第9話 魔逢塾
「なぁ魔沙斗〜 ほんとにここであってんのか?」
「あぁ、ファウストの投稿によるなら、ここが正しいとされていた」
神次と共に、ファウストに返信があった通りの、剤皇街の中心であり、街のランドマークであるバベル・タワーから数分歩いたところにある西の通りを歩く。
伏魔殿の近辺には至極当たり前の風景として存在している、打ち捨てられた魔剤の空の缶や壁への落書が、ここでは比較的珍しいものとなっている。
だからといってここが決して安心して歩ける場所かと言えば、すれ違う人々が俺たちに向ける嫌疑に満ちた視線からも明らかだ。
神次のなりがああだからこそ、訝しい視線を投げ掛けられるだけで済んでいるが、もし俺たちがいかにもお行儀の良さそうな格好や振る舞いをしていれば、たちまちたかられて私刑にかけられる可能性も否定できない。
「まさかここ、あの勃起野郎が出てきたりしねぇよな?」
腰を絶妙な角度で曲げ、通行人全てに睨めつけるような視線を向けて我が物顔で通りを闊歩する神次だが、さっきかららしくもなく時々あたりをチラチラと窺い、不安そうな声を漏らす。
器たるものは、もっとこう常に堂々と振る舞うものだと思っているのだが、どうやらあのコンラートと名乗る神父の格好をした警察官に対しては例外で、萎縮してしまうらしい。
コンラートを恐れなくても済むところだけが、俺のような力無き羊である一般人にとって唯一器に勝っているところかもしれない。
しかし、コンラートをここまで恐れるのが神次だけなのか否かは、元々交友関係が狭い俺にとっては、器である知り合いがほかにいないので確かめようもない。
街並みは、流石にあくまでこの近辺では一番栄えているというだけあって、伏魔殿の周辺よりも人通りが激しい。
ここも去年までは相当に治安が悪化しており、外出にも繊細な注意を払わなくてはならなかったらしいが、ここ最近はコンラートの言う、器の撲滅とやらが功を成しているのか活気が戻っている。
しかし、ここの人々は心からの無邪気な平和や安心といったものを享受しているようにはとても思えない。
俺たちに向けられる視線から、恐怖感、敵愾心といったものがありありと感じ取れて、若干居心地が悪い。
最も、こういった類の腫れ物に触るかのような視線は互いをよく知らないもの同士が交わすものとしてはごく自然なことであるので、感覚が麻痺してしまったのか今更なんとも思わないが。
「おい、あそこじゃね?」
唐突に神次が荒廃した雑居ビルと思われる建物を指差す。
入り口を覗いてみると、歪な形をした枯れかけの雑草が跋扈するコンクリートの建物の正面に設置されている、ところどころひび割れたガラス扉の向こうに、そこそこ栄えているであろう剤皇街では少し不自然な、ぱっくりとまるで深淵への大口を開けてこちらを誘っているような、危険な誘惑を放つ、地下へと続くであろう先の見えぬ仄暗い階段のみが視界に捉えられた。
「本当にここか?地下にある塾なんて聞いたことがあるか?ガキが集まる場所なんて、器が悪戯半分でよく襲撃する格好の標的なわけで、悪魔に襲撃された場合、逃げ道がない地下なんて到底選ばないぞ。器のお前にはわからないかもしれないけどな」
「でもよぉ。あそこにガキが入っていくのを見たぞ!」
的外れなことをいう神次に皮肉を言ってやるが、そんなことは聞こえてでもいないかのようにスルーされてしまう。
しかし、上を見ると、ファウストの書きこみ通り、今はもう人がいるのかもわからないが、今にも落ちてきそうな消費者魂融の錆びついた看板が目に入る。
「それならとりあえず見ておこうか。お前はいかにも怪しいってなりだし、ここで待ってた方がいい」
神次を残し、恐る恐るガラス扉を押し上げると、今にも朽ち果てそうなそのビルの地下階段を降りて行こうとする。
「おいおい!置いていかないでくれよ!ここで待っててあの勃起野郎にでもかちあっちまったらどうすんだよ?無罪の証明ができないだろ?それにな?いざとなった時にモノをいうのは力だぜ?オレという格好の交渉材料を連れていかないのは勿体無いと思うぜ?」
神次が拳に赤褐色の気を纏わせながら自信ありげな様子でちからこぶを作ってみせる。
まぁ、九割くらいはコンラートが怖いというだけで、後半の理由はおまけみたいなものだろうが、たしかにこの不気味な地下空間に一人で入っていくというのは少々心許ない。
冷静に再考する。
言われて見れば、慎重には慎重を期して損はない。
神次を連れて、再び地下階段を降りていく。
一歩一歩降りていくたびに、違和感がべっとりと妖かなにかの手のように、肌に張り付くよう感じられるのだが、その正体を依然として掴むことができない。
「ここ、廃墟だってんなら随分こう... 綺麗というか... 蜘蛛とかがいなくねぇか?」
後ろでご名答が上げられる。
そうだ。廃墟には必ず付き物であるゴミの山も見られない。蜘蛛の巣も見当たらない。あまりにも不自然だ。
異質な雰囲気に支配された階段の終着点には、荘厳な威圧感を漂わせる重厚な鉄製の扉が1つ、壁面に設置されていた。
行き止まりか?それにしては妙だ。ファウストではいるとの書き込みがあったボディーガードやらSPの類が全く見当たらない。本当にこれが塾なのだとしたら、あまりにも無防備、お人好しがすぎる。
「ここで行き止まりみてぇだな... 看板とかねぇし、魔逢塾ではないんじゃねーの?」
「バカか。ここでは新鮮な家畜がたくさん集まっています!なんて看板をわざわざ設置するかよ。それこそ邪悪な器が見つけでもしたら涎を垂らすだろ」
あっさりと世間知らずな一言を発する神次だが、器にとって俺たち一般人、すなわち弱者、羊たちにとっての「世間」など、わざわざ知ろうともしなければ知るものでもないのかもしれない。
「ってことはここ、開けてもいいんじゃね?」
「馬鹿野郎が!こういう時はまずノックだろうが!」
扉を思いっきり押し開けようとした神次を制する。
本当に、これで騒ぎになったらどうするつもりなんだ。
その途端、まるで扉の前で立ち尽くす俺たちの様子を察したかのように扉がゆっくりと内側から鈍い音を立てながら開いた。
「ご見学の方でしょうか?」
柔和な笑みを浮かべた、眼鏡をかけた中年あたりと思われる男性がにゅっと腰をかがめて顔を出した。
「オレたち、ここに剤が集められ...」
「馬鹿野郎!お前はだまってろ!え、えっと俺たちは... ここの、そう!見学に来たんですよ!子供をここに通わせたいと思っていて...」
「あはは!お前の年でそんなデカいガキがいるかよ!」
「おい!!!!!!」
完全に失態を演じてしまった。不意打ちにやられて動転したこの馬鹿野郎のせいで俺たちの設定は容易くも崩壊した。第一印象からして最悪だ。このまま叩き出されるのが関の山だろう。
しかし、男の返した言葉は完全に俺の予想の斜め上をいくものだった。
「そうでしたか〜!私、ここの塾長でございます!ぜひぜひ、ご見学なさっていってください!ついてきてくださいね」
「そうです!見学にきました!」
神次が男の助け舟に突進して、飛び込んでいっているのが滑稽だ。
人の良さそうな笑みを浮かべたこの男、元々気弱そうだが、塾長ともあろう者がここまで危機感の欠如した腑抜けた羊のような有様で大丈夫なのだろうか。
それに、神次のような明らかにチンピラか無法者かの類といったなりをした男を見ても動揺を示さない上に、今この瞬間も、さっきまで使っていたのか右手に本を持ったままで隙が大きい。
もし俺たちが二人で襲い掛かれば、ものの数分でオサラバだろう。
とても戦闘経験があるようにも見えない。
むしろ、それが返ってそこが見えずに不気味である。
男に案内され、扉を潜ると長い廊下が最奥を見据えることができないほどまでに広がっており、壁や天井、装飾の細部に至るまで、徹底的に無駄が削ぎ落とされたような質実剛健な内装であり、刑務所か何かのような殺風景な光景が広がっている。
廊下の両橋には等間隔で鉄格子が設置されている。ここは教室なのだろうか。
何か、罪人か何かを収監しておくような施設にも感じられるムードだ。
この男に連れられて歩いているだけで、何か罪でも犯してここに連行されてきたような感覚に陥る。
刹那、大きな声が右隣の鉄扉に塞がれた部屋から飛び込んでくる。
「おい二十八番!!WMO調べによると、世界で治安の良い国上位三カ国を答えろ!」
「一位がソマリアで... 二位が南アフリカ... え、えっと... えっと...」
「コンゴだろうが!馬鹿野郎!!!!!そんな基本的な問題もできなくてどうする!貴様、昨日何時間勉強した!?」
「八時間です...」
「この薄鈍が!さては寝てなんていないだろうな?剤はどうした?今すぐ飲んで気合いを入れろ!」
「じゃあ三十四番、その理由を答えろ」
「アグレッション以前、最も貧しく治安が悪いと言われていたこれらの国々は、その貧困が故に魔剤が普及しておらず、結果として器の能力に目覚めるものが一人も誕生しなかったからです」
「よろしい」
「うわぁ... おっかね〜」
聞こえてきた教室と思しき閉鎖空間からの音に、横でドン引きしている神次と、至極平静としている男の対比がかえって不気味である。
この異常な空間において、それを当たり前として認識しているのかは知らないが、狂気に同化しているこの男の方がよほど底冷えする。
「ん?これくらいいつものことですよ。器に成り損なった力無き子羊が、せめてもの知識なしにいったいどうやってこの世界で生き残るんです?」
なんの気なく言ってのけ、そのままスタスタと歩き出すので、俺たちもさしたる注意は向けることも許されず彼についていく。
この男は小胆者に見えて、なかなかに行動の一つ一つに有無を言わせぬものを持っていると、この男の評価を変えざるを得ないようだ。
どうやらただの能天気な愚鈍ではない。
そして、今の光景を見て、少々愉快な気分になってしまったのは悟られないようにしなければならない。
器たる力に目覚めることのできなかった子羊たち、実に俺と重なる境遇だ。しかし、俺がガキの頃にはまだ悪魔の存在は、富裕層や世界の有力者たちの陰謀によりベールの向こうに秘匿されていた状態からあまり時間がたっておらず、悪魔や器、魔剤についても不明な点が非常に多く、まだこのような光景はなかった。
そうか、そうか...
いわば自らと同類である者たちが、大いなる希望を断たれ虐げられているのを見て、少なからず悦に浸ってしまうのは、幼少期に、周りから心配されるほどの大量の剤を体内に取り込まされていてもなお器としての力が目覚めなかった己自身に対する不甲斐なさや苛立ちを潰せているからかもしれない。
ひょっとしたら、俺は奴らに自分の後悔を投影しているのか...?
テレビであの喋る蛇口を見た時に湧き上がった不快感や、ファウストで個々の情報を見た時に感じた高揚感といった、前々から時々換気される感情に対して、ようやく自らの手で名前をつけることができたような感触があった。
人は、正体がわからないという状態の恐ろしさから逃れるために、混沌を言語によって分節化して区切り、名付けるという行為を行い自らに都合よく整理することで、畏れを征服すると言った話をどこかで聞いた記憶がある。
その理論は、器や悪魔に対して全く当てはまるものではなかったが故に、眉唾なものだと思っていたが、今確かに俺は確実な達成感をこの手に掴んだと断言できる。
あの理不尽な苦役を強いられている、名も知らぬ、それこそ番号で呼ばれていたあの二十八番の羊に感じた、罪悪感、そしてそれを打ち消すほどに湧き上がった達成感!
「おや、そんなにここの授業に興味を持たれました?よかったら、授業見学をなさっていっても、良いのですよ?」
満足感に浸っていると、まるで心の内でも見透かされたかのように、男に微笑みかけられる。
気がつくと男は足を止め、満足気とも、畏れているとも取れないあのにこやかさで俺をまっすぐに見つめている。
まさか、顔に出てしまったのだろうか。
だとしたらなかなかに厄介なことになるだろう。
それこそ奇妙な人物だと捉えかねない。
それなのに、この男はさっきから笑顔を全く崩さずに柔らかい物腰で、なんと授業見学はいかがですかと言ってきたのだ!
「うわっ、魔沙斗、お前ああいうのに興味ある感じか?やべ〜!」
後ろでからかってくる神次の軽薄な発言など相手にもせず、気がつくと俺は承諾の返事をしてしまっていた...