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†魔剤戦記† 剤と罪に濡れし者達  作者: ベネト
第2章 剤と愛に飢えし者達
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第2話 切リ刻マレタ蛹

 アパート伏魔殿。その至る所が腐食し、その表面を覆う薄い桃色の塗装がところどころ剥がれ落ち、焦茶色に錆びついたその跡が疱瘡のように浮かび上がった、見るも汚らしいその姿を外界に晒している。さながらそれは、大火傷を負った人間の軀の皮膚の遍くを覆い尽くす瘡蓋のようであった。


 伏魔殿の外観は、その大層な名前とは裏腹に、果たしてそこから出てくるのは高位の悪魔などではなく、せいぜい下級の悪鬼や蛆虫の類といった、人に嗤われるような見窄らしいなりを湛えている。


 ただ死を待つのみとなった老人の矮躯のようなか細い骨組みの、剥き出しの階段がギィギィと情緒を不安定な状態へと導くような音を鳴り響かせる。


 その音を立てているのは、まさしく俺自身だ。


「クソが...」


 火傷に爛れた人間の皮膚のような外観を纏うこの建物の階段を一人登り、六畳間の巣窟へと休息のために足を登らせてゆく。


 右腕が痛む。


「畜生... お前はいいよな。」


 苛立ちに任せ、右の脚で銅色に錆びついた外付けの鉄骨階段の柵を軽く蹴り付ける。それだけでこの瀕死の建築物に備え付けられた階段はギシギシと揺れ、己の窮状をアピールしているかのように感じられて苛立ちを覚える。

 

 つくづくよい建物だと思う。そして、つくづく物体というのは楽だと思う。心がないからだ。

 物体であるのならば、こうしてその姿形が無惨なものとなれば、誰の目にも傷を帯びていることは明らかだからだ。人間である俺はこうはいかない。何故?心があるからだ。


 確かに今の俺は右の腕を負傷し、明らかに怪我人ですと言った様子をアピールするかのように白い包帯がグルグルと巻き付けらられている。だが、その痛みなど俺にとっては取るに足らないものだ。本当に恐ろしい痛みとは、心の痛みである。


 その痛みは、決して他者から見てわかるものではない。心という不可視の領域で培養された病理は、やがてその全てを埋め尽くすと、初めてそのサインが自殺や自傷行為といった形を取って外界に表出する。周りがその危篤性を認識したときには、既に症状は回復不可能なほど進行している...


「寄生虫みてぇだな...」


 忌々しげにそう吐き捨てる。明確な思考を働かせているわけではない。己が抱く生物としての帰巣本能に導かれ、亡者のように我が家へと歩いてきただけだ。気がつくと階段を登りきり、眼前には薄汚い廊下と、等間隔で並ぶ壁面に備え付けられた扉が広がっていた。


 戻ってきたのだ。だからといって、この強迫観念からおさらばできるわけじゃない。そんなことはわかっている。ただこうして足を交互に駆動させるという規則的な有酸素運動を行なっているだけでも、気休め程度にはコンラートが脳裏に焼き付けてきた”呪い”から逃れられる気がしたのだ。


 だからこそ、求めていたはずの休息へと繋がる扉がいざ視界に入ると、徐々に思考の内部を占める恐怖感が徐々にその存在感を増してきていた。


「ん...?」


 ドアの板金が妙にうわついている。扉のラッチから飛び出た金属が、ラッチ受けに収まらずに、そのまま引っ掛かっている。


「侵入者!?」


 耽溺に浸っていた思考が即座に戦闘状態へとシフトする。視界に捕捉されたこの状況、つまりは俺の部屋であるこの場所の扉を、誰かが開けているということである。


(強盗か!?)


 今の自らの右腕が負傷しており、疲労も相当に蓄積しているという状況を鑑みるのならば、すぐさまその場から逃走することが最善の選択だろう。だが、いつの間になぜだか恐る恐るドアに足音を殺しながら接近していたのだ。


 自らの住処のことだ。自らで確かめないと気が済まない。足を擦るようにゆっくりと移動させ、壁面に背を密着させる体制を取りながら、扉に空いた僅かな隙間に耳を傾ける。


 一体誰が? 得体の知れない存在への不安と恐怖、そして、不躾にも無許可で俺の寝倉へと侵入を試みた不届き者に対して沸き上がる怒り。

 それらが入り混じることで奏でる混沌とした感情の多重奏を、バクバクと刻む心の臓の音の烈しいビートが強調させている。


 瞬間的に、惧れにより潮が引くかの如くさーっと乾き切った硬口蓋を潤すかのように、口を真一文字に結び、舌を口蓋を這う様に軽く一巡させる。

 己の体内を反響する爆発寸前の心音。

 ごくり。唾を呑み込んだ音が頭蓋の骨を伝導い、一際大きく頭蓋内に反響。


 もし侵入者だというのなら、機先を制し、なおかつ一撃で仕留めなければならない。孤児院で塾長にやってやったものと同じ要領だ。


 ただ今回は、こちらが右腕を負傷しているがために、ミスは断じて許されない。

 侵入者がここの扉を開けて去ろうとした瞬間に全体重を乗せた左のブローを鳩尾に叩き込む。その痛みで軀を折り曲げた所をすかさず追撃し、捕獲する───


有事に備えた軀の駆動のシミュレーションは完璧だ。


「あ〜 おっもしれ〜!!はははは!」


 しかし、果たしてそれは実行されることはなかった。


 ほんの僅かな空間の隙間があるとはいえ、扉越しのせいでくぐもった声が聞こえて来ると同時、緊張の糸が一気に解ける。

 戦闘態勢に即座に切り替えることの可能なフォームを崩し、だらしなく肩を落とした。同時に安堵と共に、先ほどにも増した疲労感が肩にのしかかる。


「おい神次!何勝手に俺の部屋に入ってんだ!」


 左の掌によって叩きつけられ、勢い良く開け放たれた扉が鈍重そうな音を立てる。俺のベッドに寝転んで魔剤を飲んでいた神次が張り上げた俺の声が聴こえるや否や、ビクッと震え飛び退くようにしてこちらに顔を向けた。


 俺の部屋をまるで自分の部屋かのように扱うだけに留まらず、不法侵入までやってのけ、挙句人の家で勝手にテレビを見ているなんてどうしようもないやつだ。神次は無事であろうか... などと考えていたのがバカらしくなる。


 不安と怒りという感情は相性が良く、互いは刺激が加わることで容易にもう片方の感情へと転化する。

 

 強迫観念に苛まれ、思考の疲弊で擦り減った、余裕なき狭量な心を占める不安と恐怖は、瞬く間に苛立ちへと変化した。


 今までは目を瞑ってきてやったが、この男にはそろそろ親しき中にも礼儀が存在するという言葉を教えてやらなくてはいけない。


 いい加減にしろ!! そう口先にまで出かかった所で、俺の威勢は削がれてしまった。


「なんだ魔沙斗か!お前生きてたか!無事でよかったぜ!!!」


 奴が発した一言目。それは勝手に他人の部屋に上がり込んでいたことに対する言い訳の言葉でもなければ、焦りに満ちた弁解でもなかった。ただ純粋に俺の無事と帰還を喜ぶ明朗な台詞。


「無事... というわけでもないんだけどな」


 一回激しく怒ってやろうとでも思っていたのだが、こんなにも純粋に無事を喜ばれると拍子抜けしてしまう。


「マジ?無事じゃないって... あ〜」


 目をまんまるに見開いていた神次の視線が、俺の顔から包帯で巻かれた右腕へと映るや否や、目を泳がせて言葉を濁した。


「悪い!!!その腕のことはマジで謝る!なんか奢るから、許してくれ!!」


 ベットから跳ね飛ぶかのような疾さで俺の足元にまで飛んでくると、土下座をしてペコペコと頭を下げてくる。


「いや、構わねぇよ... それよりも、どうして俺の部屋にいるんだ?」


「あれから目が覚めたら、お前がいなくなっててさ!仕方なく隣にいたあの勇気とかいうガキを孤児院に連れてって、そのあとここにきたってわけだ」


 俺に詰る気がないと判明するな否や、先程の土下座の体勢をしていたこの男はいつの間にか飛び起き、己よりも高い本来の目線で俺と向き合う。


「相変わらず切り替えが早い奴だな... それはいいとして、なんで俺の部屋にいるんだと聞いてるんだ。」


「そりゃあ、オレの部屋は汚くて住めたもんじゃないしよ。お前が無事でよかった!そうでもしないとオレの住処がなくなる!そうなったら大変だ!」


 悪びれる様子など全く見せずに、大きな声を張り上げたと思ったら次の瞬間には、胸をそっと撫で下ろしている。


「結局問題は俺の部屋なのかよ...」


 少しでもこの男を見直そうとした俺が馬鹿だった。憤懣やるかたない俺は神次が寝転がっていたベッドに乱暴に腰を下ろす。


 本来の持ち主の帰還を讃えている様に、ベッドの骨組みがギィーという、悲鳴にも似た歪な音を立てた。


「最初は夢かと思ったぜ?間違いなくあの勃起野郎に殺されたと思ったもんなオレ。気がついたらお前もあのヤローもいなくなっててさ」


「あぁ。実はな、コンラートに連れられて剤皇街の警察署に行ってきたんだ。」


「えっ... って、おい!マジかよ!?よく生きてたな!?」


 器である神次から、人間離れした英雄でも見るかのような目線を向けられるのは初めてだ。しかしそのような類の感情を浴びせられた所で、もはや羊ですらない俺の心の渇きは全く潤うことなどなかった。


「コンラートのやつによると、俺の血液には器を殺す力があるらしいんだ。」


「器を殺す!?ウッソだろ!?」


「待て!」


 訝しむような、恐れるような眼差しを向けた後、脱兎の如く部屋の扉を志向する神次を呼び止める。


「俺にお前を殺す気なんてねぇよ。第一、操られてゾンビみたいになってたお前を助けたのは俺なんだぞ?」


「はぁ?どうやってお前がオレを助けたんだよ?」


「話すと長くなるが... 聞いてくれるか?」


 怪訝そうな面持ちの神次が再び部屋の中央に戻ってくると、甘ったるい臭いを漂わせるべたついた床面にどかりと座り込む。



「おいおい... それマジで言ってんのか!?」


「嘘をつくメリットがどこにある?」


 剤皇街警察署で目にしたもの。告げられた事実。そして、コンラートとの会話と、あの忌々しき二つの肉塊のこと。俺自身がまだ完全にこれらの情報を十分に咀嚼できていないため、時系列や話の順番が乱雑になってしまったが、記憶している限りの全てを神次に伝えた。


 最初は奴も半信半疑で面白がりながら俺の話を聞いていて時々茶々を入れてきたのだが、切迫感を孕んだトーンでの俺の話が進展するにつれ、徐々にその表情は真剣なものとなり、やがて話の主題が、あの不気味な肉塊となると、これまで見たことのないほどの真面目な顔で、不審そうに眉を顰めて静かに話を聞いていた。


「神の”恩寵”なァ...」


 一通り話が終わり、訪れた静寂を神次が打ち破る。 

 もの問いたげに虚空に向かい呟かれたその一言に、精神を激しく揺さぶられる。先程に見せた

、いつもと変わらない神次の態度という重しを乗せることで、恐怖に傾いていた情緒の天秤をかろうじて釣り合わせることが可能だったのだ。

 

 どこかでオレは、このどうしようもなく間抜けで、それでいて底抜けに明るい神次の反応を期待し、それを一時の慰めとしようとしていたのかもしれない。


 神次が忌々しげに”神の恩寵”という言葉を噛み殺すように呟いたことに対して立ち込めた、己の心をますます覆い尽くす暗雲を意識してようやく初めて、それに気がついたのかもしれない。


「お前!何か知ってるのか!?」


 肝を冷やす不穏な黒雲を必死で払うように、神次に捲し立てる。この男はひょっとしたら、何か知っているかもしれない...


「ん?あぁ、悪ぃ。なんでもねぇよ。なんか不気味な言葉だと思ってな〜」


 だが既に神次はいつものあの口調と軽薄そうな表情へと戻っていた。一瞬でも見せたあの剣呑な情調は夢や幻の類であったのだろうか。それが夢でないことは、確かな重圧を持ってのし掛かる心の中の黒雲の存在によって、検討するまもなく否定される。


「でもよ〜 お前が言ってることが正しいってんなら、あの勃起野郎が言ってたらしい、お前の隣の揺籠にいたっていう器を殺さないといけないんじゃね?あてはあんのか?」


「何もねぇ...」


 神次はああ見えて結構現実的な男だ。かけられるのは労いや心配、同情の言葉ではなく、解決策を模索する言葉。あまりにも単刀直入に突き立てられた神次の言葉が、多種多様な感情が入り混じることで造られた、ぐちゃぐちゃのスープが詰まった心という蛹を切り刻む。

 

 未処理未消化の情緒で満たされた己が宿す蛹は、蝶という具体的な形を取るまでの、感情の処理という名の羽化の猶予を与えられず、再びドロドロの流体となって五臓六腑に流れ落ち、情性を冷たく掻き乱した...

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