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第1話:帰還戦士と氷の魔法陣、激熱粉もんの洗礼

 世界に平和は訪れた。

 魔王は滅び、瘴気は霧散し、血に塗れた荒野には再び緑が芽吹いた。

 十年……あるいはもっと長かったかもしれない。異世界と呼ばれるその場所で、私は剣を振るい、ただ生き延びることと、世界を救うという重すぎる責務を果たすためだけに戦い続けた。

 無数の死線を乗り越え、次元の狭間を斬り裂いて、私はついに故郷である日本へと帰還したのだ。

 帰還した朝、目覚めた私はまず寝床の柔らかさに落涙しそうになった。

 ゴブリンの奇襲に怯え、硬い岩肌や湿った土の上で浅い眠りを貪っていた日々は完全に終わったのだ。ここは『ニトリ』という名の大魔導具屋で購った、反発係数の高い魔法の寝台である。

 そして部屋の壁を覆うのは、いかなる虫も風も通さない鉄壁の防御結界――『サッシ窓』。

 蛇口をひねれば、呪いも毒素も完全に浄化された『水』が無限に湧き出す。異世界において、専属の水属性魔導師を雇わなければ得られなかったほどのクリアな真水が、ひと月にわずか数千円という端金で使い放題なのだ。

 この国は狂っている(褒め言葉だ)。

 今の私の肉体は、転移した当時の二十代後半へと逆行補正されていた。

 魔王の宝物庫からしこたま持ち帰った金貨や宝石の類を、裏の伝手を使って現代の通貨に換金することも済ませている。当面、金に困ることはないだろう。いや、一生遊んで暮らせるかもしれない。

 だから私は決めたのだ。

 もう二度と、誰のための犠牲にもならない。世界を救うなどというふざけた大儀は二度と背負わない。

 私の残りの全人生は、己の胃袋を満たし、この世界の途方もない平和を噛み締めるためだけに費やすと。

 身支度を整えよう。

 私はクローゼットを開け、現代の装甲――『ユニクロ』の衣類を身に纏った。

 特にこの『ヒートテック』なる漆黒の下着には戦慄を禁じ得ない。

 布地の説明書きには「身体から発せられる水蒸気を熱に変換する」とあった。……つまり、自らの生命力(水分)を触媒にして熱エネルギーを錬成する、禁忌の血肉魔術だ。

 異世界の邪教徒が聞けば歓喜で狂い死ぬような呪いの礼装が、なんと「990円(税抜)」でそこらの平民に大量に売り捌かれている。

 だが、すこぶる暖かい。呪われようが何だろうが、快適なら文句はない。

 戦士の準備を終えた私は、大いなる旅の第一歩を踏み出した。

 西日本最大の交通の要所にして、巨大な迷宮空間――『新大阪駅』である。

「……なんという魔力密度だ」

 駅の構内に足を踏み入れ、私は思わず低く唸った。

 行き交う大勢の人間。彼らは一様に魔導端末スマートフォンと呼ばれる平たい水晶板を片手に持ち、虚空の情報を覗き見ている。

 これほど無防備に、誰一人背後を警戒せずに歩ける場所が、かつての世界にあっただろうか。いや、ない。ゴブリンはおろか、スリすら存在しないかのような圧倒的な治安。

 そして私を最も驚かせたのは、駅内部の「改札」と呼ばれる結界門だった。

 人々は、立ち止まることなく結界を通過していく。

 よく見ると、彼らは手にした水晶板、あるいは『ICOCA』と書かれた小さな板を、結界の台座に叩きつけている。

 その板には、奇妙な姿をした『カモノハシ』という魔物の姿が刻印されていた。

(……なるほど。あの魔物と血の契約を交わした者だけが通れるパスポートというわけか……!)

 私も己の財布から、同種の契約の証――『Suica』を取り出した。私のはペンギンという鳥型魔獣の契約板だ。

 台座にかざす。

『ピピッ!』

 可愛らしい鳥の鳴き声のような音がして、青い光が瞬き、見えない防壁が開いた。

(やはり! ペンギンの使い魔が通行証の役割を果たしたのだな……見事だ!)

 私は一人、深く頷きながら改札を突破した。

 無事に新幹線の内部結界(改札内コンコース)へ侵入成功した私は、周囲の索敵を始めた。

 ここから先は『エキナカ』と呼ばれる、様々な商人が店を構える中立地帯だ。

 ふと、私の視界の端に異様なものが映った。

 それは、等間隔に配置された無数の直方体の箱である。

 ……自動販売機。

 記憶の中にあるそれよりも、はるかに進化している。十年という月日は、この国の魔法技術を恐ろしい次元へと引き上げていた。

「なんだ、これは……?」

 私は一つの巨大な箱の前に立ち止まり、息を呑んだ。

 ガラス越しに見えるのは、見慣れた茶や甘い水ではない。箱にははっきりと『冷凍ラーメン』と書かれていた。しかも『FROZEN Lab.』という謎の研究所の名まで記載されている。

 私は自身の眼球に魔力を練り込み、長年培った『鑑定』の力を発動させた。

【対象:豚骨醤油ラーメン(特殊冷凍状態)】

【状態:時間停止。細胞破壊率ゼロ。鮮度九十九パーセント維持。加熱により即時蘇生可能】

 ……馬鹿な。

 出来立ての料理の時間を止め、完全に氷漬けにする魔法だと!?

 異世界においても、高位の氷属性魔導師が数人がかりで儀式を行い、ようやく成し得る大魔術だ。それを、この箱は硬貨たったの数枚で、しかも無人で提供しているというのか?

(いや待て、よく考えろヤマト。この箱の内部には、極小化された氷の精霊(コールドスライム等)が数百匹単位で使役され、昼夜休まず冷気限界を維持しているに違いない。なんという非人道的な奴隷使役! 現代日本は闇が深すぎる!)

 私は勝手な妄想で戦慄しながらも、震える手で千円札を取り出し、吸い込み口へと挿入した。

 光るボタンを、指先に闘気を込めて押す。

 ゴトンッ!

 重々しい音とともに、取り出し口に霜を纏った箱が落ちてきた。

 迷宮の最深部で、罠をかいくぐってようやく宝箱を開けたような甘美な手応えがあった。私は周囲の目を気にしながら(不審者の動きである)、それを素早く【収納魔法アイテムボックス】の最奥へと放り込んだ。

 空間と時間を内包する私の亜空間倉庫は、この氷漬けの秘宝を寸分違わぬ状態で保存してくれるだろう。

(ふふ……ふははは! 見たか魔王よ! これが我が祖国の力だ!)

 私は心の中で見えない敵に勝利宣言をしつつ、次の目的地である「梅田」へと歩を進めた。

 改札外へ出るため、再び在来線に乗り換えた私を待ち受けていたのは、さらなる魔法文明の衝撃であった。


 大阪環状線とかいう、奇妙な鉄の竜に乗り換え、私はついに欲望の都市・梅田へと降り立った。

 巨大な商業施設が立ち並び、空を切り裂くような高層ビルがそびえ立つ。

 私の目的はただ一つ。大阪の食の代名詞とも言える「粉もん」の最高峰を味わうことである。

(あの、黄色い弾丸……!)

 私が向かったのは、繁華街の奥、立ち飲み形式でたこ焼きを提供する少し小洒落た店舗だった。その界隈は、異世界の酒場よりもはるかに混沌としていた。

 店員が流れるような手付きで鉄筆――いや、専用の千枚通しを操り、半球状のくぼみに流し込まれた生地を次々と反転させていく。

 見事な双剣士の太刀筋だ。

 無駄のない動き。完璧なタイミング。

 生地が鉄板の上で「ジュゥゥゥッ」と悲鳴を上げるたび、店員はその悲鳴すらも味方につけ、一寸の狂いもなく球体へと昇華させていく。

(私がいま持っている『剣術レベルMAX』のスキルを総動員しても、あの動きを真似るのは不可能に近い。……これが現代日本の平民だというのか。恐るべきポテンシャル!)

 私は戦慄しながら、最も店員の技術を観察できる特等席――カウンターの隅に陣取った。

「いらっしゃい! 何にしましょ!」

「……おすすめを一つ。最強のものを頼む」

 店員は私の言葉に一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにニヤリと笑った。

「ほな、オマール海老のビスク風ソースたこ焼きと、冷えたビールでええか?」

「オマール、海老……の、ビスク?」

 ……なんだその、いかにも高位の海竜の心臓を煮込んだ魔法薬のような響きは。

「ああ、構わない。それで頼む」

 目の前に置かれた皿を見て、私は目を疑った。

 見慣れた黒褐色のソースではない。甲殻類の香りを濃厚に漂わせる、鮮やかな橙色の海が広がっていた。そしてその上に、青々とした香草コリアンダーだろうかがパラリと振りかけられている。

「……進化している。私がいない間に、この国の粉もんは新たな階梯へと到達していたのか」

 熱気とともに立ち昇る香りは、明らかに海老の暴力的なまでの旨味を内包している。

 かつて、海原を支配する巨大な魔物リヴァイアサンの一種を討伐した際に得た、強烈な海の力。それに匹敵する……いや、それ以上に洗練された香気だ。

 私は爪楊枝を二本持ち、一つの球体を刺し貫いた。

 ずっしりとした重量感。表面はカリッと焼き上げられ、強固な物理防壁を形成している。だが、問題はその内側だ。

 たこ焼きの中身は、数百度に達する灼熱の溶岩に等しい。

 迂闊に口に放り込めば、粘膜は焼け爛れ、数日はまともな食事ができなくなる。異世界の炎棲魔物サラマンダーの体液より恐ろしい凶器だ。

(この罠にハマり、幾多の外国からの冒険者が舌口蓋を破壊され、涙を流してきたと聞く。……だが、私は違う)

 私は異世界で習得した、最強のパッシブスキルを完全解放した。

『状態異常無効』

 あらゆる毒、麻痺、呪い、そして極端な環境変化(灼熱・極寒)を無効化する絶対の力。

 私は、湯気をあげて煮えたぎる灼熱の球体を、一切の躊躇なくそのまま口の中へ放り込んだ。

「あ、お客さん、それ焼きたてやから熱いで――」

 店員が制止の声を上げたが、遅い。

 瞬間、外殻が破れ、内部から熱い魔力……いや、出汁の奔流が爆発した。

 熱い。だが、痛覚は完全に遮断されている。私に届くのは、純粋な『温度の高さ』という情報と、暴力的なまでの旨味だけだ。

 出汁の効いた生地の甘み。弾力のあるタコの食感。そして何より、オマール海老の濃厚なソースが全てを包み込み、未知の味覚の領域へと私を引きずり込んでいく。

 外はカリッ、中はトロッ。

 この相反する二つの食感の共存こそが、この料理の真髄か……!

 私は強固な物理バリアを突破した達成感と、内部に秘められた圧倒的な魔力(旨味)に打ちのめされた。

「……美味い」

 私は無意識のうちに、横に置かれていた微発泡の麦酒ビールのジョッキを鷲掴みにし、煽っていた。

 極限まで冷やされた黄金の液体が、熱を持った食道を一気に冷やしていく。

 この強烈な温度差。

 かつて、極寒の雪山から灼熱の火山地帯へと転移魔法で飛んだ時の衝撃を思い出す。あの時はあまりの温度差に気絶しかけたが、これは違う。

 不快感は微塵もない。

 あるのは圧倒的な幸福感と、酒の魔力による微かな高揚だけだ。

「兄ちゃん、やるな。それ一口でいって火傷せえへんのか?」

 店員が驚いたように私を見る。

「ああ。私の喉には絶対零度の結界が張ってあるのでな。何も問題ない」

「ははは! おもろい冗談言う兄ちゃんやなぁ」

 店員は豪快に笑い、私の空になったジョッキにもう一杯、麦酒を注いでくれた。

 ……冗談ではないのだが。

 まあいい。この平和な世界では、男の見栄と冗談で通じてしまうのだから。

 私はふいに、店員の顔を見た。

 汗を拭いながら、鉄板と向き合うその表情は真剣そのものだった。

『鑑定』を通さずともわかる。彼らは、ただ旨いものを作るためだけに、己の技術を研鑽しているのだ。

 もし、魔王軍の残党がこの世界に潜伏していたとしても。

 もし、あの恐るべき魔導文明の欠片が、この国の技術発展に関与していたとしても。

 こんなにも美味いものが食べられる世界を、私は絶対に否定しない。

 仮にそれが仕組まれた平和であったとしても。

 私はこの味を守るためなら、もう一度剣を抜くことすら辞さないだろう。

 ……いや、剣は抜かない。

 この平和な世界では、剣など必要ない。箸とヘラ、そして爪楊枝さえ握っていれば、私は最強の戦士であり続けられるのだから。

 皿の上のたこ焼きを全て平らげ、麦酒を二杯空けた私は、満足のいく溜息をついた。会計、わずか千五百円也。

 金貨二枚にも満たない端金で、これほどの多幸感が得られるとは。

 さて。

 夜は、宿の電子レンジ(火属性の魔導具)で、新大阪で手に入れた冷凍ラーメンを蘇生させなくてはならない。

 私の胃袋は、常に臨戦態勢である。

 西日本の迷宮は、まだその入り口を覗き込んだばかりなのだから。


 さて、夜のとばりが下りた。

 私は梅田のネオン街――常夜の魔術都市のごとき眩命な光の海――を抜け、予約していた安宿へと戻ってきた。

 ここからが、今日最大の儀式である。

 私は『アイテムボックス』を開き、昼間に新大阪の自動販売機で獲得した宝箱――『特殊冷凍ラーメン』を取り出した。

 霜を纏ったその直方体の箱は、亜空間の恩恵により一切の溶け出しもなく、完璧な氷漬け状態を維持している。

 裏面に記された『召喚の書(調理手順)』を真剣な面持ちで読み込む。

『1. 蓋を開けず、そのまま電子レンジで加熱してください。』

『2. 目安:500Wで約8分、600Wで約7分。』

 ……なんと。

 この氷漬けの秘宝を封印解除するためには、炎系の魔法陣『500W』か『600W』を任意で選択する必要があるらしい。

 私は部屋の隅に設置された、白い箱型の火属性魔導具(電子レンジ)の前に立った。

 Wワットとは、おそらく威力を表す魔力単位だ。異世界で言うところの、初級火炎魔法ファイアから中級火炎魔法ファイラへの火力調整に近い。

 私は魔導具の扉を開け、凍りついたままのラーメンを神殿の祭壇に供えるかのように慎重に置いた。

 扉を閉め、ダイヤルを術式【600W】に合わせ、時間を【7分】にセットする。

 スタートボタンを押す。

『ブゥゥゥゥウン……』

 低く、重厚な魔力駆動音が部屋に響き渡る。

 同時に、庫内がオレンジ色の光(炎のオーラ)に満たされ、中の円盤がゆっくりと回転を始めた。

「……錬成陣が、回っているだと!?」

 私は驚愕のあまり、三歩後ずさった。

 まさか。対象物に均等に熱(魔力)を行き渡らせるため、術式そのものを回転させているというのか。なんという空間把握能力。なんという緻密な魔力制御。

 異世界でこれをやろうとすれば、魔導師が六人がかりで対象を囲み、手をつないで一斉に詠唱しつつ、自分たちが盆踊りのようにぐるぐると回るしかない。それが、この白く小さな四角い箱の中で、全自動で行われているのだ。

 私は畏敬の念を抱きながら、ガラス窓の向こうで儀式が完了するのを、瞬きもせずに見守り続けた。

 七分後。

『ピーッ! ピーッ! ピーッ!』

 完了を知らせる電子音。それは、私にとっては天上の神々が奏でるファンファーレに等しかった。

 私はすぐさま扉を開け、中からラーメンの入った容器を取り出した。

「熱ッ!?」

 素手で触れた瞬間、猛烈な熱気に襲われたが、私はとっさに【状態異常無効】のスキルを発動し、平然とした顔で(心の中では冷や汗をかきながら)それをテーブルへ運んだ。スキルがなければ、指先は重度の火傷を負っていただろう。恐るべき火属性魔導具の威力である。

 私は深呼吸をし、密封されていた透明な蓋を静かに剥がした。

 ブワァァァァッ!

 封印から解き放たれた、極めて濃厚な豚骨と醤油の熱気が、濛々と立ち昇る湯気とともに室内に充満した。

 それはただの匂いではない。

 長時間かけて煮込まれたであろう獣の骨の髄から抽出された、生のエネルギーの塊だった。

「……信じられん。昼間まで、確かにコールドスライムの核の如く冷え切っていたというのに」

 私は震える手で、備え付けの割箸ワンダリング・ウッドを二つに割った。

 琥珀色のスープの表面には、細かい脂の気泡が一面に浮いている。それはまるで、満天の星空を黄金の液体の表面に映し出したような美しさだった。

 私はまず、器に口をつけてスープを静かに啜った。

 ――ガツンッ!!

 強烈な旨味が、脳髄を金属バットで殴りつけたかのように直撃した。

「……っ!」

 私は声にならない呻きを漏らし、目を見開いた。

 美味い。

 ただその一言しか出てこない。いや、言葉など不要だ。

 圧倒的な動物性の旨味。それを完璧に統制する醤油の鋭い塩気。さらに、後味として残る微かな甘みが、次の一口を強烈に要求してくる。

 たまらず、私は麺を啜った。

 ズルルルッ! ズルズルッ!

 特殊な冷凍技術のおかげか、麺は一切の妥協なく弾力を保っていた。

 冷凍されていた小麦の束が、なぜこれほどのコシ(物理耐久値)を維持できるのか。噛み切るたびに、プツリ、プツリと心地よい抵抗感がある。

 スープが麺一本一本に完璧に絡みつき、小麦の香りと豚骨の旨味が口の中で見事な合体魔法ユニゾンを奏でる。

 私は無言のまま、ただひたすらに麺を啜り続けた。

 チャーシューと呼ばれる円形の豚肉は、箸で持ち上げようとしただけで崩れそうなほど柔らかい。舌の上に置くと、噛む必要すらない。脂が自らの熱で溶け出し、純粋な甘みとなって喉の奥へと滑り落ちていく。

 私がかつて異世界で、魔物の肉を丸焼きにしていた時のことを思い出す。

 硬く、筋張り、血の匂いがひどい肉。それを塩だけで味付けし、仲間たちと焚き火を囲んで食った。

『なぁヤマト。俺、この戦いが終わったらよ……元の世界で、一番美味いラーメンを腹いっぱい食うんだ』

 ふいに、今は亡き戦友の顔が脳裏を過った。

 戦乱の最中、満足な食事も取れないまま、巨大な魔獣の牙に腹を貫かれて散った、同郷からの転移者。

 あいつは最期まで、笑いながらそんなことを言っていた。

「……おい。美味いぞ。信じられないくらい、美味いぞ……」

 私は誰に言うともなく呟きながら、器の底に残った最後の一滴のスープまで、完全に飲み干した。

 胃袋の底から、じんわりと温かいものが全身を駆け巡る。

 視界が少しだけ、湯気のせいか、滲んだ。

 私は両手を合わせ、深く一礼した。

「ごちそうさまでした」

 それは、この魔法の一杯を作ってくれた見知らぬ職人たちへ。

 そして、この平和な世界のために、異世界で散っていった全ての戦友たちへの、鎮魂の祈りだった。


 翌朝。

 私はホテルのベッドという名の回復地点セーブポイントで、泥のように深い眠りから覚め、HPとMPを完全回復させていた。

 窓を開けると、朝の光に照らされた大阪の街並みがどこまでも広がっている。

「……さて。今日も往くとするか」

 独り言を呟きながら、身支度を整えて外へ出る。

 太陽は昇ったばかりだが、私にはやらねばならないことがあった。朝の補給(朝食)である。

 宿を出てすぐの街角で、私のオアシス――『24時間営業の何でもコンビニエンス・ストア』――が発する、魔石のような青と白の看板光が見えた。

 私は少し早足でそこへ向かう。

 自動で横にスライドする魔法の扉を抜け、「ウィーン」という稼働音とともに足を踏み入れる。

「いらっしゃいませー」

 奥から、無気力ながらも確実にこちらを補足した店員の歓迎の声。

(この規模の店舗を、たった一人で防衛しつつ商いを行っているのか……。やはり、この国の商人ギルドは恐ろしい)

 私は戦士としての警戒を解かないまま、店内を巡回した。

 私の目的は、冒険者の生命線である携帯食料の調達。

 すなわち『おにぎり』である。

 コメという穀物を高密度に圧縮し、内部に具材(魔物の肉や卵など)を封入し、さらに黒い紙のような海藻でコーティングした完全食。

 異世界で干し肉と硬い黒パンしか食べてこなかった私にとって、このおにぎりという食べ物は革命だった。

 私は陳列棚の前に立ち、無数にある種類の中から一つを厳選した。

『ツナマヨネーズ』

 ツナとは海の魔物マグロを解体し、特殊な油で煮込んだもの。マヨネーズとは、卵と酢と油を魔女の秘術で乳化させた伝説の調味料だ。

 それが、140円(銅貨一枚と少し)で買えるという奇跡。

 さらに歩を進め、私は飲み物の棚へ向かった。

 そこもまた、私の度肝を抜く魔法陣の宝庫だ。

 棚の左半分は青い光を放ち『つめた〜い』と書かれている。氷の結界だ。

 だが、右半分は赤い光を放ち『あたたか〜い』と書かれている。こちらは炎の結界。

 ……一つの箱の中で、氷属性と火属性の魔力場を同時に完全に区分けして維持しているだと!? 魔力干渉による爆発が起きないのが不思議でならない。

 私は躊躇なく赤い結界に手を伸ばし、『お~いお茶』と書かれた緑色の円柱型水筒ペットボトルを掴み取った。

 熱い。握った手から、真冬の寒さを吹き飛ばすような温もりが伝わってくる。

 レジで代金を支払い、店を出た私は、近くの公園のベンチに腰を下ろした。

 朝の冷たい空気が心地よい。

 私はまず、おにぎりの封印を解くことにした。

 しかし、このツナマヨネーズのおにぎり、奇妙な構造をしている。海苔(黒い海藻)と米の間に、薄い透明な防壁魔法フィルムが展開されており、物理的に接触していないのだ。

(……待てよ。まさか、海苔が米の水分を吸って柔らかくなるのを防ぐためだけに、わざわざこんな複雑な多重結界を張っているというのか!?)

 パッケージに書かれた『①を引いて、②③を開く』という神託インストラクションに従い、私は慎重に封印を解除していく。

 見事だ。

 薄い防壁がスルスルと抜け落ち、乾燥したパリパリの海苔が、純白の米山を完璧な形で包み込んだ。

 私はそれを両手で持ち、大きく一口、齧り付いた。

「……っ!」

 パリッ! という小気味良い音。

 海苔の香ばしさと、ふっくらとした米の甘み。そして中心部に突き進むと、ツナとマヨネーズの濃厚な酸味と旨味が、一気に口の中に解放された。

「……美味い」

 これほどまでに完成された携帯食料が、かつて存在しただろうか。

 一口ごとに味が変わり、全く飽きがこない。

 私は狂ったように咀嚼し、わずか数十秒でそれを胃袋に収めた。

 そしてすかさず、火属性の恩恵を受けた『お茶』の蓋を開け、喉に流し込む。

 温かい茶の渋みが、ツナマヨネーズの脂気を綺麗に洗い流し、口の中を完全にリセットしてくれた。

 完璧な陣形だ。

 おにぎりが前衛の重戦士なら、お茶は後衛の回復魔導師。

 たった三百円足らずの出費で、これほどまでに強固な美味のパーティ編成が組めるとは。

「はぁ……」

 私は大きく息を吐き出し、空を見上げた。

 青々とした空に、白い雲がゆっくりと流れている。遠くから、電車の走る音が微かに聞こえてくる。

 争いのない、静かな朝だ。

 ふと、異世界で生き別れた仲間たちとの日々が、また脳裏を過った。

 魔王の軍勢に囲まれ、絶望の淵に立たされた時。

『おいヤマト。こんなところで死んでたまるか。俺たち、生きて帰ったら……』

『ああ、分かっている。美味いものを、腹いっぱい食うんだろ』

 そうだ。私は生き残った。

 そして今、この途方もなく平和で、狂ったように美味い世界に帰ってきたのだ。

 彼らの分まで、私はこの世界を味わい尽くさねばならない。

 ベンチから立ち上がり、私は衣服のシワを軽く払った。

 腹の底から、新たな闘志――いや、食欲が湧き上がってくるのを感じる。

 大阪の迷宮は広い。

 次はどの街へ向かおうか。

 環状の鉄竜(電車)に乗って、千円単位で無限に酔えるという噂の『天満』という名の酒場街を攻略するのも悪くない。

 あるいは、少し足を伸ばして『姫路』という地に聳える、白き巨大な城郭を拝みに行くか。

 どちらにせよ、私の胃袋はいつでも臨戦態勢である。

 私は口元に僅かな――周囲から見れば不気味なほどの――笑みを浮かべ、西日本の大いなる食の迷宮へと、再び歩みを進めた。


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