第18話 秩序の逆転
「まずいことになりやがった...」
魔沙斗は、苦々しげに呟いた。
「どうするか...?」
決断を下すにあたっては、己の直観を信じるべしというのが魔沙斗の信条だ。だがこの状況であっては多少気弱にならざるを得ない。ここのところ疲労が蓄積していることもあり、それが彼の偽らざる本音だった。
それに先ほどなんてその命を奪われかけたのだ。何が正解で何が間違いなのか。はっきりとわかっていたそれですら、異常な出来事が頻発する今とあってはうまくわからないような気さえした。それに、心なしか背後から並々ならぬ殺気を感じる。危機を経験しすぎたが故、本能的な警鐘を鳴らす脳のシステムがおかしくなってしまったのだろうか。
わからない。だが、せっかく仲間がいるのだ。エンペラーに助言を仰ごうと横を振り返った魔沙斗は、すぐに後悔することになった。
「なぁ、どうするエンペラー... って、お前何やってんだ!その亡霊みたいなものを引っ込めろ!」
いつの間にか、翡翠の覇気をその身に纏わせたエンペラーの頭上に、例の獅子の化け物が現界していた。熾火の如く爛々と煌る紅き双眸が、騒音の出所である屋敷の外をギロリと見据えている。
なぜこのような状況で器としての力を解放させるのか。怒りよりも先に呆れたという感情が先行する。
やはりこいつの思考回路は理解できない。そう思った矢先、一つの最悪な予感が背筋を冷たく伝う。
ひょっとしてこいつは、未だに俺たちの敵なのでは...?
咄嗟に飛ぶように距離を一瞬で離した魔沙斗を見て、おかしそうに笑うエンペラー。
「ん?なんで離れてるの?」
「なぜ器の力を今解放した?見つかったらロクなことにならないぞ?」
包帯に覆われた右腕を、突き出すように構える魔沙斗。既に臨戦体制に入っているぞという警告の意を込めてである。
その様子を見て、エンペラーは何一つ合点がいかないと言った様子で不思議そうに首を傾げる。
「いやいや、敵対する気はないって。ああいう無知蒙昧な、全能感に浸っている凡夫を蹴散らして、唖然とするところを見るのがロマンってものだと思ってね?魔沙斗もそう思うだろ?」
「思わねぇよ... それに、こんなところで力を使ってまた代償の発作が出たらどうするつもりだ?」
「それは構わないって。浪漫のためならば、危機に瀕するくらいどうってことない。それにあんな奴ら、器たるボクならすぐに蹴散らせる。まだ器として完全に適応してない状態での練習相手には最適だろ?」
魔沙斗の精一杯の警告。ただでさえ低い声をさらに低くし、凄みを載せた声など意にも介さないといった鷹揚とした態度は、衝動のためならば己の命すら顧みない人となりの発現であった。
結局のところ、エンペラーは己の衝動にどこまでも忠実な男であるということだ。その荒ぶる感情的な欲求を正当化、もしくは押し通すためにそれっぽい理論を後付けしているに過ぎない。
羊としての生きる術として、他人の性格や考えを察し、窺うことに聡い魔沙斗は、出会ってまだ僅かであるこの男の性格をこう分析していた。
だからといって、それを制御することが可能なわけではない。猛獣に詳しいものが即ち優れた猛獣使いであるということはないように、僅か数メートルの空間を挟んで対峙する異常者の考えを改める術は思い浮かばない。
「やめろ。そういう問題ではねぇだろ。それにもし俺たちが器であるとの噂でも立ってみろ。間違いなくただでは済まないぞ。今は三人で行動している。お前の勝手な行動が招く結末を考えろ。」
「大丈夫だってぇ。最悪ぶっ殺しちまえば噂も広がりようがないしね。それにもしここでボクの力のデモンストレーションをしておかないと、本当にヤバいやつにあったときに上手く戦えなくなってしまうかもだろ?」
そのとことんまでに自己中心的な発言を受けて、頭に血が上り、魔沙斗が匙を投げかけた時であった。
「さっきから不思議なんだけどよぉ。こんなところで力を使っちまったら、お前のいう最高傑作である魔法陣の男に会えなくなるかもしれないぜ?」
「あっ。言われてみればそうか。」
先ほどから二人のやりとりを黙って見ていた神次が、のんびりとした調子で口を挟んだ。たったこの一言により、平行線の状態にあった二人の論争は快刀乱麻を断つように終息することになった。
先ほどまで、空気が張り裂けんばかりの殺気を放ちながら現界していた獅子の化身は、そのシルエットがすぐさま光の粒の塊へと転ずるや否や、瞬く間に霧散して消える。
「たしかに、それじゃあボクの一番の目的が果たせたくなるね。このボクとしたことが、危うく忘れるところだったよ。」
疲れ切った魔沙斗の様子などお構いなしに、呑気に笑うエンペラー。神次に感謝の意を述べたいと思った魔沙斗だったが、神次のきょとんとした様子を見るに、どうやら本当に疑問に思っただけに見える。
何はともあれ一つの危機を乗り越えたことに違いはない。ひとまずの問題が落ち着いたところで、安心する間も無く次の問題が迫っていた。喧騒はますます大きくなり、怒号や罵声に混じって、骨が砕けるような鈍い音までがはっきりと聞こえてくるようになった。
どうやら疑心暗鬼に陥ったものどもの闘争は、のっぴきならない状況までになったらしい。
そろそろ出るか残るか決めなければならない。魔沙斗がそう腹を決めたときであった。
「やめなさいあなたたち!一体何をやってるんですか?」
「ちっ、めんどくせぇのが来た!」
「見りゃわかンだろ!この剤皇街に『ソロモンの鍵』の器が隠れているらしくてよ!今怪しいやつを炙り出してるところだ!」
「警察気取りの自治野郎どもの犬か!逃げるぞ!」
「畜生!あの野郎に知らされたらたまんねぇ!」
「あっ、待ちなさい!!あなたたちのことは報告しておきますからね!無駄な争いを起こしていたと!」
一際よく通る甲高い声が響き渡る。先ほどまで争っていた男たちの乱闘が止んだのだろうか。先ほどまで醜く響いていた罵声やら怒号やらが収まり、代わりに不満げに愚痴る声が聞こえてくる。
「女の声?なんだなんだ?あいつら知り合いか?」
館の内部であるにも関わらず、柱の影に身を隠した神次が声を潜めて小声で語りかける。魔沙斗にとってはあの声の主に危機を救われたことになる。
「バーカ!獅子の威を借る羊がよ!」
「あばよいい子ちゃん!そうやって媚びてればテメェは安全だもんな!」
ドタドタと靴を鳴らす音、そして恨めしげな情けない捨て台詞と共に、やがて男たちの声がすっかり遠ざかり、すっかり静かになる。
その一連の様子を館の内部で聞いていた三人にとっては、狐につままれたような気分になった。魔沙斗は館のエントランスの階段を駆け上ると、割れた二階の窓の下に身を潜める。遅れて神次もやってきて、二人の男がこちらの存在を察知されぬように窓枠の下部よりチラチラと顔を出して見つめる。
「わからねぇ。にしても不思議なやつだな。あんなに激しくやり合ってそうだったのに、一瞬でなんてよ... でも... 女だよな?」
「そうだなぁ。犬だとなんだの、ひどい言われ様だったけどな。随分と普通というか、無害そうというか、まぁとにかく、ヤバいやつって雰囲気は感じないけどな... なんつーか、地味だ。」
「ただの女一人が言っただけであれねぇ... ひょっとして器なのかもしれないな!」
館の内部で訝しむ二人をよそに、好奇心を抑えきれないと言った様子で目を輝かせ、一人合点しているのはエンペラー。二人が一瞬目を離したそのわずかな隙を縫って、外に飛び出してゆく彼を魔沙斗は止めることができなかった。
「あっ、馬鹿野郎!待て!」
すかさず追いかける魔沙斗。しかし時はすでに遅し。館を出てすぐに視界に飛び込んできたのは、堅そうな雰囲気を纏う黒髪の女になにやら捲し立てている興奮気味のエンペラーだった。
警官にも似た制服を纏う女とエンペラーは、さながら警察に文句を言って詰め寄る人のようにも見えた。
女の方はといえば、エンペラーの興奮と反比例するかのようにげんなりとしているようだ。
露骨にじりじりと後退し、彼から一定の距離を取り続けている。哀れなことに、その表情には得体の知れぬものを見るような嫌悪感が張り付いている。エンペラー自身は気づいていなそうだが。
「あー、喋りすぎて引かれてやんの」
小馬鹿にしたような笑いを浮かべて、神次も館から出てくる。随分と無警戒といった様子である。
それも無理はない。あの声の主は、覗き見た限りは魔沙斗にとってもこれまで警戒していたことが馬鹿らしくなるほど普通の女性であった。羊としての本能... つまり、血の匂いと殺意の感知。
圧倒的な力をバックに隠し持つ人の振る舞いというものは見ておおよそわかる。
あの女の振る舞いは堂々とこそしていたが、器から漂う血生臭いものは感じられなかった。
「やめてやれエンペラー。すまないな。それで... あんたは何者なんだ?」
あくまでも警戒を解かず、一定の距離をとって女に話しかける。悲しいかな。羊の性である。器としての力がないと無害そうな若い女性一人に対してさえ無警戒に近づくことは叶わない。
「私はリブラ・オーダーのメンバーですけど...」
「リブラ・オーダー...?初めて聞く名前だな。神次、知ってるか?」
「いや、しらねぇなそんな仰々しい名前の団体は」
さも当然といったふうに告げる女だが、その名前は魔沙斗にとっても神次にとっても初めて耳にするものであった。
「ええっ!?知らない?普通は知ってますよ?ほら、街の秩序の意地と器の掃討を掲げているエデン有志のあれですよ?」
彼女の警察の制服のようなデザインの服には、天秤と天使があしらわれたワッペンが縫い付けられていた。
それを見せつけるようにして、それとなく彼女が放った一言は稲妻のようだった。いつも人に雷撃を浴びせて戦ってきた神次が、初めて自分の方が雷に撃たれたかのように露骨にビクッとした。
「ん?何でそんなびっくりしてるんです?」
「い、いや... オレたち一応エデンという大学の学生だけどさ、ほとんど出てねぇから知らなかったわ」
「そう、俺たちは不真面目極めすぎててさ。ヴェルサイユ宮殿の写真を見せられて、これが改装した後のエデンだって言われても納得しちまうくらい来てない」
奇異そうな面持ちの女に対して、言い訳をする神次に、魔沙斗も便乗することにした。すぐさまエンペラーが余計なことを口走らないかが急速に不安になってきたのであったが。
「ボクもほとんど引きこもってたからね。そんな仰々しいの知らないよ」
エンペラーも流石に弁えて空気を読んだのだろうか。それとも本当に知らないのだろうか。おそらく答えは後者だろう。根拠こそないが、魔沙斗にはそう思えた。
「はぁ... そんな人たち初めて聞きましたよ?そして、あなたたちここに来てるじゃないですか。まだありますよ。それにこの人、器だ、器なのか!?って。なんか怪しいんですよ。私、基本、器は嫌いなんですよ。」
女が見るからに毛嫌いしているといった様子で、目を細めながら人差し指でエンペラーを指差す。
それでもエンペラー自身が器であることを明かさなかっただけ奇跡に思えた。あと少し遅れていたらどうなっていたかわからない。
「そ、それはだな... うん、あれだ。オレたちはコンラートの講演、ほら、あっただろ?あれで危うく殺されかけて... だからちょっと混乱しちまっててよ...」
神次が半ばパニックになりながらその言葉を発した瞬間、女の顔が訝しげなものから、一際真剣な面持ちへと変わったのを見逃さなかった。
「ひょっとしてあなたたち... あれに参加していたのですか?」
「そうだが... 危うく殺されかけるところだった。」
どうやらあの講演に何かがあるのか。もしくは既にこのわずかな間に情報が共有されたのか。詳細は闇の中だが、女の表情の変化の機敏からここには何かがあると踏んだ魔沙斗は話に乗る。何かあれについてわかるかもしれない。
そう確信めいたものを抱いた。答えに近づいたような、確かな何を掴み取ったような。そんな感覚であった。
「もしよかったら... 私たちの本部まで来てお話を聞かせてもらえないでしょうか?あなたたちほど話が通じる人もあまりいませんし...」
(...いいな?)
足を後方に引き、刺繍が走る右腕を腹に添えた神次と、何やら忙しなく指を動かしているエンペラーに目配せで反応を伺う。
目が合う。目配せが返される。
───了承だ。
「あぁ、わかった。俺たちにできることがあれば。」
勿論、これは危険な賭けだ。器である神次と、中でも『ソロモンの鍵』の器であるエンペラーを連れて行く以上、怪しげな振る舞いには気をつけなければならない。
彼らに器であることが発覚でもしたら、それこそ街中の人間たちから狙われかねない。そうでもしない限り、コンラートは無差別な殺戮をまた続けるだろう。
いくら器といっても、街全て... そしてコンラートを敵に回すというのはあまりにも無謀だ。
(流石に万が一の場合、相手は羊がほとんどである以上、負けることはないだろうが... インフラや、魔素を取り込むための魔剤を寸断されてしまえば、力が衰えて長期的に見て器に勝ち目はない...)
魔沙斗による冷静なリスクの計算を踏まえてもなお、協力を決めた背景には、こちらも器や有益な情報を聞き出したいという願望がある。
つい先日まで好き放題に振る舞っていた剤皇街の器たち。
彼らは今や、一転して身を潜めて雌伏の日々を過ごす宿命を負うことになってしまった。
その原因を占めるウェイトに、羊たちの存在などはほとんど関与していない。
問題なのはむしろコンラートであった。器としての本性を彼に知られたら、彼は必ず殺めにやってくる。彼の力の底知れなさもまた、この恐慌状態に間違いなく一役も二役も買っているのだろう。
自分たちに勝るものなどいない。そう考えて暴虐な限りを尽くしてきた彼らはまた、より強力な力を持つものの前では羊に等しいのだ。
狩人は今、狩られるものへと堕としめられた。
そこに日頃、器たちに辛酸を舐めさせられ、いいように抑圧されている羊たちの恨みも加わるとなれば、魔女狩りの如き様相を呈するまでに長くは時間を要しないだろう。
その上、コンラートはおそらく器を殺すという目的を果たすまで、無差別な殺戮を舐めないだろう。その恐慌が、人々を凶行を駆り立てる。
「さぁ、案内してくれ... 俺たちの疑いも晴らしたいところだしな。あんたたちは影響力があるんだろ?それなら是非とも真実の証明をいただきたいところだしな。」
魔沙斗たちとしても、この状況は早く終わってくれるに越したことはない。
その上、己に課せられた運命を振り解くためにも、右手に傷を持つ『ソロモンの鍵』の器を見つけ出して殺すしかないのだ。二つの目的は矛盾しない。
こうして、歩き出した女について歩き出す三人の男たち。
腹に嘘の一つ、いや、二つも三つも秘めたまま。