第5話:路地裏の迷走猫と鉄板の上の掟
岡山からさらに西を目指すため、再び新幹線のホームへと足を運んだ。
そこで私を待っていたのは、見慣れた純白の竜ではなく、全身を鮮やかな桃色の装甲で覆い、巨大な『リボン』の刺青を刻み込んだ異形の鉄竜だった。
「……なんだ、あの幻獣は」
『ハローキティ新幹線』。
私はホームに降り立ったその幻獣の圧倒的な存在感に、思わず息を呑んだ。
それは単なる塗装ではない。車両そのものが、ある種の『精神干渉系の幻術空間』を形成している。特に一号車と二号車は、狂気とも言えるほどに徹底された『KAWAII』という概念魔法に侵食されていた。
私が迷い込んだ二号車の内部は、床も壁も座席すらもがピンク色に染まり、至る所に白い猫らしき魔導生物――ハローキティ――の意匠が施されている。
(……恐ろしい。ここにあと五分も滞在すれば、私の屈強な戦士としての精神構造が完全に書き換えられ、少女のような笑みを浮かべてしまうかもしれん)
私は自らの精神障壁を最大出力に引き上げつつ、この幻獣が運ぶ『縁』の魔法に揺られながら、広島県の東隅、尾道へと降り立った。
尾道は、海と山が迫る狭い土地に、古い寺社や民家が密集する『坂の街』である。
車すらまともに入れないほど、路地は狭く入り組んでおり、まるで迷宮そのものだった。
そんな迷宮を歩いていると、ふと私の足元を、一匹の野良猫が擦り抜けていった。
(……猫。異世界における、神の使い、あるいは魔女の使い魔)
私は手持ちの魔導端末の地図魔術を封じ、代わりに自らの『隠密』スキルを発動させ、気配を完全に殺してその猫の跡をつけてみることにした。
坂を上り、狭い石段を抜け、入り組んだ路地の奥深く。
猫が立ち止まった先には、観光案内板には決して載っていないであろう、古びた小さな中華そば屋がひっそりと佇んでいた。
「……ビンゴだ」
私は猫に片目をつぶって礼を言い、のれんをくぐった。
小柄な老婆が一人で切り盛りするその店で出されたのは、澄んだ醤油スープの上に、大粒の白い塊がいくつも浮いた『尾道ラーメン』だった。
私は箸を取り、その白い塊――『背脂ミンチ』を一つ口に含んだ。
「……むっ!」
スープ自体は小魚の出汁が効いた、どこまでも澄み切った優しい味だ。
だが、その上品な海のようなスープの上に、暴力的なまでの豚の脂(背脂)が浮いているのだ。
あっさりとした醤油の波と共に、強烈なコクとパンチが口の中に押し寄せる。
「海に浮かぶ真珠、か……」
静と動。上品と下品。
相反する二つの要素が、器の中で奇跡的な同居を果たしている。
私は窓の向こうに見える穏やかな瀬戸内海と、遠くで鳴る船の汽笛(音の風景)とともに、この隠された宝物のような一杯を、一滴残らず啜り尽くした。
尾道から西へ進み、私は中国地方の巨大都市・広島市へと到達した。
駅に降り立った瞬間、私はまたしても現代日本の狂気――もとい、驚異の魔導インフラに度肝を抜かれることになった。
「なんだ、あれは……!?」
私が大口を開けて見上げていたのは、広島駅の新ビル『ミナモア』である。
地上十数階建ての巨大なガラス張りの要塞。
その二階部分に開いた巨大な大穴へ向かって、地上を走っていた路面電車(魔導軌道車)が高架線を駆け上がり、そのままビルの中へと呑み込まれていくではないか。
(……!! 建物の内部に軌道車を直接呼び込むだと……!)
これは古代魔法文明の遺跡か、はたまた未来の空中都市か。
空中を滑るように進む車両と、それを悠然と迎え入れる超大型建築物の融合。
かつて、魔王の城が宙に浮き上がった時ほどの絶望感はなかったが、それに匹敵するほどの途方もない技術力の高さを私は感じ取った。
私はその圧倒的な魔物の胎内へと足を踏み入れた。
目的は、この街の魂――『広島お好み焼き』を食すためだ。
駅ビル内には、多数のお好み焼き店が密集し、どこも激しい熱気と脂の焦げる芳醇な匂いを放っていた。
そのうちの一件を選び、最も炎に近い最前線(カウンター席の目の前)へと陣取る。
「いらっしゃい! 注文どうぞ!」
目の前には、横幅二メートルはあろうかという長大な黒き鉄板が横たわっている。
その上で繰り広げられていたのは、料理という概念を超絶した『儀式』だった。
店員が、熱された鉄板の上に水溶きの小麦粉をクレープのように薄く丸く伸ばす。
それがベース(基礎工事)だ。
次いで、片手で掴みきれないほどの大量の千切りキャベツを、その薄い生地の上に山のように積み上げる。
さらに天かす、ネギ、モヤシ、そして何枚もの豚肉をその上に重ねていく。
「……料理ではない」
私は呆然と呟いた。
「これは、建築だ」
異世界で攻城兵器を組み立てるのを見たことがあるが、まさにそれだ。
食材を層として垂直に積み上げ、そして店員が両手に構えた二本の鉄の短剣を使いこなし、その巨大な山を一瞬の隙も与えずに『裏返した』。
ジュゥゥゥゥッ!!
凄まじい熱と蒸気が立ち昇る。
鉄板の熱を利用してキャベツを蒸し焼きにし、全体の体積を圧縮していく高度な質量魔術。
さらにその横で中華麺を炒め、先ほどの圧縮された山を、今度はその麺の上へと正確に乗せ(ドッキングさせ)た。
最後に卵を薄く焼き、その上に全構造物をスライドさせて乗せ、また裏返す。
「見事だ……!」
私は拍手すら忘れてその技巧に見入っていた。
たった一人の職人が、数分足らずでこの複雑な構造体(お好み焼き)を構築し、完璧な焼き加減でまとめ上げる。
この広島の地は、復興の歴史を持つと聞く。焼け野原から立ち上がった人々の『重ねる』力と情熱が、この食文化にも宿っているのに違いない。
「お待たせ! そば肉玉、一丁!」
だが、私が感動に打ち震えていたその直後、隣の席で最悪の事件が発生したのだ。
「すいません、この『広島焼き』ってやつ、一つください」
私の横に座った、いかにも他県から旅行で来ましたといった風貌の若い男が、気安くそう注文した。
ピタリ。
その瞬間、店内の空気が一瞬にして凍りつき、巨大な鉄板の上で響いていた心地よいヘラの音が完全に鳴り止んだ。
――ゾワァッ!
「……ッ!!」
私の『危険察知』スキルが、猛烈な警告音を発した。
なんという殺気だ。
魔王の玉座の間に足を踏み入れた時よりも、はるかに濃密で、冷たく、そして鋭利な殺気が、店主とその周囲の常連客たちから一斉に放たれ、隣の若者へ向かっている。
(……何者だ、こいつ。ただの農民に見えるが、禁忌の儀式でも防ぎ損ねたのか!?)
私は反射的に身を固くした。
だが、私の超人的な聴覚と、その場の空気を読み解く計算機能が、瞬時に一つの結論を導き出していた。
それは、この地域(広島)における最大かつ絶対のタブー。
彼らは、自分たちのこの誇り高き重ね焼き(建築魔法)を『お好み焼き』と呼んでいる。
関西にある混ぜ焼きタイプのものとは根底から異なる、絶対的なアイデンティティだ。
それを、部外者が無神経に『広島焼き』などという、別の亜種を示すかのような名称で呼んではならない。それは彼らの魂の歴史と、この鉄板の上の情熱に対する明確な冒涜なのだ!
「……あんた、今なんちゅうた?」
無口な店主が、片手に持ったヘラをわずかに持ち上げ、底冷えのする声で問い返した。若者はキョトンとしている。
マズい。このままでは、ここで無残な血が流れる大惨事に発展する。
私は助け舟を出すように、若者の言葉を遮って大声を上げた。
「大将! 私には『肉玉そば』を頼む! トッピングにイカ天と、ネギかけだ! あと、そばはダブル(二玉)にしてくれ!」
……静寂。
店内に満ちていた殺気が、私の一本調子のアナウンスによって、霧散していくのを感じた。
「……おう。肉玉そばイカ天ネギかけのダブル、いっちょ」
店主が再びヘラを動かし始めた。
ジュゥゥゥッという音が復活し、店内は再び活気を取り戻した。周囲の客たちも、安堵したように自らの目の前の鉄板へと視線を落とす。
私の極めて具体的かつ、地元民の作法に則った流暢な注文方式が、一発触発の空気を完全に緩和したのだ。
(……ふう。危ないところだった)
私は額に浮かんだ冷や汗を拭い、目の前の鉄板へと向き直った。
隣の若者も、私の見事な注文の連携魔法を見て空気を察したのか、「あ、俺もそれでお願いします……」と小さく呟いていた。
戦士たるもの、無知な一般人を守るのが務めだ。私は心の中で小さく頷き、自らの建造物が完成するのを待った。
やがて、私の目の前の熱い鉄板へ、完璧な多層構造を持つ巨大な肉玉そばダブルが滑り込んできた。
これほどの厚みと質量を持ちながら、崩れることなく自立している。
やはりこれは、建築だ。
私は皿と箸を使うことを拒否し、自らの手元に置かれた鉄の短剣――『ヘラ』を一つだけ手に取った。
この灼熱の鉄板から、直接ヘラを使って料理を切り分け、熱々のまま口に運ぶ高等技術。
見渡せば、地元の常連客たちは皆、魔法のようにヘラを滑らかに口へと運び、火傷一つせずに腹に収めている。
(……見よう見まねでやってやるさ。私を誰だと思っている。長剣から短刀まで、あらゆる得物(武器)を使いこなしてきた剣術の達人だぞ!)
私はヘラを右手に構え、鉄板の上の建造物に対して一閃した。
ザシュッ!
キャベツの層ごと、麺まで一気に切り裂く。
ヘラの角度、力を込めるタイミング。ミリ単位の剣術的演算が私の脳内で火花を散らす。
切り分けた一口大の塊を、そのままヘラの上でバランスを保たせ、口元へと持ち上げた。
熱い。当然だ、鉄板の温度は百度を優に超えている。
だが、私には『状態異常無効』という無敵の防護壁がある!
私は躊躇なく、熱を帯びたヘラから直接、灼熱の塊を頬張った。
「……ッ!」
一瞬にして、口の中で複数の食材が合体魔法を放った。
蒸されたキャベツの圧倒的な甘み。カリッと焼かれた豚肉の脂と香ばしさ。モチモチとした麺が全てを下支えしつつ、イカ天という名の海鮮の旨味が、波のように寄せては返す。
そして何より、全体を統率しているのは、大量に塗られた漆黒の『オタフクソース』だ。
甘い。そして深いコクがある。
このソースは、全ての構造物を調和させる『結合の魔法薬』なのだ。
バラバラだった野菜と肉と炭水化物が、甘口のソースによって見事に一つの宇宙として完成している。
(……美味い! この土地の民は、自らの魂とも言える歴史を、この強固な建築魔法によって具現化させていたのだ!)
私は狂喜し、ヘラという名の短剣を縦横無尽に振るい続けた。
熱いものを熱いまま、鉄板という戦場で直接食らう野戦食的な合理性と、複雑な味を楽しむ娯楽性。
見事なヘラさばきで、鉄板に落とすことなく次々と口に運ぶ私を見て、先ほどまで般若のような顔をしていた店主が、微かに目を細めて頷いたのを、私は見逃さなかった。
「……おう。あんた、ええ口っぷりしとるな。また来いや」
その男の無愛想だが温かい声に、私は自分が、この誇り高き街の戦士たちから『承認』を得たのだと悟った。
これ以上の勲章はない。
私は満足げな笑みを浮かべ、広島の熱い風を受けながら、静かに店を後にした。
(第5話 了)




