3 ――泥沼――
気がつくと全身は誰かの血で赤く染まっていた。しかしそれが”誰か”で正しいのか彼にはわからない。周囲に飛び散る数人分の肉塊を見るに、複数の血に塗れているのは確かなようだった。
右腕が喪失していた。肉体が衰弱していた。されど隆々とする筋肉は少し動作するたびに中で胎動し、長く伸びた鋭い爪は、指を動かすと擦れて音を鳴らす。
夏目鳴爪は、久しぶりの外の大気を胸いっぱいに吸い込んで自由を抱きしめていた。
自身の能力を目一杯解放したのは久しぶりの事で、故の反動、副作用を危惧した彼であるが、かえって肉体が活性化し衰弱していたソレに力が戻ってくるのを覚えて微笑んだ。
歯を剥けば、牙のように尖った犬歯が剥かれて口からはみ出る。だがそれも徐々に、指から伸びる鉤爪が如き爪と同様に元に戻っていった。
――その行程半ばで挫けてしまいそうな階段を登り切り、人気が限りなく無である、左右の壁に扉が張り付いた通路を歩く。するとその突き当たりに、出口と思わしき鉄扉があった。
「……疲れたなぁ」
肘の先は、強引に引きちぎられたかのような損傷、断面を見せている。右腕は喪失していた。
そこからは地に確かな軌跡を描けるほど大量の血液を垂れ流していたが、同時に随時、それを上回る血液量を体内で作り出していた。異常な新陳代謝に加え、細胞分裂がそれまでナツメが得た無数の致命傷たる傷を治癒させていた。故に傷は痕としてのみ残り、腕の断裂面も丸みを帯びて、露出する肉や骨を皮膚で覆い始めていた。
残された左手でドアノブを捻り、血に糞便に小便に、その姿、汚臭だけならばそこいらの浮浪者に勝る醜態をドアに沿わせ、足を踏ん張らせた。
予想していた施錠はなされておらず、扉はいとも簡単にナツメの脱出を可能とする。そして同時に、外界の凄まじい寒風が、彼の肉体に襲いかかった。
殆ど裸に近いその姿。だがナツメはそれを気にした様子もなく、大きく深呼吸をして周囲を見渡した。
誰もいない通り。否、誰もいないというのは大間違いだ。
一人居た。
しかも知り合いだった。
「出てくると分かっていたのか?」
ナツメが問えば、その影はこっくりと小さく頷いた。
「思いました」
口を動かすと同時に、ばちりとその曖昧な黒い輪郭の回りで火花――それは電気だった――が走る。威嚇するように、その感情の高ぶりを示すような、代弁者たる電撃は彼の能力だ。
一度は打ち負かした男。両足をへし折り逃げられなくなったはずなのに、既に拷問にかけられているはずなのに――脱獄し、行方不明になっていた男の名は『西篠輝』だ。
「砂漠で遭難してた所を助けたのに、随分じゃないか……西篠」
「……何を言っているんです。アレはあなたをハメるためだって、自分でも気づいていたじゃないですか」
殺気。
それが西篠の身体からあふれていた。
闘うつもりだ。殺し合いをするつもりだ。
「それがお前の、本性ってわけか」
「猫かぶりは、まあそこそこ得意ですから」
男が嗤い。
男が構える。
――それから数時間後、中央にまで響く強烈な爆発は全ての事態の急速な収束を促すことになるのだが。
その交戦以降、姿を消す鳴爪の行方を知るものは居らず。
そして人知れず交戦し、人知れず血を流し続け争いを終結させる物語を、やはり知るものは多くはなかった。
人々が滅び、生存者が復興して久しいこの世界。
争いは終え。
しかし人がいる限り、争いは途絶えない。
ただそこに、特異能力と呼ばれる、新たな要素が加わるだけだった。
人類はただ、運命に翻弄されるまま、世界の終焉を目指す――。




