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誰がこの手を引くのか

作者: ミケ
掲載日:2025/11/06

 テレビの向こうで、大谷翔平がフルスイングする。乾いた打球音が響き、ボールはあっという間にスタンドに消えた。観客が歓声を上げ、実況が興奮した声で「入ったー!」と叫ぶ。


 ソファに深く腰掛けた義男は、ビールの缶を片手に「おお!」と声を上げた。画面にくぎ付けになりながら、もう片方の手でポテトチップスをつまむ。カリカリとした音が、部屋の静けさにやけに響いた。


「すげえな、大谷翔平は。やっぱり日本の誇りだな」


 彼は、まるで自分がバッターボックスに立っているかのような顔をしていた。リプレイ映像が流れるたびに、「ここのタイミングがいいんだよな」とか、「メジャーでも通用するのはやっぱりスイングの鋭さだよな」と、一人で解説を始める。


 美佐子は、テーブルの上に広げた書類を確認しながら、その声を聞き流していた。メモ用紙には、「介護施設入所の必要書類」「健康診断書提出期限」「生活必需品リスト」などが書き込まれている。ため息をつきながら、赤ペンでチェックを入れる。


「行ってくるわね」


 エプロンを外し、カバンを手に取ると、義男がちらりと視線を向けた。だが、画面から目を離したのはほんの一瞬で、すぐにまた画面に視線を戻す。


「また浩一のことか?」

「そうよ」

「お前もよくやるよな。他人の面倒なんか、放っておけばいいのに……って言うと、お前また怒るんだろ?でもさ、俺が何かやったところで、どうにかなるわけでもねえしな」


 義男は、テレビ画面に向かって缶ビールを傾けながら、軽い口調で言った。その言葉に、美佐子の手が止まる。


 放っておけばいい。


 確かに、それができればどれほど楽だろう。だが、浩一は今、自分で食事の用意もままならず、役所の手続きすら進められない状態だ。誰かが動かなければ、彼はゴミに埋もれたまま、布団の上で衰弱していくだけだろう。


「そうね」


 声が、自分のものじゃないように聞こえた。

 美佐子は、玄関のドアを開けた。外の空気はまだ冬の冷たさを残していて、吐く息が白くなる。ドアを閉めた瞬間、家の中から聞こえる実況の声が遠のき、街のざわめきが耳を包んだ。


 美佐子は歩き出しながら、ふと考えた。

 ——結局、私は何をしているのだろう。


 冷たい風が頬を刺す。義男は部屋の中でぬくぬくと好きなことをして、私はこうして外に出ている。それが「正しいこと」だと信じてきた。でも、なぜこんなにも虚しさが募るのか。


 私が浩一を助けなかったら、彼はどうなってしまうのだろう。いや、本当に助けているのだろうか?ただ、私が一人で何かをしているだけなのでは——。


 何のために?誰のために?


 風が吹き抜け、肩をすくめた。義男はあたたかい部屋の中でビールを飲んでいる。それを責めたいわけじゃない。でも……。


 ……私がやらなきゃ、誰がやるの?


 そう思うたび、心がどんどん重くなる。

 本当に私は、誰かのために動いているの?

 それとも、ただ『やるべきこと』に囚われているだけ?

 そう考えた途端、胸の奥に重い塊ができたような気がした。


「誰の人生なんだろうね、本当に」


 信号待ちの交差点で、美佐子はふと呟いた。青信号に変わり、人々が歩き出す。その中に紛れながらも、彼女の心は晴れることなく、重く沈んだままだった。



 ドアを押し開けた瞬間、鼻をつく異臭がした。

 酸っぱい腐敗臭と、湿った布団のにおい、カビの生えた食べ物の残骸が混じり合い、胃の奥がひっくり返るような感覚に襲われる。美佐子は思わず口元を覆った。


 部屋の隅には、無造作に積み上げられたゴミ袋が山を作っている。食べかけの弁当容器、ペットボトル、ホコリをかぶった新聞紙——どれも長い間そのまま放置されていたのだろう。カーテンは黄ばんでカビが点々と広がり、窓ガラスは汚れに覆われ、ほとんど外の景色が見えない。

 美佐子はゆっくりと足を踏み入れる。床がベタつく感触が伝わり、思わず眉をひそめた。


「美佐子さん……すまんね……」


 かすれた声が、部屋の静けさに滲んだ。

 布団の上から申し訳なさそうに顔を上げた浩一は、昔の面影を失っていた。


「……本当は、こんな姿、誰にも見せたくなかったんだ……」


 そう言って、痩せこけた手を見つめる。

 かつてゴルフクラブを握っていた手とは思えないほど、力なく震えていた。


「俺……昔は、そこそこカッコよかったんだぜ……? いや、義男には負けたくなかっただけかもしれねえけど……」


 かすかに笑おうとしたが、声は震えていた。


「それが……今じゃ、こんな有様だ。ゴミに埋もれた部屋で寝転がって……風呂にも入れずに……みっともないよなぁ……」


 浩一はゆっくりと天井を見上げた。


「情けねえよ、本当に……こんな風になるなんて、思ってもいなかった」

「……」


 美佐子は、かける言葉が見つからなかった。


「でもな……俺、どこで間違えたんだろうな……」

 そう言って、浩一はかすれた笑い声を漏らした。


「仕事辞めてからか?それとも、もっと前か? ……どこかで、俺の人生はこんな風に終わるって、決まってたのかねぇ……」

 自嘲するようなその声が、部屋の淀んだ空気と混ざり合う。


「美佐子さん……すまんね……こんな俺の世話なんてさせて……」

 その言葉には、「ありがとう」と「ごめんなさい」と「どうしようもない悔しさ」が入り混じっていた。

 美佐子は、喉の奥が詰まるのを感じながらも、そっと浩一の枕元に膝をついた。


「いいのよ」


 努めて明るい声を出しながら、美佐子はゴミ袋を一つ手に取った。

 彼が「すまない」と言うたびに、本当に情けないと思っているのが伝わってくる。

 その気持ちごと、受け止めるしかなかった。


 髪は伸び放題で白髪が目立ち、顔には深い皺。頬はこけ、肌は不健康な黄色味を帯びている。まるで病気がそのまま人の形をして横たわっているようだった。


 美佐子は、喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。

 この人が、本当に——あの浩一なのか?


 かつて、義男と肩を並べて働いていた頃の彼は、まるで別人だった。

 スーツを着こなし、いつも背筋を伸ばして歩いていた。

 周りを明るくするような笑顔、軽快な冗談、どんな相手とも気さくに話せる社交性——。

 営業成績もトップクラスで、部下や後輩からの信頼も厚かった。


「おい、義男!そんな沈んだ顔してると、モテねえぞ!」

「何言ってんだよ、お前だってまだ独身じゃねえか!」

「俺は選んでるんだよ。ほら、カッコいい男は焦らなくても、自然といい女が寄ってくるもんさ」


 そんな軽口を叩きながら、義男と飲み屋のカウンターでグラスを傾けていた姿が、今も鮮明に浮かぶ。

 明るくて、活気があって、どこか憎めない男だった。

 ——昔は、誰から見ても「頼れる男」だったのに。


 目の前に横たわる浩一は、痩せこけ、覇気もなく、かつての彼の面影すら感じられなかった。

 誰よりも自信に満ちていた男が、今は誰かの手を借りなければ生きていけない。

 美佐子は、思わず視線を逸らした。

 あの頃の浩一さんが見たら……今の自分を、どう思うんだろう。

 心の中で、誰に向けるでもなく、問いかけた。


「いいのよ。今日も少しだけ片付けるわね」

 努めて明るい声を出しながら、美佐子はゴミ袋を一つ手に取る。


「あのさ……これ、お前に見てほしいんだ」

 浩一は、痩せた指先でノートを押し出した。


「ずっと昔に書いたものだけどさ……お前なら、わかってくれる気がするんだよ」

 美佐子は、ノートを手に取ると、表紙の端が折れ曲がっているのが目に入った。


「……『1975年』?」


 ふと開いたページに、整然とした文字が並んでいた。

 美佐子はそのノートを拾い上げ、ざらついた紙の感触を確かめる。表紙の端は折れ曲がり、ところどころ黄ばんでいる。ふと、最初のページをめくった。

 整然とした文字で、何かが書かれている。


『誰かの手を引くことが、俺の役目だった。

 でも、俺は最後には何もできなかった。

 ただ、誰かが俺の手を引いてくれるのを待つだけだった。

 ——誰かの手を引くこと——それは、誰かの人生に希望の灯をともすことだ。

 俺は、誰かに生きる理由を与えられたのだろうか?』


 美佐子は、喉の奥がぎゅっと詰まるのを感じた。

 浩一は、本当に「助けを求めていた」のだろうか?

 それとも——。

『俺は、誰かに生きる理由を与えられたのだろうか?』

 その一文が、胸に突き刺さった。


 浩一は最後まで、ただ「誰かに助けてほしい」と思っていたわけじゃなかった。

 浩一は、誰かのために生きたかったのだ。

 誰かを支えたかったのだ。

 それなのに——。


 これまで美佐子は、ただ「世話をしている」と思っていた。役所の手続きをし、施設への準備をし、浩一が最低限生きていけるように動いているのだと。


 だが、このノートの言葉を読んだ瞬間、それが違うことに気づいた。

 浩一は、ずっと誰かに助けられることを待っていたのではない。

 誰かを助けたかったのだ。

 誰かのために生きたかったのだ。

 しかし、それは叶わなかった。


 美佐子は、ゆっくりと顔を上げた。

 浩一は、枕元で息をするのがやっとの状態だった。

 もう、彼が誰かの手を引くことはできない。

 彼は、自分自身が手を引かれる側になってしまったのだ。


 ノートを閉じた、その瞬間。

 ズボンのポケットが、かすかに震えた。

 ——スマホ。

 現実が、突然、割り込んできたようだった。

 画面には、「浩一の姉」の名前が表示されている。

 美佐子は、一瞬ためらった。

 この電話に出たところで、何が変わるのだろう。

 でも——。


「もしもし……」

 しばらくの沈黙の後、かすれた女性の声が聞こえた。

「美佐子さん……本当に……ありがとうございます……」

 声は弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。

「本当は……私が行くべきなのに……病院のベッドから動けなくて……」


 その言葉の後、ふっと小さな息が漏れた。

 それが、ため息なのか、嗚咽を堪えたものなのか、美佐子には分からなかった。


「お姉さん……」

 美佐子は、喉の奥につかえたものを押し出すように、思い切って言った。

「どうか、少しでも……弟さんの手助けをお願いできませんか?」


 浩一のために、誰かが動いてほしい。

 自分だけでは、もう限界だった。

 しかし、電話の向こうで、彼女は小さく震える声で答えた。


「……できないんです……」

 言葉の端が、涙で濡れていた。


「私も……末期癌で……。病院のベッドから、動くことすらできない……」

 そこまで言うと、彼女は嗚咽をこらえるように、喉の奥で何かを詰まらせた。


「弟を助けたい。でも、何もできない……! 私は、姉なのに……! それなのに……弟は、あんな家で、あんな状態で……」


 泣いていた。

 弱々しく、それでも懸命に自分を責めながら。

 美佐子は、握りしめていた拳の力を抜いた。

 ——この人も、助けたいのに助けられないのだ。


「お姉さん……」

 美佐子は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「お姉さんが……お元気だったら、浩一さんのところへ行っていましたよね」

「……ええ……!」

「それで十分です」

 電話の向こうで、姉が息を呑む音が聞こえた。


「気持ちがあるのなら、それだけでいいんです」


 浩一は、手を引くことを望んでいた。

 でも、それが叶わないときもある。

 助けたくても、助けられない人がいる。

 すすり泣く音を聞きながら、美佐子は思った。


 ——助けたいのに助けられない人間と、助けたくなくても助けざるを得ない人間がいる。


 そして、どちらも、苦しんでいるのだ。


「弟を助けられなくて……ごめんなさい……」


 その言葉が、美佐子の胸に深く突き刺さる。

 これまでずっと、「なぜ私がこんなことをしなければならないのか」と思っていた。

 美佐子は、何も言えなかった。

 美佐子は、ゆっくりとノートを握りしめた。


『誰かの手を引くことが、俺の役目だった。』


 なら、今の私は?

 誰かの人生に、希望の灯をともせているのだろうか。

 それとも——。

 スマホを握る手が、かすかに震えた。


-----


「ちょっと、頼むから邪魔しないで!」

 美佐子の叫びが、家中に響いた。


 リビングのテーブルの上には、買い揃えた施設入所用の品々が並んでいた。タオル、下着、靴下、歯ブラシ、使い捨てのおしぼり、小型の電気カミソリ——どれも施設側から指示されたものばかりだ。美佐子は、事前に役所の担当者に確認し、必要なものを一つずつそろえてきた。

 だが、それを見た義男は、ソファにふんぞり返ったまま、缶ビールを片手に言った。


「なんでこんなものがいるんだ?」


 美佐子は、ゆっくりと義男を振り返る。

「……は?」


「施設に入るなら、そんなもん、向こうでどうにかしてくれるんじゃねえのか? 俺が余計なことしても、結局アイツの人生は変わらねえだろ」


 義男は、ビールを一口飲み、どこか呆れたような声で言った。


「向こうでどうにかならないから、こっちで用意するのよ!」


 声が大きくなるのを感じた。美佐子は、積み上げた荷物の中から一枚のリストを取り出し、義男に突きつける。


「これを見て!施設の担当の人から、持ち物リストを渡されたの! ここに全部書いてあるでしょ? 入所する人が最低限のものを用意しないと、施設の人たちも困るのよ!」


 義男はちらりとリストを見たが、興味なさそうに肩をすくめた。


「へえ、ずいぶん細かいんだな。でも、そんなの全部そろえなくても、どうにかなるだろ。第一、タオルなんて何枚もいるのか?」


 美佐子は、ぎゅっと拳を握りしめた。


「いるのよ。入所者は毎日使うんだから。それに、施設は病院じゃないの。自分で生活するんだから、全部そろえなきゃならないの!」

「ふーん……そんなに必死にならなくてもいいんじゃないか?」


 その言葉に、美佐子の頭の中で何かが切れた。


「……何もしてないくせに……」

 美佐子は震える声で言い、一拍置いて叫んだ。

「口だけ出さないでよ!!」


 思わず、テーブルを叩いていた。

 義男は驚いたように美佐子を見たが、すぐにふっと鼻で笑った。


「そんなに怒ることか? 別に俺は、やらなくていいって言ってるわけじゃないぞ。ただ、お前がそこまで無理する必要があるのかって話だ」

「無理しなきゃいけない状況になってるのよ!」


 美佐子は肩で息をしながら、義男を睨んだ。


「浩一さんは、もう自分で何もできないの。誰も助けてくれないのよ。お姉さんだって病気で動けないんだから。私しかいないのよ!」

「だからって、お前が全部抱え込むことないだろ」

「だったら、あなたが代わりにやってくれるの? 役所に行って、施設と連絡取って、荷物をそろえて、全部やってくれるの??」


 義男は、ビール缶をテーブルに置き、気まずそうに視線をそらした。


「……俺は、そういうの苦手だからさ」

「知ってるわよ!だから私がやってるの!」


 美佐子は息を荒げた。心臓が早鐘のように打ち、全身が熱くなっているのがわかる。手のひらにはじんわりと汗が滲んでいた。

 それなのに、義男は相変わらず、他人事のような口調で言った。


「お前さ、そこまでやる必要あるのか? どうせ、あいつが変わるわけじゃねえだろ」

 その言葉に、美佐子は凍りついた。

「……じゃあ、どうするつもり?」


 義男は、ビールを飲みながらぼんやりと画面を見つめたまま、「さあ、わからん」とつぶやいた。

 その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。

 頭がふわりと浮くような感覚のあと、全身の力が抜けていく。


 ——あれ?


 目の前の光景がぼやける。耳鳴りがして、義男の声が遠ざかる。

 何か言おうとしたが、声が出ない。

 次の瞬間、美佐子の体はゆっくりと傾ぎ、そのままリビングの床へと崩れ落ちた。


 ——どさっ。


 倒れる音が響いた。

 義男が、はっとしたように立ち上がる。

「おい、美佐子……?おいっ!!」

 美佐子の意識は、そこで途切れた。


-----


 美佐子は、遠くで誰かの声がするのを聞いた。ぼんやりとした意識の中で、少しずつ現実に引き戻されていく。

 目を開けると、白い天井が広がっていた。病室の淡い蛍光灯の光が、まぶしく感じる。


「おい、美佐子」

 低い声が聞こえた。


 目を横に向けると、義男がベッドの横のパイプ椅子に座っていた。

 だが、泣いているわけでも、取り乱しているわけでもない。ただ、少し疲れたような顔をして、缶コーヒーを片手に持っていた。


「……大丈夫か?」

 美佐子は、喉が乾いていて声が出しにくかったが、なんとか言葉を絞り出した。

「……ええ……」


 義男は、ふうっと息をつき、ベッドの横に置いてあったスーパーのビニール袋をがさごそと探った。


「ほら、お弁当買ってきたぞ」


 そう言って取り出したのは、唐揚げ弁当だった。

 美佐子は、一瞬ぎょっとした。


「……これ、あなたが食べたいやつじゃないの?」

「まあ、そうなんだけどよ。俺の分だけ買うのも悪いと思って、お前の分も買ったんだよ」

「でも、これ、病院で食べるにはちょっと……」


 美佐子は困惑しながら弁当を受け取った。病院の消灯時間が近いせいか、病室には静けさが漂っていた。

 義男は唐揚げをつまみながら、ふとため息をつく。


「お前が倒れたら、誰が家の掃除するんだよ」


 ——やっぱり、それか。

 美佐子は、少し呆れたように笑った。


「私の心配じゃなくて、家の心配なのね」

「そりゃそうだろ。お前がいないと、俺が家事やらなきゃいけないんだからな。俺に掃除しろって言うのか?」


 義男は、まるでとんでもないことを言われたかのように肩をすくめる。


「そんなの無理だって。お前が元気でいてくれないと困るんだよ」


 美佐子は、深いため息をついた。

「……じゃあ、少しは手伝ってよ」

「それとこれは別の話だろ?」

 義男は唐揚げを頬張りながら言った。


「俺だってな、お前に感謝はしてるよ。でもなぁ、こういうのはお前の方が得意だし、慣れてるし……まあ、お前がやった方がスムーズじゃん?」


 ——相変わらず、自分のことしか考えていない。


 だけど、美佐子はもう怒る気力すらなかった。ただ、疲れたように目を閉じた。

 そのとき、義男がポケットの中から何かを取り出した。


「そういや、これ」


 そう言って差し出したのは、浩一のノートだった。


「読んだよ」

 美佐子は、ゆっくりと義男を見た。

「……読んだの?」

「ああ。でもまあ……なんていうか……難しいこと書いてあるよな」


 義男はノートの表紙をめくると、ぼそっと言った。


「『誰かの手を引くことが俺の役目だった』って……そんな立派なこと、俺にはできねえな」


 それは、美佐子も同じだった。

 義男は、しばらくノートを眺めていたが、唐揚げを飲み込んでから、ぽつりとつぶやいた。


「でもよ……これを読んで思ったんだけど、浩一って、結構昔からお節介だったんだな」

「……そうね」

「俺が若い頃さ、仕事辞めようかって思ったことがあったんだよ」


 美佐子は驚いた。


「そんなこと、初めて聞いたわ」

「言ってなかったか? まあ、俺も悩んでたんだけど……そのとき、浩一が止めたんだよ。『お前はまだやれる』ってさ」


 義男は、苦笑した。


「アイツ、妙に熱くてな。俺が『もうダメだ』って思ってたときに、飲みに連れていかれて、説教されたんだよ」

「そんなことが……」

「で、結局、辞めなかった。だから、まあ……今の俺があるのは、アイツのおかげっちゃおかげだな」


 そう言うと、義男は少し考え込みながら、ノートを閉じた。


「俺が今、アイツを放っておいたら……昔の俺に顔向けできねえな」


 美佐子は、じっと義男を見つめた。

 義男は、自分のことしか考えない男だと思っていた。いや、実際そうなのだ。

 でも——。


「少しは、何かしようと思ってるの?」


 そう聞くと、義男は眉をひそめた。


「まあ……俺にできることなんか、たかが知れてるけどな。でも、お前がまた倒れたら、それはそれでめんどくさいし」

「……やっぱり、そこなのね」


 美佐子は、呆れながらも、少しだけ笑った。

 義男は、相変わらず自分のことしか考えていない。

 だけど、それでも少しずつ、何かを理解しようとしている。

 それだけでも、ほんの少しだけ、救いがあった。


-----


 美佐子は、夕食の後片付けをしながら、ふとリビングの方を見た。

 義男はいつものようにソファに座り、テレビを見ている。

 何も変わらない——そう思った瞬間、彼の手が動いた。

 空になった缶ビールを持ち上げ、そのまま立ち上がる。

 キッチンへ向かい、無造作にシンクへ置くのかと思いきや——義男は、一瞬ためらったあと、ゴミ箱のフタを開け、缶を捨てた。


「……おお、すごいじゃない。自分で捨てるなんて」


 美佐子が冗談めかして言うと、義男は気まずそうに鼻をこすった。


「うるせえよ。別に、たまたまだよ」


 そう言って、そそくさとリビングに戻る。

 テレビの音が流れ、何事もなかったかのような空気に戻る——けれど。

(たまたま、かもしれない。でも、こういう“たまたま”が増えていくなら、それでいい。)

 美佐子は、食器を拭きながら、ほんの少しだけ口元をほころばせた。


-----


 美佐子は、窓の外をぼんやりと眺めていた。

 ここ数週間、ずっと気が張り詰めていた。浩一の施設入所の手続きを進め、必要なものをそろえ、役所や施設の担当者とやり取りを繰り返した。時には書類が足りずに何度も役所に足を運び、浩一の体調が急変すれば、そのたびに奔走した。


 終わりが見えない日々だった。

 それでも——ついに、終わったのだ。

 浩一は、今日から新しい施設で暮らすことになった。

 ベッドで横になりながら、私に手を振った浩一の姿を思い出す。


「ありがとうな、美佐子さん……」


 彼はそう言ったが、その声は弱々しかった。長年暮らしてきた家を離れることへの寂しさが、滲んでいるようにも感じた。


 ——でも、私にはもう背負いきれない。


 浩一の姉とも話し合い、定期的に連絡を取り合うことになった。姉は、涙ぐみながら「本当なら私が行くべきだったのに」と何度も繰り返していた。


「お姉さんがご自分の体を大切にすることも、大事なことですよ」


 そう言うと、彼女は黙って電話の向こうで鼻をすする音を立てた。

 助けられない人と、助けざるを得ない人。

 その間で揺れ続けた数カ月だった。

 けれど、今は——ほんの少しだけ、肩の荷が下りた気がする。

 そのとき、背後から義男の声が聞こえた。


「おい、美佐子……。ったく、お前がまたぶっ倒れたら、俺がメシ作んなきゃいけなくなるじゃねえか」


 美佐子は、驚いて振り返った。

 義男が、ゴミ袋を片手に持って立っている。


「何?」

「だから……まあ、ちょっとくらい手伝ってやるよ」

「どうしたの、急に?」


 義男は少し気まずそうに視線を逸らしながら、ポリポリと頭をかいた。


「お前が倒れたら、俺がやらなきゃいけなくなるだろ? そうなる前に、ちょっとは手伝っとこうと思ってさ」


 相変わらず、理由は自分本位だった。

 それでも——。

 昔の義男なら、こんなことすら言わなかった。

 美佐子は、小さく笑った。


「じゃあ、ゴミ袋をまとめるの、お願いね」

「あいよ」


 義男は、ぶつぶつ言いながらも、ゴミ袋をまとめ始めた。時折、「これ捨てていいのか?」といちいち確認してくるのが面倒だったが、それでも、彼がこうして動いていること自体が驚きだった。


 ふと、目の前のテーブルに視線を落とす。

 そこには、浩一のノートが置かれていた。

 美佐子は、静かにノートを開く。


『誰かの手を引くこと——それは、誰かの人生に希望の灯をともすことだ。俺は、誰かに生きる理由を与えられたのだろうか?』


 美佐子は、小さく微笑んだ。

「あなたの言葉が、私の手を引いたのよ」


 ノートのページをそっとなぞると、指先に紙のざらつきが伝わった。

 まだ、この言葉を何度も思い出す気がする。

 そして、そっとノートを閉じる。


 義男は、片付けを終えたゴミ袋を持ち上げ、ふと小さく息を吐いた。

「……誰かの手を引くって、俺には重すぎると思ってたけどさ……」


 義男は、不器用に鼻をこすりながら続けた。

「でも、隣でお前が動いているのを見てたら……ちょっとだけ、やってみようかなって思った」


 美佐子は、驚きと共に、小さく、そして深く笑った。

 その言葉が、部屋の静けさに溶けていく。

 義男は照れ臭そうに鼻をこすり、「なんでもねぇよ」とつぶやいた。

 美佐子は、静かに目を細めた。


「——うん、なんでもないね」


 テレビの音が響くリビングで、義男は何事もなかったかのように座り直す。

 ふいっと後ろを向き、無造作にゴミ袋の口を縛った。

 その不器用な動きを見つめながら、美佐子はそっと目を閉じた。

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