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その二

 次に起きたのは辺りがだんだんと暗くなってきたころだった。時計を確認すると、午後六時過ぎ。何時に寝たか、はっきりと覚えていなかったけれど、おそらく二時間は寝ただろう。時間としては大した睡眠ではないのだけど、私はずいぶんすっきりした気分になっていた。頭の痛みも大分引いていて、気持ちも楽になっていた。


 すると途端にいろいろなものが見えてきた。ここは本当に寝室と呼ぶにふさわしく、勉強机すらなかった。おそらくここは寝起きと着替えをするための部屋なのだろう。ベッドと箪笥・クローゼットしかない。つまり勉強部屋は他にあるということだろうか。彼は高校生の一人暮らしである。にもかかわらずなぜこんなに広い部屋に住んでいるのだろうか。家庭の事情にあまり首を突っ込んではいけないと思い、深く追求したことはないのだが、前々から気になっていたことだ。箪笥だってシンプルだが、安物には見えない。このベッドにしても布団にしても私が寮で使っているものより、ずっといいものだ。彼は毎日こんないい布団で寝起きしているのかと思うと、少し頭に来た。そこでふと気付く。


 彼が、毎日、寝起き……。


「………………………」


 ついに意識してしまった。もう知らん顔することはできない。私の顔は急激に熱を帯びる。一瞬熱がぶり返したのかと思ったが、そんなことではもちろんない。


 私は途端に落ち着きをなくした。どうにも落ち着けない。今、私の周りは彼の匂いで充満している。出会ってから、もう一年以上の付き合いになるけれど、ここまで彼を近くに感じたことはない。顔が熱い。きっと私の顔は真っ赤だろう。このままではまた熱が上がってしまうのではないか。加えてここはベッドの上、布団の中なのだ。そこで彼の匂いに囲まれて。なぜか緊張してしまうし、恥ずかしくてしょうがない。


 私はもう一度寝ようと、布団をかぶりなおす。しかし、思い切り逆効果。私は何度も寝返りを打ったり、水を飲んだり、とにかくいろいろしたのだが、結局落ち着きを取り戻すこともできず、眠ることもできなかった。




 そのまま二時間、無駄に疲労を蓄積して過ごしてしまった。午後八時を回ったとき、部屋のドアがノックされた。


「あ、はい。どうぞ」


 私が返事をすると、彼が部屋に入ってきた。


「いつから起きていたんだ?」

「六時くらいからですかね」

「それから一睡もしていないのか?」

「はい……。何だか緊張してしまって……」


 私の言葉に、彼は若干眉をひそめる。私の言っていることが理解できていないのだろう。私だってビックリだ。この部屋には幾度となく訪れた。泊まったこともある。違いはこのベッドで寝たか否かだけだ。


 その事実を再び感じてしまい、顔を赤くした私のそばに彼がやってきて、しゃがみこむと、


「それで、体調はどうだ?」


 と尋ねてくる。


「さっきよりは大分楽になりました。すみません、迷惑かけました」


 今思うと、我ながらとんでもないことをしたと思う。雨の中帰ってきたら、ドアの前で誰か倒れていたのだ。彼の動揺は半端じゃなかったと思う。私としては、今更ながら申し訳ない気持ちでいっぱいになり、何度謝っても足りないように感じていたのだが、


「侘びはさっき聞いた」


 と、彼はそっけなく答えた。彼は謝られるのがあまり好きではないみたいだ。それに、彼は鈍感を極めたように、感謝や罪悪感に疎い。私の罪悪感や、突然来たにもかかわらず、不満を口にせずに、しっかりした対応をしてくれたことに対する感謝など、全く知る由もないのだ。それが謙遜ではなく、本心であるのだから、もっとちゃんと侘びや感謝を伝えたい私としてはとても困る。


 例によって、本気で気に留めていないような態度で、私に体温計を渡してくる。私は、納得いかない気持ちを抑えて、体温を計った。


「そろそろ夕飯時だが、何か食べられそうか?」

「はい。おなか減りました」


 寝ていただけだというのに、私のおなかは激しく自己主張していた。恥ずかしいと嘆くべきなのか、元気が出てきたと喜ぶべきなのか、恋する乙女としては非常に微妙なところである。


「じゃあ持ってきてやるから」


 どうやらすでに製作済みである様子。こう答えるとバレバレだったようだ。食に対する執着が強いと思われていることを嘆くべきなのか、私のことをよく理解してくれていると喜ぶべきなのか、恋する乙女としては非常に微妙なところである。


 そこで、体温計がチープな機械音を上げ、計測完了を告げる。


「何度だ?」

「三十七度九分です」


 先ほどから一度以上下がっている。確実に体調は良くなっているようだ。私は安心した。しかし、


「見せてみろ」


 彼は信じてくれていない様子。私は書いてある数字をそのまま読み上げたのだが、そう言われると、少し頭に来た。そして、私は思いつく。


「今度は本当ですよ」


 私は体温計を身体に抱え込むようにして、彼の要求を拒んでみせた。彼は、私の行動を見て眉をしかめる。おそらく彼は、私の言った数値の真偽を確かめるために言ったのだろう。なのに、私は体温計の提出を拒んだ。すると、彼が取るべき行動は一つに絞られるだろう。


 彼はため息混じりに、私の顔に向かって手を伸ばす。そして、額に手のひらを当てた。先ほどとは違い、彼の手のひらの感覚が額を通して、鮮明に伝わってくる。傍から見る分にはとてもきれいで、女性のそれと見違うような整った見た目をしている彼の手だが、実際はやはり男性の手で、女性の手よりは少し硬い。私はまたしても顔が熱くなった。考えてみれば、これだけ近くにいるのに、手に触れたのは今日が初めてかもしれない。それともあまり意識していなかっただけなのだろうか。


 そんなことを考えていると、彼は手を離した。何か言わなければ。私の行動に、不審を抱かれてしまう。


「ね、本当に下がっていましたよね」


 こう言って、彼に体温計を渡した。彼は体温計に目を落とした後、私を軽くにらみつけていた。あまり見かけない彼の様子に、私は思わず笑みを漏らしてしまった。


 すると彼はため息をついて、


「じゃあ夕飯の支度をしてくる。ちょっと待ってろ」


 と言って、立ち上がった。ということはここで食事をしなければならないのか。私は未だこの官能的な空間に慣れることができていない。


「あ、あの成瀬さん。できればリビングで食事したいのですが……」

「何で?」

「あの、ここだと少し落ち着かないもので……」


 彼は一人暮らしだ。寝具はこのベッドしかないだろう。寝るのは我慢するとして、食事をする場所くらい、別にしてもらいたい。でなければ、私の熱はこのまま下がることがないだろう。私は精一杯真摯にお願いしてみたのだが、


「駄目だ。病人は布団の上から動かないものだ。これ以上迷惑をかけたくなければ大人しく待っていろ」


 と、見事に断られてしまった。確かに今立ち上がって熱が上がってしまっては意味がない。すでに多大な迷惑をかけてしまっているので、さすがに逆らうわけにはいかず、不本意ではあったけれど、ここは頷かざるを得なかった。




 彼が来るまで、ベッドの中で布団に包まっていたのだが、考えることは彼のことばかりだった。しかし、彼がおかゆを持ってくると、その匂いで少しの間忘れることができた。何しろおなかが空いていたため、本当に嬉しかった。


 私はベッドの上で起き上がり、その膝の上に彼がお盆ごとおかゆを乗せてくれる。


「ありがとうございます」

「水は足りているか?」


 その言葉と同時に彼はペットボトルを見た。その中身はほとんど残っていなかった。私は思わず、彼の袖を掴んでいた。そして思わず、


「あ、水はいいので、い、一緒にここにいて下さい……」


 と言ってしまった。恥ずかしい。反射的な行動と言動とはいえ、こればかりは恥ずかしすぎた。今日の私は本当にどうかしている。熱が出て、学校を休んだだけで寂しくなってしまい、一駅以上離れた彼の家に来てしまっている。加えて今のこと。正直、瞬間的な体温の上昇が急激過ぎるし、激しすぎる。


 これ以上ない愚行をしてしまった私は、己の愚昧さを嘆いていたのだが、私の発言を受けた彼が、ベッドの隣に腰を下ろした。彼は今の発言について、どう考えているのだろうか。そんなことをチラッと考えてしまったのだが、すぐに頭を振り思考を飛ばした。これ以上妄想してしまうと、頭が爆発してしまう。適当に話を振って、違うことを考えよう。


「成瀬さんは食べないんですか?」

「俺はもう食べたんだ。遠慮しないで早く食え」

「はい!いただきます!」


 我ながら下手な演技だったと思う。これでは落ち着きをなくしてしまっていることがバレバレである。万が一、下手な演技を信じてくれたとしても、これではただの食いしん坊だ。大して動いていないのに、喜んでおかゆにかぶりつくなんて、恋する乙女にふさわしくない。


 そんなことを考えながら、私は勢いよくれんげでおかゆを掬った。そして、口に運ぶ。その直後、


「熱いから気をつけろ」


 その助言は意味を成さなかった。注意してくれたのはとてもありがたかったのだが、すでに手遅れだ。私は熱さに耐えられず、口を開ける。口に入れたおかゆをはふはふしながら、


「そういうことはもっと早く言って下さい」


 と言ったのだが、おそらく彼には届いていないだろう。彼は私の怒りをさらっと無視して、


「それで、いつからここにいたんだ?」

「えっと、だいたい二時くらいに寮を出たので、二時半くらいでしょうか」


 やっとの思いでおかゆを飲み込み、私は質問に答えた。


「あんた携帯は持っていないのか?」


 と言われて、考える。そういえば家を出てから携帯電話を見ていない。かばんを探してみたけど、やはりなかった。落としてしまった可能性もあるけど、携帯電話を持って寮を出た記憶がないので、おそらく忘れてきてしまったのだろう。


「ああ、そういえば、家に忘れてきてしまいましたね」

「化粧はしっかりしてきているのに、か?」


 彼のこの言葉に私は閉口。この人、こういうことには気付くのか。おしゃれ関係には全く無頓着かと思っていたのだが。


 私が黙っているのをいいことに、


「そんなどうでもいいことばかり考えているから、考えなくてはならないことを忘れるんだ」


 こんなことを言い出した。これにはさすがに黙っているわけにはいかなかった。


「ど、どうでもいいことではありません!女の子にとってはかなり重要なことなんです!成瀬さんには解らないことでしょうけど!」


 一体誰のためにお化粧をしていると思っているのだろうか。もちろん自分のためではあるけど、その次に彼のためである。しかし、解っている。彼の言っていることはもっともだということを。先に連絡を入れておくべきだったかもしれない。


「食事中に叫ぶな」


 食って掛かった私に対して、彼の対処はいつも冷静。彼は私のことを少しは考えてくれているのだろうか。何で携帯電話を忘れるくらい冷静でなかったにもかかわらず、お化粧は忘れなかったか、ちゃんと解っているのだろうか。きっと疑問に思っても考えることを放棄しているのだろう。考えるだけ無意味だと。


 そんな私を尻目に、彼は話を続ける。


「あんたの携帯に、真嶋からのメールが入っているはずだ。心配していたぞ」

「そ、そうですか。これは悪いことをしてしまいました……」


 これに関しては本気で反省した。私の体調を心配してくれた人に対して、返信をしないと余計に心配させてしまう。


「成瀬さん、電話貸して下さい」

「何で?」

「決まっています。真嶋さんに連絡をするからです。心配かけて申し訳ありませんと、伝えたいんです」

「後にしろ。それより先にさっさと飯を食え。おかゆが冷めると不味いぞ」

「まだ熱いと思うけど」


 またしても遅い忠告に、私の口の中は大変なことになってしまったのは言うまでもない。


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