第九話「甘いもの」
それからしばらくしてからだ。俺の名前を呼ぶ声が聞こえてきたのは。
それはとてもか細い声だった。
本に集中していた俺は、いつの間にか歓声が止んでいることにも気づいていなかった。
「……あの、マサ? ……マサさん? ……マサさーん……?」
「……えーと、反応してくれない? もしかして、無視されてるの、私たち?」
「…………マサさん? あの、聞こえてないですか?」
「…………あの、ごめんなさい。私たち、調子に乗っていたかもしれなくて、その、せめて反応してくれると、その……」
遠慮がちな声だった。
だからこそ気づくのが遅れてしまったのだが。
「……ううぅ。どうしよう、呆れられちゃったのかな……」
「……ご、ごめんなさい。謝るわ。だから、反応して頂戴。……お願いよ」
「…………うん? あれ? 二人とも、どうした?」
まるでお通夜のような状況に、俺は漸く気づくことができた。
画面の向こうでは、二人が項垂れていたが、俺が反応したことにより、顔を輝かせる。
まるで花が咲いたようだった。
「あっ! マサ!」
「あああ! 良かった、助かったわ!」
なんだなんだ?
まるで食いつくような勢いだった。
俺が本を読んでいる間に、一体何があったのか?
「実は――」
アルムが実に気まずそうに話したのは、実にくだらないことだった。
まあ本人たちにしてみれば、かなり重大なことだったようだが。
「要するに、みかんの缶詰を全部食べちゃったから、また送ってくれ、と?」
「そ、そうなんです」
俺が送ったみかんの缶詰は、全部で十缶はあったはず。
それをこの二人だけで消化したということか。
「お、お金ならもうそっちに送ったから、それでお願いできるかしら?」
「いや、金は別に前にもらったのがあるからいいんだが、なんでそんなにみかんの缶詰に固執するんだ? そんなに気に入ったのか?」
「あれはミカンノカンヅメというのね。覚えたわ。その、勿論これの味が気に入ったというのもあるんだけど、それとは別に理由があるのよ」
「へえ?」
恥ずかしそうに応えるジョリーだったが、味が気に入ったのが一番じゃないのか?
その理由は意外なものだった。
「知っているとは思うけれど、このミカンノカンヅメには、魔法力の回復に大きな効果があるの」
……知りません。
「魔法力の、回復?」
「そう。私は見ての通り魔法士なんだけど、魔法を行使する際は、その人の持つ魔法力を消費するの。この魔法力は複雑な術式になればなるほど消費する。それの回復には知っての通り、砂糖なんかの甘いものが効果的」
いや、だから知らないって。
言葉には出さないけれども。
「要するに、甘いものはMP回復薬になるということか」
「えむ……ぴー? まあ、そうね。そっちでは、魔法力のことはそう呼ぶの?」
「ああ、まあこっちには魔法はないんだけどな。創作物なんかの中で、そういうものがあるだけだ」
「ふーん……、え? でも今、貴方は魔法を使ってるじゃない」
「え?」
「え? じゃないわよ。この魔法板は、同じようにそっちにあるんでしょう? 今こうして通信できているってことは、そういうことじゃないの」
「あー、確かにそう言われれば、そうかも? でもこっちでは普通にこっちの技術でそっちと通信しているんだ。途中どんな経路でそっちに繋がっているのかとか、本当に魔法でしかないけどな」
「じゃあ、本当に魔法はないの?」
「ああ」
「そう。魔法がないのに、その概念はあるって、なんだか面白いわね」
「俺もそう思うよ」
話は別の方向に行ってしまったが、要するに向こうの世界では、甘いものには魔法力を回復する効果があるらしい。
それで、みかんの缶詰の甘さは、魔法力回復に最適だと、そういうことだそうだ。
魔王城近くにいるアルムたちは、食糧さえも必要な状態だ。いくつかの魔法力回復薬を持ってきてはいたものの、心もとなかったのだろう。降って湧いたような状況に、つい我を忘れてしまったというところか。
ちなみにみかんの缶詰を十缶食べて、二人の魔法力はほぼ回復したらしい。
そういえば、砂糖って古代では薬とされていたんだっけか? 日本では奈良時代に中国から砂糖が伝わって、薬として珍重されたって聞いたことがある。
疲れたときに甘いものが欲しくなるのは、脳がエネルギーを補給したがっているというサインだというし、そんなときに甘いものを食べる元気が出ることから、古代では薬とされたのだろう。
恐らく魔法士というのは、脳をよく使うのだろう。
甘いお菓子に多く含まれる糖質というものは、脳の唯一のエネルギー源と言われている。
魔法力そのものはよくわからないが、そうだとしたら何もみかんの缶詰じゃなくてもいいはずだ。
「なあ」
「何?」
「その魔法力回復効果のあるものなんだが、みかんの缶詰じゃなくても、甘いものならなんでもいいのか?」
「ええ、まあそうね」
「他にも色々と入れておいたぞ?」
「……なんですって?」
ジョリーの目が、ぎらりと光ったような気がした。
「ジョリー、どうしたの?」
「アルム、黙ってて。……で、それはどれ?」
アルムを押しのけて俺に聞いてくるジョリー。
鬼気迫るような様子が大変怖かった。
「あっと……、ダンボールの中に、こんな文字が書かれているものがあったと思うんだが……」
メモ帳に「甘いもの」と書いて、ジョリーに見せた。
「……これが全部、甘いものだというの……!?」
ダンボールの箱を広げて戦慄いているジョリー。
これはまた、大変なことになりそうだ。
「まずはこれは何!?」
「それはチョコだ。食べ方は――」
俺は質問に、ひたすら答え続けるのみだった。