陰鬱な日々の手記。及び、物好きかつ、高尚で陰鬱な貴方様への手紙。
初めまして、お久しぶりです。
太宰治の作品に救いを感じるのは何故なのだろうか。
こんな平日(実際は曜日の感覚などない)の朝から仕事もせず、勉強もせず、20代後半の日々を費やし、意味もなく鬱々とした作品を読むのに没頭している僕は、人殺しのゲームをやっている引きこもりニートの方々よりよっぽど不健康なんだと思う。仮想のゲーム上の人の形をしたデータを殺すことよりも、自己を少しずつピーラーで削り殺すような、そんな作業の気がするのです。
そして、それは確実にそこに向かっていると思う。例えるなら、ゴールが何なのかわからない系のゲームをやっていって進めて行くうちにやる意味を感じなくなって電源を切ってやめてしまうような。
毎日を悪戯に浪費してると言ってもいい。
でも、それは自己が自己の望む合理的な毎日を分かっているから表現できる言葉であり、浪費しているのは毎日の日々というよりは、自分の活力や精神、所謂、命なのだと思う。
もっというと、合理的な毎日(理想の毎日と換えてもらってもいい)と実際の毎日の差がそのまま削ぎ落とされる部分なのだろう。失礼、自分で削ぎ落とす部分ですね。
それは使えば戻ってこないものだと分かっているから人は絶望するのではないでしょうか?
そして、人は少しずつ何かを失っていって、それしか選択肢がなくなるのではないのかな。
人が自殺を選ぶのは、人生に絶望し、死ぬ勇気があるのではなくて、その瞬間、選択肢がなくなった事に困惑、錯乱し、そこに飛び込むのだろう。ようは選択肢がそれしかなかっただけに過ぎないのではないでしょうか?
だから、死にたいと思う人は沢山いる、が死なないのは錯乱というバグが発生していないだけで、いつでもその引き金はみんなあるのではないのでしょうか?それを咎めるのは如何なものでしょう?人は何かをしてる最中しか生きる事を見出せないのではないでしょうか?そうなると何かをしてるのは生きる為にやっているということになりますね。何かをする為に生きているのではなく、生きる為に何かをしているのでしょうか?それとも根本的に脳の構造的にそれが分けられているのでしょうか?私には何もわかりません。何にもわかりません。だから、バグが起こる事も、何かをし続ける事も、誰かを慈しみ、愛し、想うことの大事さも分からないです。
考えても考えても、生きることにも死ぬことにも意味はないようです。
これはなんのゲームなんですかね。
至らない点もあるでしょうが、感想などお返事、お待ちしております。