第6話:緑の禁忌と増殖するスライム麺
本州を抜け、海底に穿たれた長大な結界トンネルを文字通り飛ぶように走り抜け、私はついに九州の地――博多へと降り立った。
「……むっ!」
新幹線の扉が開き、ホームに足を踏み出した瞬間、私の鼻腔を強烈な匂いが直撃した。
それは、獣の匂いだった。
大量の豚の骨を、髄液が溶け出すまで長時間、高温の炎で煮込み続けた時にのみ発生する、特有の凶暴な獣臭。
私がかつて、魔物の巣食う薄暗い洞窟の奥深くで嗅いだことのある、血と脂と骨の入り混じった野性味あふれる香りだ。
だが、ここは魔窟ではない。西日本において最大級の人口を誇る、美しく近代的な都市の駅構内である。
その清浄なる玄関口で、堂々と獣の骨を煮出し続けているというのか!
(……恐るべき街だ。この匂いに当てられず、何食わぬ顔で歩いている一般市民の精神耐性はどうなっているのだ)
私は戦慄しながら、立ち止まることなく改札を抜けた。
この時期の博多の街は、異様な空気に包まれていた。
七月。
街のいたるところに、見上げるほど巨大な人形張りの山(飾り山)が鎮座しており、褌姿に近い『締め込み』一丁の男たちが、奇妙な熱気を帯びて街角を行き交っている。
「『博多祇園山笠』か……」
私は事前に商人ギルド(インターネット検索)で得ていた知識を脳内で反芻した。
この祭りを取り仕切る男たちには、期間中、ある絶対的な『禁忌』が課せられているという。
それは……。
「……いらっしゃい。お客さん、注文は?」
夜、私はふらりと入った大衆居酒屋のカウンターで、大将にそう尋ねられた。
私はメニューを見上げ、喉の渇きを潤すために最適だと思われる一品を指差した。
「この『もろきゅう(胡瓜を味噌で食べる料理)』というのを頼む」
だがその瞬間。
大将の顔からスッと愛想笑いが消え、周囲で飲んでいたふんどし姿の男たちすらも、ピタリと動きを止めた。
「……あー、お客さん。よそから来はったんやね」
大将が気まずそうに、しかしきっぱりとした口調で言った。
「すんません、うち、山笠の期間中は『胡瓜』は一切出しとらんのですよ。……というか、この時期の博多部じゃ、弁当にも給食にも、胡瓜は入っとらんのですわ」
出た! これだ。
『緑の禁忌(キュウリ断ち)』!
胡瓜を輪切りにした際の断面の形が、この祭りの主神である櫛田神社の神紋(祇園守紋)に似ているため、期間中は決して口にしてはならないとされる絶対の戒律。
もし食べてしまえば、神の怒りに触れ、祭りの最中に大事故につながると信じられているのだ。
(……なんという厳格な信仰心か!)
異世界においても、「竜の鱗に似た果皮を持つ果実は、竜神の怒りを買うゆえ口にしてはならぬ」というエルフの里の掟があった。
それと全く同じ次元の、強固で絶対的な宗教的禁忌が、この現代の都市のど真ん中で、数百万の市民によって完全に守護されている。
「……すまない、私が無知であった。この地の神への敬意を欠くつもりはない」
私は己の無礼を詫び、メニュー選びをやり直した。
郷に入っては郷に従え。
私は彼らの信仰に最大限の敬意を払い、大好物である胡瓜を完全に諦め、代わりに『酢もつ』と『明太子』という、海の魔物の卵を唐辛子で漬け込んだ刺激的な赤い爆弾を注文することにした。
翌朝。
私は二日酔いもなく、万全の体調で朝の陽射しを浴びていた。
私の目的は一つ。この博多の地に巣食う、世にも恐ろしき『自己増殖型の魔物』を討伐することだ。
私が足を運んだのは、市内に数店舗を構える『牧のうどん』と呼ばれる超大衆的な食堂群の一つである。
博多といえば豚骨ラーメンという獣のスープが有名だが、真の地元民(エリート戦士たち)が日常的に補給するのは、この『うどん』という兵糧なのだという。
「いらっしゃい! 注文は!」
「肉うどん。麺の硬さは『軟』で頼む」
事前に商人ギルドの掲示板で収集した情報によれば、彼らが食すうどん最大の特徴は、一般的な麺の特徴である『コシ(物理耐久値)』などの強靭なステータスを一切持たない点にあるという。
限界まで引き伸ばされ、フワフワに茹で上げられた白い麺。
それが、丼という閉鎖空間の中で、出汁という魔力溜まりを異常な速度で吸い上げ、己の体積を限界突破させていく。
……通称、『食べても減らないスライム麺』。
ほどなくして、私の席に巨大な丼が運ばれてきた。
白く太い、見るからに限界まで水分を含んで膨張した太麺。その上に、甘辛く煮込まれた牛肉とネギがたっぷりと乗っている。
見かけ上は、非常に平和で美味しそうな一品だ。
だが、私の魔眼(鑑定)は、丼の底で凄まじい速度で進行している質量保存の法則の崩壊を見逃さなかった。
(……!! 麺が、秒速でスープを吸収し、その断面を膨張させているだと!?)
私は血の気が引くのを感じた。
増える。ただ置いておくだけでも、麺が出汁を吸ってブクブクと己の体積を増殖させていくのだ!
異世界の洞窟で、物理攻撃を吸収して巨大化していく分裂型スライム・キングに遭遇した時と全く同じ絶望感。
「急がねば! 増殖される前に討ち取る!!」
私は悲鳴に近い叫びを心の中で上げ、箸を高く振りかざし、白い暴食の魔物へと斬りかかった。
ズズズッ! ズルルッ!
私は、フワフワに膨れ上がった純白の麺を、容赦なく胃袋へと流し込んでいった。
コシなど全くない。歯を使わずとも、ただ舌と上顎の圧力だけでプツリと切れるほどの脆弱な耐久力。
だというのに、その脆弱さゆえに、麺一本一本の芯の果てまで、強烈な昆布と鰹節の甘い出汁(魔力)が完璧に浸透しきっている。
「……美味い! このスライム自体が、もはや究極の出汁の塊となっている!」
肉体へのダメージは皆無だ。
疲れた胃腸に、優しく、あまりにも優しく染み渡っていく回復魔法の奔流。
だが、問題はその絶対量だった。
私が三分の一ほどを平らげた時点で、丼の中のスープ(出汁の海)は完全に干上がりかけていた。
麺が全てを吸い尽くし、スープがなくなり、丼の底から新たな白い山が隆起しつつある。
このままでは、出汁のない茹でうどんの塊をひたすら咀嚼するだけの地獄に陥ってしまう。
「くっ……物理的な限界(底)が見えん! これほどまでに増殖のスピードが早いとは!」
私は額に脂汗を浮かべ、箸をピタリと止めた。
この私が、たかだか杯一杯分の炭水化物群に敗北するというのか。
無残にも干上がった丼を睨みつけていた、その時だった。
「はいよ、お客さん。スープ追加な」
横を通りかかった給仕姿の女性が、私の目の前に『銀色のヤカン』をドンッと無造作に置いていった。
「……ヤカン?」
私はその魔法具の蓋を開け、中を覗き込んだ。
薄い琥珀色。立ち昇る強烈な鰹出汁の香り。
なんと……! このヤカンの中身は全て、このうどんの命とも呼べる『追加のスープ』ではないか!
「追加の回復ポーション……!!」
私は歓喜の声を上げ、ヤカンを持ち上げて丼へと傾けた。
ドクドクドクッ!
干上がりかけていた白い麺の山に、再び熱を帯びた出汁の海が注ぎ込まれる。
麺たちは水を得た魚(あるいは出汁を得たスライム)のように息を吹き返し、再び丼の中でたぷたぷと揺れ始めた。
増殖した麺たちに対し、私は追加のポーションという最強の援護射撃を得て、再び反撃の狼煙を上げたのだ。
「うおおおおおっ!」
私は気合を入れ直し、二杯目に等しい純白の魔物の山へと再び挑みかかった。
ズズズッ! ズルルッ!
やはり、美味い。
追加の出汁を吸い込み、さらに極限まで膨れ上がった麺は、もはや固形物というよりも『液体の延長(ゲル状)』に近い何かへと変貌を遂げていた。
本来、冒険者にとって食事とは、硬い干し肉や固焼きパンを必死に咀嚼して胃袋に押し込む『苦行』に近い行為だった。
だが、このうどんは対極だ。
歯を使う必要すらなく、ただ唇で軽く押さえるだけでプツリと切れ、胃壁へと優しく、限りなく優しく滑り落ちていく。
それは、酷使された私の内臓を癒やす、極上の『回復魔法』そのものだった。
私はヤカンのスープを三度、四度と継ぎ足し続けた。
丼の中で無限に増殖し続けるモンスターとの戦いさながらのエンドレス(耐久戦)。
しかし、私の胃袋という名のブラックホールは、決して底を見せることはなかった。
「……ふう」
やがて、ヤカンの中の魔法薬も、丼の中の白い悪魔(麺)も、最後の一滴に至るまで完全に私の体内に同化し尽くした。
完食である。
私は大きく深く、満足げな溜息を吐き出した。
肉体へのダメージはゼロ。むしろ、腹の底から湧き上がる温かな出汁の力によって、二日酔いの気怠さすら完全に霧散していた。
増える麺という恐怖の魔物。
しかしそれは、己の身を削って戦う者を癒やす、この街(博多)が誇る最強の白き守護獣でもあったのだ。
「……見事な手合いだった。感謝する」
私は空になった丼に向かって一礼し、卓の上に銀貨数枚(数百円)を置いて立ち上がった。
博多の街は、今日も澄み切った青空に包まれている。
男たちの祭りの掛け声が、すぐそこまで迫っているかのように活気を帯びていた。
「西へ、南へ……。私は随分と、この狂った国を堪能し尽くしてきたな……」
私は独り言を呟きながら、博多駅の巨大なバスターミナル(馬車の発着場)を見上げた。
新大阪、梅田、天満。
姫路、岡山、広島、そしてここ博多。
行く先々で、私の常識を根底から覆す魔法技術と、過剰なまでの熱量を持った絶品グルメたちが待ち受けていた。
だが、私の旅はまだ終わらない。
いや、終わらせてなるものか。
この灼熱の西国を制覇した私が最後に向かうべき地。それは、日本の北側……雪と深い海に囲まれた、白銀の世界だ。
最近、魔法の鉄竜(新幹線)の軌道がさらに大きく北へと延伸され、未知の巨大要塞都市への扉が開かれたという。
その最前線、敦賀。
そこには、強固な鎧をまとった伝説の甲殻獣(越前ガニ)が潜んでいるらしい。
「行くぞ。私の胃袋は、常に最大容量だ」
私は博多湾から吹く潮風に背を押されるように、再び鉄竜の背中(駅のホーム)へと向かって、力強く歩みを進めた。
元勇者の暴食の旅は、いよいよ最終局面へと突入する。
(第6話 了)




