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第11話:卓上の罠(トラップ)と、豚骨醤油の濁流をゆく

 兵庫の地で海鮮の回復魔法(明石の玉子焼き)を堪能した私の肉体は、完全に最高のコンディション(全快状態)を取り戻していた。

 次なる戦場は、紀伊半島と呼ばれる巨大な山塊の西に位置する霊的なエリア――『和歌山ワカヤマ』である。

 この地には、日本全国にその名を轟かせる『和歌山ラーメン(中華そば)』という強力な豚骨醤油の魔獣が存在する。

 噂によれば、かつて路面電車が走っていた時代から屋台として発展し、濃密なスープ(魔力溜まり)と細麺の融合によって数多くの戦士たちを魅了してきたという。

 私は夕暮れ時、重厚な醤油と豚骨の香りが漂う一軒の老舗中華そば店へと足を踏み入れた。

「いらっしゃーい。何にしましょ?」

「……中華そば(ラーメン)を、一つ頼む」

 私はカウンターの手前にあるテーブル席へと案内され、どっかりと腰を下ろした。

 これから始まる濃厚な豚骨スープとの血沸き肉躍る死闘(食事)。

 私は精神を集中させ、己の胃袋タンクのキャパシティを広げるための瞑想イメージ・トレーニングに入ろうとした。

 ――だが、その時である。

 私の『危機察知』スキルが、目の前のテーブルの上に点在する『異物』の存在を強烈に知らせてきたのだ。

「……むっ?」

 私は目を見開いた。

 私の目の前、何もないはずのテーブルの中央に、こんもりと山積みにされた『ゆで卵』の入ったカゴ。

 そしてその隣には、柿の葉、あるいは笹の葉のような緑色の植物(魔力草)に包まれた、小さな長方形の物体が山のように積まれているではないか。

「……なんだ、これは」

 私が注文したのは『中華そば』一つだけである。

 これらのお膳立て(サイドメニュー)は、決して頼んだ覚えはない。

 しかも、他の客のテーブルを見渡しても、当たり前のように同じ光景が広がっている。

 そして何より信じがたいことに、私の隣のテーブルに座ったばかりの地元の若者(村人A)が、中華そばの到着を待つことなく、卓上のその緑色の葉っぱの包みを無造作に手に取り、バリ剥がして中身を食い始めたのだ!

「なっ……! 主菜ボスが来る前に、勝手に卓上のアイテムを消費しているだと!?」

 私は愕然とした。

 飲食店(ポーション屋)において、客が勝手に売り物を口にするなど、窃盗クリミナル・アクトに等しい行為ではないのか。

 しかも、周囲の店員たちはその若輩者の無法行為を見て見ぬふりをしている。いや、むしろそれが『当然の権利』であるかのように放置しているのだ。

 私はこの店の異常なルール(不文律)を理解するために、商人ギルド(インターネット)の叡智へと即座に接続アクセスした。

『和歌山ラーメンの独自の掟:早すし』

『和歌山の中華そば店では、テーブルの上に「早すし(鯖の押し寿司)」と「ゆで卵」がデフォルトで置かれている。客はラーメンが出てくるのを待つ間、これを勝手に食べて良い。そして会計時に、自分がいくつ食べたかを自己申告するシステムである』

「……自己、申告だと?」

 私は自分の目を疑った。

 私がこれまで冒険してきた異世界において、酒場の会計といえば、常に荒くれ者たちとの金額を巡る血で血を洗う暴力闘争トーン・ポリシングがあった。

 食べた、食べていない。飲んだ、飲んでいない。

 それを証拠(伝票)もなしに、完全に客側の良心(性善説パラメーター)のみに委ねるシステムが、この和歌山の地に構築されているというのか!

 なんという高度な精神的防壁。

『お前たち(客)の善性を信じている』という無言の圧力が、逆にいかなる不正も許さない絶対の結界(秩序)として機能している。

 和歌山。ここは熊野古道という神聖な修験道が存在する土地柄ゆえか。平民に至るまで、極めて高い精神性(カルマ値)を要求される恐るべきダンジョンだ!

 私は息を飲み、目の前の緑色の包み――『早すし』を手に取った。

 ならば、私もこの地のカルマに従おう。

 勇者たるもの、供された試練(前菜)を回避するわけにはいかないのだ。


「……ゆくぞ」

 私は気合を入れ、テーブルの上の緑色の葉(アセという植物)に包まれた小さな長方形――『早すし』の封印を解いた。

 葉を開くと、中から現れたのは、美しく銀色に光る薄切りの魚(鯖・サバ)が乗った、押しつぶされたような白いシャリ(米のブロック)。

「……寿司、だと?」

 私は眉をひそめた。

 これから巨大な炭水化物と脂の魔獣ラーメンを迎え討とうという直前に、あえて真逆のベクトルを持つ『米』と『魚』を前衛タンクとして繰り出してくるとは。

 和歌山の民は、どれほど大食漢(底なしの胃袋)なのか。

 私は疑念を抱きながらも、その早すしを手に取り、一口で放り込んだ。

「……んッ!!」

 口の中に入れた瞬間、私の猜疑心は音を立てて崩れ去った。

 強烈な、だが極めて爽やかな『酸味ビネガー』が、弾けるようにパッシブスキルの魔力網を抜けて、直接脳髄を刺激してきたのだ!

「……すっぱ! しかし、なんという透明な旨味か!」

 酢という名の強力な浄化魔法ディスペルが、鯖の持つ魚特有の生臭さを完全に消し去り、それどころか、長時間押し固められたことによる魚肉と米の深い一体感(アミノ酸の結晶)を引き出している。

 そして何より、この強烈な酸味が、私の胃袋を物理的に刺激し、唾液(消化液)の分泌を爆発的に加速させたのである。

「なるほど……そういうことか!」

 私は戦慄とともに理解した。

 これは、重い炭水化物ラーメンを食す前に、あえて強い酸味と冷たい米を腹に入れることで、胃腸の準備運動ストレッチを強制的に行わせる『前衛バフ(攻撃力向上魔法)』だったのだ!

 早すしを食べたことで、私の胃袋は「もっとくれ! 次なる強敵エモノはどこだ!」と飢餓状態バーサク・モードへと引きずり込まれてしまった。

 完璧なコンボだ。

 和歌山ラーメン店は、客の食欲を極限まで引き上げるための『スターター・キット』を、無料のサービスと見せかけて(実際には有料だが)、全テーブルに強制配置していたのである。

「……見事な戦術タクティクスだ。私の胃袋は、今最高に仕上がっているぞ!」

 私が鼻息を荒くして早すしの余韻(酸味バフ)を味わっていると、ついに本命たるボスの姿が、湯気とともに卓上に現れた。

「はいお待ち! 中華そば一丁!」

 ドン、と置かれた黒い器(結界陣)。

 その中には、豚の骨から抽出された強烈な野獣の匂いと、真っ黒に近いほどの深い醤油の魔力がドロドロに溶け合った、まさに『濁流』と呼ぶにふさわしい茶褐色の海が広がっていた。

「……ッ!」

 私は身構えた。

 かつて博多と呼ばれる地で相対した『豚骨(獣の牙)』の白濁スープとは全く異なる、より攻撃的で凶悪な色合い。

 豚の凶暴な脂(脂質)と、醤油の圧倒的な塩分ナトリウムという、人間を容易に死に至らしめる劇物同士が、互いに食い合い、高め合って誕生した最凶キメラ。

「……よかろう。私のバーサク(胃袋)と、お前の暴力スープ。どちらが優れているか、勝負だ!」

 私は箸(両手剣)を構え、その重油ポーションのような茶褐色のスープへと真っ向から斬り込んだ。


 ズズズッ!

 私は、茶褐色に濁ったスープ(魔力溶液)とともに、中心に沈んでいた細いストレートの麺(物理属性の刃)を啜り上げた。

「……ぐはぁっ!!」

 直後、私の脳天から爪先に至るまで、いかずちのような衝撃ショック・ダメージが駆け巡った。

 すさまじい。

 なんという塩気の暴力(ステータス異常:麻痺)か!

 福岡(博多)の豚骨ラーメンが、獣の脂と旨味を前面に押し出した『鈍器メイス』だとすれば。

 この和歌山の中華そばは、豚骨の獣臭さを極限まで煮詰めた上で、さらに醤油という名の『切れ味鋭いブロードソード』を二刀流で振り回しているようなものだ。

 一口飲んだだけで、血中濃度の塩分値ナトリウム・ゲージが限界突破し、レッドゾーンで警報を鳴らし始める。

 喉が、いや、身体の全細胞が『水(回復魔法)を寄越せ!』と絶叫している。

「……ッ、強烈すぎる!」

 私は額から滝のような汗(脂汗)を流しながら、この恐るべきスープ(殺戮兵器)の前に平伏しかけていた。

 旨い。間違いなく旨い。だが、味が濃すぎる。醤油の切れ味と豚骨の重厚感が、互いに一切譲歩することなく、私の口腔内で激しい物理演算ステロイド・バーストを起こしているのだ。

 このまま啜り続ければ、いずれ私の味覚センサーは破壊され、戦闘不能リタイアに追い込まれるだろう。

「し、しかし……和歌山の戦士たちは、これをいとも容易く飲み干すというのか……?」

 私は周囲の常連客エリートたちの様子を盗み見た。

 彼らは顔色一つ変えず、この劇物を涼しい顔で啜り上げている。

 いや、よく見ろ!

 彼らの左手にあるのは、先手(前衛)として打ち倒したはずの『早すし(鯖の押し寿司)』の残骸……いや、二個目の早すしではないか!

「……っ!!」

 私はついに、和歌山ラーメンにおける『完全なる魔法陣タクティクス』の真実に到達した。

 私が「前衛バフ(食欲増進の儀式)」だと勘違いしていた『早すし』。

 その真の役割は、前衛どころの騒ぎではなかった。

 あれは、この強烈すぎる『豚骨醤油(致死性ダメージ)』を中和ディスペルし、戦線を維持し続けるための絶対不可欠な『常時回復アイテム(リジェネレート・ポーション)』だったのだ!

 私は震える手で、テーブルに積まれていた二個目の『早すし』を手に取り、葉を剥がして鯖と酢飯を胃袋に投下した。

「……ッ!!」

 奇跡ミラクルが起きた。

 先ほどまで脳を焼き切るかと思われた強烈な醤油の塩気と、豚骨の重たい獣臭さが。

 早すし自身が宿す『極限の酸味』と『冷たい白身魚のサッパリ感』によって、見事に、一瞬にして洗い流され(クレンズされ)たのだ!

 濃い(重い)中華そば。

 すっぱい(軽い)早すし。

 剛のラーメンで抉られた傷跡を、風の魔法(押し寿司)が優しく撫でて治癒する。

 この絶え間ないダメージとヒールの無限ループ(無限の攻防戦)こそが、和歌山ラーメンという名の巨大ダンジョンにおける、唯一かつ最強の攻略法メタだったのだ!

「ははっ……あっははははっ!」

 私は狂ったように笑い声をあげながら、ラーメンを啜り、すかさず早すしをかじり、またラーメンのどんぶりに顔を突っ込んだ。

 もう止まらない。

 豚骨の獣が私の喉を斬り裂き、鯖の酸味がそれを癒やし、癒やされた傷口をまた醤油の刃が容赦なく穿つ。

 これほどの至高の苦痛と快楽(ダメージ&リジェネリング)を味わわせてくれるダンジョンが、かつて存在しただろうか!


 ――ふうっ。

 私はどんぶりの底に残った最後の一滴の豚骨醤油スープ(猛毒魔法液)を飲み干し、深く、そして満足げなため息をついた。

 これほどの強力なダメージ魔法ラーメンを、致死量に達する前に見事に中和し、自己回復ヒールを追いつかせる完璧なプレイング。

 早すしとはすなわち、魔法使いの詠唱短縮、あるいは常時回復リジェネバフだったのだ。

「……私の完全勝利だ。和歌山の豚骨魔獣よ」

 私は額の大汗を拭い、目の前のテーブルを見下ろした。

 そこには、私が平らげた中華そばの真っ黒な空どんぶりと。

 そして、三つもの開かれた緑色のアセの包み紙が、戦いの痕跡ドロップアイテムとして無惨に散らばっていた。

 さらに言えば、その横にはなぜか「ゆで卵(防御力アップのアイテム)」の殻までが二つほど割られて転がっている。

 酸味(早すし)だけでは抑えきれない豚骨の暴力に対して、ゆで卵という物理的な黄身の甘み(追加バフ)まで動員して、ようやく戦線を維持したのである。

「すばらしい戦いだった。さて……」

 私は立ち上がり、入り口近くの会計口(ギルドの精算カウンター)へと向かった。

 そこに立つ店番の老婆ギルド・マスターは、小さな電卓(魔導計算機)を叩きながら私の方を見た。

「おおきに。中華そばが一つやね。……んで、すしたまごは、いくつ食べはりました?」

 ――来た!

 私が戦前に恐れていた、あの『自己申告制(性善説パラメーター診断)』の瞬間である。

 私のテーブルの上には、食べた数が証拠として残っている。だが、店主は私の席から遠く離れており、葉っぱの数も、卵の殻の数も、ここから直接目で数えることはできない。

 私が「一つしか食べていない」と偽りの申告(虚偽魔法)を行えば、簡単に数枚の銀貨をかすめ取ることができるのだ。

 私がこれまで生きてきた裏切りと謀略の異世界ハードコア・モードであれば、ここで嘘をつかない戦士など一人もいない。

 客を信じる? そんなものは敗北者のきれいごとだ。

 しかし、この老女は、私の瞳の奥をまっすぐに見つめ、絶対の信頼とともに、私の「真実の言葉カルマ」を待っている。

「……中華そば一つ。それに、早すしを三個だ。ゆで卵も二ついただいた」

 私は、一切の淀みなく、はっきりと真実トゥルー・アンサーを告げた。

 私の声は、ギルド中に響き渡るほどに澄み切っていた。

 嘘をついて金貨を浮かせようとするなど、この和歌山の美しき不文律ルールに対する重大な冒涜タブーである。

 私は勇者だ。この強固な性善説によって守られた結界ダンジョンにおいて、ただの一度でも虚偽を働けば、それは戦士としての誇り(名誉ポイント)を喪失することを意味する!

「はい、中華にすし三つ、たまご二つね。おおきに、○○円になりまーす」

 老婆は微塵も疑う様子もなく、私の申告通りに弾き出した額を告げた。

 私は笑顔で紙幣(魔力チケット)を渡し、釣り銭を受け取った。

「見事だ。……恐ろしく高い精神性レベルを持つ街だな、ここは」

 私は店を出て、和歌山の夜空を見上げた。

 腹の中には、荒ぶる豚骨醤油の獣と、それを宥める鯖寿司の酸味が、心地よい満腹感ヘヴィ・バフとなって宿っている。

 店側の『客を無条件で信じる』という圧倒的な光の魔法。そして客側の『その信頼を決して裏切らない』という強固な善性の誓約。

 これこそが、和歌山ラーメンという奇跡のシステムを成り立たせる、真の魔法防御力レジストなのだ。

「……フッ。西日本のダンジョン、どこまでも私を楽しませてくれる」

 私は己の魂が浄化クレンズされていくのを感じながら、次なる未開の地――鳥取(牛骨の霊峰と砂の国)へと向かうべく、宿路を急ぐのだった。

(第11話 了)


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