第12話 背負いし咎
十八で成人するに伴いここを出てから数年、辿り着いたその場所は、佇まいを当時からほとんど変化させていなかった。
「懐かしいな...」
ノスタルジーに駆られて、つい自然と独り言が口をついて出てしまう。
不思議なことに、ここに来るのはかなり昔のようにも思えるし、ごく最近のことのようにも思える。
荒廃した剤皇街の場末にあって例外的に和平が保たれている場所。
しかし、それは決して平和を意味しない。親を持たないガキ共が庇護される施設である孤児院が、これほどまでに巨大で、ものものしい外観を備えていること自体が、その存在を以て剤皇街の治安の度合いというものを、言葉なくして雄弁に語っている。
そして、ここには固有の名称など存在しない。
孤児院自体がありふれているこの世界において、単に剤皇街孤児院 という他と識別するに足りるだけの名前が与えられているに過ぎない。
ここに来るまでに魔逢塾を出てから30分ほど歩く必要があったが、幸いにして記憶が確固たるものとして脳内にこびりついていたために、迷わずに辿り着くことができた。
まぁ、忘れるはずもないのだが。
俺にとってこの目の前に聳える荘厳な建造物は、衣食住を保証してくれた上に、生きる上での様々なスキルや知識を与えてくれた、いわば故郷と言っても過言ではない。
道中この孤児院へと至る道自体を歩いてきたこと自体が久しぶりのことであったが、道のりを進むたびに現れる様々な事物がトリガーとなり、とめどなく郷愁の情が湧き上がってきたので、まるで何かの見えざる力やエネルギーに導かれるようにして孤児院へと辿り着いていたのだ。
道中で視界に捉えた、真ん中からぽっきりと折れ曲がった標識や、下品な落書に塗れた廃ビルを目にするうちに、懐かしい記憶が次々と湧き上がってきた。
有刺鉄線が張り巡らされた、厳重な石造りのものものしい雰囲気を放つ巨大な施設を見上げる。
「へぇ〜 お前昔こんなところに住んでたのか?なんか無機質でおっかねぇところだなぁ」
「まぁな。剤皇街のガキの半分くらいはここの出身だろうよ」
先ほどから孤児院の外観を見て、視線をあっちこっちに向けながら好奇に満ちた視線を投げかける神次だが、特段面白いものでもないとは思うが。
たしかに、ここは神次から見たら無機質でおっかない建物にすぎないのだろうが、俺の目には暖かみと慈愛に満ちたふるさとに映る。
「勇気。約束通り来てくれてありがとう。俺は少しここのやつと話すことがある。先に中に入って広場で待っていてくれ。あの広場、今でもあるよな?」
「中央広場ですか?わかりました」
勇気を先に送り出し、門の前で立つ屈強な男たちにカードを見せて中に入っていくのを見届ける。
そして、此処での思い出の半分近くを占めている1人の男の存在を想起する...
勇気の 証明書を確認している男に目をやると、まさしくそれは俺が今想起していた存在そのものと思われた。
実に見覚えのある影だ。あの巨大なシルエットに、屈強な巨躯。間違えるべくもない。九十パーセント以上の確信を抱く。
しかし、あまり騒ぎにはなりたくない。
勇気が孤児院の中に吸い込まれるように消えていくのを確認すると、神次を連れて遅れて俺もゲートへと歩みを進める。
近づくに連れて、そのいかついシルエットがさらに巨大さを増してゆき、やがてはっきりと詳細までを目視できるほどになった。
ああ、間違いない。九十パーセントの確信が、百パーセントの確実となった。
閻魔だ。 これなら話が早く済みそうだ。
「やぁ、久しぶりだなエンマ」
「オウ ッテ、... オイ!!!マサトジャナイカ?」
「魔沙斗!?」
「あの魔沙斗だって!!?」
巨大な影の持ち主である全身褐色の、身長二メートルはあろうかというガタイが良くがっしりとした体つきのむさ苦しい男が目をまんまるに見開いて血を揺らしながら駆け寄ってくる。
他のよく顔を見知った警備員たちも、その声を聞いて次々に俺の名前を口に出し、孤児院の門の前で瞬く間にどよめきが伝播し、驚きの声が次々と共鳴してゆく。
やはり俺の名前は皆に知られているのか。
「あぁ。俺だ。魔沙斗だ。久しぶりだな。悪いがちょっと用事ができちまってな。ここで一泊させてくれないか?」
「オウ!マサトイウナラ、ダイジョウブ!」
大木のような巨軀から、嬉しそうに大声が響く。
唐突に現れた俺からの無茶振りに対して、特段詮索をすることもなくあっさりと了承してくれて非常にありがたい。
閻魔がいて助かった。この男はエンマ。昔から孤児院の警備員をしてくれている男だ。アフリカから来た屈強な黒人で、孤児院にいた俺を良く可愛がってくれたものだ。
殺意に満ちたようなおっかない容姿をしているが、意外と目元は丸っこくて可愛らしい。事実、ここのガキ共の間ではその名前に託けて閻魔様と呼ばれて、随分と懐かれていた。
俺にとっても、許可のない外出が許されていないこの孤児院にあって、親代わりの様に接してくれた恩人でもある。
しかし、再開の旧懐に浸っている時間はない。
閻魔のおかげであっさりとここへの滞在が許可されたことに感謝し、早く勇気と合流を果たさなければならない。
「魔沙斗、お前めちゃくちゃ有名人じゃねぇか!?みんなお前のこと見て驚いてるぞ?」
「そりゃあ、こいつはもうここで勤めてたやつは名前を知らない奴がいないほど有名だったからなぁ。なんてったってこいつみたいな理由で孤児院に来た奴なんてなかなかいな...」
「ヤメロ」
神次が何気なく口に出した無邪気な疑問に対し、喰いつくように答えるお調子者の警備員の答えを閻魔がすかさず静止する。
その心遣いがありがたいが、別に今更気にしてもいない。そのはずだ。
あれは俺が選んだ道だ。後悔はないはずだ...
「気にするな。今更な話だ。それよりこの男だが、俺の連れの神次ってやつだ。こいつも1泊止めてやってもくれないか?決してここのガキに危害を加える様なやつじゃないってことは俺が保証する。」
「よろしくお願いしま〜〜〜〜す」
間延びした声で答える神次だが、元よりここがあいつと同じくらい強面の男たちばかりの場所ということもあり、これほどまでに浮かずに溶け込んでいるのは初めて見た。
「オウ!オーケー!」
閻魔が再び二つ返事で了承してくれる。
こうもうまく事が運ぶなんてなかなかない。神なんて信じてはいないが、幸運に感謝せざるを得ない。
ここでは俺は模範生として生活していただけあって、信頼は抜群だ。
まぁそれもそうだ。元より俺のような理由で孤児院にやって来た、罪に濡れたガキなんて、まずもって注目されないはずがない。平穏が保たれなければいけない空間において、許されるはずのない異質な存在。
だからこそ、周りから投げかけられる忌避や嫌悪の情に満ちた忌々しい視線から解放されるためにも、模範的に振る舞う必要があった。
ここに来た当初、随分と訝しげな視線やら、化け物を見るような眼差しに晒されて大層居心地の悪い気分にさせられたものだが、閻魔だけは初対面からフレンドリーで、孤児院で孤立していた俺に優しくしてくれたのだ。
ここへとやってきた経緯もあり、誰に対しても心を閉ざし、愛情や信頼といったものを知らなかった俺に、親代わりとなってこれらを教えてくれたのも閻魔だ。
「ナンカアッタラ、オシエテクレ!」
その優しさが染み渡る。
この根っこまでお人好しな性格は、昔から全く変わっていないみたいだ。
閻魔はアグレッションより前に日本に来ていたらしく、今からは到底想像もできない話だが、まだ故郷であるアフリカの治安が世界の中でも最低クラスとみなされていた時代のことだろう。
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「なぁ、なんでこんなクソみてぇな孤児院の警備員なんてやってるんだよ。 なんの儲けもねぇだろうが!」
狭く、乱雑に散らかった警備室の小さな机の上に両足を乗せて仰け反りながら、ぶっきらぼうに問いかける俺に対し、閻魔は穏やかな笑みを浮かべたまま煙草をふかしている。
警備室中に充満する紫煙と、警備室にはおよそ不釣り合いなエクソダスの瓶から漂うアルコールの馨しい芳香が混ざり合い、本来緊迫したものであるはずの空気感を妙に柔らかいものへと変貌させている。
俺はこの男に一泡吹かせてやりたくて意気込んだつもりが、閻魔は驚くような様子も素振りも見せない。
やがて煙に覆われて、もやがかったその口をゆっくりと開く。
「ソウ。デモ、助けになりたい」
「はっ!俺には理解できねぇ。そんなの綺麗事じゃねぇか!」
憎々しげに吐き捨てると、座していた劣化しかけた椅子を苛立ちに任せて倒し、警備員のドアを荒々しく開いて後にする。
俺の苛立ちに共鳴し、揺らいだ机上のエクソダスの空瓶が倒れた・・・
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つい回想の世界へと飛んでいってしまった。
今思えば随分と失礼なことを聞いたガキの頃の俺に向かって、怒るどころか気を損ねるような素振りも見せずに答えてくれた、あのいかつい黒人に、最初はそれこそ隔絶された理に生きる、全くもって理解することができない化け物に対するみたいな目を向けたものだ。
たしか自分も恵まれない出自だったからそういうガキ共の支えになりたい みたいなことを言っていた記憶がある。
今でも、暴虐と破壊、殺戮が平然と吹き荒れるこの世界において、そんなことを平然と口にできるこいつは随分とお人好しだと思うことには変わりがないが。
しかしそのお人好し という言葉に対して抱く感情は、昔の様な欺瞞に満ちた存在のメッキを剥がしてやろうと眺める侮蔑ではなく、理解できないながらもある種の親しみが多く含まれているものだ。
ともかく、ここへの滞在の許可ができて助かった。
とはいえいくらなんでもここに長居するわけにもいかないだろう。早い事勇気と話をして、山積みの謎を1つずつ解き明かしていかなければならない。
「恩に着るよ閻魔。後で久しぶりにエクソダスだも1杯やろうや」
「オウ!」
本当はもう少し閻魔と再開に託けて話に花を咲かせたいのが本音だが、優先順位といったものはしっかりと弁えないといけない。それはこの孤児院でも教え込まれた事であり、世界を生き抜く中でも肝要なるものだ。
門を潜り、孤児院の中のノスタルジーを喚起する殺風景な廊下を歩いていく。
壁面の腐蝕具合や、漂ってくるあまり快いとはいえない歴史の長い建造物に特有の臭いも、全てがあの時とは変わっていない。
力無きものたちが、そのなけなしの力さえ持たぬ幼き時代に与えられ、その束の間の平穏を享受することが許される箱庭。
決していい暮らしとは言えないが、ここに来るようなガキ共にとって、衣食住が保障されているだけでも文句のつけようがないだろう。
「なぁ魔沙斗〜 お前の親って死んじゃったのか?」
遅れて門を潜り、駆け寄ってきた神次が質問してくる。
先ほど警備員の1人がその問いを閻魔に制されたのもにも関わらず、そのようなことなど気にも止めていない様に質問してくる。
このデリカシーのかけらもない不躾さが神次らしいといえばらしいのだが。
それに、こいつがわざわざそんなことを気に使って遠回しに質問をして来たらそれはそれで気味が悪い。
「はぁ、本当にお前は遠慮ってものがないんだな。まぁ、今更気にしてもいない。クソ親父は顔すら見たこともねぇ。母親を孕ませた後に蒸発しちまったとのことだ」
「うわ〜 やべぇ〜」
眉を顰めてこそいるものの、だからといって俺を気遣う様な素振りは全く見せない。まぁ、こいつに同情されたところで不気味なだけだが。
「で... 母親は?」
予想していた質問がやってくる。
父親 と来れば次は当然母親についての質問が投げかけられるのが道理だろう。
隠しておくことにも、もはやなんの意味も感じない。
臭いものと蓋をしておくにも、あまりに忌々しい記憶の数々...
だが、今ではもう、迷うこともない。
俺は正しい選択をした。
それに、物事を成してしまった以上、それがたとえ正しくない道であろうとも、過去は変えられない以上、それを正しいと肯定して生きていくことしかできない。
昔、閻魔が俺に語ってくれたことだ。
このような時に、ふと頭に思い浮かんでくるほど脳の隅々にまでこびりついた閻魔の言葉を反芻し、やがて意を決して沈黙を打ち破る。
「......殺した。十三の時、この手でな......」




