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文学系

暗い天国

作者: 七宝
掲載日:2026/05/01

 部屋で目を覚ますと、知らない女が首を吊っていた。

 腹を殴ると、女は「ぐ」と音を出して空中で揺れた。


 良い朝だ。


 鍋に水を入れ、火にかける。卵を取り出し、まだ冷たい水へ沈める。洗面所へ。


 洗面所では男が倒れていた。血だまりの広がりきった床を裸足で歩き、男の上に登って背中で足を拭く。


 顔面を洗浄し、口を洗浄する。ゴシゴシ、グニグニ、ゾリゾリ、ゴニゴニ。


 男の髪を掴んで声をかける。


「そのまま進め」


 これで私は血だまりを踏むことなくこの部屋を出られるというわけだ。


 紅茶のティーバッグとカツオだしパックをマグカップに入れ、ポットのお湯を注ぐ。カツオティーの完成だ。


 冷蔵庫から裸の食パンを1枚取り出し、サラダ油に浸す。最奥まで浸透したのを確認したのち、火を放つ。


 ごおごお、ごおごお


 数分後、真っ黒な真四角の炭が出来上がったタイミングでゆで卵の火を止める。ハードボイルドだ。


「いただきます」


 剥いたゆで卵を丸呑みし、カツオティーで流し込む。


 スーツに着替え、黒食パンを持って家を出る。


 愛車の前で死んでいる女に黒食パンを渡すと、女は目だけをこちらに向け「あなたは病気です」と言った。


 運転席のドアを開け、一礼してから乗り込む。


 時速600km。これでだいたい2分で会社に着くのだ。


『本日の从人(じゅじん)様の出勤に伴う犠牲者は99名です』


 会社の駐車場でラジオを聞き終えた私は、釣竿を持って愛車(自分の顔の痛車のプジョー)を降りた。


 裏にあるドブ川に一投する。


 テュン テュン テュン⋯⋯ピコゥン!


 何も釣れないので帰ろう。と背を向けた時だった。


「旦那ぁ、これっきりは嫌ですよぅ」


 その声に振り返ると、ドブ川がこちらを見ていた。細長い水面が瞬きをしながら恥ずかしそうにもう一度口を開いた。


「もう一回だけ、もう一回だけ、ね?」


 私は頷き、竿をもう一度振った。


 テュン。


 針が水面に触れた瞬間、引いた。


 重い。


 糸が切れないようにゆっくりと巻き上げる。ドブの水すべてが絡みついているような重さに辟易していると、突然引く力がなくなり、針が引っこ抜けたようにこちらへ戻ってきた。が、獲物はついていた。


 それはスーツ姿の男で、全く濡れていなかった。


 私だ。

 顔も、背丈も、ネクタイも全く同じ。


 ただ、目が濁っている。


「どうも」


 声も同じだ。


「今日はよく釣れましたね」


「ええ、おかげさまで」


 私が社交辞令で答えると、私が笑った。


 キショいね。


 私は釣り針を外し、目の前の0グラムの男をドブ川へ戻した。


 沈みゆく私が、最後に言った。


「嘘でーす」


 私は手を振ってその場を後にした。


 オフィスビルの回転ドアは、入るたびに誰かの小指を挟んでは小気味のよい音を立てる。今日も絶好調だ。


 その先の自動ドアが、少しだけ開け渋った。


「もう一度」


 そう言うと、素直に開いてくれた。


おは(1)よう(2)ござい(3)ます(4)


 受付の女は今日も元気に首を三回転させる。


「おぱよう(おっぱいがようかんの色ですねの略」


 エレベーターに乗ると、先客の老人が自分の首を絞めていた。私が「精が出るねえ」と言うと、老人は真っ赤な顔でこう言った。


「おちよう(おちんちんがようかんの色の人ですか?の略)」


 私は無視して2階から11階までのボタン全てを押し、タバコに火をつけた。


「アースジェットやめてください(´;ω;`)」


 と老人は力なく笑い、そのまま崩れ落ちて水たまりになった。ので覗いてみると、反転した「社長」の文字が写し出された。天井を見ると、さっきの老人がお尻を拭いていた。


「天井で排便をしたのですか」


 社長だったっぽいので敬語で訊ねる。


「天井。」


 どうやら言葉が通じないらしい。3階に着いたので降りよう。


 仕事場に入ると、同僚たちがデスクの角に自分の頭を打ち付けていた。景気のいい打楽器の演奏のようだ。


「おはよう、从人(じゅじん)君。今日の犠牲者報告書はもう食べたかね?」


 上司の佐藤さんが自身の太ももをボールペンで滅多刺しにしながら言った。彼は普通に仕事をすると優秀すぎるので、独自のルールを課して働いているのだ。


「いいえ。まだ胃がカツオティーで満たされていますから。ゲぴっ」


 私はそう答え、自分のデスクに座った。引き出しを開けると、中には新鮮な人間の耳がぎっしりと詰まっている。これを一つずつシュレッダーにかけ、出てきたミンチを糊にして書類を貼り合わせるのが私の仕事だ。


 窓の外を眺める。


 空はどろっとした血の色で、雨の代わりに釘が降り注いでいる。街路樹は皮膚を縞々に削がれた巨人の腕で、歩行者たちは皆自分の影に首を絞められながら楽しそうにスキップしていた。


 なんと素晴らしい世界か。


 生前の私はあまりにも「善人」すぎた。


 老人に席を譲り、捨て猫を拾い、募金を欠かさず、道端のゴミを拾い続けた。誰に対しても笑みを絶やさず、決して(いか)らず、心の中でどれほどグチャグチャにしたいと思っても、指の一本すら触れたことはなかった。その「徳」が積み重なった結果、神は私にこの最高の報酬を与えてくれたのだ。


『善き人よ、お前の望むがままの楽園へ()け』


 天国とは、その者の魂が最も安らぐ場所を指す。


 私の魂は絶叫を子守唄にし、腐臭を芳香剤とするこの場所でしか息ができなかった。


从人(じゅじん)君、お昼はどうする? 今日は食堂で『団地妻の舌のソテー嘘つき風』が出るらしいよ」


 隣の席で自分の腕をホッチキスで留めていた女性社員・小斛(しょうこく)が誘ってくる。


「いいですね。デザートに耳小骨(じしょうこつ)のシロップ漬けがあれば最高だ」


 私はそう言って笑い、シュレッダーに新しい耳を放り込んだ。


 昼休憩に小斛と食堂へ向かっていると、専務の堕堕我利(だだがり)に会った。今日は首がある。ただし顔はない。


「お疲れ様です」


「お疲れさま」


 声が胸から出ている。


「釣果は?」


「0グラムの私が釣れましたが、キショかったのでリリースしました」


「それはよいことだ」


 堕堕我利の顔に「笑」と表示された。


「逃がすことは、増やすことだ」


「はい」


 私は頷き、堕堕我利と別れて小斛と食堂へ入った。


 入ってすぐの所の黒板に今日のメニューが書かれていた。小斛の言った通りのメニューだったが、売り切れとなっていた。


 厨房から、ぐちゃぐちゃと何かを混ぜる音が聞こえる。


「すみません」


 声をかけると、奥からコックが出てきた。コック帽の代わりに、伸びた頭皮が瞬間冷凍で固定されている。


「今作ってるやつでもう終わりだよ」


「そうですか」


 私たちは諦めて出ようとした。


「ただ」


 コックが続ける。


「特別メニューならあるよ」


 コックは私の顔をじっと見ている。


「新鮮だ」


 そう言ってまな板の上に真っ黒なものを置いた。それは、まだ温かい「影」だった。


「今朝、バカの足元から剥がしたんだ」


「いいですね、いいですね」


 小斛が嬉しそうに二度頷いた。


「お待ちどう」


 影が皿の上で微かに抵抗している。


 フォークがするりと入る。感触はないが、そのまま口へ運ぶ。味もない。

 ただ喉を通るときに、誰かの記憶が一瞬だけ流れ込んでくる。


 横断歩道。


 赤信号。


 スマートフォン。


 そして、血。


 いい食材だ。


『ちがう』


『ここじゃない』


『かえして』


『カツオくさい』


 胃の中で影がなにやら言っているが、30分もすれば静かになるので放っておく。


「おいしかったね」


「そうですね」


 耳小骨のシロップ漬けが食べられなかったのだけが心残りだが、それはまぁ帰りにコンビニで買えばよいので、とりあえず小斛の綺麗な顔を真っ青になるまで殴って我がデスクへ戻ろう。


「えへへ、痛くてきもちいい」


 小斛は喜んでいた。


 ああ、目が痛い。

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― 新着の感想 ―
 なるほど偽善者の行く末か……。  溜め込む性質な者ほど心は黒く染まるということで、正に汚染された精神と倫理の機械的思考。  精神が俗世の肉体から解放されるとこうなるんですね……。(泣)
これぞ、純文学。 だが、詰め込みすぎて、ショッキングな転調の効果が途中から効かなくなり、やがて緩慢とも思えてくる出来。中盤と終盤間際に、中休みがあれば、純文学の金字塔ともなりえた短編でもある。
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