誰がこの手を引くのか
テレビの向こうで、大谷翔平がフルスイングする。乾いた打球音が響き、ボールはあっという間にスタンドに消えた。観客が歓声を上げ、実況が興奮した声で「入ったー!」と叫ぶ。
ソファに深く腰掛けた義男は、ビールの缶を片手に「おお!」と声を上げた。画面にくぎ付けになりながら、もう片方の手でポテトチップスをつまむ。カリカリとした音が、部屋の静けさにやけに響いた。
「すげえな、大谷翔平は。やっぱり日本の誇りだな」
彼は、まるで自分がバッターボックスに立っているかのような顔をしていた。リプレイ映像が流れるたびに、「ここのタイミングがいいんだよな」とか、「メジャーでも通用するのはやっぱりスイングの鋭さだよな」と、一人で解説を始める。
美佐子は、テーブルの上に広げた書類を確認しながら、その声を聞き流していた。メモ用紙には、「介護施設入所の必要書類」「健康診断書提出期限」「生活必需品リスト」などが書き込まれている。ため息をつきながら、赤ペンでチェックを入れる。
「行ってくるわね」
エプロンを外し、カバンを手に取ると、義男がちらりと視線を向けた。だが、画面から目を離したのはほんの一瞬で、すぐにまた画面に視線を戻す。
「また浩一のことか?」
「そうよ」
「お前もよくやるよな。他人の面倒なんか、放っておけばいいのに……って言うと、お前また怒るんだろ?でもさ、俺が何かやったところで、どうにかなるわけでもねえしな」
義男は、テレビ画面に向かって缶ビールを傾けながら、軽い口調で言った。その言葉に、美佐子の手が止まる。
放っておけばいい。
確かに、それができればどれほど楽だろう。だが、浩一は今、自分で食事の用意もままならず、役所の手続きすら進められない状態だ。誰かが動かなければ、彼はゴミに埋もれたまま、布団の上で衰弱していくだけだろう。
「そうね」
声が、自分のものじゃないように聞こえた。
美佐子は、玄関のドアを開けた。外の空気はまだ冬の冷たさを残していて、吐く息が白くなる。ドアを閉めた瞬間、家の中から聞こえる実況の声が遠のき、街のざわめきが耳を包んだ。
美佐子は歩き出しながら、ふと考えた。
——結局、私は何をしているのだろう。
冷たい風が頬を刺す。義男は部屋の中でぬくぬくと好きなことをして、私はこうして外に出ている。それが「正しいこと」だと信じてきた。でも、なぜこんなにも虚しさが募るのか。
私が浩一を助けなかったら、彼はどうなってしまうのだろう。いや、本当に助けているのだろうか?ただ、私が一人で何かをしているだけなのでは——。
何のために?誰のために?
風が吹き抜け、肩をすくめた。義男はあたたかい部屋の中でビールを飲んでいる。それを責めたいわけじゃない。でも……。
……私がやらなきゃ、誰がやるの?
そう思うたび、心がどんどん重くなる。
本当に私は、誰かのために動いているの?
それとも、ただ『やるべきこと』に囚われているだけ?
そう考えた途端、胸の奥に重い塊ができたような気がした。
「誰の人生なんだろうね、本当に」
信号待ちの交差点で、美佐子はふと呟いた。青信号に変わり、人々が歩き出す。その中に紛れながらも、彼女の心は晴れることなく、重く沈んだままだった。
ドアを押し開けた瞬間、鼻をつく異臭がした。
酸っぱい腐敗臭と、湿った布団のにおい、カビの生えた食べ物の残骸が混じり合い、胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われる。美佐子は思わず口元を覆った。
部屋の隅には、無造作に積み上げられたゴミ袋が山を作っている。食べかけの弁当容器、ペットボトル、ホコリをかぶった新聞紙——どれも長い間そのまま放置されていたのだろう。カーテンは黄ばんでカビが点々と広がり、窓ガラスは汚れに覆われ、ほとんど外の景色が見えない。
美佐子はゆっくりと足を踏み入れる。床がベタつく感触が伝わり、思わず眉をひそめた。
「美佐子さん……すまんね……」
かすれた声が、部屋の静けさに滲んだ。
布団の上から申し訳なさそうに顔を上げた浩一は、昔の面影を失っていた。
「……本当は、こんな姿、誰にも見せたくなかったんだ……」
そう言って、痩せこけた手を見つめる。
かつてゴルフクラブを握っていた手とは思えないほど、力なく震えていた。
「俺……昔は、そこそこカッコよかったんだぜ……? いや、義男には負けたくなかっただけかもしれねえけど……」
かすかに笑おうとしたが、声は震えていた。
「それが……今じゃ、こんな有様だ。ゴミに埋もれた部屋で寝転がって……風呂にも入れずに……みっともないよなぁ……」
浩一はゆっくりと天井を見上げた。
「情けねえよ、本当に……こんな風になるなんて、思ってもいなかった」
「……」
美佐子は、かける言葉が見つからなかった。
「でもな……俺、どこで間違えたんだろうな……」
そう言って、浩一はかすれた笑い声を漏らした。
「仕事辞めてからか?それとも、もっと前か? ……どこかで、俺の人生はこんな風に終わるって、決まってたのかねぇ……」
自嘲するようなその声が、部屋の淀んだ空気と混ざり合う。
「美佐子さん……すまんね……こんな俺の世話なんてさせて……」
その言葉には、「ありがとう」と「ごめんなさい」と「どうしようもない悔しさ」が入り混じっていた。
美佐子は、喉の奥が詰まるのを感じながらも、そっと浩一の枕元に膝をついた。
「いいのよ」
努めて明るい声を出しながら、美佐子はゴミ袋を一つ手に取った。
彼が「すまない」と言うたびに、本当に情けないと思っているのが伝わってくる。
その気持ちごと、受け止めるしかなかった。
髪は伸び放題で白髪が目立ち、顔には深い皺。頬はこけ、肌は不健康な黄色味を帯びている。まるで病気がそのまま人の形をして横たわっているようだった。
美佐子は、喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
この人が、本当に——あの浩一なのか?
かつて、義男と肩を並べて働いていた頃の彼は、まるで別人だった。
スーツを着こなし、いつも背筋を伸ばして歩いていた。
周りを明るくするような笑顔、軽快な冗談、どんな相手とも気さくに話せる社交性——。
営業成績もトップクラスで、部下や後輩からの信頼も厚かった。
「おい、義男!そんな沈んだ顔してると、モテねえぞ!」
「何言ってんだよ、お前だってまだ独身じゃねえか!」
「俺は選んでるんだよ。ほら、カッコいい男は焦らなくても、自然といい女が寄ってくるもんさ」
そんな軽口を叩きながら、義男と飲み屋のカウンターでグラスを傾けていた姿が、今も鮮明に浮かぶ。
明るくて、活気があって、どこか憎めない男だった。
——昔は、誰から見ても「頼れる男」だったのに。
目の前に横たわる浩一は、痩せこけ、覇気もなく、かつての彼の面影すら感じられなかった。
誰よりも自信に満ちていた男が、今は誰かの手を借りなければ生きていけない。
美佐子は、思わず視線を逸らした。
あの頃の浩一さんが見たら……今の自分を、どう思うんだろう。
心の中で、誰に向けるでもなく、問いかけた。
「いいのよ。今日も少しだけ片付けるわね」
努めて明るい声を出しながら、美佐子はゴミ袋を一つ手に取る。
「あのさ……これ、お前に見てほしいんだ」
浩一は、痩せた指先でノートを押し出した。
「ずっと昔に書いたものだけどさ……お前なら、わかってくれる気がするんだよ」
美佐子は、ノートを手に取ると、表紙の端が折れ曲がっているのが目に入った。
「……『1975年』?」
ふと開いたページに、整然とした文字が並んでいた。
美佐子はそのノートを拾い上げ、ざらついた紙の感触を確かめる。表紙の端は折れ曲がり、ところどころ黄ばんでいる。ふと、最初のページをめくった。
整然とした文字で、何かが書かれている。
『誰かの手を引くことが、俺の役目だった。
でも、俺は最後には何もできなかった。
ただ、誰かが俺の手を引いてくれるのを待つだけだった。
——誰かの手を引くこと——それは、誰かの人生に希望の灯をともすことだ。
俺は、誰かに生きる理由を与えられたのだろうか?』
美佐子は、喉の奥がぎゅっと詰まるのを感じた。
浩一は、本当に「助けを求めていた」のだろうか?
それとも——。
『俺は、誰かに生きる理由を与えられたのだろうか?』
その一文が、胸に突き刺さった。
浩一は最後まで、ただ「誰かに助けてほしい」と思っていたわけじゃなかった。
浩一は、誰かのために生きたかったのだ。
誰かを支えたかったのだ。
それなのに——。
これまで美佐子は、ただ「世話をしている」と思っていた。役所の手続きをし、施設への準備をし、浩一が最低限生きていけるように動いているのだと。
だが、このノートの言葉を読んだ瞬間、それが違うことに気づいた。
浩一は、ずっと誰かに助けられることを待っていたのではない。
誰かを助けたかったのだ。
誰かのために生きたかったのだ。
しかし、それは叶わなかった。
美佐子は、ゆっくりと顔を上げた。
浩一は、枕元で息をするのがやっとの状態だった。
もう、彼が誰かの手を引くことはできない。
彼は、自分自身が手を引かれる側になってしまったのだ。
ノートを閉じた、その瞬間。
ズボンのポケットが、かすかに震えた。
——スマホ。
現実が、突然、割り込んできたようだった。
画面には、「浩一の姉」の名前が表示されている。
美佐子は、一瞬ためらった。
この電話に出たところで、何が変わるのだろう。
でも——。
「もしもし……」
しばらくの沈黙の後、かすれた女性の声が聞こえた。
「美佐子さん……本当に……ありがとうございます……」
声は弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。
「本当は……私が行くべきなのに……病院のベッドから動けなくて……」
その言葉の後、ふっと小さな息が漏れた。
それが、ため息なのか、嗚咽を堪えたものなのか、美佐子には分からなかった。
「お姉さん……」
美佐子は、喉の奥につかえたものを押し出すように、思い切って言った。
「どうか、少しでも……弟さんの手助けをお願いできませんか?」
浩一のために、誰かが動いてほしい。
自分だけでは、もう限界だった。
しかし、電話の向こうで、彼女は小さく震える声で答えた。
「……できないんです……」
言葉の端が、涙で濡れていた。
「私も……末期癌で……。病院のベッドから、動くことすらできない……」
そこまで言うと、彼女は嗚咽をこらえるように、喉の奥で何かを詰まらせた。
「弟を助けたい。でも、何もできない……! 私は、姉なのに……! それなのに……弟は、あんな家で、あんな状態で……」
泣いていた。
弱々しく、それでも懸命に自分を責めながら。
美佐子は、握りしめていた拳の力を抜いた。
——この人も、助けたいのに助けられないのだ。
「お姉さん……」
美佐子は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「お姉さんが……お元気だったら、浩一さんのところへ行っていましたよね」
「……ええ……!」
「それで十分です」
電話の向こうで、姉が息を呑む音が聞こえた。
「気持ちがあるのなら、それだけでいいんです」
浩一は、手を引くことを望んでいた。
でも、それが叶わないときもある。
助けたくても、助けられない人がいる。
すすり泣く音を聞きながら、美佐子は思った。
——助けたいのに助けられない人間と、助けたくなくても助けざるを得ない人間がいる。
そして、どちらも、苦しんでいるのだ。
「弟を助けられなくて……ごめんなさい……」
その言葉が、美佐子の胸に深く突き刺さる。
これまでずっと、「なぜ私がこんなことをしなければならないのか」と思っていた。
美佐子は、何も言えなかった。
美佐子は、ゆっくりとノートを握りしめた。
『誰かの手を引くことが、俺の役目だった。』
なら、今の私は?
誰かの人生に、希望の灯をともせているのだろうか。
それとも——。
スマホを握る手が、かすかに震えた。
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「ちょっと、頼むから邪魔しないで!」
美佐子の叫びが、家中に響いた。
リビングのテーブルの上には、買い揃えた施設入所用の品々が並んでいた。タオル、下着、靴下、歯ブラシ、使い捨てのおしぼり、小型の電気カミソリ——どれも施設側から指示されたものばかりだ。美佐子は、事前に役所の担当者に確認し、必要なものを一つずつそろえてきた。
だが、それを見た義男は、ソファにふんぞり返ったまま、缶ビールを片手に言った。
「なんでこんなものがいるんだ?」
美佐子は、ゆっくりと義男を振り返る。
「……は?」
「施設に入るなら、そんなもん、向こうでどうにかしてくれるんじゃねえのか? 俺が余計なことしても、結局アイツの人生は変わらねえだろ」
義男は、ビールを一口飲み、どこか呆れたような声で言った。
「向こうでどうにかならないから、こっちで用意するのよ!」
声が大きくなるのを感じた。美佐子は、積み上げた荷物の中から一枚のリストを取り出し、義男に突きつける。
「これを見て!施設の担当の人から、持ち物リストを渡されたの! ここに全部書いてあるでしょ? 入所する人が最低限のものを用意しないと、施設の人たちも困るのよ!」
義男はちらりとリストを見たが、興味なさそうに肩をすくめた。
「へえ、ずいぶん細かいんだな。でも、そんなの全部そろえなくても、どうにかなるだろ。第一、タオルなんて何枚もいるのか?」
美佐子は、ぎゅっと拳を握りしめた。
「いるのよ。入所者は毎日使うんだから。それに、施設は病院じゃないの。自分で生活するんだから、全部そろえなきゃならないの!」
「ふーん……そんなに必死にならなくてもいいんじゃないか?」
その言葉に、美佐子の頭の中で何かが切れた。
「……何もしてないくせに……」
美佐子は震える声で言い、一拍置いて叫んだ。
「口だけ出さないでよ!!」
思わず、テーブルを叩いていた。
義男は驚いたように美佐子を見たが、すぐにふっと鼻で笑った。
「そんなに怒ることか? 別に俺は、やらなくていいって言ってるわけじゃないぞ。ただ、お前がそこまで無理する必要があるのかって話だ」
「無理しなきゃいけない状況になってるのよ!」
美佐子は肩で息をしながら、義男を睨んだ。
「浩一さんは、もう自分で何もできないの。誰も助けてくれないのよ。お姉さんだって病気で動けないんだから。私しかいないのよ!」
「だからって、お前が全部抱え込むことないだろ」
「だったら、あなたが代わりにやってくれるの? 役所に行って、施設と連絡取って、荷物をそろえて、全部やってくれるの??」
義男は、ビール缶をテーブルに置き、気まずそうに視線をそらした。
「……俺は、そういうの苦手だからさ」
「知ってるわよ!だから私がやってるの!」
美佐子は息を荒げた。心臓が早鐘のように打ち、全身が熱くなっているのがわかる。手のひらにはじんわりと汗が滲んでいた。
それなのに、義男は相変わらず、他人事のような口調で言った。
「お前さ、そこまでやる必要あるのか? どうせ、あいつが変わるわけじゃねえだろ」
その言葉に、美佐子は凍りついた。
「……じゃあ、どうするつもり?」
義男は、ビールを飲みながらぼんやりと画面を見つめたまま、「さあ、わからん」とつぶやいた。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
頭がふわりと浮くような感覚のあと、全身の力が抜けていく。
——あれ?
目の前の光景がぼやける。耳鳴りがして、義男の声が遠ざかる。
何か言おうとしたが、声が出ない。
次の瞬間、美佐子の体はゆっくりと傾ぎ、そのままリビングの床へと崩れ落ちた。
——どさっ。
倒れる音が響いた。
義男が、はっとしたように立ち上がる。
「おい、美佐子……?おいっ!!」
美佐子の意識は、そこで途切れた。
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美佐子は、遠くで誰かの声がするのを聞いた。ぼんやりとした意識の中で、少しずつ現実に引き戻されていく。
目を開けると、白い天井が広がっていた。病室の淡い蛍光灯の光が、まぶしく感じる。
「おい、美佐子」
低い声が聞こえた。
目を横に向けると、義男がベッドの横のパイプ椅子に座っていた。
だが、泣いているわけでも、取り乱しているわけでもない。ただ、少し疲れたような顔をして、缶コーヒーを片手に持っていた。
「……大丈夫か?」
美佐子は、喉が乾いていて声が出しにくかったが、なんとか言葉を絞り出した。
「……ええ……」
義男は、ふうっと息をつき、ベッドの横に置いてあったスーパーのビニール袋をがさごそと探った。
「ほら、お弁当買ってきたぞ」
そう言って取り出したのは、唐揚げ弁当だった。
美佐子は、一瞬ぎょっとした。
「……これ、あなたが食べたいやつじゃないの?」
「まあ、そうなんだけどよ。俺の分だけ買うのも悪いと思って、お前の分も買ったんだよ」
「でも、これ、病院で食べるにはちょっと……」
美佐子は困惑しながら弁当を受け取った。病院の消灯時間が近いせいか、病室には静けさが漂っていた。
義男は唐揚げをつまみながら、ふとため息をつく。
「お前が倒れたら、誰が家の掃除するんだよ」
——やっぱり、それか。
美佐子は、少し呆れたように笑った。
「私の心配じゃなくて、家の心配なのね」
「そりゃそうだろ。お前がいないと、俺が家事やらなきゃいけないんだからな。俺に掃除しろって言うのか?」
義男は、まるでとんでもないことを言われたかのように肩をすくめる。
「そんなの無理だって。お前が元気でいてくれないと困るんだよ」
美佐子は、深いため息をついた。
「……じゃあ、少しは手伝ってよ」
「それとこれは別の話だろ?」
義男は唐揚げを頬張りながら言った。
「俺だってな、お前に感謝はしてるよ。でもなぁ、こういうのはお前の方が得意だし、慣れてるし……まあ、お前がやった方がスムーズじゃん?」
——相変わらず、自分のことしか考えていない。
だけど、美佐子はもう怒る気力すらなかった。ただ、疲れたように目を閉じた。
そのとき、義男がポケットの中から何かを取り出した。
「そういや、これ」
そう言って差し出したのは、浩一のノートだった。
「読んだよ」
美佐子は、ゆっくりと義男を見た。
「……読んだの?」
「ああ。でもまあ……なんていうか……難しいこと書いてあるよな」
義男はノートの表紙をめくると、ぼそっと言った。
「『誰かの手を引くことが俺の役目だった』って……そんな立派なこと、俺にはできねえな」
それは、美佐子も同じだった。
義男は、しばらくノートを眺めていたが、唐揚げを飲み込んでから、ぽつりとつぶやいた。
「でもよ……これを読んで思ったんだけど、浩一って、結構昔からお節介だったんだな」
「……そうね」
「俺が若い頃さ、仕事辞めようかって思ったことがあったんだよ」
美佐子は驚いた。
「そんなこと、初めて聞いたわ」
「言ってなかったか? まあ、俺も悩んでたんだけど……そのとき、浩一が止めたんだよ。『お前はまだやれる』ってさ」
義男は、苦笑した。
「アイツ、妙に熱くてな。俺が『もうダメだ』って思ってたときに、飲みに連れていかれて、説教されたんだよ」
「そんなことが……」
「で、結局、辞めなかった。だから、まあ……今の俺があるのは、アイツのおかげっちゃおかげだな」
そう言うと、義男は少し考え込みながら、ノートを閉じた。
「俺が今、アイツを放っておいたら……昔の俺に顔向けできねえな」
美佐子は、じっと義男を見つめた。
義男は、自分のことしか考えない男だと思っていた。いや、実際そうなのだ。
でも——。
「少しは、何かしようと思ってるの?」
そう聞くと、義男は眉をひそめた。
「まあ……俺にできることなんか、たかが知れてるけどな。でも、お前がまた倒れたら、それはそれでめんどくさいし」
「……やっぱり、そこなのね」
美佐子は、呆れながらも、少しだけ笑った。
義男は、相変わらず自分のことしか考えていない。
だけど、それでも少しずつ、何かを理解しようとしている。
それだけでも、ほんの少しだけ、救いがあった。
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美佐子は、夕食の後片付けをしながら、ふとリビングの方を見た。
義男はいつものようにソファに座り、テレビを見ている。
何も変わらない——そう思った瞬間、彼の手が動いた。
空になった缶ビールを持ち上げ、そのまま立ち上がる。
キッチンへ向かい、無造作にシンクへ置くのかと思いきや——義男は、一瞬ためらったあと、ゴミ箱のフタを開け、缶を捨てた。
「……おお、すごいじゃない。自分で捨てるなんて」
美佐子が冗談めかして言うと、義男は気まずそうに鼻をこすった。
「うるせえよ。別に、たまたまだよ」
そう言って、そそくさとリビングに戻る。
テレビの音が流れ、何事もなかったかのような空気に戻る——けれど。
(たまたま、かもしれない。でも、こういう“たまたま”が増えていくなら、それでいい。)
美佐子は、食器を拭きながら、ほんの少しだけ口元をほころばせた。
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美佐子は、窓の外をぼんやりと眺めていた。
ここ数週間、ずっと気が張り詰めていた。浩一の施設入所の手続きを進め、必要なものをそろえ、役所や施設の担当者とやり取りを繰り返した。時には書類が足りずに何度も役所に足を運び、浩一の体調が急変すれば、そのたびに奔走した。
終わりが見えない日々だった。
それでも——ついに、終わったのだ。
浩一は、今日から新しい施設で暮らすことになった。
ベッドで横になりながら、私に手を振った浩一の姿を思い出す。
「ありがとうな、美佐子さん……」
彼はそう言ったが、その声は弱々しかった。長年暮らしてきた家を離れることへの寂しさが、滲んでいるようにも感じた。
——でも、私にはもう背負いきれない。
浩一の姉とも話し合い、定期的に連絡を取り合うことになった。姉は、涙ぐみながら「本当なら私が行くべきだったのに」と何度も繰り返していた。
「お姉さんがご自分の体を大切にすることも、大事なことですよ」
そう言うと、彼女は黙って電話の向こうで鼻をすする音を立てた。
助けられない人と、助けざるを得ない人。
その間で揺れ続けた数カ月だった。
けれど、今は——ほんの少しだけ、肩の荷が下りた気がする。
そのとき、背後から義男の声が聞こえた。
「おい、美佐子……。ったく、お前がまたぶっ倒れたら、俺がメシ作んなきゃいけなくなるじゃねえか」
美佐子は、驚いて振り返った。
義男が、ゴミ袋を片手に持って立っている。
「何?」
「だから……まあ、ちょっとくらい手伝ってやるよ」
「どうしたの、急に?」
義男は少し気まずそうに視線を逸らしながら、ポリポリと頭をかいた。
「お前が倒れたら、俺がやらなきゃいけなくなるだろ? そうなる前に、ちょっとは手伝っとこうと思ってさ」
相変わらず、理由は自分本位だった。
それでも——。
昔の義男なら、こんなことすら言わなかった。
美佐子は、小さく笑った。
「じゃあ、ゴミ袋をまとめるの、お願いね」
「あいよ」
義男は、ぶつぶつ言いながらも、ゴミ袋をまとめ始めた。時折、「これ捨てていいのか?」といちいち確認してくるのが面倒だったが、それでも、彼がこうして動いていること自体が驚きだった。
ふと、目の前のテーブルに視線を落とす。
そこには、浩一のノートが置かれていた。
美佐子は、静かにノートを開く。
『誰かの手を引くこと——それは、誰かの人生に希望の灯をともすことだ。俺は、誰かに生きる理由を与えられたのだろうか?』
美佐子は、小さく微笑んだ。
「あなたの言葉が、私の手を引いたのよ」
ノートのページをそっとなぞると、指先に紙のざらつきが伝わった。
まだ、この言葉を何度も思い出す気がする。
そして、そっとノートを閉じる。
義男は、片付けを終えたゴミ袋を持ち上げ、ふと小さく息を吐いた。
「……誰かの手を引くって、俺には重すぎると思ってたけどさ……」
義男は、不器用に鼻をこすりながら続けた。
「でも、隣でお前が動いているのを見てたら……ちょっとだけ、やってみようかなって思った」
美佐子は、驚きと共に、小さく、そして深く笑った。
その言葉が、部屋の静けさに溶けていく。
義男は照れ臭そうに鼻をこすり、「なんでもねぇよ」とつぶやいた。
美佐子は、静かに目を細めた。
「——うん、なんでもないね」
テレビの音が響くリビングで、義男は何事もなかったかのように座り直す。
ふいっと後ろを向き、無造作にゴミ袋の口を縛った。
その不器用な動きを見つめながら、美佐子はそっと目を閉じた。




