男の子を産まねばならない妻が、女の子を抱いて笑った
「笑うと瞳が見えなくなるのよ」
妻のシリは、恍惚とした顔で赤ん坊を抱き上げ、小さな頬に自分の頬をすりつけて笑った。
その笑い方が、オレはたまらなく好きだ。
子どもたちに――そして、シリに逢いたくて、オレは今日も子供部屋に足を運ぶ。
朝の光の中で眠るシンの頬を撫で、ユウの指をそっと握る。
穏やかで、あたたかい時間だ。
オレとシリは結婚して一年半。
けれど、子どもは二人いる。
一人目はオレと前妻の子、シン。
もう一人は半年前に生まれた女の子、ユウ。
金色の髪、青く澄んだ瞳。
この子の実の父親は、オレではない。
父親は――彼女の兄だ。
それでもいい。
オレの子だ。
子を抱くシリの背を見ていると、胸の奥が熱くなる。
その細い体を後ろから抱き寄せ、思わず頬に口づける。
「・・・!」
すぐに乳母たちの視線が刺さって、オレは慌てて手を離した。
空咳をして、視線をそらす。
シリはそんなオレを見て、小さく笑った。
忙しい日々の中でも、シリはよく笑うようになった。
けれど、その笑みに、ふと翳りが差す瞬間がある。
それは、周囲から「次こそは男の子を」と言われたあとだ。
この国では、それが“当然”だった。
妃は産む。跡取りを。できるだけ早く。
産んだばかりの女に、次の子を当然のように求める。
シリの顔が陰るたび、オレはその肩を抱き寄せ、耳もとで言った。
「焦るな」
彼女はかすかに首を振る。
「けれど・・・やっぱり、後継の男の子を産まなくては・・・」
その声は震えていた。
オレはただ言った。
「オレは、どちらでもいい」
本当に、それが本心だった。
それでも、彼女は頷けないようだった。
妃としての義務、領地の期待、政治の重さ。
すべてを背負ってきた女は、簡単に“安心”を受け取れない。
そもそも――
シリに子を求めさせているのは、オレの責任でもあった。
オレが妾を持たないからだ。
領主には複数の妻がいて当然。
子が多いほど領は豊かになると、家臣たちは何度も言った。
けれど、それはできなかった。
シリ以外の女を抱く気にはなれなかった。
・・・彼女に負担をかけているのは、オレのほうなのだ。
◇
夏の終わり、三日間だけ、魔法のような日が訪れた。
友人のトナカがレーク城を訪ねてきたのだ。
争いも心配も忘れ、三人――オレとシリとトナカは、ただ笑って過ごした。
けれど、その笑顔の裏に、もう別れの予感があった。
オレはシリの兄につき、トナカはそれに背く。
道を違える友に、もう次はないかもしれない。
友を見送る背中に、言葉にならない痛みがあった。
夏の終わり、トナカが去った夜、
胸の奥にぽっかりと空いたものがあった。
領主としての義務を全うするのは当然のこと。
けれど、失うものが多すぎる気がして、
オレはただ、確かなものを求めた。
そして――その腕の中にいたのは、シリだった。
「・・・いいか?」
いつもは必ず訊く。
けれどこの夜は、何も言わずに唇を重ねた。
彼女の身体が腕の中に沈み、熱が伝わる。
「シリ・・・」
名前を呼ぶ声が震えた。
抱きしめないと、消えてしまいそうで。
翌朝、シリはひどい顔をしていた。
「どうした?」
「最近・・・体調が悪くて・・・」
「すまない。昨夜は無理をさせた」
オレが言うと、彼女は弱々しく笑った。
「毎回、反省会をするのをやめてください」
「無理をさせた」
「疲れているだけですよ」
シリは、オレの手を握った。
その手の冷たさが、なぜか怖かった。
◇
昼すぎになっても体調が戻らず、医師が呼ばれた。
落ち着かない気持ちのまま、オレは書斎で領務をしていた。
そこへ、駆け込むように足音が響く。
「シリ様!走ってはいけません!!」
エマの叫び声のあと、勢いよく扉が開いた。
シリが立っていた。
頬が赤く、瞳が輝いている。
「シリ!?体調は・・・」
オレが言い終わる前に、彼女は飛びついてきた。
「四月!」
「何が?」
「四月に生まれるの!赤ちゃん!」
息をのんだ。
何も言えなかった。
シリにーー子ができた?
しかも・・・今回は・・・オレとの子だ。
嬉しさで我を忘れた。
気づけば、シリを強く抱きしめていた。
そして――そのまま、唇を重ねた。
近くにいた重臣ジムと乳母のエマが固まる。
咳払いがひとつ。
オレははっとして離れた。
耳まで熱い。
けれど、シリは笑っていた。
少し呆れたように、嬉しそうに。
「幸せだわ」
そう言った声が震えていた。
◇
だが、喜びは長くは続かなかった。
次の日から、シリは起き上がれなくなった。
朝から晩まで吐き気が続き、水も飲めない。
目を閉じれば世界が揺れるようで、眠ることさえできない。
十日たっても治らない。
二週間経っても、同じだった。
医師に何度も診せた。
けれど、「食べられるものだけを食べてください」と言われるばかりだ。
水さえまともに飲めないとき、どうすればいいというのか。
日に日にやせ細っていくシリの身体を見て、
オレは祈ることしかできなかった。
「シリ・・・せめて、水だけでも」
頼みこむと、彼女は頷き、震える手で口に運ぶ。
けれど、すぐに吐き気に耐えて目を閉じる。
そのたび、オレの胸の奥で何かが壊れた。
それでも、シリは幸せそうに笑っていた。
「この不調は、あなたとの子の証ね」
そして言うのだ。
「男の子を産まないと」
――強い女だ、と思った。
いや、強すぎる女だ。
けれど、そんな日が半月すぎ、
日中も身体を横にしていることが多くなった。
こんなに辛そうなのに、何もしてあげられない。
細くなったシリの背中を撫でながら、オレはつぶやいてしまった。
「辛いのなら・・・子供は・・・」
その言葉に、シリの瞳が静かに燃えた。
「何を仰っているのですか」
その声は弱々しくも、怒りを堪えていた。
「シリが・・・元気なら、もう何もいらない」
オレは縋るように言った。
「・・・男の子を産みます」
青白い顔で、シリは静かに言い切った。
◇
三週間目のある日。
ジムが青い小さな実を運んできた。
手にしていたのは、特産にする予定のりんごだった。
「領民から届きました。まだ熟していませんが、今年は豊作です」
それを見た瞬間、シリの瞳が光った。
震える手でリンゴを掴み、そのままかじる。
じゅわ、と音がして、酸味の香りが広がる。
「・・・おいしい」
その声は、泣いていた。
何日ぶりかの“食べる”という行為。
その姿を見た瞬間、オレの目の奥も熱くなった。
「シリ・・・! 食べられるのか」
「はい・・・おいしい・・・」
ジムが固まっているのを見て、思わず叫んだ。
「りんごは他にないのか!」
「見本で二個だけ・・・」
「馬を出せ。採れるだけ採ってくる」
そう言って席を立った。
鈴なりに実る青いりんごを、夢中で採った。
シリが食べられるのなら――それだけでいい。
数刻後、山のような青りんごが城に運び込まれた。
シリはその山を前に、まるで宝石でも見ているような顔で微笑んだ。
かじって、泣いて、笑った。
その光景に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
それから何日もかけて、少しずつ食事ができるようになっていった。
スープを二口、パンをひとくち。
ある日、弱々しく「・・・チキンが食べたいわ」と言ったとき、厨房中が泣いた。
運ばれてきたチキンを口にして、シリは涙をこぼした。
「世の中は美味しいもので溢れているわ・・・」
「あぁ・・・」
喜びが溢れて、オレはそれしか言えなかった。
◇
やがて、シリの顔色に、かすかな血の気が戻りはじめた。
声にも、歩く足取りにも力が出てきた。
そして、医師の許可を得ると、
シリは真っ先に――子ども部屋へ向かった。
あの日以来、足を運ぶことができなかった場所。
扉の前で一瞬、彼女は立ち止まり、深く息を吸いこんだ。
「・・・入るわ」
その声が、わずかに震えていた。
扉を開けると、陽光が差し込む部屋の中に、
小さな二人の子どもたちがいた。
乳母の腕の中でユウが笑い、
床の上では、シンが積み木を積み上げている。
シリの姿を見つけた瞬間――シンが顔を上げた。
「・・・はは」
その声は、小さく、けれど確かだった。
シンが初めて話した言葉だった。
その一言に、シリの膝が震えた。
そして、次の瞬間、泣きながら駆け寄り、シンを抱きしめていた。
「・・・ごめんね。いっぱい待たせたわね」
細い腕でシリの背を撫でながら、シンは嬉しそうに笑った。
その光景を見つめながら、
オレは胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
「ちち」と呼ばれることを、
ほんの少しだけ、期待していた。
けれど、シンはオレを見ても、言葉を発することはなかった。
乳母に抱かれたユウも、ころころと転がりながら声をあげた。
「あー、あーっ」
口をぱくぱくさせて、小さな手を伸ばす。
シリはしゃがみ込み、
その柔らかな髪に指を触れた。
「ユウ・・・」
彼女の指先が震えていた。
一ヶ月という月日の重みが、その小さな体に刻まれていた。
日々は、容赦なく過ぎていく。
ほんのひととき目を離しただけで、
子どもたちはこんなにも成長していた。
――もう、見逃したくない。
シリはそう思っているようだった。
その目の奥に、強い喜びが宿っていた。
「また・・・一緒にいられるね」
彼女が小さく呟いたとき、ユウの笑い声が、陽だまりの中に弾けた。
その音を聞きながら、オレは静かに息を吐いた。
◇
冬が過ぎ、また春がきた。
長い長い暗闇を抜けたように、
城のまわりには芽吹いた木々が光っていた。
シリの腹はふくらみ、
部屋にはやわらかな空気が流れていた。
「今年は、りんごの花が見られないわ・・・」
窓辺で、シリが残念そうに言った。
出産を控え、馬には乗れない。
それでも、瞳はどこか晴れやかだった。
「来年は見れるだろう」
オレは背後から彼女を抱きしめ、頬にかかる髪に口づけた。
シリが小さく笑う。
その笑顔があれば、もう何もいらなかった。
夕方、空が金色に染まるころ、
シリが床にしゃがみ込み、息を呑んだ。
「あぁ、グユウさん・・・この痛みだった。忘れていたわ」
陣痛だった。
ユウを出産したのは、昨年。
痛みを忘れることは・・・あるのか?
お産で命を落とすことは珍しくない。
祈るような気持ちで、扉の向こうを見つめ続けた。
――どうか、生きてくれ。
一時間後。
広間を駆け抜けてくる足音が聞こえた。
エマが駆け込んでくる。
「グユウ様、おめでとうございます! 元気な女の子です」
「もう、産まれたのか!」
声が裏返った。
「ええ、今回は安産でした。あの声を聞いてください」
産室の奥から、赤子の泣き声が響く。
その音を聞いた瞬間、
胸の奥が熱くなり、足が勝手に動いた。
◇
「私の夢が実現したのよ」
シリは青白い顔をしながらも、有頂天だった。
「シリ・・・頑張ったな」
そっとその手を握ると、指がからまる。
「この子を産むまでは・・・男の子がいいと思っていたの。でも・・・今は、この子以外は誰にもなってほしくないの」
シリは夢中で話す。
「そうだな」
オレは力強く頷いた。
乳母が湯に浸した赤ん坊を抱えて戻ってきた。
その小さな命を、オレとシリはのぞきこんだ――
「金髪・・・ではないのね」
「黒でもない」
産毛は淡い茶色。
角度によっては、金にも見えた。
「グユウさん、見て。こんな小さな手なのに、爪まで出来上がっているの」
シリは恍惚とした顔で、赤子の指を撫でた。
ゆっくりと瞼が開き、赤ん坊の瞳が光を映す。
「・・・何色だろう」
「黒・・・でも青でもないわ」
深く、けれど澄んでいて。
紫がかった群青。
思わず頬が緩む
「群青色・・・オレとシリの瞳を混ぜた色だ」
言葉がこぼれた。
シリの頬が、静かに紅潮した。
「はい・・・」
「シリ、この子の名は、シリが決めてくれ」
「・・・私が?」
名付けは父の務めとされている。
それでも、オレは迷わず言った。
「当然だ。お前が命をかけて産んだ子だ」
シリはしばらく黙って、赤ん坊を見つめていた。
そして、そっと口を開いた。
「それでは・・・ウイと名付けたいです」
「ウイ?」
「遠い国の言葉で、“初めて”という意味があるそうです」
この子は三人目の子になる。
けれど――オレとシリにとっては、
“初めて一緒に迎えた命”だった。
理由を語らずとも、わかっていた。
「ウイ・・・いい名だ」
「ようやく・・・グユウさんと、本当の夫婦になった気がします」
シリは細い手を差し出し、オレはその手を強く握った。
オレの胸の奥で、何かが静かにほどけていった。
群青の瞳の赤子が、静かに瞬きをした。
その色が、オレの胸に静かに灯をともした。
――もう、誰にも奪わせはしない。
この家も、この命も、この笑顔も。
それが、オレの誓いだった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、グユウ視点によるエピソードです。
短編だけでもお楽しみいただけますが、
本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。
本編はこちら
『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
(Nコード:N2799Jo)
https://ncode.syosetu.com/n2799jo/
完結済み、政略結婚から始まる恋と戦と家族の物語です。
そして、この短編を気に入ってくださった方へ。
短編をまとめた連載版『<短編集>無口な領主と気丈な姫の婚姻録』も公開中です。
https://ncode.syosetu.com/N9978KZ/
※この短編も、数日後に短編集に追加予定です。




