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妖隠録シリーズ

妖隠録 参 ~ 目目連

作者: 香津宮裕介


 砂漠の夜は冷たい。

 空気は静かで動かない。

 吐く息は凍えて重い。

 方角を知る星々に見守られながら、孤独な旅人は鳥の夢を見る。

 夜に泳ぐ鳥の夢だ。

 ふと見上げた空に、小さな光が流れた。

 命を燃やして天を切り裂く流星だ。瓦斯(ガス)と氷を撒き散らしながら。それはまるで、生命の道標であるかのよう。

 静寂の夜に白銀をまぶした流れ星の軌跡は、凛とした大気に触れ、その身を削ってきらめきながら闇を裂くのだ。


 そっと筆を置き、俺は深いため息をついた。

 静かな高揚が胸を震わせていた。心地良い満足感が胸を満たしていた。

 現実世界(こちら側)に戻ってくるまでに、しばらく時間がかかった。視界もいまだ現実をとらえきれず、世界はぼやけている。

 一度目を閉じ、ゆっくり、意識を戻して、ゆっくり目を開けた。

 そこは一面マリーゴールドの海。壁には日に焼け、端の切れても陰鬱な輝きを放つドガのポスター。その脇に鎮座するアリアスの石膏は、何人もの手垢で汚れていてもなお、崇高な美しさを損なわない。強烈な明と暗のなかで、その造形はまさに神々しいほどであった。

 夕暮れの美術室は、さきほどまで冷たく広大な砂の海だった。俺はさすらう旅人だった。

 『砂漠の涙』――

 目の前のイーゼルには一枚の絵が、いままさに完成を見たところだった。

 もう一度息をつく。肺の奥から清廉な魂をしぼりだし、そうして鮮やかで濁った現実空気で体内をうるおすために。

 校庭の木の影が、大きく室内に入り込んでいた。そのせいで美術室の床は、オレンジと影のストライプになっている。誰かがこぼした絵の具が、カラフルなアクセントになって散らばっていた。

 ようやく体が現実に帰ってくると、俺は大きく伸び上がった。きつく目をつむり、痛む全身を震わす。

 子供の頃から不思議だった。

 物心がついたあたりからそれに気づいていたのだが、その正体まではわからなかった。

 目をつぶると、まぶたの裏に見える奇妙な模様。

 意識して見えるものでもないし、いつも見えるものでもないが、頻度は高いように思う。

 万華鏡のようにぐるぐると、なにかが回っている。モノクロであったし、格子のようでもあった。

 気がついてはいたが、気にしてはいなかった。

 大人になってから周囲に聞けば、心当たりのある者が何人もいた。けれどもそれがなんなのか、誰も正確には答えられなかった。それに、それがお互い同じものを見ているという保証もなかった。

 網膜の血流であろうというのが、おおよその見解だった。

 そういえば、飛蚊症(ひぶんしょう)というのも子供の頃は不思議だった。幽霊というか、いわゆるオーブの類だと思っていた時期もあった。

 高校の美術部に少し変わった同級生がいて、えらく抽象的な、エキセントリックな絵ばかり描く女だった。抽象的とは言っても、それがなにを抽象化したものなのか、本人以外にはさっぱりわからないものだった。

 ただ困ったことにその同級生は、まぶたの裏に映る世界の話をした俺をいたく気に入ったようで、よく俺にだけ自分の世界を語って聞かせたがった。

「それはきみ、網膜の記憶だよ」

「網膜の……記憶?」

「そうさ。きみの生まれるまえか、それとも母親の胎内かで見たものが、ずっと焼きついているのさ。網膜は一種のフィルムだからね」

 彼女は下書きをしない。なんの迷いもない。カンバスの前で絵筆を持つと、ガガガっと勢いよく太い線で塗りたくる。鬼気迫る線である。ひたすら線に線を重ね、色に色をかぶせる。

 テレピン油の臭いに包まれた美術室は、強い茜色の西日に染まり、それが本来の色彩なのかも怪しかった。

 彼女は目が悪い。よく暗くなるまで絵を描いていたからだと言っていた。カンバスに顔を押しつけるようにして、どぎつい原色に彩られた世界に食い入る。そして時々、疲れたように親指でまぶたを、ぎゅっと押す。

 覗き込んでも、盛大な子供の落書きのようなものが広がっていて、さっぱりわからない。もっとも、それがなにかと訊くようなことはいまではもうしない。

 そもそも俺とは系統が違う。お互いにお互いを理解する気も牽制する気もない。だから切磋琢磨する関係でもない。なのに、どうしてか気になる間柄でもある。

 絵筆は休むことない。片手で走らせ、片手で目を押さえる。ぎゅっと。眼球押しは目の疲れがとれるらしい。デマだが。

「視神経がいかれて、失明する危険もあるそうだよ」

 そう忠告してやると、彼女はにたりと笑った。

「きみもやってみるといい。これが結構気持ち良いのさ」

「ぼくの話を聞いていたかい」

 憮然と抗議するも、彼女はそれきり答えなかった。自分の世界をカンバスに写し出すという世界を作り続けていた。自称芸術家は扱いづらい。

「私は見たものを見たまま描いてるだけだよ」

 背中にかけられた声に、肩をすくめてやりすごす。

 廊下に出ると、妙に寒々としていた。赤く眩しい部屋から一気に暗いところに来たからか、世界が妙に青い。

 一瞬、自分がおかしくなったのかと、目をこすってみる。

 望んでもいないのに浮かんでくる見慣れた網膜の模様が、今日にかぎって妙に妬ましい。

 美術室から俺を呼ぶ声がする。

 息をつく。だまって帰ろうとしたから非難されるのだろう。

()()()()()()()!」

「なんだ。どうしたってんだ」

 せいぜい憮然とした顔でふり返ると、茜色のなかにその奇妙な同級生が、やはりおかしな様子でたたずんでいるのだった。

()()()()()()!」

 焦点の合わぬ目で、彼女は叫んだ。

「なにを言ってるんだ? これはきみの絵だろう。それともそれは、なにか謎掛けのつもりかい?」

「なにが見える!」

 自らの目を覆いながら、声を上げる。

 どうしたことか。とうとうこのおかしな同級生は、本当に気が触れてしまったのではないかと不安になった。

 西日が強い。目を閉じる。


 ……ああ、まただ。また、網膜の幻。


 それは格子状に走る、なにか。


 白と黒。狭い。


 なにが見えるのかと。もっとよく見ようと。きつくつむる。


 白と黒。まぶたの奥。


 ――部屋だ。

 狭い。

 四方を格子で囲まれた、おそらく和室。茶室を連想させる小間。

 チカチカする。

 格子は障子。

 ぐるぐる、ぐるぐると回る。

 障子には()が。

 ()が。()が。()が!


 ――目を開ける。

 黄昏の教室。どこを見てるとも知らぬ同級生。その前に描きかけの絵。その隣に俺の絵。

 目を閉じる。見えない。

 まぶたの上から、目を押す。ぐにゃりという感触とともに、歪む格子。格子にはびっしりと、目が、目が、目が。

 手を離すと、もう見えない。

 ――()()()()()()()()()()

 まぶたを押す。

 もっと強く。もっと鮮明になれと。

 ()()()


「なにが見えた?」


 彼女の声で我に返る。

 眼球が痛い。ずきずきする。

 ――なにが見えた。

 ――なにも見えない。

 ――なにか見えた?

「……なにも見えない」

「嘘だね」

 顔を近づけ、にやりと笑う。頬はほんのり上気していた。その口の形は嘲笑。ぺろりと舌先で、色の悪いくちびるを舐める。

「ねえ、江藤くん。嘘、だよね?」

 やめろ。

 はは、と彼女が声をあげる。小馬鹿にするような響き。

「和室だ。障子に囲まれた」

 観念して俺は吐きだす。

「それから目が――」

「目?」

 なぜかうれしそうである。

「障子にびっしりと目が……張り付いていた。いままで気づかなかった。ずっと見ていたのに。いや、見てなかっただけかもしれない」

「それはねぇ、きみ。――目目連(もくもくれん)じゃないかな」

「なんだって?」

「目目連。障子戸に無数の目がついた妖怪だよ」

 なぜこの場で、そんなわけのわからない妖怪の話をするのだ。

「『煙霞跡(えんかあと)なくして、むかしたれか(すみ)(いえ)のすみずみに目を多くもちしは、碁打(ごうち)のすみし跡ならんか』」

「……なんだって?」

 もう一度たずねるが、彼女はあくまで自分のペースだった。

「目目連という妖怪はね、碁打ちの念が碁盤に憑いたものだという話がある」

 不思議めいた表情で、彼女はわずかにまつ毛をふるわせた。たしかに障子も碁盤も、同じ格子ではある。あいにく俺に碁はわからぬ。

「じっと見ていたら念が移るのか?」

 碁盤を見つめる碁打ち師。しかし、碁打ち師もまた、碁盤に見られていたというのか。

 見ているつもりが見られている。そういう怪異もあろう。

 けれども、外から見た場合。部屋の外。障子戸を碁盤に見立てて――

碁盤の目にいるのは、誰であろう。そして、外から見ているのは、一体誰なのだろう。

 ――網膜の裏側で、誰が俺を覗いているというのだ!

「少し後ろを見てて」

 唐突に彼女が言った。

「……は?」

「後ろを向いて待っていろ、と言ったんだよ」

 理不尽な要求に従い、俺はだまって従う。毎度言いなりになってしまうのが、少しくやしくはあるが。

 後ろからなにか音がする。なにをしてるんだろう。

 自分の靴先を見る。古い絵の具が落ちずにこびりついている。オレンジ色に染まる床。溶け込むような自分の影が伸びる。開け放たれた美術室のドア。青い廊下。

 時間がかかるな。

「ふり向くなよ」

 見透かされたように釘を刺される。

 わかってるよ、とひとりごちて息をつく。

 横暴な同級生であるが、実家が花屋だというから、一体幼少よりどのような花を愛でればこんなふうになるのか、いつか問いただしてみたいと思っている。

 そもそもこの性格で、そこそこに顔が整っているから質が悪いのだ。言葉遣いもぞんざいだし、ぶっきらぼうだ。お世辞にも性格は良くないと思う。

 もっとも、これでおしとやかだったりでもすれば、きっと本当に高嶺の花になってしまうのだろうが。

「おい、御影(みかげ)。いい加減に――」

 しびれを切らした俺は、勢いよくふり返って思わず後悔した。夕日に背を向けていたのに、もろに太陽を直視してしまったのだ。

 あわてて目をつぶるが遅い。強い光でまぶたの裏までおかしく見える。

 いや、それじゃない。

「ちょっと、待て」

 まだ目も開けられないのに、御影(みかげ)芙恵子(ふえこ)がいつものようにニヤニヤと嫌な笑いをうかべているのもわかった。

「きみはなにをした。いや、なんてことをした」

 つかつかと歩み寄ってくると、すれ違いざまに彼女は俺の肩を叩く。つられて廊下のほうを向く。

 廊下の青。網膜に焼きついた赤。格子の幻はなかなか消えない。光が強すぎた。頭を振る。

 ――なんだ?

 網膜に映る格子。縦と、横。区切られたマス目。ちかちかする。

そのひとつひとつに、白い、目が見えた。

ああ、これが彼女の見た()かと思った。いつも俺が見ていたものにも、ひょっとしたらついていたかもしれない。でも俺は見えなかった。いま初めてそれに気づいた。いま初めてそれを見た。

 そう知ったところで、苛々する。窓を見る。今度は慎重に。

 ガラス窓に、黒い絵の具で格子が描かれていたのだ。まるで障子戸のように。

「こんなことをしてきみは……っ。早く落とさないと叱られるぞ。誰かに見つかったらどうする」

「アクリルだよ。乾けばきれいに剥がせるさ。それよりさ、――目は、見えたかい?」

 俺は答えなかった。

 しかし、それが一層彼女を上機嫌にさせたようだった。

「これが目目連の正体だよ」

 だが、それは説明にならない。俺が見たのは妖怪ではないからだ。

「バーゲン錯視というらしいよ。格子の交点が光って見えただろう。それが目のように錯覚した」

「バーゲン錯視?」

 初めて聞く。

「錯視というのは、いわゆる目の錯覚というやつだ。いくつもあるのだが、たとえば有名なところで言えば、市松模様が渦を巻いているような図形は見たことはないかい。絵なのに、それがぐるぐる動いているように見える」

「…………」

「失礼。説明が下手でね。まあ、単純な図形あるいは点や線などで、人間(ひと)の目を誤魔化すわけだよ。いや、人間(ひと)の目が誤って認識してしまうんだ」

「目を?」

 目は図形ではない。シンボルとして描くことはできるが、そんなもので騙されるのだろうか。

 すると御影はあきれたように言った。

「障子には目だろう。子供のころ、こうやって……怒られなかったかい?」

 言いながら、絵の具で汚れた指をしゃぶって、障子に穴をあける素振りをする。

 なるほど、だから見られるのか。

「壁に耳あり障子に目あり。誰かに見られていると感じる疑心暗鬼こそ、いつの世にも怪異の住処なのだよ」

 強い西日を浴びて、御影の絵の奇天烈な色合いは毒々しかった。

 窓を見る。再び絵に目を戻す。格子の残像が影送りになって、彼女の絵と重なる。

 これが御影芙恵子の網膜幻燈かと、俺は心の内で静かに息をついた。


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