第15話 メシアの盾
その眩い輝きにくらまされ、戦闘のために控えていた右手で以って反射的に瞼を覆うこと数秒後のことである。
群衆のざわめきの中で、先ほどまでとは違った異変を知覚した瞬間。
薄々覚悟はしていたものの、まるで間違い探しの最後の一つを見つけたかのような驚き、そして達成感ではなく悪寒が魔沙斗の背筋を走り抜けた。
人が犇くホールの中で唯一として空席を保っていた正面。その最も目立つ場所にある演説台。
「コンラート... ようやくお出ましか...」
その箇所に、今まさに己の存在を掌の上に置いているであろう、華美な紫紺の法衣に身を包んだ、聖職者を語る男の姿を認めた────
テレビで見た時も、剤皇街の警察署で彼を見た時も相変わらず相変わらず胡散臭い男だ。
魔沙斗がまず真っ先にそのような感想を抱いたのも無理はない。それは会場に集っている者たちも同じだったのであろう。一瞬の沈黙の後、堰を切ったように興奮する声やら罵声やらが飛び交い始めた。
なにしろ肩書きこそ立派であり、メディアでの露出こそ頻繁であるが故に、皆がその存在を知っているにも関わらず、その素性は完全に神秘のヴェールに秘匿されているためである。
コンラートという名を名乗りながらも、その要望はアジア系人種のそれである。そして、その綽々とした表情は決して崩れることがない。
一度長々と話し合ったことのある魔沙斗でさえ、彼から人間味やプライベートといったものを感じ取ることができないほどだ。
聖職者らしい柔和さを持ちながらも、どこかそれは嘘であるとでもいうような厳然とした態度。その相反する要素を同時に孕む彼は、果たして本当に人間なのであろうか。
「つまんねぇ演出してんじゃねぇぞ!」
「さっさと始めやがれド腐れ神父!」
いや、罵声や怒号の方が大半とでも言うべきか。
そこには聖職者であり、なおかつ警察官である彼、いわば人々に敬意を払われるに値する肩書きを持つ者への畏敬の念といったものは微塵も感じられない。
突然壇上に現れたコンラート。
彼のトレードマークとでもいうべき紫紺の法衣には、勲章やらバッヂやらが、まるで龍の鱗かのようにびっしりと貼り付けられている。
現世における栄華や地位を誇るかのような、聖職者にはあるまじき出立ち。
登場して早々と浴びせられた罵詈雑言の洗礼など、まるで意にも介さずといった具合に穏やかな笑みを浮かべるコンラート。そんな彼を見て、魔沙斗らは得体の知れない恐怖を感じた。底が見えぬ、いや、何やら雲を掴んでいるかのような実感のなさだ。
それでいて、圧倒的な威圧感のみはひしひしと感じられる。
自分たちがいる場所から、彼の立っている演説台までは相応の距離と、人々による肉の壁が聳え立っているにも関わらず。
ふと横に顔を向ける。器たる同行者の神次は、器を始末する存在であるコンラートを、眉に皺を寄せ、目を細めながら見つめている。
普段は堂々とした振る舞いの彼が、腰を屈めてその長身を屈している。その様子から察するに、彼もまた恐怖を感じているのだろう。
「恐ろしいのか?」
喧騒の中であるにもかかわらず、小声での問いかけに対かける魔沙斗。それに対し、ただ人差し指を口に当て、シッ!と目力を込めた視線でのみで返答を返す神次の反応に、少し可笑しさを覚える。
あの男が恐ろしいのは、自分とて変わらないのだが。
一方のエンペラーはといえば、その姿を隠そうともすることなく鷹揚とした振る舞いである。
壇上の男を、試すような、それでいて好奇に満ちた視線で一心不乱に見つめている。
人間たるもの羊であれど器であれど、目は嘘をつくことは能わない。あれはコンラートから何かしらの知恵や創意、知見を得れるとでも考えていなければできない目だ。
「ヤツの発言から、器の性質とやらを聞き出せるかも知れないからね。」
魔沙斗の視線に気が付いたエンペラーがそう返答する。
「器になったばかりのお前にとって、喉から手が出るほど知りたい類の情報だろうからな。少し事情は違うが、俺も似たようなものだ。」
魔沙斗の脳裏を、剤皇街警察署で見た悍ましい肉塊のイメージが過ぎる。
即ち、己の末路────
二人の同行者、そして自分は抱いている事情や感情こそ様々である。しかし、壇上に立つコンラートの話に何かを期待して集まっていることには変わりがない。
「さて... 皆さん、ようこそお集まりいただきました。」
数刻が立ち、未だなお騒然とする会場を宥めることもせず、マイクに顔を近づけると、淡々と話を始めるコンラート。
「今日はクリスマスということでありますが、皆さまエデンの学生におかれましてはますます...」
ベチャッッッ!!!!
次の瞬間、何やら魔沙斗たちにとって聞き覚えのある、それもつい先刻耳にしたような音が聞こえてきた。
騒々しかった群衆がさらに喧しくなる。屈めていた腰を少し上げ目を細める魔沙斗は、目の前に映る光景を見て愕然とした。
先ほどエンペラーに対して投擲を行った輩の仕業だろうか。コンラートの法衣には、割れた生卵から溢れ出した卵白が、卵黄と混じり汚らしく付着していたのだ。
会場にどよめきが沸き起こる中、神次もエンペラーも思わず叫ばずにはいられなかった。
「「うわ、やりやがった!」」
まずい、大変なことになる──
あの得体の知れぬ存在を怒らせたらどうなるか。そのような魔沙斗の本能的な警戒感を裏切るかのように、コンラートの見せた反応は、おそらくは生卵を投擲したであろう人物にとっても、魔沙斗らにとってもあまりにも想定外のものであった。
顔を下ろし、ゆっくりと己の法衣にへばりついた卵白を眺めた後、なんと穏和な笑みを浮かべて微笑したのだった。
「いやぁ、実に素晴らしいことですねぇ。無秩序な暴力に妨害、この上ない幸せですよ」
「はぁ?何言ってんだ...?」
てっきり激昂し、何かやらかすのではないかと恐れていた魔沙斗は怪訝そうに首を傾げる。すぐにでも脱出できるようにするための臨戦態勢を整えていただけあり、この状況には安心感を感じると同時に、背筋が冷える思いがした。
「皆さんがこうも無秩序に振る舞えるということは、この場所に皆様方を殺戮し尽くすことが可能なような絶対的な暴力... つまり器が存在しないと言うことですからねぇ。器の殲滅を掲げている私としては、この生卵はまたとない嬉しい歓迎ですよ。」
その言葉に、目の前に立つ男の目的を思い出したのだろう。先ほどの出来事で身を乗り出してた神次の表情が途端に引き攣り、思い出していたかのように再び腰をかがめて魔沙斗の背面に隠れるように忍び込む。
思いもよらない展開に、黙ると言うことを知らないのではないかという悪漢たちですら僅かに沈黙する。
気まずい雰囲気が幕のように会場全体を覆いつくす。
その様子の果たしてどこが愉快なのか、演説を続けるコンラートの口角が妖しく歪む。
「そう。絶対的な暴力装置や、相対化することのできない圧倒的な力という正義。群雄割拠、混沌などはこれらがないからこそ成り立つものなのですよ。神は混沌を白日の元に晒し、秩序を与えますからねぇ。一方、器は暴力で以って秩序を与えます。民主主義のなりたちを知っていますか?あ、興味なさそうですねぇ、ふふっ」
自らを烏滸がましくも常人だと言うつもりはさらさらない、むしろ常人などこの場所にいるのかが不思議に思われる魔沙斗。それでありながらも、この光景を見て抱く感想は、剤皇街で彼と対話をしたときと同じものであった。
あの男のセンスは、常人とはズレている。
ただひたすらに自身の言ったことに対して説明をせずに反芻して悦に浸り、話を頻繁に逸らす。
悪く言って仕舞えば話をしている対象である相手のことなどほとんど眼中にない。
そのような話ぶりが、聞き手に対しては胡乱な印象や嫌悪感を与えるのだろうか。
さて、あの時と違うこととしては、この場には神次やエンペラーをはじめとして多くの人間がいることだ。だが、その異質な、感覚のズレた人間と向き合うことは未だに慣れない。あの男は今自分たちの存在を認識しているのだろうか。
確かめる術などないが、彼に対して畏れを抱いてはいないエンペラー以外の二人は、していないことを切に望んでいた。
しかし、次にコンラートが含み笑いをしながら発した言葉は、その望みを打ち砕くには十分すぎるような内容であった。
「と言いたいところで大変残念なお知らせなのですが... どうもこのエデン、果ては剤皇街に、器がいるみたいなんですよねぇ... 器、それもただの器ではなく、”ソロモンの鍵”の器がね」
ようやく先ほどまで静かになっていた会場は、再び凄まじい蝉騒の渦中に放り込まれた。
「バカ言ってんじゃねぇぞイカサマ師!根拠を示せ!」
「器!?器がいるのか!?おい、道を開けろ!開けてくれ!アーメン!」
「器?上等じゃねぇか!俺たちで拷問してぶっ殺してやるよォ!」
コンラートの発言を嘘と決めつけ激昂する者、恐慌をきたして出口へと殺到する者、命知らずにも器の討伐を謳い、手にした得物を得意げに鳴らす者。十人十色、様々な反応を見せる者たちが現れるが、その感情を大きく揺さぶられているという点で例外はいなかった。
勿論、魔沙斗たちとて例外ではない。
これまで疑惑の範疇に過ぎなかったものが一気に確信へと変貌し、不安の色が顔にくっきりと染み付いた。
「ヤベェな。ひょっとしてバレてやがんのか?」
隣をみやると、神次も顔面蒼白となり、手がブルブルと震えている。
「騒がしいなぁ。いくら役に立たないとはいえ警察なんだから情報として把握してるだけだろ」
呆れたように余裕綽々と返すエンペラーだが、その心の安寧はすぐに打ち破られることになる。
「こんなにも大勢の羊たちが。実に嬉しいですねぇ。ふふっ、何せ羊を導くのが聖職者としての務めですから。しかしね、羊としての百年を生きるより、獅子としての一日を生きろ、だなんて言葉がありますが...」
ここでコンラートは一旦言葉を区切ると、なにやら愉快そうな微笑を浮かべてやや大きめに息を吸い込んだ。
「私としては、大いなる安寧───つまり、一の器を屠るためならば、百の羊の命を問わず。そう考えていますけどね。」
そう言い終わるや否や、演説台に載せていた右腕を高く掲げるコンラート。
その右腕を覆っていた法衣が、重力に従いはだけて落つる。刹那、衆目の最中へと晒されたるは、禍々しく、悪趣味な意匠があしらわれし真鍮の腕輪。
「真実を暴け。ソロモン・リング──」
その中心に嵌め込まれた、眼球を模した機構の一点が眩く光り輝くと同時、会場の前方が爆音と閃光に包まれ、爆ぜた。
「くっ...!何事だッ?」
あの腕輪を爆心地とした凄まじい衝撃波の前兆を感知し、咄嗟に身をかがめる魔沙斗ら。その一瞬の反応が生死を分けた。前方に居た群衆たちは、自らの死を自覚する間も無く、その命の灯火を吹き消された。
「”ソロモンの鍵”の器でしたら、今のくらいのは軽々と避けていますよねぇ... となると、前列には羊たちしか居なかったわけですか。うん、良いですねぇ。」
まるでバースデーケーキの蝋燭を消すが如く、瞬時にして夥しいほどの命を終了させたコンラート。全く悪びれる様子もなく、穏やかな笑みを浮かべ、焼け焦げて床のシミや炭と化した者たちと、自身の腕輪を交互に見つめる。
「おい!!!道を開けろ!!!」
「うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっ!!!!」
「死ぬ!死ぬ!死ぬぅ!」
今度の反応はあまりにも皆、等しいものであった。生命としての本能の叫び。魔沙斗たちもまた、前列の惨状を確認するまでもなく、出口に向けて殺到する人の波に押し流される。
「いでっ!!いでっ!蹴るな!」
「危ないだろう!押さないでくれ!」
最後列のため、幸か不幸か未だ惨状がよく把握できていない神次とエンペラーが、逃げ惑う人々の大波に足蹴にされながら転がされている。
「邪魔だ!どけ!どけぇ!どいてくれぇぇ!」
群衆が殺到する出口は、まるで破裂した水道管に空いた穴のようである。見れば先ほどまで器をぶっ殺してやると息巻いていた男たちが悲痛な叫びをあげている。
得物を真っ先に捨て去り、われ先に逃げようと人々を押しのけているその様子はなんとも滑稽なようであり、人間としての真っ当な反応であるともある。
その様子をみて不満げに口を尖らせたコンラートが、恐ろしいことを呟いた。
「さて... そうされると確かめるのが大変なんですがねぇ。急いで確かめなくては」
再び右腕を高く掲げると、今一度腕輪が瞬く。それがさながら合図であるかのようであった。
数秒後、あたり一帯を瓦礫の山へと変えるほどの威力の衝撃波が、逃げ惑う後方の人々へと襲いかかる。
人々の波に押されながら体制をなんとか立て直し、ようやく前列の瓦礫の山───そして惨状を目にした魔沙斗。その脊髄を貫くかのように、氷柱の如き悪寒と緊張感が貫いた。
終わりだ...
そう覚悟を決めた瞬間のことである。魔沙斗の身長の頭ひとつ分ほど上より、軽やかな跳躍。爆発よりも疾く駆ける一つの影が地に落つる。やがてそれは矢の如く一直線に群衆らへと駆け寄ると、巨大な魔法陣のような防壁へと変化した。
疾風の正体は、先ほどホールで肩がぶつかったあの爽やかな好青年であった。
何から何までも人間離れした芸当。艶めく黒髪を靡かせて、音よりも疾く駆けつけた青年の右腕より展開されしは蒼く光る魔法陣。
群衆を、この会場もろとも守護せしめんとばかりに、瞬く間にあたりを覆い尽くすほどまでに巨大化した魔法陣は、コンラートの放った一撃を無効化する。
まるでその魔法陣に吸い寄せられるかの如く、爆発も、光も、爆音も全てがスポンジに吸われた水の如く無と化したのだ。
「ファック、コンラート!テメェ、何したと思ってゆがる!?」
「メシア様だ!美貌のメシア様が降臨なされた!」
ここにいる皆が死を覚悟していた。しかし、覚悟を決めて向き合ったはずの死はいつまで経ってもやってこない。怪訝に思い後ろを振り返った者たちは、あまりのことに呆然とするか、救世主の登場を口々に大声で讃えるなどの反応を見せる。
哀れにも青年の人間離れした所業を盾に、コンラートに罵詈雑言を放ったものもいた。
「クソっ、なにがどうなってやがる...」
「な、なんだあれは!?魔術の最高傑作か?」
あまりの衝撃的な出来事の連続に混乱する魔沙斗。そして展開した人間にも似た壮麗で美しい蒼の魔法陣に目を奪われたエンペラー。
さて、いつも柔和な笑みを浮かべていたコンラートはといえば、実に上機嫌そうに相合を崩していた。そして再び右腕を高く掲げ...
「逃げろ!!!」
青年が、その美貌に似合わぬ剣幕で怒鳴りつける。その一言で、立ち尽くしていた人々がまるで機械のスイッチが入ったように再び動き出し、出口へと殺到する。
青年の展開する魔法陣にかろうじて命を救われ、群衆らと共にホールから脱出した魔沙斗らは、走り、走り、そして走った。
そして間も無く、後方より壮絶な爆発音を耳にした。