1 ――計算外――
ぼとりと、腐った柿が木の枝から落ちるように、腕はその下腕の半ばから滑り落ちた。筋繊維は既に腐りその繋がりを希薄にしていて、血は血の悪臭ではなく、汚水の如き醜悪な臭いを振り撒いた。ぼとりと、ぐちゃりと音がするのは、中途半端に血液を残していたからだ。
そしてそれが、その音がきっかけで目を覚ます。途端に感じたのは部屋に充満し始める悪臭と――脳味噌に直接針を突き刺されたかのような、鋭い痛み。鼻に付く腐った生鮮品を長らく放置したかのような臭いが吐き気を促す。鋭い痛みは彼の肉体、そして精神、思考の全てを停止させた。
長引くその痛みの原因が分からずに、混乱する。そしてその余韻をたっぷりに、その激痛は徐々に程度を引いて行った。最も、その精神力で何とか耐えられる程度であるのだが。
「ッ――――!」
押し殺した叫びが、かび臭い部屋の中に響き渡る。人造石で四方を固めた、独房のような部屋である。気温は朝になろうと夜になろうと変わらず低く、吐く息は白く染まる。そして壁に鎖で繋がれた彼は、途端に、爆音の如き音を立てて開かれた扉に、心臓を掬われた気分になった。
「っるせぇんだよ、クソッタレが。今何時だと思ってんだ? ……臭ぇな、また糞でも漏らしたかと思ったが――壊死した腕が腐って落ちてンな」
頭が割れるように痛い。男の声がまるで、耳元で超音波を放たれているかのようだった。細胞が壊死して痛みも触れた感覚も失われたはずだったこの右腕は、喪失した瞬間に痛みだけを伝える。故に、鎖流れている感覚も、その締め付けられる窮屈感も、彼には無かった。
間も無く彼の意識は途切れて、短い悲鳴を後に、鎖に支え、もとい吊るされる。首はギリギリ締め切らない程度に緩む長さを持っていて、崩れた腕の断面は鎖に縛られ止血の効果を及ぼされた。
扉を突き破る勢いで入ってきた男は短い嘆息を落として、可哀想に、とおよそ彼の外見に似つかわしくない台詞を吐き捨てた。それから、背に気配を感じて――その主をその目で確認せぬままに、口を開いた。
「もって一日、二日ってトコだろうな。いや、飲まず喰わず垂れ流しで拘束状態、これで二週間って……コイツ、下っ端だろ? 上位連中はバケモンかよ」
「いえ、この男――ナツメだからここまで保ったのですよ。完全に自分の中で終わる、自己完結の特殊能力……そしてこの戦闘力や生命力を見るに、一年や二年で鍛えられたものではない」
生まれ持ったその才能と絶え間ない努力の賜物だろうと、好青年の様相を呈する男は、ただそう口にした。優男風である彼は短い黒髪を掻き揚げ全てを後ろへ流し、オールバックに決めている。そして尋問員よりやや背の低く、背後でその男が立つと、その頭は彼の肩あたりで終えていた。
尋問員の方は筋骨逞しく、シャツ姿になればその筋肉が隆々と浮き出ているであろう程肉体は武骨であった。髭を蓄える彼はその顎を撫でて吐息を漏らし、背後でゆっくりと扉が閉まる音を聞きながら、言葉を続けた。
「伏兵?」
アレが? 男は背後の扉を親指で指して聞いた。冗談でも言うような軽さで。
彼らの足音は長く冷たい通路に響き渡る。その後頭部が前へずれるのを見て、
「伏兵が目立ちすぎるかよ」
「確かに。しかし少なくとも、有象無象の一部には見えましたよね? この私が目をつけなければ、そのまま流してしまいそうなほどか弱い彼を」
確かに彼の言うとおり、特筆して目をつけるべき男ではなかった。それなりの実力を持つ『西篠』がやられた時だって半ば相打ちに近かったし、『アキラ』と対峙したときも殆ど紙一重だったらしい。だからわざわざこちらから動くほどではなかった、と、聞いた限りの情報を思い出して、彼は頷いた。
その程度の強さの人間なら治安維持委員会に腐るほど居るだろう。ただ今までソレが無かったのは、出くわさなかったり、その所属している組織として、そして個人としても動きづらかったからだろう。そう考えれば、砂漠から久しぶりに帰ってきて世間もろくに知らないような彼は、十分に動きやすかったのかもしれない。そしてタイミングが良かったのも、その要因だろう。
そして、まるで促されたように、彼の脳裏に予感が過ぎった。
もしかして呼び戻されたのか? しかし一体誰が。そしてどうやってその状況を見極めて?
いや、それ以前に――砂漠を歩いて過疎地域から戻ってきた事実を見たのだから、警戒すべきだったのではないだろうか。背後にはまるで千里眼をもつかのような組織が居る事を前提に考えて。だがどちらにせよ、先手は打てた。
しかし……。
「ナツメっつったけか。奴ほど……なんつーかな、不安っつゥか、見てて嫌な気分になる人間は始めてだ」
「死して尚仁王立ちで硬直しそうですもんね……」
ナツメのもつ不屈の眼力には、さすがの彼でも弱気を吐かざるを得なかった。最も、それは弱気と言うよりは半ば口に近い言葉なのだが――。
やがて一分もせずに通路の終着点へと到着する。目の前には数段の扉があり、そして天井と同化する、床と平行に存在する蓋のような扉があって、彼はソレへと手を伸ばした。
――大都市東京より北北東に三八キロ地点 一四時○○分現在――
――ピリリ、ピリリ――
籠った電子音が静かに大地を敷き詰める砂を揺らす。男はその振動を手のひらで感じて、片手に携帯無線機を持ちつつ、顔を上げて周囲を見渡した。眼前に広がるのは何一つ変わらぬベージュ一色の乾いた景色。風は熱風となり、地面の砂は太陽光を反射して限り無く近くまで下げられる顔を焼く。故に酷く熱く、その顎からは汗が滴り落ちた。
日差しは一日の中で一番強く鋭く激しくなる時刻である。まさか、朝から出かけた筈なのにこんな時刻になるとは思わなかった彼は、その為にこの僅か十数分で、街に戻るまで残っている計算で節約した水を、予定の倍近く消費していた。そしてまた、彼は慣れぬ喉の渇きに耐え切れずに、腰に下げる革製の水袋に手を伸ばした。
その瞬間、彼の手元に稲妻の如き衝撃が走る。凄まじい激痛に、強く弾かれた手はそのまま水袋に触れる事無く屠られて、痛いと口にする暇も無く、怒声は頭から被された。
「この状況下での水分の過剰摂取は肉体によろしくないのですわ。喉が潤う程度が丁度良い。汗として流しては摂取した意味がない」
日よけとして被る外套から、透き通るような長い金髪が零れて風に流れる。声は周囲に良く響く高さを持って、そして同時に、近くに居るもう一人に同意の首肯を促した。
「つーか何であたしまで……。この能力、砂漠じゃ負担掛かるンだけど……ん?」
暑苦しそうに剥ぎ取るフードによって露になった頭には、太陽の光に輝く青黒い癖っ毛が短く跳ねている。彼女は踏みにじった大地の中に何か硬いものを感じて、そしてさらに、その足の下から妙な電子音を聞いて、眉を顰めた。
男は声を上げる。
「おい、そいつだ。目標発見」
彼女は額に浮かぶ汗を手の甲で拭いながら、直射日光を避けるための外套をぱたぱたと仰ぎつつ屈み、そして厚底ブーツに踏まれた手のひら大の機械へと手を伸ばす。砂に埋もれ、だがそう深くない位置に、それはあった。だから簡単にそれを拾い上げ、積もる砂を振り払いながら顔の前に持ち上げた。それは、予想していた携帯無線機と同様の物体であった。そして持ってくるように、探査して回収してくるように言われたモノと同一の機械であった。
「シリアル確認っとけよ」
手の甲をゴムの弾丸で葬られた男は赤く染まるその部分を生暖かい吐息でふーふーと冷やしながら彼女――涼谷涼子に命令する。実質この三人内のリーダーである彼にはその権利があって、ソレ相応の風貌と信頼を持ち合わせていたために、彼女はなんの不平不満も漏らさずに、バッテリーパックを外して、本体に貼られてあるシールから、シリアルナンバーを露出させた。
「二○七……ビンゴって奴だね」
「第一目標は完了ですわね」
エリック・ジェーンはその碧眼を鋭く光らせながら口にする。涼谷はその言葉を聴きながら、残り少ないバッテリーを元に戻して、携帯無線機を背負うバッグの中にしまいこんだ。それらをざっと見渡しながら、男――出水保孝は深い溜息をついた。
そう、第一目標は完了した――。
まだ日は高い。近くの集落に待たせてある砂船まで、歩いて向かい、順調に進んでも日が暮れるにはまだ余裕の有る時間帯に戻れるだろう。最悪の状況を考えると――多分、誰一人として戻る事は出来ない。
そして課せられたもう一つの任務には、その最悪の状況に自分から首を突っ込む羽目になる。任務を放棄する事は簡単だ。この重い瞼を閉じる次くらいに容易である。ただ諦めるだけで良いのだ。そして最初からその任務を断りたかった心情は、その決断をする際背中から押してくれる。頼もしい事この上ないわけだ。
が……。
「第二目標は……砂蟲の生態調査ですわね」
「実際のトコ、ただ単に倒して実力を見せてみろって所だろうね」
今回に限り部下と成り下がる彼女等二人は、やたらめったらに乗り気であった。そんな彼女たちを尻目にリーダーである出水が、痛いのは嫌だから、死ぬのは怖いからなんて至極真っ当な理由を、まるで子どもが愚図るかのような口調で渋んで有耶無耶に任務を放棄することは出来ない。そうした途端に、威厳も権威も、簡単に吹き飛んでしまうだろう。
ちょっとした風によって風景が直ぐに変わる、この砂漠のように。
しかし何もやらずに甘んじ流され死ぬくらいならば、出来る事を最後まで粘り尽くそうと考えるのが出水保孝である。ナツメが居れば、そんな心情を配慮して適切な部分で逃げを選択してくれるだろう――などと考えながら、彼は口を開けた。
「いくら任務だといってもこれは『ついで』に過ぎねぇ。だから出来ることはやって、危なくなったら逃げるのが先決だ。誰に拾われるよりも早く携帯無線は回収できたんだ」
時間も無ェ水も無ェ、体力はそこそこだがコンビネーションが致命的。そもそも砂蟲の情報が皆無なのだから、立ち向かう時点で選択を誤っている。だが任務だから戦うのが俺たちの性だ。イケる所迄行こう。
教本通りの台詞は彼なりの言葉に変換されて紡がれた。実力が任務に適していない、あるいは相手が未知数の場合に通常考えられる作戦、というよりも常識であるそれは、彼女等をなだめる為に発された。しかし人が人の為に作った教本通りに行かないのが現実と言うものである。
「今まで砂蟲が討伐された記録が”無い”のは遭遇した者が居ない、ないし、遭遇してもその場に倒せる程度の実力者が居なかっただけだろう?」
「課せられる事自体、この時代じゃ無駄すぎるという考えがあるために、稀有ですものね」
つまりは、自分たちはその『正体不明の化けモノ』を倒せる実力者であると彼女等は口にした。自分たちを、その力、能力を驕っているとしか思えぬ発言だった。
――現実は非情だ。
絶対、最強なんて力は存在しない。故に、相手の事を良く知っていても油断すべきではない。筈なのに、彼女等はそれも忘れて『選ばれた』ことに、その実力を『認められた』と勘違いして浮かれていた。それはおよそ彼女等らしくないことではあったが――そこはまぁ”仕方が無い”で片付けられるだろう。
移動要塞とも言われる頑健な作りで対外戦用に大砲を備える砂船をたった一撃で仕留めるような化け物の討伐に選ばれたのである。それはこの力を認められたと見るしか無いだろう。
そして話によると、彼女等は知らないようだが――アキラと呼ばれる、反政府組織の人間がたった一人でミミズ型の巨大砂蟲を討伐したらしい。これを脅威と取るか、自身を落ち着かせる要因と捉えるかは自由であるが、少なくとも出水は脅威として感じていた。その、アキラと自称する男の存在を。
しかし彼は知らなかった。この史上で、砂蟲と呼ばれる巨大害虫を日課の如く蹴散らしていたその男の存在を。そしてなぜ、砂船が安全に砂漠を行き来できて、砂蟲の出現が珍しいのか。なぜ――ナツメが常に砂漠への、あるいは開発地区、発展途上地域へばかり派遣されていたのかを。
砂船を利用せず、この場所に携帯無線機を落としたところを見るに、少なくとも最低限の荷物で四○帰路近くを徒歩で砂漠を横断したナツメの事を考えれば容易に分かる筈であるが――悲しいかな、彼はその任務を、紙上では黒く塗りつぶされ『休暇中』と直されていた。故に、それを知る術は無かった。
「どちらにせよ少し引き返すべきだと思うんだが」
「あぁ、それは賛成」
「懸命な判断ですわ」
危機管理能力、先を見通す力はまだ残っているらしい。彼はそれを確認できただけでも安心できた。
そうしてポケットから方位磁石取り出し、手のひらの上で『S』の字を指すのを待つ間。
地面がゴゴゴゴと深い階層から鈍く重く低く鳴る地響きを、身体で感じて――。
世界は轟音を響き渡らせ、彼らの視界を黒く染める。
目の前に、巨大な砂蟲が出現した瞬間のことである。