18話 気持ちの自覚
期待をするだけ無駄だった。
深いため息を吐きながら着替える。
旦那様が迎えに来なくなって、もう一週間が経過している。さらに言えば、朝食も夕食も共にしておらず、会うことすらできていない。
(私、何かしてしまったのかしら)
新聞社に向かう準備をしながらそんなことを考えるが、思い当たることがない。強いて言えば、最初に言われていた「お互いに干渉しないこと」と言う約束が破れていることだろうか。それにしても、最初に干渉してきたのは彼の方で、私の方ではない。彼の方から質問を投げかけてきたりしたのだ。それを私のせいにされたらたまったものではない。
彼の中で、私の発言に思うところがあったのかもしれない。でも、それにも心当たりがない。
アメリアは自分が世間知らずであること、一般的な貴族に比べれば貴族らしくないことは自覚している。それはウィリアムもなんとなく察しており、最近は少しずつ貴族らしくなってきていると思っていた。
「奥様、終わりましたよ」
「ありがとう。そんなに遅くならないと思うわ」
「かしこまりました」
リリーも旦那様が来なくなったことを察しているが、口には出さなかった。口に出すことで、アメリアの気持ちがこれ以上に沈んでしまわないようにと考えているのだろう。実際、アメリアはショックを受けていた。
ウィリアムから声をかけて来た日以来、二人は少しずつ話すようになっていた。お互いのことを知るための会話というのは興味深いもので、アメリアも面倒だと思っていた朝の時間がだんだんと楽しみになって来ていた。それだというのに、仲良くなり始めたと思った瞬間、彼は来なくなった。
仕事が忙しいのかもしれないと思ったアメリアは、廊下を歩いている際に見かけた執事のレオンに声をかけたが、曖昧な返事しか返ってこなかった。
『体調が悪いとか……?』
『いえ、そういうわけでは。奥様が心配することではありませんよ』
『……そう、ですか』
『よければ、旦那様に何かお伝えしますか?』
『いいえ、大丈夫です』
アメリアはこのとき、自分には何にも期待をされていないのだと自覚した。そして、仲良くなれていたと思ったのは、自分の自惚れであったこともわかった。
何かあっても報告すらなく、教えてももらえないとなれば、自分には何も恋体をされていないということだろう。
気持ちを切り替えようにも、どうしても心の奥が不思議と苦しくなる。こんなことで悩みたくなどないのに、天邪鬼になっているのかどうしても思考がそちらにいってしまう。
ため息を吐きながら、馬車に乗り込む。
御者の「ヤー!」という声と同時に馬車が動き出し、アメリアは窓の外を眺めた。
これから新聞社へと行き、見本誌の確認がある。いよいよ、アメリアの本は世に出されようとしていた。
(……不安になるのは、なんでかしら)
胸の奥が、妙にざわついている。緊張によるものなのか、それともほんの少しだけある嫌な予感が当たってしまったら、と考えているからなのか。それとも、思っているより旦那様のことで悩んでいるのか。
もはやどれが自分の気持ちを占めているのかわからず、頭を抱えてしまう。前世ですら、こんなに悩みを抱えたことなどないのに……。
きっと、前世では全てを諦めていたからだろう。
悩むよりも前に結果が見えていて、行動を起こす理由もなかった。何をしても無駄、何をしても叶うわけがないと、全てを諦めて時が過ぎるのはただひたすら待っていた。考えてみれば、行動を起こさなければ何かが起きるはずもないのに、当時のアメリアは動く気力すらなかったのだから仕方のないことだろう。
随分と変わったな、と考えたところで馬車が止まった。
御者の手を借りて馬車から降り、慣れた様子で新聞社をノックし、ドアを開ければいつもの受付の人がアメリアをすぐに応接室へと案内した。
「アミーさん、お待たせしました!」
少し待てば、数冊の本を抱えたソフィアがやってきた。
「そんなに待っていませんよ」
「気遣いのお言葉、感謝します。ついに、アミーさんが書いた本の見本誌が出来上がりました!」
どうぞ、と言って渡された本はずっしりと重く、表紙は目立ちながらも色味は自分が希望したイメージそのまま。そして、表紙の絵もとても素晴らしく、これなら表紙で興味を示してくれる人も多数いることが見てとれた。
「とっても素敵ですね……」
「はい! 私も見た時、これは間違いなく売れると確信しました」
そっと抱え、表紙を撫でる。少しだけ特殊な加工をしたのか、本のタイトルの部分に凹凸があ理、表紙の紙もこだわっているのが伝わってくる。
「ソフィアさん、ありがとう。まさか、こんなにも素敵な本になるだなんて……」
自分が書いた物語が、本の形になる。
どれだけ嬉しいのだろうかと、何度も想像した。
それがいざ現実になると、どうしようもないくらいの感動と感謝。そして、ついに夢の第一歩が叶ったのだと実感し、涙が小さく溢れてしまった。
なんだか、夢心地のようだった。
現実であることには変わりないのに、どうしても体がふわふわと宙に浮かんでいるような、夢を見ている時のような不完全さが体をめぐっている。なんだか不思議な気分だ。
「アミーさん、まだまだここからですよ! この本は数週間後には発売されます。ウチが発刊している新聞でも広告を出しますが、まずは初動が大事です。うまく売れれば重版も夢ではありません!」
「数週間後には、人の手に渡るのですね……」
「はい。いよいよですよ」
「なんだか、実感はあまりないわ」
「そうですよね、でもご安心ください。アミーさんの作品は、面白いです。そして、応募から今までの約半年近く、頑張って来ました。間違いなくこの努力は結ばれると、私は確信しています」
「ソフィアさん……」
嘘ひとつない、心からの本音をソフィアは語った。
力強い目で語られる事実というのは、不安を抱えているアメリアの心を動かすのにも十分であった。
それでも、違うことで悩みを抱えているアメリアはそれだけではダメだった。本の出版に対して、どのような評価が付くのかの不安はもちろんあるが、関係のないところで、自分の旦那に対する悩みがどうも邪魔をしてくる。
「……どうかされました?」
暗い顔が一向に晴れない様子を見たソフィアが気使うように声をかけた。
アメリアは、本の出版に全く関係のない話をしても良いのかを考えた。打ち合わせを重ねていくうちに、信頼関係は出来上がっていたと思う。ソフィアは、アメリアの身分を聞いた時の驚きはしたものの、それで態度を変えることはしなかった。夫婦仲の相談をしたところで言いふらすような真似はしないはずだ。
「悩みが、あるのです。旦那様に対してなのですが……」
「旦那様って……ウォーカー公爵様のことですよね。何かあったのですか?」
ウィリアムとアメリアの夫婦仲はあまり良くないという噂は元々ある。あくまでも政略結婚であり、恋愛関係は全くないことやウィリアムは一切の興味を示していないことなどは、ほとんどの人が知っていた。それはソフィアも例外ではなく、彼女も新聞を書く記者として知っている情報だった。
アメリアは小さく深呼吸をした後、ゆっくりとソフィアに悩みを打ち明けた。
急に旦那様の態度が変わったことや、自分の心を占めているこの気持ちはなんなのか。これから旦那様に対してどう接すれば良いのかを話した。
するとソフィアは少しだけ口角をあげ、ニヤニヤと笑っていた。
「あの……?」
「ごめんなさい、あまりにもアミーさんが可愛らしいから」
「か、かわいらしい?」
アメリアは思わず吃ってしまった。悩みを打ち明けて「かわいい」と言われる理由はわからない。
「ええ。初めての恋に戸惑い、迷い、悩んでいるように見えます。その自覚がないみたいなので、かわいらしいと思いまして」
「恋……?」
恋、とは。
想い他人がいて、その人と結ばれたいと願う、あの恋。
そこまで考えて、アメリアは顔がカッと赤くなった。
今までに感じたことのない気持ちの正体が恋だったなんて、誰が考えるものか。アメリアは熱くなった頬を冷やすように両手で頬を押さえたが、顔は熱いままで、熱が冷める様子はない。
そんな様子を、ソフィアは微笑ましいと思いながら眺めていた。




