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†魔剤戦記† 剤と罪に濡れし者達  作者: ベネト
第1章 剤と罪に濡れし者達
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第8話 幼羊達の揺籠

「先生!うちの子が器としての能力を発現する可能性が低いって... そ、そんな!?本当なんですか?」


 悪魔の存在が公にされて以降、日に日に闇の勢力の権勢が拡大し退廃に満ちたこの世界を象徴するかのような瘴気に覆われ、暖かく慈愛に満ちた日光が一筋の光をさすことも不可能になり、自然からの慈愛に満ちた暖かさを感じさせる諺や言い回しが全て遠い過去のものとして懐古される扱いをうけて久しい。


 同じく人心も、世界の情勢も修復不可能なまでに不可逆的に澱みきった世界でいて、不自然なほどに明るく、希望に満ちた穏やかな空気感で溢れた例外的な空間。


 しかし、本質である闇を覆い隠そうと血眼になればなるほど、その甲斐も虚しく、否が応にも隠されている理不尽が、歪みが、より一層の生々しさをもって現れるものだ。


 世界の須くが魔がさしている漆黒の傘下から逃れるすべがないように、それは、この、本来新たな命の誕生を祝う、幸せと希望に満ちたはずであるこの空間に於いても例外ではなかった。


 先生と呼ばれた白い髭を蓄えた初老の男性が思い詰めたように指を眉間に添える。


 今すぐにでもこの男を喰らいつくさんとでも言うくらいの勢いで、追い詰められたが故の不適さで一心に睨みつける声の主の女の射殺すような視線に当てられ、男は開きかけた口を閉じて言い澱む。


「こたえてくださいよ!?先生!!うちの子は... いや、あれは... どうなるんですか!?」


「い、今のところはですねぇ... 器としての能力が開花できる可能性は低く、出生児の様子を鑑みるにあまり体は丈夫なほうではないかと...」


「それは魔剤を投与してからおっしゃってるんですか!?」


 尻窄みになった男の声を、上から掻き消すように女が叫ぶ。一見小柄で細身の気弱そうなこの女が、恰幅の良い初老の男性を終始圧倒している。


 恰幅の良い大男が、今にも倒れそうな痩せこけた小柄な女にたじたじとなっている。


一見あまりにも異様な光景。


 この歪な情景の所以は、この女が放つ言動の悉くが、均衡が完全に崩れ去った情緒と共に弾丸のように男に突き刺さるからであった。


 取り乱すこの女を、男は抑えることができない。


 この女が酷くやつれており、頬もげっそりとこけてしまっていることは問題ではなかった。


 衰弱しきり、今にも倒れそうなこの女から放たれる気概、圧力、そして... 退路は完全に断ち切られたという悲壮な事実は今や怒りとなって瞳に宿り、最後の希望に縋ることしか許されなくなった余裕のなさが、なりふり構わぬ節操の無さとなりその声を震わせる。


 人であることを辞退しかかっているもののみが出す事のできる、魔すら脅かすほどの、弱に存在である羊の出すことのできる、生命を賭した覚悟。


「そんな!?私はあれが胎内にいる間、私の健康すら全て投げ打って、ひたすら魔剤を飲み続けたんですよ!」


「そうおっしゃいましても、器としての底の深さは、新たに生まれてくる赤ん坊の体質によるところが大きく...」


「じゃあさっさと魔剤を投与してよ!!!!!!」


 一際大きな怒声が響き、狭い室内全体の空気を震わせた後、異様な静寂が包む。


 張り詰められた空気で覆われ、緊迫感という柵で覆われた牢獄の中で対峙する2人を、壁に糊付してあるデフォルメされた地上の羊たちがおよそ不釣り合いな笑顔で見つめている。


 長い耳が生えた生き物や、白と黒の獣。


 この世界では、もう2度と姿の拝めることのない、過去の図鑑の中の存在と成り果てた獣たち。


 魔や器による暴虐の象徴を、決してその本質は見せずに刷り込むタブラ・ラサ。


 何故それを見せるのか。存在しないものを、何故刷り込ませる?


 ここは、この世界においてあまりにも不自然な空間。あらゆる不条理や不合理から隔絶するという意図で造られた空間。


 そこで繰り広げられる、あまりにも欲望や生命の本質を剥き出しにしたやり取り。


「そうはおっしゃいましても、あなたのお子さんの場合魔剤を投与すると死に至ってしまう可能性が非常に...」


「やって」


 女が冷たい言葉をナイフのように突きつける。そして... 手には、比喩では無く本物のナイフ。


 室内の蛍光灯の光を反射し、不気味な光を艶かしく放つその凶器が女の覚悟を物語っていた。


「やらなければ、私はここで死ぬ!」


 一切の迷いを捨て去ったであろう、据わった目線を男に向け、女は己の生命を終わらせる機能を持ったそれを自らの骨張った今にも折れそうな腕に当てる。


「ま、待ってくれ...!? やる、やればいいんだろ!」


 今度動揺するのは男の番のようだ。


 取り出された凶器が放つ異様な圧力、そして必然的にそれが証明してしまうこの女の狂気。


 この空間での主導権は常に女の側が握っている。


「投与は... 上級悪魔のものを」


 女のその言葉に男の顔が引き攣る。


「それは... できませんよお母さん。禁じられていま..」


「頼めばやってくれるんでしょ!?!??!!」


 言い終わらぬうちに、またしても女が喰らい付く。


「ファウストに書いてあったわよ!!!頼めば上級悪魔の血液を使った魔剤も投与するって!!!投与!『ソロモンの鍵』に名を残すほどの高位の悪魔のやつを!!さっさとやれよ!!!」


 己の腕にナイフを滑らかに這わせると、その軌道をなぞるように数秒遅れて鮮血がアクアビーズのようにポップに浮き出す。


「もういい... 私が... ワタシが... アレを終わらせる。器になれない羊として辛い人生を送り、戯れで殺されるよりは... 今、楽にしてあげるからね... 名前を付けなくてよかった。きっと愛着が湧いちゃったから...」


 女は散々自らの衰弱した肉体を傷つけたナイフを、今度はしっかりとした意思をもとに握りしめ、だがそれでいて焦点の合わない目で虚空を見つめると、おぼつかない足取りで部屋を出て行った。


「やめろ!!!!!!投与する!!投与すればいいんだろ!?止まれ!!」


 女の血迷った行動が、医者としての男の良心の譲れない部分のトリガーを強く引いた。


 重機のような巨躯を椅子から跳ね飛ばし、ゴム弾のように部屋を飛び出すと、保育器が並べられている揺籠の部屋に向かって脇目も振らずに突進し、女を取り押さえ、暴れる女を組み伏せると、首を容赦なく締め上げる。


 男の早業で、さっきまでの狂態が嘘のように女が気を失ってうなだれる。


 ため息が漏れる...


 保育器と、新たに産み落とされた多数の命が、これから二度と味わえることのないであろう束の間の、そして一生分の安らかな世界を享受している。


 器となれなかった、生まれて間も無くにして可能性を絶たれたものたちが経験する、最初で最後の楽園。


 彼らが物心ついた時に、果たしてこの束の間、そして偽りの造られた幸福に包まれた世界を覚えてあるのだろうか?


 男はガラス越しに揺籠を覗き込むと、罪悪感に苛まれたのかしばらく手を合わせて祈りを捧げ、やがて観念したように去って行った。


 複雑な機械が多数並ぶ制御室。男はそこに足を踏み入れると、しばしの複雑な操作を行なったのちに、俯きながら制御室を後にした。


「すまない... こうするしか、なかった...」


 この悪意に満ちた世界からのシェルターであるかのような、安らぎに満ちた揺籠の部屋。


 その中に並ぶカプセルの一つ、天使の羽のような純白の羽毛に包まれたその赤ん坊の右上腕には、無機質で黒光りする、触手のような邪悪さを放つ管が一本。


 薄緑色とも、茶色ともとれる透き通った液体が管を通じて、この世界に命を受けた無垢な幼体へと流入し...


 赤子は生まれて初めて味わう苦痛に顔を歪ませ、手足をばたつかせていた。


 やがて赤子が動かなくなるのを見届けると、男は力なくその場にへたりこむ。


「どうか... 生きていてくれ... 私は、命を絶つためにこの仕事をしているわけではない...」


 先程、女の要請通りに事を終えた赤子が眠る隣の揺籠から、こちらに向かって微笑みを返す別の赤子に何かを託すような、縋るような目線を向ける。目線を向けられ、同じく黒光りする管をその身に無数に打ち込まれているその赤子は、深緑色の澱んだ仄暗い閃光をその腕に湛えたのだった...



「くそっ、だいぶ寝ちまった...」


 もう朝だろうか。


 常に暗澹たる瘴気で満たされた空を見たところでなんの判別もできない。


 エクソダスを飲んで、気がつくとベッドに座ってもたれかかったまま、だいぶ眠ってしまっていたようだ。


 ふと視線を後ろにやると、俺のベッドに神次がエクソダスの瓶を持ったまま倒れ込み、轟音のいびきをかきながら涎の染みの小沼を形成していた。


 倦怠感に塗れた体を起こすのが煩わしい。


 ようやく錆びついた体を起こすという一大作業を成し遂げると、パソコンへと向かう。


 途中で作業を投げ出されたままのパソコンは、仄暗い室内でなお煌々とファウストの黒と赤の画面を照らし出していた。


 そして... そのモニター上には、意識を失う前にはなかった書き込みが新たにスレッドの最下部に表示されていた。


[そうでしたか!魔逢塾は剤皇街の中心のバベルタワーから西に五百メートルほど行った先の消費者魂融の建物の地下三階にありますよ!一応、気をつけてくださいね」


「ふっ...」


 思わず笑みが漏れる。


 俺たちが惰眠を貪っていた間に、百点満点の回答が得られていたというわけだ。


「いってぇ...! なんだよ...!」


 不躾な居候を思い切り叩き起こす。


「おい。わかったぞ。魔逢塾の場所が」


「おおっ!?マジか!?すげぇなお前!今すぐ行くぞ!」


 無理やり起こされて不機嫌そうであった神次だが、その情報を聞いた途端上機嫌になり、指をバキバキと鳴らしながら不敵な笑みを浮かべている。


 いやいや、どこかのファウストさんのおかげなのだが。こいつは忘れたのだろうか。


 まぁいい、褒められて悪い気もしない。


 準備もほどほどに、伏魔殿を出発すると、俺たち二人の望まれぬ客は目的地へと繰り出した...

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