白いジニア
皆様、こんにちは…。
ふと描きたいな…と思ったものがありまして、それを投稿いたします。
これは短編の完結話となっております。
そして、これが今の私の全てです…ご覧ください…
「お姉ちゃんと同じ舞台に立てた!」
瑠奈は妹の小陽の言葉に心が締め付けられた。瑠奈は妹の小陽の才能の前に挫折してしまう。瑠奈はとあるバンドのギタリスト。バンドを率いる中核的なメンバーである。小陽は自分より3つも年下であったが、ギターの技術は既に瑠奈と並べても遜色がなかった。いや、はっきり言おう。技術こそ並んでいるが、華やかさで言えば小陽の方が優れていた。周囲の者もわかっていながら、瑠奈を気遣ってはっきりと言葉に出せなかった。瑠奈たちが3年がかりでようやく獲得したライブ大会の出場権を、小陽が所属しているバンドはたった1年で獲得してしまう。はしゃぐ妹の姿に、瑠奈の姉としてのプライドは音をたてて崩れた。
そこから瑠奈は、周囲の者が妹の小陽と自分を常に比較しているような感覚を覚えてしまう。小陽なら出来た。小陽の方がふさわしい。なんで瑠奈なの?瑠奈はどこまでいっても小陽の幻影と闘う日々を送っていた。もちろん、実際はそんなことは決してない。瑠奈のバンドのメンバー達も、瑠奈がひたむきに音楽と向き合う姿をずっと見ている。むしろ、世間が思うほど、小陽との差はさほど大きくないと感じていた。しかし、瑠奈の負けず嫌いな性格とプライドの高さが、悪い方向に流れていってしまう。
「お姉ちゃん!私達、デビューするよ!」
瑠奈たちが夢見たメジャーデビュー。小陽は瑠奈を飛び越えて実現してしまう。その瞬間、彼女の両親の視界から瑠奈の姿は消えてしまう。身近からアイドルへと転身したこともあり、瑠奈のバンドのメンバーたちでさえ、小陽に夢中になる。
「小陽ちゃんがウチのバンドに入ってたら、ウチらもデビュー出来たのかな?」
瑠奈がバンドの練習時間に少し遅れた時である。瑠奈のいないところで、メンバーがさり気なく言った一言を、ドアの影から聞いてしまう。
『仲間…じゃないの?』
瑠奈の心は何か黒い雲に覆われてしまう。瑠奈に襲いかかる孤独感と虚無感。瑠奈はスタジオを出ると、雨の中、走って帰宅した。
「ああ、疲れた!」
帰宅すると、小陽の明るい声が聞こえた。ここ最近、瑠奈は小陽のことを避けていた。瑠奈の家族は、小陽を中心にして動いていた。食事も休日も、全て小陽の予定に合わされていたのだ。誰も瑠奈のことなど、気にかけてなどいなかった。瑠奈はそのまま自室に入る。ダイニングで、自分を抜きにしての家族だんらんが見ていられなかったからだ。
(コンコン)
ドアをノックする音が聞こえる。しかし、瑠奈は反応しない。
「お姉ちゃん?寝てるの?」
小陽が入って来た。
「入ってこないで!」
瑠奈は小陽を拒否するが、聞こえないかの様に瑠奈に近付いてくる。こぼれるほどの笑顔を見せながら近づいてくる小陽に、瑠奈は石のように固まってしまう。
「最近、バンドはどう?練習、頑張ってる?」
小陽の言葉に、瑠奈は目を見開いた。誰よりも早く練習をはじめ、誰よりも遅くまで練習をしていた。人一倍練習をしてきた。いや、少なくとも目の前の小陽よりかは練習してきた自負がある。瑠奈の視界がぼやけ始めた。焦点が合わない。
「お姉ちゃんのこの部分…前から気になってたんだよね…」
小陽のアドバイスという名の弩は、瑠奈の体内で膨れ上がった黒い風船を的確に貫いた。
「ぎゃあぁぁ…」
瑠奈は部屋にあった先細ハサミを握ると、小陽に覆いかぶさりながら小陽の腕の腱をズタズタに切り裂いてしまう。それは瑠奈の彩った世界の崩壊と同時に、小陽のアイドル人生の崩壊でもあった。小陽はギターとアイドルの道を諦め、瑠奈は家族から絶縁されてしまう。家族間での事件の為、立件こそなかった。しかし、この事件が原因となり、瑠奈の所属しているバンドは解散に追い込まれた。今となってはメンバーの誰とも連絡がつかない。瑠奈は絶望の淵に立つと、利き手にハサミを握り逆手に向かって何度も振り下ろした。
身を隠し、ようやく見つけた飲食店でのバイト。瑠奈はいつものように、店長だけがいるバックヤードへと歩いていく。
「瑠奈、いつもの頼むよ!」
「はい…」
店長の肉食獣のような眼光が光る。店長の背後で揺らぐ影は微かに上下に揺れ、瑠奈を嘲笑うかの様であった。瑠奈は抗えない支配構造の前に跪く。瑠奈は人と獣の狭間にある僅かな影の熱を感じた。淀んだ吐息を瑠奈の頭部に注ぎながら、その獣は纏わりつくような声で瑠奈を褒める。粘ついた口元から出る全ての物が、瑠奈の心に侵食する。野獣が唸り声を上げた。瑠奈はその声に凍りつく。瑠奈に穢れた印が注がれていく。瑠奈はこの印を受ける度に、色彩を失っていった。それと反比例し、野獣の瞳には輝きが増していく。
「今夜、空いているな?」
「はい…」
店長の言葉に、瑠奈は反射的に返事をしてしまう。
「あんな事件を起こしたお前を雇っているんだ。これくらいの対価はもらって当然だ」
瑠奈は店長の持つ免罪符に逆らうことが出来なかった。待ち合わせの場所に向かう瑠奈、完全に日が落ち、繁華街のネオンが禍々しく光る。
『私…それでも生きないと…』
瑠奈の無気力な瞳には、繁華街のネオンは白黒の波状にしか見えなかった。合流した瑠奈は野獣の巣窟へと歩みを進める。すると、前から一人の男性が歩いてくる。決して容姿端麗というわけではないが、瑠奈はその男性から目が離せなかった。男性とすれ違う。男性の周囲に纏う空気が、瑠奈の呼吸と混ざりながら脳へと送られる。香水のような人工的なものではない。男性の纏う何かが、瑠奈を優しく抱きしめた。
『瑠奈、見つけたよ…』
事件以降、はじめて感じる安らぎ。瑠奈は困惑した。
「あの…瑠奈さんですね?」
突然の声に瑠奈は振り返る。先程の男性だ。
「は、はい… 」
瑠奈は微かな声で返事をするが、店長は男性を睨みつけた。男性は瑠奈に微笑むと、1枚の名刺を取り出す。
「私、一般社団法人 リプロダクションの者です。こんばんは。瑠奈さん」
店長は男の名刺を訝しげに見つめながら、
「何か用か?」
と、吐き捨てる。男性は笑顔のまま、
「はい、瑠奈さんの社会復帰の現状を調査中でして…なかなか連絡がつかず、困っていたのですが…良かった!見つかって!」
男性は純粋な笑顔を瑠奈に惜しげなく向けた。
「だから、なんだよ!」
店長は男性に怒鳴り付ける。男性は視線を店長に向けた。
「名刺の裏、ご覧いただけますか?」
店長が名刺の裏返すと、表情が一変した。
「こ、これは…その…瑠奈!急用を思い出した!俺は帰るからな!アンタ…この名刺は返す!」
店長は名刺を男性に突き返すと、瑠奈を名残り惜しそうに見ると、そそくさと繁華街へと消えていった。瑠奈は男性の正面で立ちすくむ。一瞬の出来事で、何が起きたか理解できない。
「瑠奈さん…だいぶやつれましたね…」
この男性は昔の瑠奈のことを知っているようだ。しかし、瑠奈の記憶の中には、どこを探しても見当たらない。
「あ、あの…あなたは?」
男性は思い出したかの様に口を開く。
「私はあなたが所属していたバンドのファンだった者です。特に瑠奈さん!あなたのファンでした」
瑠奈は体が押しつぶされる様な恥じらいを感じる。過去の自分を知っている者に、今の自分を見て欲しくない。
「あ、あの…ありがとう…私はこれで…」
瑠奈は男性に背を向けた。しかし、男性に腕を掴まれる。瑠奈は腕から伝わる男性の指圧に、家族や友人達を思い出す。それは瑠奈の行いを責める為のものであった。他人が勝手に作り上げた瑠奈という幻想、それと逸脱した行為をした彼女に、周囲の者は冷酷であった。しかし、男性の腕から伝わるその熱は、凍てついた瑠奈の心に響いていく。
「瑠奈さん、少しだけお時間をいただけませんか?」
心地良い。でも、恐い。瑠奈は困惑する。男性はそんな姿を見て優しく微笑む。瑠奈は男性を見つめる。
『私にはもう…せめて、この温もりをもう少しだけ…』
瑠奈は男性の願いを受け入れた。
「わかりました。少しだけなら…」
瑠奈は男性の後ろについて繁華街のネオンの中へ潜っていく。その光は白黒であったが、ほんのりと温かった。
カフェに入った二人、
「瑠奈さん、ようやく会えました。心配していましたよ」
瑠奈は男性の屈託のない笑みが、とてもまぶしかった。
「あれから3年ですか…」
瑠奈は黙って男性の言葉を耳に入れた。耳の中が温かくなるからだ。
「瑠奈さん…この3年間、どこにいたのですか?ずっと探して…」
瑠奈は男性の言葉をもっと引き出す為、凍えた口を開いていく。男性は瑠奈から、悍ましい日常を聞かされる。
「もっと早く探し出せていたら…」
男性のその言葉に、瑠奈は一瞬だけ目元が燃える。
「なぜ、あなたは私にそこまで…」
男性は瑠奈に微笑むと、
「私は会社を経営しているのですが、事業が大きく傾いてしまって…そんな時、瑠奈さんの音楽を聞いたんです。瑠奈さんのその率直に向き合うギターの音色に、私は生きる原動力を見つけたのです!」
瑠奈の頬に熟成された雫が流れる。自分のやってきた音楽の理解者、今の自分の不甲斐なさの両面が瑠奈の感情を大きく揺さぶる。
「瑠奈さんの事件、調べました。最初は衝撃でしたが、同時に瑠奈さんの苦しみも感じました」
瑠奈の視界がぼやけた。男性が纏う光がより一層大きく見える。
「私は…大きな過ちを…」
「瑠奈さん、今度は私が瑠奈さんを救う番です」
男性は瑠奈を真っ直ぐに見つめる。目の前の光は瑠奈に心地の良い熱を与えた。
「あり…がとう…ございま…す…」
瑠奈は必死に言葉を紡ぐ。やっと見えた希望、その希望とは裏腹に、現実は冷酷であった。明日もあの店長の元に帰らねばならない。瑠奈は流れる雫を噛み締めた。
「瑠奈さん!逃げましょう!」
男性の言葉に、瑠奈は唖然としてしまう。
「あの店長のことは大丈夫です!安心して!」
「で、でも、どこに…」
瑠奈の脳裏に、これまでの経験が蘇る。どこまで逃げても素性が暴かれる。今まで散々逃げてきた。瑠奈の表情が沈んでいく。
「瑠奈さんが良ければ…うちに来ますか?」
男性の言葉に瑠奈は耳を疑った。
『やっぱりこの人もあの店長と同じ…』
瑠奈は自分の感情に鍵をかけるように目を細め、唇を噛みしめた。
「あっ、瑠奈さん…その…すみません…そんなつもりでは…」
男性が素直に謝る姿に、瑠奈は目元を緩めた。逸らすことが出来なかった視線、感じた安堵感、この男性が人間の皮を被っていたとしても、今の状況よりは温まる。
「あなたがよろしければ…」
瑠奈の言葉に、今度は男性が唖然とした。
「え?は、はい…えっと…はい!」
男の先程の言葉は、瑠奈の現状を変えたい一心で出たものであった。しかし、今さら引けない。
「私の名前はイオリといいます…」
男性は恥ずかしながら、瑠奈に伝えた。
「イオリさん…素敵な名前ですね…」
「そうですか?あ、ありがとうございます…」
厚い氷はゆっくりと、しかし、確実に溶けていく。
二人はカフェを出ると、イオリのマンションへと向かった。瑠奈は俯いたまま歩いていく。どこまでも変わらない無機質なアスファルトが、瑠奈の思考を奪っていく。
「瑠奈さん!あのマンションです!」
イオリが指さしたマンションは、夜空に突き刺さる程の高層マンションであった。見上げる仕草に首の痛みを覚えた瑠奈を、イオリはゆっくりとエスコートする。沈黙が流れるエレベーターの中、それを破ったのは瑠奈であった。
「すごいマンションですね…」
イオリは瑠奈に笑いかける。
「頑張ったんです」
再び訪れる温かい沈黙、イオリの纏う空気が瑠奈を縛り付ける。瑠奈はエレベーターの上昇に、自分が宙に浮いている感覚を覚える。この道がどこに続いているのか。それは新たな穢れとなるのか、それとも…
(チン)
エレベーターの扉が開いた。イオリはボタンを押したまま、瑠奈が降りるのを待つ。瑠奈は自分の体重を感じながら、高級感漂うフロアを歩いていく。
「ちょっと待ってくださいね…」
イオリはカードキーをかざしてドアを開けた。
「男臭いところですが…」
イオリは瑠奈を自宅に招き入れる。瑠奈は靴を脱ぐと、リビングへと案内された。
「うわっ…」
瑠奈は思わず声を出してしまう。そこには中世の城を思わせる内装が広がっていた。
「今どきのモダンテイストがどうも…」
イオリは苦笑いしながら、瑠奈をソファーに招くとキッチンへと向かった。威厳ある内装が瑠奈を監視する。頭上には豪華なシャンデリア。細部まで作り込まれているが、どこか無機質で温かさを感じない。瑠奈にはそれが自分に向けられた断頭台の刃に見えた。
「瑠奈さん」
イオリが声をかける。瑠奈は視線を戻した。
「さっきのカフェでコーヒーをお飲みでしたよね?なので、ダージリンティーにしましたよ」
イオリは優しく瑠奈の前にティーカップを置いた。
「あ、ありがとうございます…」
瑠奈は深く沈んだ体を起こしながら、湯気が立っているティーカップに手を伸ばす。ダージリンティーの優美な香りが瑠奈に再び安心感を与える。瑠奈はゆっくりとティーカップを傾けた。口に広がる温もり、それは舌を包み、喉に伝わり、全身に伝導していく。瑠奈の穢れを削ぎ落とすようであった。
「お、美味しい…」
瑠奈は思わず呟いた。
「良かったです」
イオリは木漏れ日のような笑顔を瑠奈に向ける。
「瑠奈さん、今夜はゆっくりと休んでください」その言葉が放たれた瞬間、瑠奈は内装から感じる視線が穏やかになるのを感じた。どれもイオリに忠実に従う兵士のようだ。彼は威厳と安らぎに満ちたこの城の王。しかし、王からの視線はすぐに健気な一人の男性のものへと変わる。
「お風呂も入りたいですよね…瑠奈さんに合うパジャマが…えっと…」
イオリはそのまま部屋の奥へと消えてしまう。瑠奈は静寂な居間に取り残された。
『ここは安全なの?』
瑠奈はイオリと同じ色をした内装の兵士達に問いかける。しかし、兵士達は沈黙を守る。瑠奈は黙って兵士達を見つめ続けた。イオリの足音が聞こえてくる。
「瑠奈さん…私のティーシャツでも良いですか?」
イオリは自分の衣類を何枚か瑠奈の横に置いた。
「好きなものを着てくださいね!やっぱり明日、瑠奈さんの家に服を取りに行きましょうね!」
瑠奈はイオリが出してくれた衣類を1枚ずつ広げていく。
「ありがとうございます…私…」
衣類を広げたことで、衣類に染み付いたイオリの残り香が周囲に広がる。その臭いは瑠奈の下腹部へと吸い込まれていく。瑠奈の体は震え出した。
「瑠奈さん、寒いですか?」
イオリは毛布を瑠奈にかける。瑠奈は背中にイオリの体温を感じた。視界の端でイオリの手の甲が鮮やかに写る。瑠奈は振り返る。二人の視線が交じり合った。瑠奈の視線は助けを求める捨て犬の様であった。イオリは瑠奈からの視線を一度は逸らしてしまう。しかし、再び瑠奈に視線を戻した。
「瑠奈さん…私は本当に…」
イオリの言葉を瑠奈の唇が遮った。イオリは目を見開くが、瑠奈の頬に伝う冷たい雫を目の当たりにし、身動きが取れない。ダージリンティーの洗練された渋みと塩気がイオリに突き刺さる。瑠奈はゆっくりと唇を離していく。その瞳にはかつての無機質さは消えていた。1本の蝋燭に光が灯る。
「瑠奈さんにもう一度会えて良かった…」
イオリは瑠奈の耳元で囁くと、後ろから優しく包み込む。久しく感じたことのない、信頼できる人肌の温もり。瑠奈は頬から流れる雫に、自身と同じ体温を感じた。
『もう一人ではいられない…』
瑠奈はイオリの手に触れる。
「隣に来てくれますか?」
イオリはゆっくりと瑠奈の隣に腰掛ける。二人の視線が自然と交差した。瑠奈の表情は彩りに満ちていた。それはイオリの知っている瑠奈となんら遜色がなかった。
「イオリさん…」
瑠奈の手は宙に浮いたまま停止している。イオリは瑠奈を優しく見つめる。
「瑠奈さん…手が震えています」
イオリは瑠奈の手を包み込む。その時はじめて、瑠奈の左手と手首の異変に気づく。彼女は罪を体に刻んでいた。
『温かい…』
瑠奈はイオリの体温に吸い寄せられる。イオリは黙って瑠奈を受け止めた。二人の体温が伝導し合っていく。瑠奈はイオリの纏う香りを胸いっぱいに吸い込む。イオリは瑠奈の命の旋律に耳を研ぎ澄ましていく。生きている。それだけでいい…。
「瑠奈さん、ここは安全ですからね」
瑠奈はイオリの胸の中で黙って頷く。瑠奈の吐息がイオリを縛り付ける。命の二重奏。二人は互いの旋律を心地良く聴き入っていた。瑠奈がイオリを見つめる。
「わ、私…」
瑠奈の頬に伝う雫が輝く。
「瑠奈さん、今日はゆっくり休んで…」
イオリは指で雫を掬う。瑠奈は口を震わせながら、着ている上着のボタンに手をかけた。イオリは瑠奈の行動を止めたいが、言葉が追いつかない。
「見て欲しいの…」
瑠奈は胸襟を開いた。そこには刻まれた過ちの痕跡。イオリは瑠奈を荒々しく抱きしめる。
「私は穢れてる…」
瑠奈のか細い声はイオリの心を更に抉った。
『そうか…心なんだ…』
心は持つ者だけの密室。しかし、自分から扉を開くことはできる。同じ行動をとっていても心が違えば、それは別のものになるはず。イオリは自ら扉を開いた。
「瑠奈さん…この傷痕も過去の行いも、僕にとっては関係ない…これまでの瑠奈さん、これからの瑠奈さん、目の前にいる瑠奈さんが好きだ」
瑠奈は声を必死に堪えたが、溶け出した雫は瑠奈の顔を醜く汚した。しかし、イオリは瑠奈の顎を上げる。心地良い香りが瑠奈を狂わせていく。唇から伝わるイオリの気持ち。イオリは瑠奈を見つめながら、ゆっくりと体を曲げていく。瑠奈の腹部に広がる過ちの痕跡はイオリの唇によって滲んでいく。蝋燭の光が炎に変わる。瑠奈の凍てついた扉は音をたてて動き出した。瑠奈はイオリの熱を体内で感じる。その熱は瑠奈の中に住まう獣性をも解き放った。醜く荒れ狂う瑠奈、イオリはそんな瑠奈の全てを受け入れる。汗の一滴、髪の毛一本ですら、愛おしい。蝋燭の炎が分けられた。二つの蝋燭の炎は揺らめきながらも燃え上がる。瑠奈の視界は白く覆われた。初めて見る色、初めて広がる心地良さ。瑠奈の意識は彼方へと舞い上がった。
「…さん!瑠奈さん!」
瑠奈はイオリの心配そうな顔を見つけ、目を覚ました。
「良かった…」
イオリは瑠奈を抱きしめる。
「あの…私…」
瑠奈はイオリの力に押しつぶられながら声を出す。
「急に目を閉じて静かになったんです…びっくりしました…」
瑠奈はイオリの肩に顎を乗せて、頭上のシャンデリアを見つめる。あれはもう落ちてこない。
「すみません…イオリさん…」
イオリは顔を引き、瑠奈の顔を見つめる。健気で愛おしい。
「もういいんです」
イオリは瑠奈の額に唇をつける。瑠奈は徐々に意識が戻ってきた。
「お願いです。瑠奈さんはベッドで…」
瑠奈ははじめて知る悲しみを感じた。イオリはその表情に負け、瑠奈を再び抱きしめる。瑠奈は温かいベッドで心地の良い香りに包まれた。安心できる。瑠奈はイオリの胸の中で、あの白い世界のことを考えていた。
瑠奈は頬に心地の良い感触を感じ、目を覚ます。イオリがいた。イオリは瑠奈が流した過去の痛みの跡を、ゆっくりとかき消してくれている。
「瑠奈さん、起こしちゃいました?」
瑠奈は頭を振る。
「おはようございます…」
瑠奈はイオリの唇から熱を回収する。これからの日課になりそうだ。
「瑠奈さん、お腹空いたでしょ?」
瑠奈は恥ずかしそうに頷く。
「朝ご飯にしましょう」
イオリは立ち上がる。
瑠奈も立ち上がろうとするが、節々に痛みが走った。
「瑠奈さんはゆっくりしてて…」
イオリの優しい声が瑠奈の心に溶けていく。こんなにも人生は明るく、温かい。瑠奈はゆっくりと立ち上がり、衣服を整える。窓から見える景色は、青い空に僅かに漂う白い雲、そのどちらも鮮明でとても美しかった。瑠奈はその景色に心を奪われる。
『ここは前いた場所よりも、空に近い…』
瑠奈はリビングへ歩いていく。イオリの横顔に懐かしさを覚える。
「ちょうど出来ましたよ」
イオリは卵とソーセージが乗ったお皿を、机の対辺に並べる。
「瑠奈さん」
イオリは椅子を引いて、瑠奈が座るのを静かに待つ。
「ありがとうございます…」
瑠奈はここまでの扱われ方に慣れておらず、頬を少し赤らめた。イオリも瑠奈の向かいに座る。
「いただきます!」
「いただきます…」
二人の感謝の祈りが響いた。瑠奈はイオリの作った朝食を口へ運ぶ。どれも瑠奈の空腹を満たす、とても繊細で優しい味付けであった。
瑠奈にとってイオリとの生活は、その全てが彩りのあるものであった。隣でコーヒーを飲むイオリ、自分の手元から渋くもほのかに優しいダージリンティーの香りが立ち上る。蠟燭の炎は静かに燃えた。
「瑠奈…」
イオリは思い出したかのように、瑠奈の額に熱を注ぐ。瑠奈は頬を赤らめながらも、イオリを深く見つめた。瑠奈はイオリに体を預ける。イオリの鼓動を感じる。生きていく。私の新しい理由。
(ピロン)
イオリの携帯電話に通知音がなった。しかし、イオリは両手が塞がっている。瑠奈はイオリの代わりに携帯電話を取り寄せた。
「見てもいいの?」
「うん」
瑠奈は携帯電話の画面を見つめた。真っ暗な画面に白いアナログ時計の文字盤が光る。イオリらしい。その上にトーンの違う文字がくっきりと浮かんでいた。
『元アイドル…夢を砕かれ自殺?』
瑠奈はその文字に心臓を握りつぶされた。瑠奈の異変にイオリも姿勢を正す。瑠奈はリビングのテレビをつける。そこには過ちと懐かしさが押し込まれていた。イオリはテレビから無機質に流れる音に耳を傾ける。しかし、その音は傍らから感じる異変により、すぐに聞こえなくなった。
「瑠奈…?」
イオリは声を詰まらせる。瑠奈から熱が抜けていく。
『ダメだ!』
イオリは瑠奈を抱きしめる。瑠奈の声無き声を聞く。恐ろしく冷たい。イオリは冷気を振り解きながらテレビを消した。
二人は瑠奈の実家へと歩いていく。足が凍りつく。瑠奈は数歩歩くが、すぐに止まる。引き返そうと促すが、瑠奈は頑なに頭を横に振る。自分の行った罪の代償。それは余りに残酷で、余りに間が悪かった。生きながらの罰。イオリは瑠奈の横に立つことしか出来なかった。瑠奈の実家に着く。瑠奈は実家を目にすると、魂が抜けたように立ち竦む。
「瑠奈?」
イオリは瑠奈の顔を覗く。手が凍りついた。瑠奈の瞳から熱が完全に消えていた。
『行くべきじゃない!』
イオリは瑠奈の手を掴むと、実家を背にする。しかし、瑠奈の体はビクともしない。凍えた柱の様である。
「わかった…一つだけ約束してくれ!僕から絶対に離れないでくれ!いいね?」
瑠奈は黙って頷く。イオリは瑠奈の手を強く握る。瑠奈の手は儚く冷たい。イオリは一歩ずつ歩いていく。前に進む度に隣にいる瑠奈が薄まっていく。イオリはインターフォンを押した。機械的な高音が耳に刺さる。
「はい…」
「す、すみません…早瀬川瑠奈ですが…」
インターフォンが切れた。すると、玄関が勢いよく開く。イオリはその瞬間、瑠奈を抱き寄せたかった。しかし、瑠奈の冷気をあまりに長く感じ過ぎていた。イオリは動けなかった。
「今さら何しに来た?二度と来るな!」
それが瑠奈の両親なのか、それすらもわからない。イオリは謝罪の言葉を口にしながら、瑠奈を懸命に動かそうとする。しかし、凍りついた瑠奈は動かない。そのうち、何かが体に当たる。石ころだ。イオリは信じがたい現実を背にして瑠奈の前に立つ。すると、瑠奈の顔に石ころが当たった。瑠奈のこめかみに赤筋が浮き上がる。その瞬間、イオリは体内に重い熱を感じた。血液が燃える。イオリは歯をむき出しにして振り返った。
「ひぃぃ…」
怯えた声が響くと、玄関の扉が勢いよく閉まる。
「イオリ…?」
イオリは瑠奈の声で振り返る。そこには心配そうに見上げる瑠奈がいた。イオリの熱が抜けていく。
「瑠奈…ごめん…」
イオリは瑠奈から熱を感じた。先程の重い熱が瑠奈を溶かしたのだろうか。
「帰りましょう…」
瑠奈は実家を背にして一人で歩いていく。
「瑠奈…?」
心配そうに瑠奈に近づくイオリ、瑠奈はイオリの手を取る。
「ありがとう…もういいの…」
瑠奈はイオリに笑顔を見せる。イオリはその笑顔が怖かった。美しくはある。けれど、どこか淡く霞んで見えた。
イオリはどの様にして家にたどり着いたのか、記憶がない。イオリの少し前を歩く瑠奈の背中を追うので必死だったからだ。瑠奈はイオリの自宅に着くなり、糸が切れたかの様に膝が崩れる。
「うん…戻ったよ…」
イオリの言葉に、瑠奈は堰が切れたかの様に顔を歪める。瑠奈の悲痛な声がイオリの全身に突き刺さった。イオリは瑠奈の肩に触れる。冷たい。瑠奈の顔を手に取る。少し強引だ。けれども、この方法がいい…。イオリは冷え切った瑠奈の唇に熱を送った。冷たい感触を左右に感じるが、味はしない。イオリは瑠奈を抱きかかえると、寝室へ運ぶ。少し時間が必要だ。
「瑠奈…そばにいるからね…」
イオリは瑠奈を寝かせると、ベッドの傍らで瑠奈の手を握る。瑠奈は崩れた顔でイオリを見つめる。瑠奈の瞳が徐々にイオリを捉えた。
「ゆっくり休んで…」
イオリの心からのメッセージが、優しく瑠奈を包み込む。瑠奈の手から微かに熱を感じた。大丈夫…また温めればいい…。
「イ…オリ…」
瑠奈は弱々しく叫ぶ。イオリはその声をしっかりと掴む。
「寒いの…」
イオリは瑠奈の存在を全身で感じる。イオリの熱に動力を得た瑠奈は、イオリに覆いかぶさった。イオリは瑠奈を見上げる。醜く歪んでいるが、それは紛れもなく瑠奈であった。
「あなたに壊されたい…」
瑠奈の言葉に心が締め付けられる。瑠奈はイオリの熱に醜く悶えた。イオリは瑠奈が少しずつ熱を帯びてくることを感じる。
『壊し続けることでしか、救えない…』
イオリの視界が霞で覆われる。しかし、イオリは奥歯を噛み締める。瑠奈を支え続けなければならない。イオリは瑠奈と呼吸を一つにする。瑠奈は大きく悶えると瞳を閉じた。瑠奈が降ってくる。イオリは優しく瑠奈を受け止めた。瑠奈の吐息がとても温かい。
イオリはベッドの中で瑠奈の唇に優しく熱を送り込む。しっとりとした柔らかい髪、透き通った肌、おっと、この部分がまだ冷たい。イオリは瑠奈の体を労わりながら、熱の通っていない箇所を見つけては、熱を送り込む。
『自分が出来ることを出来るだけ…』
瑠奈はイオリの温もりに触れ、熱く輝いていく。
「イオリ…」
イオリは瑠奈の熱を口元に感じる。イオリは瑠奈を胸いっぱいに抱き締めた。
イオリは真夜中に目を覚ました。喉が渇く。イオリは瑠奈を優しく剥がすと、ベッドを離れた。キッチンでコップに水を注ぎ、一気に飲み干す。ふと、カーテンから漏れる月光に気付くと、カーテンをゆっくりとめくった。
「おお…今夜は満月か…」
部屋から見える月は黙ってイオリを見下ろしている。
『こんばんは…紹介したい人がいるんだけど…寝てるんだ…ほら、前に話した…』
イオリは寡黙な友との会話を静かに楽しんだ。そんな静寂な夜を、悲痛な叫び声が切り裂く。イオリは寡黙な友に一瞥すると、すぐに寝室へと走った。
「イオリ!どこ!?」
瑠奈が髪を搔きむしりながらイオリを探している。イオリはすぐに瑠奈を抱きしめる。
「瑠奈…ごめん。喉が乾いて…」
瑠奈はイオリに抱き付くと、イオリの香りをしっかりと確かめる。
「うん…びっくりした…」
「ごめん…」
イオリは瑠奈の上体をゆっくりと倒した。瑠奈の体温を感じる。大丈夫。少し驚いただけ…。
「イオリ…」
瑠奈はパジャマのボタンを外していく。イオリは少しだけ、呼吸をするのを忘れてしまう。
「瑠奈?風邪ひくよ…」
「うん…温めて欲しいの…」
イオリの顔には既に不安も躊躇いもなかった。
『ごめん…紹介はできないかも…』
イオリは瑠奈の上に覆いかぶさった。
朝になり、イオリはゆっくりと上体を起こす。その動きは、隣に横たわる瑠奈を気遣ってのものであった。いや、瑠奈への愛おしさに体が見惚れていたのかもしれない。イオリは瑠奈の穏やかな吐息を確認し、ベッドから離れようとする。その刹那、イオリの耳に棘が突き刺さる。思い出される、昨晩の悲鳴。瑠奈が目覚めた時、そこに自分がいなくては…。イオリは不安な気持ちを隠しながら、瑠奈を見つめる。唇が自然に離れていて、休息に集中している。瑠奈の頬に唇を当てる。温かい。大丈夫だ。イオリはゆっくりとベッドから降りると、振り返りながらもキッチンへと歩いていく。一筋の光が射し込むリビング。綺麗だが、孤独を感じてしまう。イオリは急いでカーテンを開いた。太陽が惜しみなく輝いている。いい天気だ。
『今日は瑠奈と公園でも行こうかな?』
イオリの口角は自然に上がってしまう。
(ガタッ)
寝室から物音が聞こえる。イオリは躊躇いなく寝室へと向かった。良かった。まだ眠っている。イオリは安堵をかき消しながら、瑠奈の寝顔を確認する。すると、瑠奈の目がゆっくりと開いていく。
「イオ…リ…」
瑠奈はイオリを見つけると、目を擦りながら上体を起こす。
「瑠奈…もっと寝ててもいいんだよ?」
イオリは瑠奈の跳ねた髪を整える。
「目が覚めたの…おはよ!」
瑠奈はイオリの方へ顔を上げる。イオリはその動作の答えを知っている。
「うん…おはよ…」
唇が触れていく。
目の前で美味しそうに朝食を食べる瑠奈を、イオリは穏やかに見つめていた。パンを千切る所作、口に運ぶ動作、どれを見ても美しく輝く。瑠奈はイオリが用意したグラスに手を伸ばす。イオリも安心して、自分の朝食に視線を移す。
「ゴホッ…」
イオリは視線を上げると、瑠奈が口に手を置いていた。
「瑠奈?」
イオリは不安な表情を見せる。
「ご、ごめんなさい…牛乳だと思ったら、オレンジジュースで…これはイオリのだったのね?」
瑠奈はイオリに微笑みかける。イオリは手が震えた。自分は確かに牛乳を入れた。朝は牛乳と瑠奈からのリクエストである。イオリは急いで自分のグラスを口に当てる。
「ごめん、こっちが瑠奈のだったね!」
イオリはさり気なく牛乳の入ったコップを渡す。勘違い。それだけだ…。瑠奈は黙ってイオリを見つめる。イオリはその視線を誤魔化しながらプチトマトの鮮明な赤色を見ると、息を吐きながら朝食を食べた。
イオリと瑠奈は紅く染まる並木道をゆっくりと歩いていた。
「イオリ…見て…」
イオリは瑠奈の手を引きながらも、優しい歩幅で瑠奈を労る。見えている。大丈夫だ…。
「綺麗…」
瑠奈は落ちてくる赤い木の葉に見惚れているようだ。
「うん…そうだね…」
イオリも瑠奈と同じ様に視線を上げる。時折靡く木々が葉を落としていた。瑠奈の手から伝わる体温はしっかりと感じることができる。そう。瑠奈は今、ここにいる…。
『大丈夫。何も心配はいらない…』
イオリと瑠奈は近くの公園に到着した。一面に広がる芝生。二人は寄り添って歩いた。
「イオリ…お腹空いた…」
瑠奈の言葉に、イオリは手際良くシートを引く。
「うん…お昼にしよう!」
イオリはランチバッグからサンドイッチを取り出す。瑠奈の顔は笑顔になった。とても美しく、彩りがある。
「いただきます!」
瑠奈は美味しそうにサンドイッチを口に運ぶ。
『公園に誘って正解だったな…』
イオリは瑠奈の朗らかな顔を見て、しみじみと感じた。
帰り道、瑠奈は道沿いの花屋に立ち止まる。
「寄っていく?」
「うん!」
イオリと瑠奈は花屋へ入る。店いっぱいに広がる彩りある香り。瑠奈もイオリも力いっぱいに吸い込んだ。生命の息吹を感じ、瑠奈は鮮やかに輝いていく。すると、瑠奈は一つの花の前でしゃがみ込んだ。その花はオレンジ色のジニアであった。イオリはその鮮やかな色を見ると、瑠奈の隣にしゃがみ込む。
「綺麗だね…」
「うん…すごく綺麗…」
瑠奈がオレンジ色のジニアを見つめる瞳には、いったい何が写っていたのだろう。イオリはそれ以上は何も聞けなかった。でも、瑠奈のこの顔をもっと見ていたい。
「買おう!」
「えっ、いいの?」
イオリは微笑みながら頷いた。二人は花屋を出た。瑠奈はジニアの鉢を両手で抱え、歩いていく。イオリは鉢を自分が持つと提案するが、瑠奈は自分が持つと言ってきかない。イオリは瑠奈の体温を感じられないのは少し寂しく感じたが、瑠奈の笑顔を見ているとどこか温かくなった。
イオリと瑠奈は家に着くと、ジニアをリビングに置いた。瑠奈はよっぽど嬉しいのだろう、ずっとジニアを見つめている。イオリはそんな瑠奈を優しく見守りながら、ダージリンティーを淹れていた。ダージリンティーの明るく奥ゆかしい香りとオレンジ色が、イオリに安心感を与える。その香りに誘われたのか、イオリが恋しくなったのか、瑠奈もキッチンに入ってくる。
「何か手伝う?」
「うん…確かクッキーがあったな…」
イオリは取引先からの贈り物の存在に気がつくと、戸棚から未開封の袋詰めクッキーを取り出す。
「私が開ける…」
瑠奈はイオリからクッキーを受け取る。
「ありがとう。お願いね」
二人は笑顔を交換しながら、それぞれダイニングへと向き合う。イオリは自分が飲むコーヒーの準備をしていた。瑠奈はクッキーの袋を開けようとしたが、切り込みが入っていない為、思うように開かない。瑠奈は徐ろに引き出しを開ける。瑠奈の瞳にキッチンバサミが写り込む。瑠奈はキッチンバサミに手を伸ばす。イオリは瑠奈の行動が予想と違うことに気が付き、瑠奈の方に視線を向ける。瑠奈がキッチンバサミに手を伸ばした瞬間だった。
「瑠奈?」
瑠奈はキッチンバサミに触れた瞬間、鼓動が大きく音を鳴らす。目の前に広がる鮮明な赤色と悲痛な叫び声。そして、ハサミを通じて感じる肉を突き刺す感触。
「ぎゃあぁぁ…」
瑠奈はその場で悲鳴を上げると、周囲の皿やグラスを手当たり次第に床に投げ捨てる。イオリは瑠奈の豹変ぶりに立ち竦んでしまう。すると、イオリの脳内の分厚い本が必死にページをめくった。ページを見つけると、イオリはそのページを何度も殴る。迂闊だった。瑠奈をキッチンに入れるべきではなかった…。後悔してももう遅い。瑠奈は過去の記憶がフラッシュバックしたのだ。キッチンバサミを取る瑠奈を見て、イオリは急いで瑠奈の利き手を掴む。
「瑠奈!瑠奈!」
イオリは瑠奈の握っているキッチンバサミを強引に取り上げようとする。瑠奈はダイニングに置いている逆手でイオリを振りほどこうとするが、イオリには通用しない。イオリは瑠奈の両手を掴む。
「瑠奈っ!」
イオリの嘆願に近い叫び声は、遠くにいる瑠奈にようやく届いた。瑠奈と視線が合うイオリは、どの様な表情を見せれば良いのかわからなかった。しかし、イオリは必死に目元を緩め、口角を上げる。
「それ…渡してくれる?」
瑠奈は震える手でイオリにキッチンバサミを渡す。
「うん…ありがとう…」
瑠奈は涙を流しながらイオリを見つめる。
「イオリ…イオリ…」
瑠奈の縋り付く声はイオリの心を何度も抉り取る。イオリは脚に力が入らなくなる。
『ダメだ。支え続けろ。手を伸ばせ!』
イオリは瑠奈を優しく抱きしめる。
「うん…びっくりしちゃったね…」
瑠奈は自分の涙を拭う力も残っていなかった。イオリは必死に瑠奈の涙を指で拭い、消えてしまいそうな瑠奈を一生懸命に掴んでいた。イオリは瑠奈に掛ける言葉を探していた。この言葉がとても重要であることがわかったからだ。
『僕が…支えないと…』
イオリは唇を震わす。
「瑠奈、テーブルに座ろうね。ガラスとか危ないから気を付けて…」
イオリは何とか誤魔化した。イオリは床に散らばる破片に気を付けながら、瑠奈をダイニングのテーブルへと連れていく。
「足の裏、痛くない?」
瑠奈は小さく頷く。イオリはタオルで瑠奈の足の裏を丁寧に拭った。念の為である。
「瑠奈、僕はキッチンを片付けてくるから、ここで待ってて…」
瑠奈は立ち上がるイオリに抱き付く。いつもより力が強い。
「瑠奈…」
イオリは瑠奈の頭を丁寧に撫でる。手から伝わる瑠奈の感触と、瑠奈の抱擁がイオリの心の何かに反応し、先程言えなかった言葉を絞り出した。
「良い病院を知っているんだ…今度、行こうか?」
瑠奈は顔だけを見上げる。
「病院…?」
瑠奈はイオリの言葉に、悲しみに無気力感を重ねた様な表情をする。イオリはまたしても後悔する。
「私は…病気なの?ねぇ…イオリ?」
イオリの全身に生唾を飲み込む音が響き渡る。イオリは瑠奈をしっかりと見つめる。しかし、イオリは言わねばいけない事を言えなかった。
「私は…病院が嫌い…私のこと…わかったフリをするから…」
瑠奈の瞳が急激に冷たくなる。
「私のこと…勝手に…私の事なんて…誰も興味ないの…」
イオリは瑠奈の言葉を聞いてゾッとする。
「で、でも…瑠奈?」
イオリは心配そうな顔で瑠奈を見つめる。
「イオリ…ごめんなさい…」
瑠奈はイオリの本気で心配する表情を見ると、焦燥感が晴れていく。そうだった。私にはこの人がいる。
「イオリと一緒にいたいの…」
イオリは瑠奈の言葉を聞いて、再び指先が凍り付いた。病院という頼りの綱がひょっとしたら、二人の糸を切り裂く鋏になるかもしれない。イオリを襲う、過去の後悔。自分がいれば助けられた。しかし、イオリもわかっている。何度もお世話になった病院。一緒に泣いてくれた病院。そんな、イオリの脳内の迷宮は瑠奈の不信感ではなく、漏れ出したたった一言で崩壊してしまう。
『いけない…これでは…でも…』
抗うイオリの体は無情にも崩れてしまう。しかし、イオリは上手く誤魔化す。二人の視線は自然と水平に交わる。
「イオリ…ごめんね…私…」
イオリは瑠奈の瞳の奥に白い光を見つけた。それはよく見れば、自分の姿であった。とても悲しそうな表情をしている。イオリは再び口角を上げる。
「瑠奈、いつも一緒だよ…」
イオリの言葉と表情に、瑠奈は段々と口角が上がり、目元が緩んでいく。しかし、瑠奈は目を疑った。イオリの顔が一瞬だけ白黒になったからだ。まるで、仮面舞踏会の登場人物である。
「瑠奈?」
イオリの言葉に瑠奈は我に返った。いつものイオリである。
「なんでもない…」
瑠奈はイオリの顔を確かめながら、唇を近づけた。夕日がオレンジ色のジニアを激しく燃やしていく。二人の心を照らす蝋燭の様に…。
イオリと瑠奈は二人でベッドに横たわる。イオリは瑠奈をしっかりと抱き締めながら、瑠奈の香りを記憶する。瑠奈は目を閉じ、イオリを視覚以外で感じていた。イオリの優しい吐息、心地良い体温、離れられない香り。瑠奈は改めて自分の人生を振り返っていた。嫉妬に狂い、妹を利己的に傷付け、その代償を払い続けた。そして、出会ったイオリ…。彼は自分に温もりと安らぎを与えてくれた。それと引き換えに、私は…。
「イオリ…私ね…イオリといて幸せ…」
イオリは瑠奈に視線を向ける。
「うん…僕もだよ…」
瑠奈の言葉が何かの詩のように聞こえる。
「ありがとう…でも…あなたが壊れる姿を…私は…」
瑠奈は必死に言葉を出そうとするが、最後まで言えない。
「瑠奈…?」
イオリの体内で鉛が暴れる。瑠奈はイオリの異常に気が付いていたのだ。
「私…イオリから離れられない…でも、イオリをこれ以上…傷付けたくない…」
瑠奈はイオリの顔を見れなかった。イオリの体から力が抜けていく。体内の鉛がイオリをベッドに沈めていく。
「ねぇ…イオリ?」
瑠奈は視線を上げる。目元は濡れているが、顔には清々しい程の彩りがあった。
「あなたの手で私を…」
「瑠奈っ!」
イオリは全身に力を込めて言葉を吐いた。息が荒れる。
「瑠奈!瑠奈!」
イオリは息が苦しくなり、上体を上げる。しかし、言葉が続かない。
「この世界では…苦しいの…」
瑠奈は横になりながら、イオリの頬に伝う雫を指で拭う。
「イオリ…あなたは…」
瑠奈は懸命に言葉を続けようとする。たった一言だ。イオリの為のたった一言。しかし、瑠奈の心臓がその言葉を吸い込んでしまう。その想いが瑠奈の瞳から溢れ出す。止まらない。イオリは瑠奈から溢れ出る雫を口にする。これを体内に入れると後戻りできないと直感するが、止められない。イオリは瑠奈と唇を重ねた。いつもの苦みや塩気の味はしなかった。ただ、瑠奈の体温がそっと口の中に広がった。
イオリは何度も廊下の壁に体をぶつけながら、キッチンへと向かっていく。何度も立ち止まり、床を濡らし、前へと進む。キッチンから包丁を取り出す。キッチンバサミではダメだ。瑠奈の笑顔を何度も作った料理。それを支えてくれたこの包丁でないとダメである。イオリは寝室へと戻っていく。瑠奈はイオリを笑顔で迎える。そんな顔が出来るものなのか。それ程までに…。イオリは手にする包丁をベッドに置くと、瑠奈を粗々しく抱きしめた。イオリは瑠奈の全てを抱きしめる。肌、唇、汗、吐息…。瑠奈の全てを全身で感じる。瑠奈も自身をイオリに捧げるようであった。イオリへの揺るぎようのない信頼、伝えきれない感謝。イオリに伝えたいことは山ほどある。しかし、瑠奈は名前を呼ぶことしか出来なかった。そして、徐々に瑠奈の視界が白い霞に覆われていく。イオリの呼吸が荒くなるのを感じた。瑠奈はイオリを抱きしめる力が強くなる。瑠奈の全身に稲妻が走った。今までにない新しい熱を感じる。とても心地よい熱である。瑠奈の視界が戻って来た。愛おしい顔が見える。この顔に初めて会った時から、私はこの顔が好きだった。この香り、この温もり、この優しさがあったからこそ、私はここまで来れた。ありがとう。愛しき人…。
「イオリ…お願い…」
イオリは奥歯を噛み締める。そして、包丁を握った。
「イオリ…」
「瑠奈…いつも一緒だよ…」
「うん…」
イオリは包丁を振り下ろした。
瑠奈の息がゆっくりと穏やかに消えた。まだ生温かい。
「大丈夫だよ。すぐにまた会えるからね…」
雲が割れ、太陽が顔を出す。日射しがイオリの背中を突き刺した。イオリは背中に熱を感じて振り返る。何かが違う。視線を落とし、自分の手を見つめた。
「そうか…色が消えたんだ…」
瑠奈に視線を移す。
「ああ…瑠奈は変わらない…」
イオリは安堵すると、手に持つ包丁の先端を自身の首筋に突き刺した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
励みになりますので、ブクマ、イイね、あと、コメントもお願いいたします…




