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†魔剤戦記† 剤と罪に濡れし者達  作者: ベネト
第2章 剤と愛に飢えし者達
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第3話 魔窟への誘い

 朧げな景色に映る、遠方の暗海に無数に浮かぶ漁火のようにぼやけた光の数々。その悉くが徐々に明確な像を結びゆき、視覚が取り戻されてゆく。続いて聴覚。胡乱な空気の振動はやがて明確な音として脳で捉えられる。テレビから発せられる場違いなまでに愉快で、空虚な歓声。


 嗅覚。硬水のさびた不快な香り。触覚。痛覚。右腕が痛む...


 そして一番最後に遅れて取り戻される。意識。


「はぁ...」


 微睡みから覚醒へと至る僅かな時間、それはふわふわとした綿の揺籠に身を預けていられることが可能なほんの一時。すぐにそれを、心臓を掻きむしるような強迫観念によって破壊され、荒涼とした現世に意識を引き戻された魔沙斗が忌々しげに呟く。できればもう少し、この身を焦がす様な恐怖から逃れていたかったのだ。


 だいぶ眠ってしまっていたみたいだ。気がつくと神次も、壁に背を預けるように座り込み、俯いている。


 天幕のように額を覆うボサボサの前髪のせいでわかりにくいが、怪物が呻くような濁った音を知覚したことにより、神次は眠っているのだと理解した。


「いや〜!ジョバラーズのおふたりは、ますます人気絶好調ですね〜!このままグランプリも狙えてしまうんではないでしょうか!?」


 狭苦しく、生臭い厨房の蛇口から、絞り出されるように水滴がポタ、ポタとシンクに滴り落ちる水音と神次のいびきに混じり、お笑い番組を放映しているテレビからは司会者の粘っこい猫撫で声が聞こえてくる。


(あの蛇口を相方にしたってヤツか...)


 魔沙斗はこの二名に対して肯定的な感情を抱いていない。そもそも殺伐とした六畳間の空間に、欺瞞に満ちた笑い声と雑音を齎すテレビ番組、中でも視聴者を楽しませることにその眼目が置かれたものは特筆して気に食わなかった。


 いつもならば迷わずに電源を切っているだろう。耽溺と思索に沈むことを可能にする、心地よい静寂を殺す雑音はすぐにでもシャットアウトするのが魔沙斗のやり方だ。


 だが、今回は違った。お気に入りであるはずの静寂が、今この状況においては忌まわしいような気がしたのだ。もしこの六畳間の待避場所が静謐に包まれた空間と化したならば、意識のベクトルの悉くが剤皇街で植え付けられた恐ろしい観念に向けられて固定され、二度と戻らないような気がしたからだ。


「今の俺は... 器を殺す力があるんだよな...?」


 液晶越しに映るコンビを見て抱く感情。それは常に劣等感であった。あのような無機物ですら、器の力を手にすることができるのに対し、俺は一体何であるのかと。


 ただ、今日魔沙斗がそのコンプレックスを喚起するトリガーを見つめる双眸には、劣弱意識とは異なる類の感情の炎が揺らめいていた。


 己の血液を混ぜることで、魔剤を一瞬にして蒸散させて焼つかせて見せた。自販機の前での情景が、爛々と記憶の保存庫の内部で光り輝く。


「おい、起きろ。」


「...ん?ああ... ねみぃ...」


 非公認の居候の肩を乱暴に揺さぶる。目をシパシパと瞬かせ、気怠そうに寝ぼけ眼を擦る神次。本来の家主が不在である間、相当に長い間テレビを我が物顔で独占していた証左である。


「で?なんか見つかったのか?」


「いや、俺はさっきまで寝てた。さっぱりだ。」


 細めた瞼で魔沙斗を射抜く神次。この世界という酷なる箱庭にひり出された二名のささくれだった若者は、剤皇街の中に存在しているという『ソロモンの鍵』の器の手掛かりについての論議を繰り広げているうちに、互いが抱える疲労が祟って、自然と意識をフェードアウトさせていた。


「少なくとも、あの勃起野郎に詳しい手掛かりを聞かねぇと、探りようもないだろ〜?オレは絶対あいたくねぇけどな」


 その指摘はもっともだ。実際こうして二人でうんうんと頭を捻っていたところで、『ソロモンの鍵』の力を宿した器に関する手がかりや、捜索のための妙案は何一つ思い浮かんではこなかった。


「いや、奴はそれしか教えてはくれなかった。俺が向こうで質問した時も、『自分で見つけて、斃して初めて意味があるんですよねぇ』とか抜かしやがって、全く手がかりがつかめん」


「そういうまどろっこしいヤツが一番ムカつくんだよな!」


「だよな。何から何まではぐらかしやがって、性質の悪いヤツだ。なぜお前がやらないかと聞いた時も、話を逸らされて結局答えなどは一つも教えてはくれなかった」


 コンラートの顔が脳裏に浮かぶ。忘れようと思っても忘れられないあの胡乱な男は、雲のように掴みようが無かった。それもただの雲ではない。その内部を見通すことを決して許容しないような禍々しい暗雲。もしもそのヴェールに覆われた真意を掴もうとしていたならば、今自分はここにはいないのではないか。そんな底の知れなさのみで構成されている男だと感じた。


 彼の発言に対し、詮索の手を伸ばせば常にそれは幻影を捉えており、剤皇街警察署での会話において、魔沙斗はその本性や狙いといったものを全くといっていいほど掴み取ることができなかったのだ。


 あの時の自分は、コンラートから告げられた情報の衝撃により理性を激しく揺さぶられ、平常心といったものとはかけ離れた心理状態にいたが、今もう一度コンラートとの邂逅の好機を与えられたとして、神秘の垂幕に秘匿されたその核心部に迫ることはできないだろう。という諦めにも似た感情を魔沙斗は感じていた。


「このままじゃ埒があかねぇな。三人よればソロモンの知恵、という言葉があるが、今は俺たち二人だ。それに相手がお前じゃあな...」


「んだと!?それは聞き捨てならねぇぞ!一応オレも考えてやってんのによぉ」


「じゃあこれはどうだ?そのまま外に出る。探し物ってのは、概して探すのをやめたときに出てくるものだ。」


「それは悪くねぇな!散歩にでも繰り出すか〜?」


 妙に感心したような素振りで相槌をうつ神次。ただ、こうして徒に時間を浪費しているうちにも、亡霊のようにべっとりと纏わりついたあの肉塊のイメージが脳を離れることはなく、”恩寵”とやらを受けた忌々しい、誇りも誉れもない冒涜を体現したかのような存在と化するまでのタイムリミットが迫っていることを、魔沙斗は意識せざるを得なかった。


「いや、やっぱなしだ。俺は前者の方法を取る。」


「はぁ〜?つっまんね〜 ずっと家の中じゃねぇかよ」


 自らが置かれた状況、そして最善の選択。二者を天秤にかけた上で、選択されたのは前者の三人寄らば という作戦であった。


 思考の霧を取り払う。何も三人であることに拘る意味など微塵も存在しない。


 やがて徐に立ち上がると、骸細工の回転椅子にその身を放り出す。椅子の上にて胡座をかきながら座る魔沙斗が、その身を焦がされた哀れなる御供の遺物から造られた象牙色の物体に、悲鳴にも似た音を軋ませる。


 魔沙斗は慣れた手つきでパソコンの電源を立ち上げる。


 ハイエナの如き瞳で液晶を視貫くその様は、もはや上位種のご機嫌を伺うことを、その生涯を貫く方針とする羊などではなく、誉れ高き地獄の君主の一柱で有るかのようであった。


「逃げられない... それは”お前”だって同じだろ?」


 トラウマにも似た、”呪い”の観念。それを植え付けた存在の顔を思い浮かべると、不敵な笑みを浮かべ、涅色に染まったウェブページを開く魔沙斗を、怪訝そうな面持ちで横から神次が覗き込む。


 テレビの液晶から発せられる灯りが、煌々と自己主張をしている。本来ぼんやりとしたはずである、控えめな光量を発する光源であるそれが、この場所において一番にその存在感を発揮するほどの昏がりに沈んだ一室。


 澱み切ったこの場所に相応しいとでもいうように、パソコンから漏れ出でる病的なブルーライトが、誘蛾灯の様に魔沙斗を惹きつけている。


 濁った魔沙斗の角膜に、漆黒の画面に映える緋文字が投影される。


「何見てんだよ?」


「ファウストだ。ここでは三人と言わず、あらゆる叡智を総動員できるからな。その上、扇動にも使える。」


 匿名掲示板であるファウストにおいては、この世界におけるありとあらゆる情報を収集できる。それと同時に、大衆の扇動などにも利用される危うさを多分に孕んでいる。

 ”ファウストさん”として匿名性を担保された大衆が犇き、群体を形成することで成り立っている仮初の共同体であるが故に、一度暴走状態に陥ってしまうと、ブレーキをかける人間も存在しないのだ。

 時として彼らが扇動により陥る集団恐慌の類は、彼ら匿名のファウストたちが自らの誇りとしている知性といったものからは最もかけ離れた愚行である。


 その運営方式や、管理者であるらしいメフィスト なる人物についてなど、不透明な箇所があまりにも多いため、黒い霧に覆われたこのアンダーグラウンドな世界を渡るためには相応の知識とリテラシーが必要とされる。まさしく一寸先は闇ではなく、闇をすっとばして死であるこの冥界直結のインターネットの海に、魔沙斗はまたしても漕ぎ出したのだ。決してそれは蛮勇ではなく、確かな決意、そして殺意をその双眸に爛々と宿して。


「見ろよこれを。」


 やがて会心の笑みを浮かべ、辿り着いた”成果”を、一仕事終えたヒットマンかのような誇らしげな貌を湛えて神次に見せつける。


 全ての人々の目が共有され、口が囀る。この世界で名を知れた活動をしているような人物は、決して大衆の囀りや噂と言った亡霊から逃れることはできない。勿論、コンラートでさえも例外ではなく。魔沙斗が覗いていたのは剤皇街の地元の掲示板であった。


 そこには柳を彷彿とさせる艶めかしいフォントで紡がれた緋文字の連続が、祭壇にて呻く羊の群れかのように煌々と踊っていた。


 [『注目』あのコンラートという人が、クリスマスにエデンに来るらしいぞ!] by コードネーム・エンペラー


 [エデン!?大丈夫なのか?] byファウスト


 [なんでもわざわざ演説をしに行くらしいぞ?]by ファウスト


 [クリスマスに?マジ?] by ファウスト


 神次がゴクリと唾を飲み込み、魔沙斗を半ばおしとねるような形でその巨軀をぐいと乗り出した。その視線は踊る緋文字の羅列に釘付けになっている。


「エデンって... オレたちの大学じゃねぇか!?」


 それ自体では何も意味をなさない記号である文字の羅列。いくらその字形がおどろおどろしいものであったとしても、神次がここまでの驚嘆を見せた理由としては説明にならない。二人の眼前に紡がれた記号の羅列。そう、編まれた文章の内容は、正しく魔沙斗と神次が通う大学に、コンラートがやってくるらしいという噂を表していたのだ。


「クリスマスって...?たしか来週だよな?」


「あぁ。何かしらの手がかりは掴めるかもしれない。行かない手はないだろう」


「にしても、かなり大荒れになると思うぞ〜?」


 煌々と不気味に輝く液晶の果てに何を見出したのか、躊躇いがちに声を漏らす神次。


「だろうな。だけど、この”器を殺す力”を試す好機でもある。そうは思わないか?」


 それもそうだ。自分たちが通っている大学、エデン。

大学とはいうが、最高学府が冠する大学という称号とは名ばかりの、実態は胡乱な輩や魑魅魍魎が跋扈する魔窟と化している。その事実を何度も体感として記憶に焼き付けている魔沙斗は自嘲気味に発した。


 だが、だからこそ、『ソロモンの鍵』の器を抹殺するための力を試す絶好の機会であるとも捉えたのだ。元々治安が崩壊している構内では、その気になって焚き付ければ戦火の火蓋を切り落とすなど造作もないことだろう。いざとなれば神次に斃してもらえばよい。


 そういった意味で、エデンはコンラートから命じられた、”命のやり取りの予行練習”を行うことのできる、お誂向きの舞台であると魔沙斗には感じられたのであった。


 自由にその門戸を解放するということに特徴を持つ教育機関兼研究機関である大学というものは、皮肉なことにもアグレッション以降はその警備の薄さを逆手に取られ、怪魔の如き狂信者たちにより構成される 教団(カルト)や、バチカンとコネクションがあると噂されている悪魔崇拝者の団体などが我が物顔で敷地を彷徨う人外の魔境と化したのだ。故に、魔沙斗はごくたまにしかエデンに赴くことはない。神次も通っているところを見たことがないし、奴の口からそんなことを聞いたこともない。


 エデンという馬鹿げた名前からも想像は容易だが、昔一代限りで成り上がった立志伝の人物が、その売名のために建てたというのだからその惨状は察するに余り有る。元々荒れ放題の三流大学であったエデンは、汚れた功名心に満ちたその生い立ちからもわかる通り、杜撰な管理体制が敷かれており、悪魔の存在が発覚して以降は非公認の魔剤が取引される裏市場や、犯罪的な活動を行う器たちの集団にとっての都合の良い隠れ蓑と化している。


 どうやら昔は大学というものは、勉学の成績でその対象者を選別していたらしい。魔沙斗にとって、その事実は既に自分が生まれる前の出来事として孤児院の書物で読んだことがある限りのことである。


 今や暴力が勉学にとって変わった。その門を潜ることを許されるのは、比類なき暴力という関門を潜り抜ける力を持つものだけである。

 

「クリスマスにか!?あの勃起野郎も正気の沙汰じゃねぇな?」


 神次が画面越しに、得体のしれないあの男を嘲弄するのも十分に納得できる。聖典における救世主の誕生を祝う日であるクリスマスには、様々なゼクテやカルト、狂信的な集団や悪魔崇拝者、聖典の原理主義者などが入り混じり、地獄を現界させたかのような血腥い紛擾と衝突が毎年巻き起こる。


 これらも、実際に体験したことのない魔沙斗にとっては伝聞で認知したものに過ぎない。


 そんな日であるクリスマスに、わざわざやってきて、呑気に演説でもしようというのだ。あくまで噂の域を出ないが、自殺志願者や戦闘狂でもない限り、羊はもちろん、並大抵の器であってもやろうとしないだろう。


 コンラート... ますます訳のわからない男だ──


 魔沙斗は、しばらく当惑を隠すことができなかった。

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