはしないだろう。

 校門をくぐると、緊張と不安を織り交ぜたような寒気がやってきた。

 今朝電車の中で感じた嫌な予感を思い出す。

 考えすぎかもしれないが嵐がくる前の静けさのような陰鬱さが襲う。この学校特有のものかもしれない。

 変なところで個性を前面に押し出してくる学校だからな。

 そんな蓮実高校、建物が乱立しているせいでなんとなく外界から離れた場所にいるような気分にさせられる独特な雰囲気の敷地内だ。

 正門を一歩出ればすぐに街の喧騒が聞こえてくるのだが、一旦中に入ってしまうとそれを完全に忘れさせられる。

 学校で必要のないことは考えるな、ということだろうか。

 授業内容とかってのは普通の学校と変わらない。4月最初の授業ってのは、良いも悪いも胸騒ぎが止まらないってところも同じだ。

 まあ個人的には、何事もなく一日が過ぎるのを待とうと思う。

 それがあくまで俺のスタイルであって、もし、安定した日常に釘をさすようなイベント事が起きたりでもしたら、理不尽にも俺に恨まれることになる。

「あっ」

 何かを思い出したかのように星野が足を止めた。

「どうかしたか?」

「とりあえず瑛司は根暗な性格を改善したほうがいいかもな」

「立ち止まってまで言うことかよ!」

 ほんとにこんな感じで大丈夫なんだろうか、俺の新しい学校生活は……。



 朝のホームルーム。

 なぜか緊張するのは俺だけじゃないはずだ。

 手回ししておいたかいもあって、星野とは同じクラスになれたものの、ここC組は知らないやつばかりだ。

 担任は去年と同じ松本。授業の腕前に関しては高評価されるべき国語教師らしいが、恐ろしくヘビースモーカーなせいで他の教師に隠れて喫煙している。

 その秘密を知っているごく少数の生徒である俺を手元に置いておきたかったってのもあるのかもしれない。

 まあでも、思った以上に、昨年度と環境は変わっていない。

 生憎、席は一番前になってしまったが大きな損害には繋がらないだろう。

 新学期ということもあって朝のホームルームはわりとにぎやかだった。

 松本も注意する感じの人柄じゃないし、クラスの中核を成すことになりそうなにぎやか(リア充)グループはさぞ心を躍らせていることだろう。

 しかし、さっきから気になっているんだがあいつは何者だろうか。

 斜め後ろからものすごい悪意、いや殺意を持った視線を感じる。ちらっと見てみた感じでは大人しめの男子生徒だ。

 悪く言えば、友達がいなさそうなやつ。


 ホームルームが終わってすぐ、教室の左端を運良くゲットした星野のもとに向かった。

「なあ、あのメガネの生真面目そうなやつ誰かわかるか? やたらとにらんできて気持ち悪いんだが」

 星野はなーんだそんなことか、と簡単言う。俺にとってはクラスメイトの情報というものはかなり重要なことなんだが。

「あいつは羽賀裕一(はがゆういち)。成績はお前に次いで学年2位だ。たぶんお前を勝手にライバル視してるんじゃないかな。瑛司ってほら、逆恨みされそうじゃん」

 学年1位も楽じゃないねー、と言いながら星野は笑う。

「逆恨みされそう――ね……」

 去年の今頃ならそれも優越感で満たされていたことだろう。

 しかし、せっかく安定した日常を手に入れた今となっては目ざわり以外の何物でもない。

 そんなことで恨まれていてはいくら平凡に過ごそうたって無理がある。

 進学校で学年1位になるという重みをあらためて実感した。

「文句があればテストで俺に勝てばいいだけの話なのに」

 聞こえたらまずいと思いながらも俺は自信たっぷりの発言をかましてやった。常に態度をでかく保つ、というのはこれも、俺のポリシーのひとつである。

 まあ根っからの本音でもあるのだが。

 幸い、羽賀は何も聞こえてなかったようだ。

 聞こえていたところで掴みかかってくるようなやつではなさそうだし、もし髪を金に染めているようなやつだったらまず敵にまわそうとは考えつかない。

「まあでも気をつけたほうがいいかもだぜ。あいつの本性を知ってる数少ない、俺からの忠告だ」

「それは一体どういうことだ?」

「聞いちまうのか?」

「聞いちまっていい話なら」

 そこまで重大ぶられては聞かないという選択肢はないだろう。

 俺は星野の前の空席に腰をかけた。

 準備は万端だと目で合図する。

「そんなにやばい話なのか?」

「やばいというか……まあ笑顔で話せるような話じゃあない」

 星野は周りを気にするように声のボリュームをおとした。

「俺が中学2年のときの話だ。その頃通ってた塾でな、羽賀裕一と同じクラスだったんだ。そんで毎月ある模試でいつも1番だったあいつが珍しく2位になったわけよ。成績的には、全然悪い結果じゃなかったんだ。1番になったやつが、たまたま運良く良い点をとれただけで――でも羽賀のやつはかなり落ち込んでたな。いや、落ち込んでたというより、何かに対して苛立ってたように見えた。どこかに、いたたまれない感情の矛先を向けるかのように――そしたらあいつは何をしでかしたと思う?」

「悔しさのあまり教室で暴れ出したとか」

「惜しいな。けどもっとひどい」

 ひどい。とはどういった意味でひどいのだろうか。

 やっぱり、被害者がいるだとか……そういう類か。

「あの野郎、1位になった女の子の腕に思いっきりシャーペンを突き立てやがったんだ」 腕にシャーペンを突き立てた……。

 心の中で星野の発したその言葉を繰り返す。

 それって軽い怪我じゃ済まないだろ。ましてや中学生の細腕にだろ?

 想像するだけで嗚咽しそうな光景だ。

「正気じゃ――ないな」

 そんな言葉しか出てこなかった。

 とてもそんなことするようなやつには見えないが、星野が嘘をつく理由もないし、そうなのだろう。

「シャレになんない事件だったぜあれは。いつも無口だったあいつが唯一饒舌になった瞬間だった。何を言ってたかはよく覚えてないけど、とにかくひどい言葉をその子に浴びせてた」

 ぞっとする話だ。

 普段大人しいやつほど驚くべき本性を隠しているものだとはよく言うものだが、授業中背中を刺されでもしたら笑えたもんじゃない。

 なんとも運の悪い席配置なのだろう。教師から一番丸見えの位置という時点で随分不運であるのに。

「それから、どうなったんだ。警察沙汰とかにもなっただろ?」

「いや、そこまで大きくは広がらなかったよ。女の子の両親も、子供の喧嘩みたいなものだからって解釈してたみたいだし。まあ内心はどうだがわからないけど。塾の講師たちも、成績トップの生徒が警察沙汰、なんてことにしたくなかっただろうしな」

「そうか――」

 成績トップってやっぱいろいろと複雑な立場だよな。過度に期待されてしまったりするし、そのせいで2位になったくらいのことでも大きな反動が返ってくる。

 俺は今のところ、そこまで大きな被害は出ていないが、そんな平穏がいつまで続くかもわからない。

「しばらくぶりに思い出したよ、羽賀の事件のこと。あいつはそれ以来塾もやめて関わりはなくなったけど、今思い出してみてもやっぱ怖かったな。今は特に何も問題は起こしてないみたいだから改心したのかもしれないけど……」

「俺を睨んできてるあたり、改心はしてなさそうだぜ。少なくとも忌み嫌う対象は変わってなさそうだ」

「もちろんその可能性もある。だから学年1位の瑛司は特に気をつけたほうがいいよ」

 羽賀のほうに一瞥くれて、ごくりと生唾を飲み込む。本当にそんな危険性をはらんだやつには見えないけどな。ただの大人しい、一般学生――。

「なるべく関わらないっていうのが簡単な対策かな」

「もちろん、そうさせてもらう……」

 特に具体的な事件が起きたというわけではないが、幸先の悪い、新学期のスタートだった。新しい友人をつくるどころか、まず自分の身を守ることから始めなければならないなんて。

 護身用ナイフでも持ち歩いたほうがいいかもしれない。

 それはそれでバレたら事件だけど。

 でもやっぱり、ほんとに変人が多い学校だと思う。人間関係の凡庸な俺でさえそう思うのだから、星野なんかは特に意識してるはずだ。

 言ってしまえば、校風、とも捉えられるのかもしれないけど、あんまりポジティブに解釈できるようなことだとは思わないな。

 とりあえず、羽賀、こいつは徹底マークされないようこっちから徹底マークだ。

 授業中以外でやつがシャーペンに手を付ける動作を見つけたら即刻教室から退散しよう。

 なんか、非常にダサい警戒の仕方だな……。

 まあ背に腹は代えられない。プライドなんて自己満足以外の何物でもないしな。



 羽賀の恐ろしいとも言える過去を聞かされた後、帰りのホームルームがあって、あっという間に放課後を迎えた。

 今日は初日ということもあって担任からの事務的な話だけで特に授業というものはなかった。

 部活に入ってるやつはぱらぱらと散っていき、教室は一気に物静かになる。

 と思っていたのも束の間、教室のドアが開くと同時に入ってきた女子生徒の顔を見て、俺は静寂が一気に打ち砕かれるのを容易に予知することができた。

「やっほー!瑛司C組なんだー。はやく新しい友達できると良いねーははは」

 恐ろしいほどのテンションで教室に入ってきたやつの正体。

 それは俺にとっては珍しい女友達の一人、中村紗月(なかむらさつき)だ。

 家が近所のせいもあって幼稚園時代からの幼馴染である。陽気さの度合いでいえば星野さえも軽く上回っている。

「おー俺もC組だぜー。紗月ちゃんは?」

 俺の代わりに星野が返事をしたみたいだ。星野と紗月は俺繋がりで知り合ったみたいなんだがテンションの相性からして俺よりも星野のほうが気が合うんだろう。

「星野くんも一緒なんだー。瑛司のやつ、なんとか助かったって感じだね」

 なかなか核心をついたことをぬかすじゃねーか。

 まあ星野もその辺のことは普通にわかってるだろうし、ただ、敢えて口に出して言うあたりが紗月の悪いところでもあり良いところでもあるのかもしれない。

 俺にとっては悪いの一択になるわけだが。

「あたしはA組だよ! ほんとはC組が良かったんだけどね~」

 何言ってんだか。お前がC組にいたらオレは体がいくつあっても足りん。

「でもここだけの話、C組はがり勉とか交友関係狭そうな人が大量にあふれかえってるクラスって認識されてるらしいよ。登校初日にして」

 紗月のどや顔がちらちらとこちらを覗いてくる。

 これは皮肉だぞというアピールが憎たらしさ満点だ。

「そりゃあ随分と瑛司がカリスマ性を発揮できそうなクラスになりそうだな」

「おいおい。新学期初日からいきなりそんな認識されてんのかよこのクラスは」

 まあさっきの羽賀にしてもそんな感じのやつ多かったかもな。

 しかし、そんなことになってくるといよいよ星野にくっついて行動するしかなさそうだ。

「そんなことよりさあ、瑛司は今年も部活やんないの?」

 紗月は返答がわかりきっていることを前のめりになりながら聞いてきた。

「やらねーよ。スポーツ自体なんにもできないし、それにどこかに所属したところで慣れ合いごっこみたいなノリばかりだろ? そんなのには全く興味が湧かねーな」

「またまた性懲りもなくそんな発言を……」

 紗月はそう言うが、俺の好き嫌いを熟知しているこいつにとって、俺の発言はさぞわかりきったものだったことだろう。

 それに校風として、この蓮実高校は部活に入っていないやつも少なくはない。

 まあ進学校だからというのもあるのだろうが。

 かといってバリバリ勉強してるわけでもない俺は真の暇人という感じだ。もちろん、考え事で一日の半分を過ごせてしまう俺にとっては大した問題じゃない。

 それが楽しくて生きていられる、なんてのは口には出さないけれど。

 いやまあ、そこまではっきりと明言できるほどでもないんだが、それでも体を動かすより脳みそを稼働させるほうが性に合っているのは考えるべくもない。

「まあそれが瑛司らしいし、どっちでもいいけどね。じゃああたしはもう部活行くけど、星野くんも行くでしょ?」

 こいつらはもちろんそれぞれ部活に入って楽しくやってるらしい。紗月は女子テニス部、星野はバスケ部に入っている。

 俺は放課後すぐ帰宅してしまうため、こいつらがスポーツに興じてる姿ってのは実は数える程度にしか見たことがないのだが、この二人はやっぱり部活でもわいわいできてるんだろうな。

「俺もそろそろ行くよ。瑛司はまあ帰って勉強だよな」

「勉強なんかしねーよ。まあ今日も一人でさみしく帰るとする」

「はいはい、じゃあまた明日な」

 そう言って星野と紗月は教室を後にした。

 勉強なんかしねーよ、という言葉はこの二人にとってはただの皮肉にしか聞こえないかもしれない。

 学年1位のやつが勉強してないなんてこと普通はありえない。

 でも俺は実際勉強なんてほとんどしたことがない。

 まあ授業くらいはちゃんと聞いているが、高校の勉強なんて大半が暗記、つまりは、俺にとっちゃ日常生活を送っているだけでそれを容易に達成できてしまうというわけだ。

 天才でも秀才でもない。

 他人が俺のことをどう認識してるのかは知らないが、あいつは天才か秀才か、なんていちいち気にするやつもいないだろう。


 だるそうにしながら、俺は一人だけになった教室を出た。そしてそのまま、いつも通りの帰路を辿っていつも通りの放課後を終える。

 そのつもりだったんだが――

 何か普通ではない出来事が起きているのを見ると、すぐ食らいつきたくなるこの性格はなんとかしたいものだ。

 他人には興味はないが、他人事には興味がある。

 俺は階段を気持ち早足で降りて正門が見えるところまでやってきた。

 何やら5,6人の女子が盛大に騒いでいるらしい。

 それに群がるギャラリーはざっと10人程度だ。あまり良い予感はしない。

もしかするとこれが、朝電車の中で感じた胸騒ぎの正体かもしれない。

 だが、普通に考えれば俺が巻き込まれる理由なんてどこにもないはずだ。

 この記憶力を手にして以来、普通に考えたら、なんて言葉は気休めにしか聞こえなくなってしまったのだけど。

 にしてもやれやれだな、女子の喧嘩は男子の喧嘩の何倍もめんどくさい。

 紗月にいろいろと話を聞いている点、そこらへんの事情には詳しかった。

 この学年はAからDクラスまで存在する。去年はどうやらD組に女子の大きな派閥が二つ居合わせてしまったらしいが、紗月はDクラスだった所為でそれに巻き込まれたりもしたそうだ。

 女子の派閥は政治家のそれらよりも複雑で恐ろしいものだとよく言われているが、本当にその通りだと思う。

 今期に入って、その二つの派閥がどこのクラスに移動したのかは知らないが、是非C組以外であることを願うばかりだ。

 そんなことを考えていた。

 考えていただけのつもりなんだが――

 いつの間にか、俺は10人程度いたギャラリーの中の一人に加わっていた。

 自然が成す行為とは恐ろしいものだ。

 そして、俺が男子で先頭をきったせいか、女子だけでなく男子もギャラリーに加わり始めた。

 簡潔に言うとだな…………かなりミスった。

 男子は女子の抗争に巻き込まれることだけは避けておかなければならない。

 大半の男子もそう同じ考えだろう。まあギャラリーに加わったくらいで、巻き込まれるなんてことはないと思うんだが……それでもやはりスル―しておくに越したことはなかったと思う。

 でもまあ、俺が先陣を切らずともいずれこの状況に帰結していたのではないだろうか。

 この女子同士の喧騒の中でその中心に立っている女子生徒、そいつを見ると、その男たちの注意をそらすことが不可能なのがわかるからだ。

 見事なほどの美女。

 スラっと背が高く、日本人離れしたスタイルをも持ち合わせている。

 だが、その美女は数人の女子に囲まれ、何やら怒りを買っているようだった。

 状況的には1対5~6。

 正門の前という、こんな目立つ場所でよってたかっての喧嘩ってどうなんだろう……。

 それほどにまで急を要する怒りの原因があるとでもいうのだろうか。

 しかしそんなことはどうでもいい。そんなことより、俺の脳はウィルスが入ってきたかのように、今の状況に拒否反応を示している。

 拒否というよりは疑問。

 そして、あまりにも久しい感情でもあった。

 完全なる記憶力を手に入れて以来、こんな状況に陥ることはなかった、そしてこれからも、おそらくはないだろうと思っていたのだが――

 ――美女の正体が不明なのである。

 絶体絶命的な状況に置かれているそんな美女に、俺は見覚えがなかった。

 一度見た人は必ず覚えているはずのこの記憶に、彼女は存在していないのだ。

 俺の彼女に対する反応は他の男子とは随分異なったものだっただろう。

 大半の男子は彼女の圧倒的なルックスに目を奪われているのだろうけど、俺にとってはそんなことは些細なことに他ならなかった。

 俺が見覚えのない人物がこの学校にいるわけがない。

 別のクラスの人であろうが、関わったことが一切ない人であろうが、必ず「記憶」の中に収められているはずだ。

 もし、俺が本当にこの容姿端麗の美女を覚えていないんだとしたら、今まで1年間の中で全く見たことも聞いたこともない人物ということになる。同じ学校の生徒でそんなことってあるか?

 転校生がきたっていう話も聞いていない。それくらいは交友関係の狭い俺にだって噂くらいは聞こえてくるはずだ。

 それに、周りの連中は俺と同じく2年の女子たちだ。つまりは、例の美女も2年であると考えていいだろう。それで記憶に残っていないのはおかしい、おかしすぎる。

 これは意地でもこの争いの結末を最後まで見届ける必要があるな。

 矛盾を取り除く為だ。

 偶然に偶然が重なり合って彼女を見たことも聞いたこともない、ということもあるかもしれない。

 分析タイムの始まりだ。まずは事の発端と関わっている人物の詳細を会話の文脈から判断しよう。


「あんた一体自分が何を言ってるかわかってるの?」

 この発言を繰り出したのは、去年の生徒会長選挙に立候補し、驚くほどの大差をつけられて敗北を喫した野口裕子(のぐちゆうこ)だ。

 本人は、誰かが不正を働いたと言い張っているが、もちろん教師たちはそんな戯言にいちいち構ってられるかと言って相手にしてないみたいだ。そこらへんの事情まではよく知らないし、関わらないに越したことはない。

 黒髪ロングでまあまあルックスもいけてる部類に入るのだが、性格がきつすぎるせいでどうにも女子の抗争の際に必ず名前が挙がる人物である。

 所謂、お嬢様系女番長といった感じだ。

「私は真実を述べているだけよ。誰の言ってることも私の記憶とは一切つじつまが合わない。覚えていないわ」

 こいつが例の圧倒的ルックスの持ち主だ。

 記憶とのつじつまが合わない?

 それはこっちのセリフだろ。あんたはいつ俺の記憶からすり抜けることができたんだ。

「まだそんな意味不明なこと言ってるの? 人を傷つけておいて、覚えてないから仕方なかったーなんて言うつもり? 人としてどうなのよそれ。ろくな言い訳もできてない癖に、まだそんな態度を続けるつもりなの?」

 野口裕子は美女に一歩歩み寄り、言う。

 正論……のように聞こえるが実際のところどうなのだろう。野口側の味方になっている人数を見る限りでも、やはり正論だとしか思えないが、それだけ論破されて尚、反抗する彼女は一体どうするつもりなのだろうか。

「人の事情も知らないでいちいち口を挟まないでくれる? なんであんたがしゃしゃりでてくる必要があるわけ?」

「ふーん、あんたってほんっと最低ね! もうあんた明日から友達いないわよ。覚悟してなさい」

 野口裕子は女子の中で圧倒的な権力を持っている。

 今起きていることを女子全体に言いふらすと暗に言っているのだろう。

 言い方でわかる。冗談ではない本気の口調だ。

「もちろん。そんなこと言われなくてもわかってる」

 いろんな感情を抑えようとしすぎて、それが裏目に出ている。

 逆にいろんなものが伝わってきてしまう、そんな声で彼女は言った。

 顔は蒼白に満ち、絶望とまでは言わないが、それに似た感情。

 そのセリフを最後に、そいつはギャラリーの間をすり抜け、急いで正門を飛び出していった。

 その走り去って行く姿は悲しげな様相で、風にたなびく明るいクリーム色の長い髪がそれをより誇張させていた。それに多くの男子は見とれてしまったことだろう。

「何あいつ。自分がどれだけ最低なことをしたのか気づいてないのかしら。反省するつもりなんて全くないみたい」

 野口裕子のその一言を最後に、その騒ぎはとりあえず事を落ち着かせたようだ。

 まあ当事者がいなくなってしまえばそれは当たり前か。

 喧騒の中ばかりに気をとられていたが、よくよく見てみると、女子たちに慰められながらもしゃがみこんでしまっている子が目に付いた。

 彼女は泣いているようだ。

 単純に判断すると、走り去っていったあの女が泣かせたんだろう。

 それは間接的に、なのか直接的に、なのかは不明だが。

 しかしまあ、よく登校初日からこんなに騒げるものだ。俺なんてのはさっさと家に帰りたいの一心だけどな。

 どうにも、女子ってのは良くわからん生き物だ。

 普段通りの俺なら、これから真っ直ぐ家に帰るはずだった。

 けど、走り去っていったあの女の正体がどうしても気になってしまう。

 直感的なものもあるが、それ以上に、なぜ俺の記憶の中に顕在してないのか気になるっていうのが一番の原因だ。

 あの女からは何か不思議なオーラを感じる。

 俺も周りからよく、「不思議なオーラ醸し出してるよね」なんてのはしょっちゅう言われるんだが、あいつの場合は本気のオーラだ。俺みたいなからかわれる類のものとは違う。

 もしかしたら、天から降ってきた天使なのかもしれない。

 いや、違うな。

 天から降ってきた天使が登校初日に正門の前でひと悶着起こしたりするか?

 相当気の荒れてる天使でもそんなことはまずしないだろう。

 いや、堕天使ならあり得るか。

 堕天使ねえ。

 厨二臭いから今の思考はなしにしておこう。

 しかし、どうしたもんだろうか――。

 今の事件のことが頭から離れない。思春期の高校生がちょろっと喧嘩してただけのこと。そんなこと今までいくらでも見てきたはずなのに。

 部活に入ってない人たちはもうほとんど下校を済ましている。あとは部活組の練習中の声が校庭のほうから聞こえてくるだけだ。

 正門の前をうろうろしながら頭を抱えている俺はさぞ不気味に見えることだろう。もし制服を着ていなかったら不審者に間違えられていたかもしれない。実際、監視人の俺を見る目は一般生徒を見るそれとは幾分違っていた。

 そして、考えれば考えるほど深い溝にはまってしまった俺は、星野たちに今の事件のことを話してみようと考えた。

 星野なら、少なくとも俺よりは、人間関係に詳しいだろう。

 今日はバスケ部がグラウンドで練習している日だ。部活数のやたら多い蓮実高校では常日頃から練習場所の取り合いが絶えない。単純に曜日毎に分ければいいと思うのだが、なぜかうちの学校はそういった安直なシステムを嫌い、部員の成績の平均が高いほうが、優先して使用したい場所が使えるようになっている。

 スポーツ重視の学校が聞いたらさぞ目を丸くすることだろう。

 バスケ部が練習しているグラウンドに行ってみると、ちょうど星野はベンチに座って休憩をとっているようだった。

 思い返してみると、部活中の星野を見るのはまだ手で数えられる程度の回数だ。あいつの真面目な表情を見るとどうにも別人に見えてしまう。

「おーい星野!」

 部活中の星野に大声で叫ぶと、同じバスケ部のやつらが不審な目で俺を見てくる。人間てのは声がするほうをつい見てしまう生き物だ。

 んなこといちいち気にしてるのも俺くらいか。

「なんだ瑛司か! なんでこんな時間まで学校にいるんだー」

「ちょっと話したいことがあるんだ。部活後、時間大丈夫か?」

「おーわかった、あと30分くらいで終わるよ。教室で待っててくれ」

 了解。と言ってその場を去った。部活組の連中とはなるべく関わりたくない。というより、関わるべきでない気がする。まあ悪いやつらってわけじゃないんだが、なんだが気が合わない。

 そう考えると、今年のC組は本当に俺にマッチしたクラスだったのかもしれない。

 にしても、部活終了時間までたったあと30分か。

 俺は随分正門の前で時間を食っていたようだ。

 さっきの騒動は一体どれくらいの時間行われていたんだろう。

 俺がギャラリーに加わったときにはすでに終盤をむかえていたようだし、まあそんなこと気にしても仕方ないか。

 一旦考えるのやめて大人しく教室に向かうことにしよう。

 

 といっても、教室に戻るだけで一定の体力を消費してしまうのがこの学校の厄介(無駄)なところである。

 この蓮実高校は「魔法学校」と呼ばれているだけあって妙な構造になっている。

 普通の校舎ならだいたい長方形が何個がそびえたっているような感じだろう。

 だけどこの学校は意味もなく複雑な構造だ。

 正門の前にはちょっとした広場があり、左右にはまあまあ広い校庭が二つある。正門から広場を抜けて真っ直ぐ歩くと、円形の校舎がまず顔を見せる。

 この校舎の階段は驚きの螺旋階段になっていて、ぐるぐる回りながら各教室が点在している。

 これはもう明らかに建築士が遊び心を発散させたに違いない。コンセプトとしては、授業中全クラスが中心を向いてお互いを高め合うように勉学に励む様、というのをイメージしたらしい。これは間違いなく後付けだろうと思う。

 そしてその校舎の後ろに位置するのは、もはや教会としか呼べないような校舎だ。

 ここに職員室や生徒会室など、重要な機関といったら大袈裟だが、そのような部屋が配置されている。

 この学校の偏差値が去年からやたら高くなったのは、この妙な校舎で3年間を過ごしてみたいと思った楽観的、短絡的な中学生が多かったからだろう。

 まあ俺も人のことは言えない。

 同じような偏差値の高校が家の近所にあるにも関わらずここに入ったのだから。

 しかしまあ、星野や紗月がもし同じ蓮実高校に入っていなかったらと考えると毎度ぞっとする。

 知り合いが皆無の状態で始まる新生活ってのは、トイレ、風呂、キッチンがない家に住み始めるようなものだ。

「お、嘉神(かがみ)じゃないか。お前が放課後まで残ってるなんて珍しいな」

 螺旋階段を上っていると、タバコをふかしながら降りてくる担任松本に出くわした。

 相変わらず喫煙マナーを守るつもりはなさそうだ。

「おいおいまた校内でタバコ吸ってんのかよ。校長に見つかったらクビになるぞ」

「はっはっは。公務員にクビはないんだよクビは」

 何がそんなにおもしろいのか、腹を抱えて笑う松本はこっちの気力さえ奪っていく。

「つってもうちは私立だ。飛ばされることくらいあるだろ。それにタバコを校舎で吸う教師って、新聞に載るレベルだぞ」

 間違いなく正論だと思う。

 校舎内で吸ってることに合わせて、歩きタバコまでしてるわけだからな。

「またお前は堅苦しいことばかり言うな。勉強のしすぎじゃないか?」

 担任の教師でさえ、俺の成績は努力で勝ち得たものだと思っている。

 大人、教師は得に天才という存在を認めたがらない。教育上、秀才と呼ぶほうが良いからだろう。松本に関しては特に深くまで考えているわけではないんだろうが、それでも良い方を自然と選択してしまうのも無理もない。

「勉強の話はやめてくれ、不愉快だ」

「相変わらずきつい言い方をするのな、お前は。一応俺は教師なんだがな。まあいい、それで教室に忘れものでもしたんだったか?」

「んなこと一言も言ってねーけどな。まあちょうどいい、ちょっと聞きたいことがある」

 俺はさっきの騒動のことを思い出した。

 生徒のことなら教師に聞くのが手っ取り早い。

「おうなんだ。勉強のこと以外ならなんでも聞くぞ」

「教師なんだから勉強のことを中心に聞けよ!」

「高校の勉強なんて教科書見ればだいたい載ってるさ。それで聞きたいことってなんだ嘉神」

 少し咳払いをして仕切り直す。

「髪がクリーム色の長髪で、ちょっと長身でキリッっとした顔立ちの女子知ってるか? たぶん2年だと思うんだが」

 松本はう~んと首を傾げて聞こえない声でぶつぶつとつぶやいている。本当に考えているのかどうかは怪しいところだ。

菅原魔綾すがはらまあやのことか?」

「菅原魔綾っていうのか……」

 菅原魔綾……全くもって聞いたことのない名前だ。まあ名字に関しては一般的ではあるが、下の名前は一度聞いたら忘れるのが難しそうだ。

 そして俺に関していえば、一度覚えれば忘れるわけがない――。

「菅原がどうかしたのか? ……あ、まさか狙ってるのか? やめとけやめとけ。あいつは高根の花だぞ。お前みたいな根暗ガリ勉には目もくれないだろうよ」

「教師のあんたにそんなこと言われたくねーよ! てか狙ってるわけじゃない。ちょっと気になることがあっただけだ」

「ほーう。お前が人に関心を持つなんて珍しいな」

「自分を知る上で、他人を知ることも重要だからな」

「はーん。よくわからんが、問題だけは起こすなよ」

 問題なんて俺が起こしたことあるか? と言いたいところだったが松本はタバコを携帯灰皿に処理すると足早に階段を降りていった。

 そんな、効率性を全く憂慮していない螺旋階段をあと数メートル上がると、俺が所属するC組がある。

 教室の中は至って普通の学校と変わらないが、相変わらず螺旋階段の先にあるってのがどうにも不自然だ。

 まあ普通の高校に行っていたところで俺は何も得るものはなかっただろう。自分自身が普通過ぎるせいでな。



 しばらく教室で待っていると、星野がいつもの楽しそうな顔でガラガラと教室のドアを開けて入ってきた。

 どうやら走ってきたらしい。息を切らしている。

「なんでお前そんなに息切れしてんだよ」

「放課後学校に残ってる瑛司なんて1年に何回見れるかわかんないからさ! 部活終わりであの階段をダッシュするのはさすがにきつかったけど……」

 階段を歩いて登るだけで息切れしてしまう俺に対する皮肉にしか聞こえない。

 もちろん星野誠という単純生物に、皮肉を言うようなインテリジェンスがあるとも思えないが。

「んで、一体どうしたどうした? 登校初日からいきなり悩みごとか?」

「いや、別に大したことじゃないんだが――」

 なんと言えばいいんだろう。

 間違いなく悩み事って類じゃないが、俺の秘密を知らない星野に言ったところでうやむやになるのがオチかもしれない。

 それでも、自分の中だけに仕舞い込んでおくというのは、やっぱり相当の心労を生む。誰かに話す、ということは非常に重要なことだ。

「気になることがあってな」

「一体なんだなんだ。俺でよければ相談にのるぜ!」

 なんだその元気な決め台詞は……ここで相談に乗らないとか言われたとしてもこっちとしたら意味不明だし。

 とりあえず一息おいて、松本に聞いた通り、主要人物のフルネームを思い返した。

「お前、菅原魔綾ってやつ知ってるか?」

「あー、菅原さんなら俺らと同じC組になってたぞ。去年は二日に一回は学校休んでたらしくて認知度は低いらしいけど、今日見てみたら相当の美人だった。あれはすぐに男子から人気が出そうだな」

 二日に一回は休んでいた……か。

 それだけでは記憶に残ってないことを裏付ける理由にはならない。

 ほとんど顔を出すことのない校舎の清掃員だって覚えてるんだ。欠席が多い程度の生徒を見てないなんてことはまず考えられない。

 それにあれだけの美人だ。仮に記憶力が常人レベルだったとしてもなかなか忘れることはできないだろう。

「で、菅原さんがどうかしたのか? 瑛司が人に関心を持つなんて珍しいな」

 教師と親友に同じことを言われる俺って……。

「あ、もしかして――」

 星野の顔を見て、だいたい何を言おうとしているのか理解した。

 全力で否定つっこみを入れる準備をしておこう。

「狙ってんの?」

「狙ってない」

 我ながら褒め称えるべきスピードつっこみだった。

 しかしお前までそういう方向に解釈するか……。まったく最近の若者ときたら。

 まあ松本は若者じゃないが、同じようなもんだろう。

「なんだよー。女子のことを聞かれたら普通そう思うじゃん」

「相変わらず単純思考だな。説明してもお前にはわかんないだろう。とりあえず必要な情報は手に入ったよ。感謝しとく」

「おいおいおいおいー! 結局その菅原さんがどうしたんだよ。俺にも教えられないようなことか?」

「また気が向いたら話すよ」

 できれば星野にだけは話したかった。秘密を打ち明けようと思ったことは何度もあるし、これからもその葛藤に苦しむだろう。

 けれど、もし親友の記憶力が尋常じゃないなんて知ったらどう思うか。仮に信じてくれたらの話だが――。

 きっと、知りたくなかったと思うだろう。

 星野なら俺の助けになってくれようとするかもしれない。

 いや、きっとそうしようとしてくれる。

 けれど、心の隅では複雑な感情が渦巻くはずだ。今まで普通に接してきた親友が、普通ではなかったことを知り、自分は何をすべきか、どう接する悩むだろう。

 見事なほど能天気キャラな星野だが、本質的には気の使える裏の功労者だなんてこととっくの前から気付いている。

 そんなこいつを無意味に悩ませたくはない。それがもし、俺にとってプラスに働いたとしてもだ。

 そのとき、教室のドアが勢いよく音をたてて開いた。

 このドアの開き方からすると……。

「おーやっぱまだ帰ってなかったんだねー。星野くんが階段上がっていくのが見えたからもしかしたら瑛司もいるんじゃないかーって思ったんだ!」

 この時間では珍しいが、轟音の正体はいつも通り、紗月だった。

 こいつもこいつで、ある意味相当な暇人なのかもしれない。

「そんで、一体何のようだ? 遊びにきたんだったら朝だけで勘弁してくれよ。取り込み中だ」

「あたしがそんな単純野郎に見えますか?」

「見える。そして、野郎というのは男に対する呼称だ」

「屁理屈はよろしい! 今回はちゃんとした用事を持ってきたの!」

 もし本当にまともな用事なのだとすれば、紗月からまともな話を聞くのは数年ぶりになるかもしれない。

 それほど、常にちゃらんぽらんとしている。男子でこういうやつはたまに見かけるが、女子ではなかなかいない人種だろう。

 ある意味、貴重種。

 貴重といっても、もう飽きてしまった、というのが本音だ。

「まあ俺たちの話はひと段落したわけだし、話聞いてあげようぜ」

「さっすが星野くん! わかってらっしゃる!」

「でしょでしょ!」

「ですです!」

 相変わらず、無意味なやりとりが多いやつらだった。

「で、ひと段落って何を話してたのー?」

「男だけの秘密だ」

「び……BL?」

「断じて違う!」

 BLなんて言葉を日常で使うやついたのか――。

 無論、なんの参考にもならない情報である。

 まあ星野に聞きたかったのは菅原魔綾の情報で、それは一応聞けたからひと段落したと言えばそうなのか。

 だが紗月の話が今の俺にとって有益になるかと言えばたぶんならない。そう考えると、もうしばらく星野からの情報収集に努めたいところなんだが――。

「世間話はそのへんにして、そろそろわたしを登場させてもらえる?」

 聞き覚えのある声に、一瞬脳内の記憶が一回転したような感覚に苛まれた。

 紗月の横から現れた人影――。

 この世の全てを掌握しているようなキリッとした表情。

 クリーム色のしなやかで長い髪。

 日本人離れしたスレンダー体系。

 実際に目にしたことはないが、天使がいるのだとしたら、おそらくこんな姿をしているのだろう。

 噂をすれば、というのは少し軽薄過ぎるかもしれないが、タイミング的にはそんな感じ。

 俺が珍しく放課後の校舎に残っている理由の根源。

 菅原魔綾がそこにいた――。

「あーごめんごめん菅原さん。瑛司が屁理屈ばっか言うから熱くなっちゃって……へへ

「屁理屈じゃなくて、正論と言ってもらいたいんだがな」

 動揺すれば不自然だ。ここは平然を装い、いかにも普通の男子生徒であることをアピールしておこう。

 いや、アピールしなくても俺は普通の男子生徒なのだった。

「おい、やっぱ菅原さんと何かあったのか? タイミング的におかしいだろ」

 俺だけに聞こえるよう、星野が耳打ちをする。

「いや、実際本人と関わったことはないよ」

「じゃあなんで……まさか、瑛司に勉強を聞きにきたなんてことはないよな。あんな美女が」

「なんで美女が俺に勉強を聞くと不自然なんだ!」

 菅原はイラッとした顔で俺たちを見つめている。

 調子に乗りすぎたかもしれない、そろそろ彼女がなんでここに来たのかを聞かないと……。

「こらーそこ! 二人でしゃべってないで! 用事ってのはね、菅原さんが、瑛司に会いたいって言うから連れてきたのよ。あたしがよくC組に出入りするのを見てたみたいで。あたしってわりと有名人なのね~ふふっ」

 教室によく出入りするから見たって言ってんのに、有名人だということを立証する証言は全くなかったぞ。

「まあそういうことだから、あとは本人と直接話して~。はい、菅原さんどうぞ!」

 ということらしい。

 なぜこんなにもちょうどいいタイミングで……いや、それより俺と話したい理由のほうが重要だ。

 あいつ、さっきの騒動のあと、走って正門を飛び出していったじゃないか。

 わざわざ学校に戻ってきてまで、俺と話す必要があったってことか?

 それは記憶から菅原魔綾が消えているという謎の現象と関係があるのだろうか。

 それとも、俺の記憶力について知ってしまったとか……。

 いや、あり得ない、あいつと関わるのはこれが初めてで、菅原魔綾が常人である限り俺のことなんて知らないはずだ。

 成績トップという情報で仮に知っていて、勉強について何か質問があったとしても、それは今日中に済まさなければいけないという理由にはならない。

 そして、紗月から要領の得ない紹介をされた菅原と俺の間には、とてつもなく微妙な空気が流れていた。

「あんたに話があるわ」

 菅原のその一言はあまりにもぶっきらぼうで感情がこもっているのかどうか疑わしかった。仮に感情がそこにあったとしても、それはネガティブな感情に間違いない。

 そしてそれは明らかに理不尽だと思う。

 しかし、その目はまぎれもなく俺の方向を見ている。

 「あんた」というその対照物はこの俺らしい。

 あまりにもぶっきらぼうな言い方だったせいで一瞬これは夢なのではないかと疑ってしまった。

 だけどこれは言い逃れのできない現実であって、さっきまでちょうど話題に上がっていた菅原魔綾は俺の目線の先にいる。

「一体俺なんかに何の用があるんだ?」

 当たり前のことだが、それを聞かなければ話にならない。

「ちょっと聞きたいことがあるの。屋上まで来て」

「聞きたいこと? おい、まさか本当に勉強を聞きたいとか言うんじゃ――」

「いいから。5分以内にきて」

「お、おう……」

 くだらない質問なんぞするんじゃない。という心の声が伝わってきた。どうやら勉強について聞きに来たわけではないらしい。

 まあ当たり前か……こんな大袈裟な登場をしておいて、数学でわからない問題があるの、なんて言い出すようなギャグセンスの持ち主には見えない。

 菅原はツンとした表情のまま、じゃあ先に行ってるから、とだけ言い残して教室を後にした。

 5分以内に、と言っていたが、これは急すぎる展開を整理するために与えられた俺への猶予だろうか。

 そうだとしたら5分じゃ短すぎる。

 そんな文句を言ったところで、聞いてくれるような相手だとは思わないが。

「屋上って……告白スポットナンバーワンじゃん」

 紗月が妙なことを言い出した。

「たしかにたしかに! 放課後の屋上って言えばそれしかないでしょ! よかったなー瑛司。やっと春らしくなってきたって感じ?」

 この学校の生徒は、告白するためにわざわざあの長い螺旋階段をせっせと上ってるのかよ。

「あのなー。今の感じで告白なわけないだろ。たぶん、俺の成績トップというコネを使って教師を脅したい。とかそんな感じだろ」

 もしそうだとしたらまっさきにチクってやるつもりだが。

「まあ瑛司に限ってそんなのあるわけないかーはは」

「だなー。瑛司に限って、春に春らしい高校ライフを送るなんてことあり得ない!」

「切り替え早いなおい!」

 それに、俺に限ってと言うよりも、あいつに限って告白なんてしてくるはずがない、と言ってほしかったものだ。

 いや違うな。

 そもそも、初対面で愛を打ち明けることが非常識的だと考えつかないお前らはおかしい!

「友達もなかなかできないのに、恋人だけできちゃう、なんてメンヘライケメンにありがちなことが瑛司に当てはまるとは思えないしね」

「お前らがそういうことを言うと無駄に殺傷力があるんだよ! 気をつけろ!」

 こういう言葉を返すとこのリア充共は必ず高笑いを始める。

 このパターンがやつらのお気に入りであることは重々承知なんだが、ある意味トラウマになってるせいで過剰反応してしまう。

「まあとりあえず早めに行ったほうがいいと思うぜ。ほら、5分以内って言ってただろ?」

「そうだな。もし5分経過後に行ってしまったときには、二度と病院から出られない状態にされてしまいそうだ」

 そんなことを言って、俺は重たい腰を持ち上げる。

 人間は生まれながらにして重力の下に存在するため、普段は重力によって生じる圧力を意識することはない。だが、今だけはその圧力を感じることができた。

 屋上に行くな、そう体が拒否反応を示しているのだろう。

「健闘祈ってるね」

「うむ……」

 何に対して健闘すればいいのかわからないまま、静かに教室を出た。

 この螺旋階段をもう3階分のぼると屋上に続く扉が現れる。そこには間違いなく菅原が待っている。

 こんな展開、誰が予想できただろう。

 けれどこれは逆に好都合だったのかもしれない。

 俺は菅原の素性を少なくとも知りたがっていた。ていうか、知らなければいけない気がした。

 その感情はどこからきているのかはよくわからない。とにかく、会って話しをするのが先決のようだ。

 それを、都合が良いのか悪いのか、向こうから切り出したんだからどうしようもない。

 屋上へと続くこの階段は、窓が少なく、足元が見える程度にしか照らされていない。特に放課後ともなってくるとそれさえ危うくなってくるほど暗いのだ。

 人間の心の奥深くにいるような、そんな妙な感情に陥ってしまう。

 唯一大きく見える光。それは屋上への扉だ。

 ガラス張りにつくられているこのドアからは大きな光が差し込んでくる。詩人なら、まるで天国への近道のようだ、なんて形容するのかもしれない。

 けどあそこは天国じゃない。

 少なくとも今の俺にとっては、そんな美しい世界が待っているとは到底思えない。

 なぜならあそこには、100%間違いなく菅原魔綾がいるからで、その菅原魔綾は俺にとってネガティブな要素になる。

 いや、断定はできないんだが……。

 今朝の嫌な予感が的中するのだとしたら、あの扉の先でのことに間違いはないだろう。


 階段をのぼる作業は瞬く間に終わりを告げた。もう目の前には屋上の扉がそびえ立っている。

 俺はゆっくりとその扉を開けた。

 ゆっくり過ぎるほどゆっくりと――

 彼女はもちろん、そこにいた。

 菅原魔綾は手すりに腕を置き、何か悲しげな様相でたたずんでいる。

 風が彼女の長い髪をそっと揺らす。その光景は「美しい」という一言でおさまることを認めざるを得なかった。

 なんというか――

 これほど荘厳な雰囲気を持った美女は他にいないんじゃないかと思うくらいだった。

「やっときた。とっくに5分過ぎてるけど」

 菅原は俺の姿を見つけて安堵の表情を浮かべているように見えた。

 俺が、いつまでたっても来ないんじゃないかと考えていたのかもしれない。

 いやまさか、こいつがそんな小さな心配事をするようなやつには見えない。

「5分ってのが短すぎるな。俺の脆弱な脚じゃ階段をのぼるのも一苦労だ」

 一体何を言っているんだろうか。

 普段、屁理屈と皮肉ばかり言っているせいか、ほどよいトーンで会話することが困難になっているのかもしれない。

 とくにこの女、菅原魔綾の前ではそれがなぜか難しい。

 一応初対面であるのだから丁寧な言葉を使うべきなのだろうけど、それでもそんな気遣いが不必要だと思わせる空気があった。発生源はわからない。

 けれど彼女に前に立つと、以前会ったことがあるような気さえする。

 記憶に残ってない以上、それはあり得ないのだけれど。

 そんな曖昧模糊とした感情が渦巻いてる最中、初対面とは思えないような毒舌が脳に突き刺さった。

「貧弱なのが足だけならいいのだけど、これからわたしが話すことを理解できる脳みそは持ってる?」

「話をまだ聞いてないのに答えようがないだろ、それ」

「ちゃんと正論を言えるのね。安心した」

 試してたってのかよ……。

 どれだけ俺を見下してんだこの女。

「言っとくけど俺は――」

「成績学年トップ」

 彼女は俺のことを知っているらしい。

 俺は彼女のことを何も知らないけど、彼女は俺を知っている。

 当たり前か、じゃないとわざわざ呼び出したりする意味がわからない。

「現在C組、出席番号11番、部活には所属していない、口が悪い」

 俺の情報だった――。

 同じ学校、クラスの人間なら知っていてもおかしくない内容だ。わざわざ箇条書きにしたように言い並べる必要もなさそうな情報。

 口が悪いってのはお前もだろ、と言いたくなったが菅原の真剣な顔を見た感じではスルーしておいたほうが良さそうだ。

「この情報に間違いはないわね? 嘉神瑛司くん」

「間違いはないよ。最後のは少し反論の余地がありそうだが……。そうだな、間違いはない」

「じゃあ、なぜわたしはあんたのことを知っているの」

 疑問形……なんだろうか。

 俺に、というよりは世界全体に問いだたしているように聞こえる。

「おかしなことを言うやつだな。それくらいの情報ならたまたま知っててもおかしくないだろ。同じ学校の生徒なら――」

 野暮なことを言ったかもしれない。

 同じ学校の生徒なら――。

 俺もそうだった。

 同じ学校の生徒なら菅原魔綾を一度は必ず見ているはず。

 実際、菅原魔綾以外の生徒は全員、記憶の中にちゃんと収められている。

 そして彼女は今、俺を知っていることに対して疑問を抱いている。

「お前、記憶に関して何かおかしな状態にあるんだな?」

「話が早いわね。さすが学年トップ」

 いちいち気に障ることを言わなきゃ気が済まないのかこいつは。

「じゃあ話してみろよ。じゃないと先に進まない。お前は一体どういう現象に陥っているんだ?」

「もちろん。その為に呼んだんだし。ただその前に、あんたのことも話しなさい」

 全てを見透かしたかのような口調で菅原は言う。俺も普通ではない、ということはもうすでに知っているのだろうか。

 いや、知っているというよりは、わかっている、と言ったほうがいいのかもしれない。

 なぜなら、それはお互い様だからだ。

しかし、さっき初めて言葉を交わしたばかりのこの女に話していいのだろうか。

 高速フル回転で脳を稼働し、考えてみる。

 でもすでに答えは出ていた。

 直感で行動するのもたまには良いだろう。自分らしくないからと言って行動を制限するのはきっと間違ってる。

「俺は見たもの、聞いたものを簡単に、そしてほぼ完全に覚えていることができる。一般人には想像もつかないほどの記憶力だ。成績が学年トップなのもそのおかげ。特に勉強しているわけでもないのに頭の中にすらすらと授業と教科書の内容が入ってくる。この能力がどんなふうにして身に付いたのかはよく覚えてない。肝心なことだけ忘れてしまってるわけだ」

 胸の奥に抱えていた秘密全てを菅原に話した。普通の人が聞いたって俺の頭が狂っていると思うだろう。

 でもこれは紛れもない真実であって、菅原の表情を見る限りでは、それが理解してもらえたみたいだ。

 けれど、彼女の表情には安堵ではなく、暗雲のようなものが立ち込めていた。

「なるほどね。すごくうらやましい――」

「うらやましいだって? そりゃあ成績が何もしてなくても良くなるのは便利だよ。でもな。俺は普通でよかったんだ。生きてれば嫌なこと、辛いことだってたくさんあるだろ。それを全部忘れ去ってしまいたいと何度思ったことか――」

「それでもうらやましいわよ! わたしは……全てを忘れてしまうのだから」

「なんだって?」

 ――耳を疑った。

 想像とは大きくかけ離れたものだった。

 いや、厳密には想像なんてもの、出来っこなかったのだが、それでも、記憶を失ってしまう、なんてことが予測できるはずがない。

 俺と真逆。

 記憶を失えない俺と、記憶を失う菅原魔綾。

 そんなことってあるのかよ……。

「全てっていうのは間違いね。正確には人に関する記憶を失ってしまうの。決まった日とかはないけど、だいたい1年に一度、その周期がやってくる」

 菅原は向き直って、屋上の手すりに腕を置く。

 金色に光る髪が、夕日に照らされて寂しげに見えた。

「忘れてしまう……親や友達も関わった人みんなを忘れてしまうってのか?」

「そう。だから私は約1年おきに全てを失う。お母さんのこともお父さんのことも――仲良くしてくれた友達のこともね。その度にどれだけ人を傷つけて、どれだけ傷ついたか。あんたには到底わからないでしょうね」

 何も言えなかった。

 1年おきに人の記憶が失われてしまう。想像しただけでぞっとする。

 でも菅原は実際それを経験して生きてきたんだ。俺なんかとは比べものにならないくらい辛かったのだろう。

「今日正門の前で喧嘩してたのもそのせいよ。悪いのは全部わたしなのに。記憶がなくなるなんてみんな知ってるはずもないのに。わたしには記憶がないからって仲良くしてくれてたはずの子を切り離したの」

「おい、ってことは記憶を失ったのって――」

「今日の朝よ」

 菅原は続けた。

「朝起きたら記憶を失っていた。家の構造も部屋のどこに何があるかもちゃんと覚えていたのに。朝ご飯を用意してくれていたお母さんの顔を見ても、誰なのか全然わからなかった……ほんと、今学期は最低なスタートだったわ」

「信じていいんだよな。いや、嘘なんてつく理由がないもんな。それだけの、辛いものを――」

 嘘をつくにも、真実を話すにも、どちらにせよ酷な内容だ。

「実際わたしの身に起きている現象だもの。まあ普通の人間なら信じないでしょうね。でも記憶が突然なくなるなんてのは大して珍しいことでもないのよ」

「そうなのか? 聞いたこともないが」

「これだから勉学だけの知識人は嫌いなのよ。事故とかの衝撃で記憶を失うっていうのはよくあることでしょ?」

「今はっきりと、嫌い。と言われた気がしたんだが……いやまあいい。たしかに、それはよくある記憶喪失だけど――お前の場合は突然記憶が消えるんだろ? それもだいたい1年周期で」

 菅原はもう一度こちらに向き直る。真剣な話をしているのに、こいつは常にだるそうだ。

 生きていること自体に疲れているような……いや、今日あれだけの騒ぎを起こしたんだ。気疲れしていないほうがおかしい。

「それに、わたしは事故なんかにあってないし、頭を派手にぶつけたりもしてないの」

「つまり、なんの前ぶれもなしに記憶が消えたってことか? もしそうだとしたら――」

「ああああもうめんどくさくなってきた!」

 えええええ。

「なんだよ急に……めんどくさいって……」

 突然頭をかきむしりだしたかと思えば、めんどくさいと意味不明な発言をかましやがった。

「いやもうほんとめんどくさいの! なんで何も悪いことしてないのにこんな目に合わなきゃいけないの! 返してよ……お願いだから――」

 返してよ。というのは記憶のことだろうか、それとも記憶を失ったことによって忘れてしまった人たちのことだろうか。

 それとも、両方か。

 どちらにしろ、たしかに理不尽な話だ。

 菅原魔綾はすっかり黙りこんでしまった。俺一人を残してどうしろってんだよ……。

 何かを言うべきなのだろうか。

 たぶん、言うべきなのだろう。

「おい、大丈夫か?」

 そう声をかけてやることしかできなかった。それはもちろん、柄にもなく善意から生まれたものなんだが――。

「触んなハゲ!」

 暴言が返ってきた。

「触ってねーよ! そして俺はふさふさだ!」

「声が鼓膜に触れたのよ!」

「そこで触れるという動詞は使わねーよ! そして俺はふさふさだ!」

「あーもう、ふさふさふさふさうるさいわね……。あんたハゲにコンプレックスでもあるの?」

「ねーよ! あまりにも自分がハゲてなさ過ぎてつっこまずにはいられなかったんだよ!」

 うちの家系にハゲはいない。

 髪が薄い親戚はいるが、あれはまだハゲとまでは言えないはずだ、きっと。

「じゃあそんなアフロの嘉神くんはあたしにセクハラしようとしたわけね?」

「ふさふさだったらアフロってお前……んで、触ってねーっつってんだろ! しようともしてない!」

「だから声が鼓膜に触れたって――」

 おいこれ、無限ループじゃないか。

「そろそろ話を本筋に戻すぞ」

 咳払いをして、一旦流れをストップさせた。

「閑話休題、というわけね」

 自慢げな顔で四字熟語を言われると腹が立つ、ということを学んだ。たぶん、他のやつが言っても大してむかつかないんだろうけど。

 こいつはたぶん、別格。

「だいぶ話が逸れていたが、お前は俺のことを知ってるんだったな。記憶がなくなったにも関わらず」

「そう、今朝人に関する記憶がなくなったのにあんたのことだけは知っていたの。あたしが正門で言い争ってるとき、ギャラリーの中にいたでしょあんた」

 俺が菅原を見て驚いていたとき、菅原も俺を見て同じような感覚に苛まれていたわけか……まあ、菅原にとっては、知っているということに驚き、俺は知らないということに驚いた、という点では全く逆な意味合いになってくるわけだが。

「そのとき、俺もお前を見て驚いてたんだ」

「それはわたしが美しすぎたから?」

「はあ……自意識過剰もほどほどにしとけ。お前のことを知らなかったからだよ。同じ学校の生徒なのに記憶の中にいなかったんだお前は」

 たしかにそれもあるけど、とはもちろん言えない

「ということは、あんたの記憶力に矛盾が生じたってことね」

「言い得て妙だな。まさにその通り。お互い矛盾が生じてるわけだ」

「はぁ、呆れた」

 突然呆れられた。

「何に呆れたんだよ」

「あんた、これはきっと運命だぜ、とか思ったでしょ。生きなければいいのに」

「まず俺の心情に確認をとってから呆れろ! そんなこと毛ほども思ってねーよ!」

「屁理屈のつっこみだけは冴えてるみたいね。屁理屈っこみだけは冴えてるみたいね」

 言い直しやがった。

 とてつもなくくだらないことを。

「そして、生きなければいいのにってなんだよ! 死ねっていうより立ち悪いわ! 文章的に無駄に長いんだよ!」

「でも運命を信じられなくなってしまったら終わりだと思うの」

「それはこっちの台詞だ! あ、いや……こっちの台詞でもないが……、少なくともお前が言う台詞じゃない!」

 そうかしら、なんて冗談めかして言うあたり、ほんと可愛くねーなーと思う。

 美人でも可愛いとは限らない、なんて名言も思いついてしまったじゃないか。

「んで、また話が逸れてるぞ。結局、お前はなんで俺を呼び出したりしたんだ? 似たような現象に陥ってるってのは確認できたわけだけど、お前だってこの妙な記憶力現象に関しては何もわからないんだろ?」

 うーん、とあの有名な像のように頭を抱える菅原。

 こいつ、あんまり危機感とかないんじゃねーの、とか思ってしまう。

 記憶がなくなってしまうってのは、俺のより随分不幸なはずなんだが。

「今のところ、わたしの秘密を知っているのはあんただけよ」

「だろうな。俺の秘密を知ってるのもお前だけだ。話して信じてもらえるようなもんでもないし」

「つまり、あんただけがわたしを救うことができる」

「救う? 記憶喪失からか? 原因もわからないのにそんなことできるわけ――」

「問答無用!」

 そんな気はしてた。

 呆れ顔の俺を前にして、菅原は自信たっぷりの表情に急変した。

 そして意味もなくひらひらと一回転したかと思うと、菅原の人差し指は俺を一直線に捕えていた。

 外見とは裏腹、意外にも饒舌、そして毒舌であったこいつのことを今更こんなふうに形容しても説得力はないかもしれないが――

 白い羽を伸ばし、華麗に舞う天使のようだった――。

 そう見えてしまったのだ。

 言葉が出てこなかった。

 問答無用という命令は無用だったらしい。

 こいつは、自分が一番綺麗に見える角度、状況、光の当たり方、全てを熟知しているように思えた。

 しゃべっていないときのあの無愛想な表情は、それを際立たせるため、敢えてそうしてるのかもしれない。

 もし本当にそうだったとしたら、呆れるを通り越し、素直に感服するんだが。

 そんな菅原魔綾が放った一言は、あまりにもキャラに合っていないため、一瞬ゲームか小説の世界にいるような、そんな気分にさせられた。

「わたしの王子様になってみせなさい」


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