SKILL4 『逆境』
――某所――
「起きろ」
声と共に冷水が肉体に染みこんだ。瞬間、音は全てが掻き消され、異常なほどの冷気が彼を――『夏目鳴爪』を襲い込む。一瞬にして回復しかけた生命力を極限までに追い込んで、目がようやく開けられようとする刹那、耳が音を認識し始めるその瞬間、濡れた髪は強引に掴まれ、垂れる顔は引き上げられた。
冷たい水が傷に染みる。蚯蚓腫れなんて言葉が生易しく感じるその深い傷跡は、同じ箇所に何度も的確に鞭を振るわれた故に出来た裂傷であった。その傷跡は、引き締まり薄く筋肉を浮き上がらせる彼の肉体に、典型的な拷問、あるいはお仕置きを想像わせた。
男は醜悪な吐息をナツメに吐きかけながら、彼の意識を覚醒に誘う。が、その行動よりも早く、ナツメの頭は起きていた。しかし彼はそれを知ってか知らずか、それとも単なる八つ当たりか暴力行為が趣味なのか、力いっぱいその拳で頬を殴り抜けた。
肉を叩く音が響く。コンクリートの壁に囲まれたが故にどこまでも響き渡るような錯覚を得たのかと思ったが、どうやら自分の頭が一瞬の音を何度も反芻させているのだと、彼は気が付いた。もう痛みなど感じる余裕は無く、ただの衝撃が身体を揺らすだけだった。
早く意識を失いたい。そう願う一方で、
「はっ、なんだァ、その目は?」
彼の無意識は敵意を持って牙を剥いた。目が鋭く、決して希望を捨てず失望を持たぬ眼光を光らせ、顔は表情を変えぬ。何の恨みも無い、ある一定の良識を持つ人間が見れば不気味に思うだろう。だが”タガ”が外れた尋問員にとっては、単に歯向かう一奴隷にしか見えない。
故に拳は、再度その赤く染まり、本来の二倍近くまで腫れ上がる頬を叩いていた。ソレが故に大きく開かれるべき目はうっすらとしか世界を認識する事が出来ず、耳も極端な高音か、大きな声しか聞き取る事が出来ずに居た。
――何日経過したのか分からない。その術は無い。だが興味も無い。
自分が何故生かされているのか理解できなかった。
「だから言ってるだろう。俺は長い事、砂漠――この都市の外の任務に就いてたから、二年、いや三年か……それくらい委員会に所属していても、この都市に滞在したのも大体半年に満たない。だから友達も、親しい間柄の人間すらも少ないし」
無論、自分に与えられる委員会内の情報は、限り無く少なかった。
だからといって、それを吐露する謂われも無いのだが――どちらにせよ、彼らが求めるであろう情報が無いことくらいの判別がついた。彼らもそのくらい、容易に想像できるはずだ。だというのに、この肉体、精神を痛めつける一方で、殺しはしない。ギリギリの所で生かし続けるのだ。
故に、首まで浸かるは生き地獄。反射的に、本能的に表面を偽ることは出来ても、彼自身が実際に見ているのは深い暗闇でしかなかった。
この場所が何処なのか分からない。何が目的なのか分からない。なぜ自分なのか分からない。なぜ、これほどの力があって、一度委員会本部への襲撃が成功しているのに、こんな事をしているのか分からなかった。
敵が、敵は反政府組織であるに違いない。が――俺は一体、ソレに対して何を知っている?
ナツメは”未知”の恐怖に包まれていた。何も知らぬが故に怖くて、何も出来ない。仮に此処から逃げ出すことが出来たとしても、もし此処が、砂漠のど真ん中だったら? 敵地の中心だったら? 今のこの生き地獄が、本当はまだ幸せな、本当に幸福な幻想に近い状況に思える現状だとしたら?
背筋が凍る。
頬がまた衝撃を受けて、身体が揺れる。視界がぶれる。脳が震盪し、意識がイきそうになった。
「ンな事ァどーでもいいンだよ。ツーか聞いてねぇし。お前に対する尋問はまだこれから。コイツはただの朝のご挨拶ッて奴よ。”オハヨウ、ナツメくん”?」
壁から伸びる鎖に四肢が繋がれる。伸びるといっても、たるむ事が出来るほどの余裕を持つわけではないために、半ば壁に貼り付けられるような形で――彼は感覚の鈍い腹部で拳を飲み込んだ。衝撃が内臓を貫き、壁に流れて消える。ナツメは喉許まで溢れる胃液の反流を抑え呑み下し、溺死を防ぐ。
それから大きく口を空けて、その空間の濁った空気を貪る中で――気がつくと男はそこから失せ、彼が見るのは閉じかかった扉だけだった。
「……はァ、なんで俺が……」
こんな目に。そう口にしようとして、異常なまでに重くなる瞼に阻まれた。口を動かす元気が出ない。今起きたばかりだというのに、また眠くなってきてしまったのだ。まるでだらしない、学生の休日のようで――。
ナツメの意識は、そこで途絶えた。
――中央地区地区第二区画。一○時五五分現在――
「しまった。国内外交は全て奴に任せていたから、何をすれば良いか分からん」
その上、砂漠から戻ってきた後、その報告を聞きそびれて――二週間、内一週間は行方不明となっている。
そろそろ、近辺の辛うじて生き残っている街への配給なのだが――人口把握も、技術提供の程度も曖昧だし、そもそも街の誰が代表者なのかすら知らない。最も、向こう側に住み込みで居る政府の人間が居るから、ただ砂漠を渡れる人材が向かうだけなのだが――。
今この状況で、それが可能となる人間を準備するとなると、割合に難しい事となっていた。
「……はぁ。自分の目的の為に部下を使うのは構いませんが、あまり此方に支障をきたすような事は……」
電話の向こうで、失望を含む溜息が聞こえた。申し訳ないという気持ちを孕みながら彼は電話越しに深々と頭を下げる。それから相手の言葉を受けて、電話を切った。ブチリとなんだか無情な音がして、彼――治安維持委員会、第三課課長はうな垂れる。
結局、自身が行う手筈は全て電話相手――彼が所属する委員会を統べる長たる存在、華月委員長がすることとなった。彼女なら適正な判断の元、的確で素早い指示を遅れるだろう。
「私のような老いぼれとは違ってな」
自虐的に独りごちる一方で、その瞳には未だ若さを忘れぬ力があった。圧倒的な威圧を持てるその眼力は、彼が課長に上り詰めるために得た経験だけでは到底説明できぬ強さであるが――。
瞬きをする。目を閉じ、そして一瞬後に開ける。すると、目の前には黒い影――誰かが居た。不躾にも、扉を開けずに瞬間移動で来たであろうソレは、気怠そうに一方の足に体重をかけて、喉を震わせた。
「禿高、只今参上仕りました」
「来るのが一日遅い」
力なく言葉を漏らす課長には既に先ほどの眼力は失われていて、疲れきった様に椅子に身体を預けた。背もたれは僅かに下がり、その視線は天井を向く。禿高を名乗る男はズボンの尻ポケットに突っ込んだ薄っぺらい、一枚だけの資料を取り出して、前説も置かず唐突に告げ始める。
「反政府組織の調査に向かわせた、高田、鈴木、美鈴……あー、その六名の消息が途絶えた、と報告したかったんですがね。昨日は。その直後に手がかりを得て探したところ、発見いたしました」
厚いナイロン製のジャケットのファスナーが開き、彼はその内ポケットから茶封筒を取り出した。が、その瞬間、手元からそれは一瞬にして消失し――ぼとりと音を立てて、課長の資料で散らばる机の上に落ちた。そしてご丁寧にも中身である写真はそれぞれ分散し、わざわざ手を使う必要なく、視線を落とすだけで、課長は中身を確認できた。
ぱっと見では全体的に赤すぎて何が描写されているのか分からない。しかし、その中で一枚だけあった、並ぶ墓標の写真を見て、それがすべて原形無き肉塊で死体なのだと理解できた。それはあまりにも無残で、残酷で、冷酷な写真であった。
だがそれには確かな意味があった。ただ殺すだけでは、これほどまでに無駄な解体作業は行わないだろう。最も、これを行った相手が普通ならば。だから課長は考えた。恐らくこれは脅しなのだと。この六体分の死体は、不用意に近づいたり探ったりすればこうしてやるぞ、と言う脅迫なのだ。
――ならば、大して近づいていないのにも関わらず、さらに向こうから襲われたナツメは一体……?
彼はその存在を可能な限りここに置かなかったし、襲われる危険性を抑えるために情報も与えなかった。それもこれも、彼の、課長のたった一つの思惑、良く言えば作戦のためなのだが――自分以外の誰かがそれを知るはずが無い。故に、彼が攫われる原因が、要因が、一週間経過した現在でも見出せなかった。
無論、ナツメの居場所も、発見できていないのである。
「ご苦労。……そうだな、次の任務まで待機を命ずる、といった所だ」
「了解、と言いたいところですが、ねぇ……課長。届かない場所に手、届かせてみたいとは思いませんか?」
妖しく男の声が響く。課長は眉間に皺を寄せて彼を睨み、
「誰だ、貴様……?」
机の引き出しにしまいこんだ、護身用の拳銃、もとい引き出しに、その取っ手に手を伸ばす――しかし。そうした瞬間、気がつくと、禿高は既に机のすぐ手前にまで迫っていた。
「ヤですね、俺ですよ。ただ単に、仕事外手当てに色を付けてくれるだけでいいんです。最も、命は張れませんがね」
彼はいつもの調子で言葉を口に、そして出すぎた態度で抱かれたであろう妙な疑念を振り払うように、両手を頭の後ろで組んで、微笑んだ。課長はソレを見て短い嘆息の後、任務ではなく、自身の私用を、彼に伝えた。