プロローグ 仆されし約定
聖典によれば、かのソロモン王は一回の食事に牛三十頭と羊百頭を費やしたという。
ソロモンの栄華 などと聖典では晴れやかに脚色されているものの、その実は数多もの供物と、民への過酷な収奪によって支えられた、繁栄と権力を誇示するための見せかけの虚飾であり、暴虐と圧政の象徴。
かの祭壇は、贄とされし哀れな畜生共の命を焼き尽くし、沸き上がる芳ばしき黒煙は夜空へと昇り、消えてゆく。
その邪念と飽くなき欲を孕んだ煙は、決して ”真の神” へと届くことは無く。
ここ、 傲模羅町にて、かの聖典の記述にすら匹敵するほどの、豪華絢爛で贅を凝らした、祭壇という名の虚飾と華美、そして愚かしい自己満足に濡れた、羊たちの処刑装置が、今宵もその光を煌々と発していた。
地を照らしつけ、恵みや慈愛の類を与える陽の光はもはや遠きもの。故に世界は、終日暗闇という怪物の胃の中へと沈みきっている。
そんな中であって、例外的な輝きに溢れる、活気に満ちた町。最も、遠くから観客としてそこをみればの話である。
そう、傲模羅町。そこは退廃と暴虐に満ちた世界の中の、殊更に淫蕩に染まりきった一区切り。
無数のビルや建築物をはじめとした、脆く儚い人理の結晶が、貧汚によって生臭く染まり切ったこの街を、ことさらに複雑怪奇な病理の迷宮たらしめていた。
そこに交錯するは、本来は交わる事のない羊と器の隔絶されし理か。それとも、愛に飢えた子羊たちが織りなす愛憎が形作る知恵の輪か。
傲喪羅町の中央部。犇くビル群を見下すかのように聳え立つ摩天楼。地上のあらゆる雑事とは無縁に、まるでそれ自体がこの街の王であるかのように堂々と、その存在を天に向けて誇示している。
黒を基調とした上品な大理石により造られた壁面に四方を囲まれた内装。壁面には聖典にあるという敵対する民族への残虐な処刑を描いた絵画が飾られ、その隣では、鹿の剥製がまるで生きているかのように生々しくその存在をアピールしている。
その全てが、細部に至るまでここが並大抵の財力の人間では居座ることを許されない空間であることを誇っているようであった。
「なぁミカ。聖典にあるソロモン王の話は本当だと思うかい?」
其の最上階、殊更に豪奢な一室にて、ワイングラスを片手に曇りなき硝子の窓より、眼下にて朧げに妖しく灯る光を見つめる青年が、ミカと呼ばれた、フロアの上品なクリーム色のライトを反射して艶かしく光る白蠟の如き柔肌を持つ女性へと語りかける。
「...............」
青年の問いに、何かしらの返事の類がかえされることはない。
「参ったね。キミみたいな美しい至高の女性に、エクソダスなんてつまらない安酒では申し訳なかったね。いや、気を悪くしないで欲しいな。」
青年は自分に酔っているかのように、そう芝居がかった言い回しで語ると、ミカの机の前に置かれたショットグラスを鮮やかにつまみあげ、北欧風の意匠が施された洒落たキッチンへと向かい、一口もつけられていないエクソダスを流しへと棄てた。
比較的安価ながら、強めの度数と清涼感のある味わいで親しまれている酒、エクソダス。哀れにも虚栄の演出のための前座とされたそれが、本来収まるべきである人の胃ではなく、シンクに流れ落ちる音がゴボゴボと響き渡る。
空になったそのグラスに、代わりにその姿を堂々と満たしたのは真紅のエーテルの如き蜜酒。
青年は再び元の円卓へと腰を下ろす。
「ごめんねミカ。気を悪くしてしまって。これはディアスポラ。イスラエルの羊共の犠牲の血で滲んだ最高級のやつさ。気に入ってくれるかな?」
「...............」
ミカと呼ばれた西洋宮廷における礼服のような上品、それでいて可憐な装飾に身を包んだ女性は、青年の問いに対してまたもや応答を返すこともなく、ただ一点を見据えて、彫刻品や剥製の類のような佇まいで鎮座している。
「でね。ボクは思うんだ。聖典のあの記述は必ずしも正しくない。真実はこうだ。ソロモンはその権力を誇示するために、”命の顕示的消費”を行なったんだとね!」
「...............」
青年は座していた羊の骨から作られた椅子から立ち上がると、大袈裟な身振り手振りを交えながら、ミカが座している円卓の周りをゆっくりと歩き回り、得意げに語る。
「さぁミカ。じっと座ってなんかいないで、せっかくだし夜景を見ようじゃないか。」
「触らないで。」
ミカの手を取り、立ち上がろうとした青年に突きつけた、ミカがようやく発した一言。他の誰もが触れることの叶わない至高の芸術品。続いて、それに触れることがてきるのは自分だけだという自信が滲み出たような大振りな仕草でミカの肩を撫でようと伸ばしたその手が、刺すような一言と共にさっと払い除けられる。
穏やかな倦怠感に満ちた空間が、突如として氷のように静まり返り、冷え切った静寂が数秒の空気を支配した。
やがて、青年の得意げな表情が強張ると、先ほどよりも僅かに低いトーンで語りかけた。
「どうして?ボクのことが嫌いになっちゃったの?」
「...............」
再び清楚なフランス人形の如く静まり返ったミカが顔を俯け、眼前に置かれているディアスポラが注がれたショットグラスを見つめている。しかし、その焦点は最高級品質とも言われている、華美と贅沢の象徴たる紅い液体へと向けられておらず、瞳はもやがかかった朧げなる事象だけを漠然と映していた。
「ねぇ。答えてよ。言ってくれなきゃわからないよ。」
「...............」
一際長い静寂。円卓に置かれた真っ赤なディアスポラの水面が、青年の苛立ちを映し出したかのように不穏に揺らぐ。
「どうしてそう不機嫌なんだい?ボクのどこが気に入らないの?ボクは強い。例え君を百の暴漢と化した器が襲ったとしても、ボクはそれらを返り討ち。そして奴らには永劫の攻め苦を与えるだろう!キミは、死んだ方がマシだ!と叫ぶ”それら”を見下ろしながら、ボクと一緒に嗤うのさ!」
眉をひくつかせ、肩をすかしながら語る青年の 声調は、自らの権限を誇示し、酔いしれる独裁者の演説のような独特のリズムを帯び始めていた。
興が乗ってきたとばかり、尚も青年は続ける。
「ボクは賢い。悪魔の傀儡として飼い殺しにされている、誇りを捨てたような薄汚い国連のエリート達なんかよりもよほどね!あれは正しい賢さじゃない。むしろ愚かだね!ボクは本当の意味で賢いんだ。そう!あのソロモンのように!」
「.........違うわ」
ミカの放った一言。刃のような冷たさを帯びたその言葉は、頑丈な外殻に囲われた青年の心にすっぱりと斬れ跡を入れた。そして... その内部よりどくどくと溢れ出したのは憤激の熱情。
さながら、蛹が刃物で以てすっぱりと切断され、その内部依りゼリーの如く湧き出る柔らかく、熱い汁のようであった。生命の根幹そのものといってもいい、青年の存在基盤がジュースとなってとくとくと溶け出でる。
「どうして!?何が違うっていうんだよ!?答えてよ!?答えろよ!!ボクは強い!賢い!いや、違う!!偉大なんだ!!誰よりもハンサムだ。財産、名誉も沢山!スタイルもいい長身だ!優れているんだよ!この愚鈍なる世界の誰よりも!!」
心の外殻を無惨にもバリバリと踏み砕かれた青年が、その響を掻き消そうとでもいうかのように張り上げる大声。
やがて肩を震わせ、その手を痙攣させながらミカの耳元にそっと己の唇を寄せ呟く。
「ミカ。わからなくなっちゃったのかな?今の自分の素晴らしさが。ほら、夜景を見てよ。綺麗だろ?綺麗だよな?遠目から見ると街全体が芸術品のようだろ?木星って知ってるよな?遠くから見るとロマンチックで美しい!!!だが近くで見るとどうだ!とてもグロテスクで悪趣味。見れたもんじゃない!これも同じ!地上に降りてその光を凝視してみろ!薄汚い羊たちの営みが形作る、汚濁の光だ!!ボクといればそんなのを見ることもない!綺麗なものだけ見ていられる!そう!ソロモンのように、ボクは”命の顕示的消費”ができる!」
呟きから始まった青年の語りは、収まるところを知らず、会話の区切りどころという羅針盤を失い、座礁した青年の情緒は段々と狂乱に陥った怒鳴り声へと変調していた。その様子と色調は、相手から答えを求める疑問ではなく、あらかじめ決まった回答を導き出す作業のような、さながら強迫性障害患者が行う確認作業の如き執念を帯びていた。
一人捲し立てる青年。そこにミカと呼ばれた女性の姿、そして人格は不在だった。
耳元で鳴り響く大声にも関わらず、その貌をぴくりと歪めるのみでそれを受け止めたミカはやがて呆れたように、そして侮蔑の色を込めてゆっくりと口を開いた。
「そういうのじゃない。それに、私は......ミカじゃない。アンナよ。」
ミカ、ではなくアンナと名乗る女性を詰るように顔を近づけていた青年の表情筋の悉くが、電撃を浴びせかけられたかのように硬直し、直後何か悍ましい存在を見つめるかのように怯えた目付き。ハンサムな容貌にあって、はっきりとその存在を主張するかのような二重の眼がさらに開かれ、完璧な円に近づくかのようである。
「ミカ...?アンナ...?そうか?そうか!?あぁ!クソッタレが!!ボクのしたことが!?あぁ...待ってくれ!!待ってくれよ!!!」
すぐに取り乱したように膝から崩れ落ちる青年。先ほどまでの意気揚々とした振る舞いは今や消え失せ、哀れな物乞いかのように、立ち上がったアンナと名乗る女性のドレススカートに縋るようにしがみ付く。
「もういいわ。何も言わないで」
逆転する形勢。今や青年に、自らをソロモンにも匹敵するとまで言ってみせた威勢は跡形もなく一人のうら若き、華奢な女性によって跡形もなく踏み砕かれていたのだ。青年の頭の中で、自らの存在全てが溶解するような崩落の調が奏でられていた。
縋り付く青年を足蹴にするように拒絶すると、アンナと名乗る女性は踵を返し、紅きカーペットの上をコツコツとヒールの音を響かせながらドアロックを解除すると、部屋を出て行った。
奏でられるヒールの音は、常に一定のリズムでカツカツと冷たく響き渡り、取り残されて嗚咽する青年の声と合わさることで喜劇の舞台歌のような間の抜けたミュージックを奏でていた。
遅れてやってくる静寂。
「...振られた。はは... 振られたんだな...」
何分が経過したのだろうか。やがて悲劇の主人公かのように、紅のカーペットが敷き詰められた摩天楼の高層階の一層に、天井より吊り下げられしクリーム色の小粋な照明に照らされながら崩れ落ちた青年はよろよろと立ち上がり、最早誰一人としてその姿を残していない円卓へと向かい、そして力無く笑う。
「振られた... そうか... ボクを... 否定したんだね?そうなんだろ?ボクを... 否定した!拒絶した!あのクソアマ!否定しやがった!ボクの存在を!!否定した否定した否定した否定した否定した否定した否定した否定した否定した否定した否定した!!!!!!!!!!!!!!!!そうだな!?キミはボクなんてこの世にいなくていいっていうんだな!!!ははは!!!!」
舞台のように照らし出された上品な室内。やがて目を見開いた青年は獣のような唸り声をあげ、一言も口のつけられていないアンナのグラスを薙ぎ払う。硝子が破損するような軽快な音。
「嗤ったな!?嗤った!嗤っただろうが!!!誰よりも強く、ソロモンすら上回る知恵者、そして誰よりもエラい、このボクを!!!!!!」
グラスが、その存在意義である容器のしての役割をこれ以上果たすことが叶わなくなった際に奏でた、軽快な断末魔。青年の脳はその聴覚的刺激を、喜劇の主人公である自らのとびっきりのシーンに水を刺した、おちょくったSEとして処理されたのだった。
「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない!!!!」
烈しく髪を掻きむしり、その爪を鮮血が伝うまでブランドの長髪の付け根に這わせるように額に突き立て、やたらめったらと地団駄を踏む。その際に響き渡る鈍い音。青年の脳はその 聴覚的刺激を、自らを揶揄うようなダンスのステップとして処理した。
青年は暴れ、暴れ、そして暴れた。手始めに近くの小棚に置かれていた花瓶を投げつけた。当然の帰結として、瓶は割れ破片となり、あたりには水と無惨な花弁が飛び散った。願い破れし青年を象徴するかのように、分離した花片が水溜りの上を漂っていた。
次に青年は壁面に立てかけられていた絵画を殴りつけた。当然の帰結として、額縁に蜘蛛の巣状のヒビが入り、けたたましい音をたてて落下した。それを、縛り上げた公たちの上に厚板を敷いて、その上で以って宴会を行って彼らを圧死されたというモンゴルの将軍のようにひたすらに踏みつける。彼らは貴人の血を流すまいとしてこのような残酷な方法をとったらしいが、青年にはそのような精神は一欠片も存在していなかった。あるのはただひたすらの自己憐憫と裏切られたことへの怒りのみ。
物体が自らの暴虐により、無惨にも破壊され、その役目を果たすことができなくなったときに奏でられる断末魔が、青年の脳内では自らを嗤う不快音として処理される。そしてそれがトリガーとなり、青年の更なる激情を喚起する。自らを憤激の増幅装置と化してしまった青年の暴走は止まらない。
壁面に設置された鹿の剥製に、諸々の設備。その悉くが億は下らない豪奢な存在を破壊し、蹂躙し尽くすと、青年は再び部屋の中央へとやってきて、高らかに笑い声を上げた。
「ああ!いいよ!!裏切ったんだ!裏切ったんだ!!ボクはこんなにキミを愛してあげたというのにね!!何が気に入らない?まだボクは力が足りない?金?知力?ねぇ、答えてよ。”ミカ”。」
青年が問いかけた先。ここにはいないはずのその名前。そこにはさながら時計の文字盤のように規則正しく円卓に座す、豪奢な装束にその身を包む女性たちがいた。
円卓を時計の文字盤に例えると、先ほどまで青年がいた場所を一二時、アンナと名乗る女性が名乗る場所を六時とすると、各時間を表す箇所に対応するかのように、皆揃って白のドレスに身を包んだ令嬢のような佇まいの女性たちが鎮座していた。
皆一様に、彫刻の如くその表情を硬直させ、一言も発することもなければ、僅かな挙動を見せることはない。
ミカと呼ばれた、十一時に対応する箇所に座している女性の肩に手を回すようにもたれ掛かり、耳元で湿っぽく詰る。
「...............」
答えは完全なる沈黙。その女性の胸元には、まるで鮮やかな鮮血かのように、先ほど薙ぎ払ったグラスから飛び散ったディアスポラが染み付いていた。
「ははっ。そうか。罰を与えろっていうんだね?そうだね。裏切り者には罰を与えないとね。それこそ、生きて永劫の攻め苦に苛まれるような...!」
青年はやがて一人満足げに円卓に立ち上がると、演説でも行うかのように右手の拳でマイクを象ると、それを口元に添えて未練が去っていったその部屋の玄関口へと叫んだ。
「裏切り者に制裁を!薄汚い娼婦に鉄槌を!そして、尽きることない永遠の愛を!」