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気づくと、俺は森の中にいた。
夜の森だ。
空には月が出ている。
木々が生い茂って、民家が見当たらないどころか獣道すらない。
どこの森だろ、ここ。
目的地は森じゃなかったはずなのに。
「……久しぶりだな、これ」
俺は、しかしこの現象には慣れていた。
昔から時折あったのだ。
ぼうっとしていたら、全然知らない場所にいた、ということが。
でも、じいちゃんの家で暮らすようになってからは、かなり頻度も減っていた。
だから、久しぶりだなぁ、とぼんやり考えた。
だけど、ここがどこであろうと、俺には関係ない。
俺は手に持っていたロープを見る。
それ以外に持ち物は、あぁ、圏外になった携帯電話があったか。
俺は携帯電話の着信画面を見る。
新着は、無かった。
それを少しだけ残念に思いながら、電源を落とそうとして、やめる。
光源は必要だ。
月明りだけだと、ロープを縛るのに支障がある。
「いや、朝になってからでもいいっちゃいいか」
寒さや飢えを感じるのもこれで最期だと思えば、それさえも名残惜しくなってしまう。
もしかしたら、このまま眠ればそれはそれでいい終わりになるかもしれない。
「あ、そうだ。それもいいかも」
綺麗な満月を見ながら眠る、というのもロマンがある。
血の色でもなく。
大人の憎しみや怒りに満ちた顔でもなく。
月とその優しい月明りが最後に見る光景。
それは、俺にしてみれば最高に贅沢で幸せな光景だ。
あぁ、なんだろ。
久しぶりに頬が動く。
きっと鏡を見れば俺は今笑っているに違いない。
グルル……。
俺の耳に、獣の唸り声のようなものが届く。
あ、あー、そっか、そうだよな。
ここは日本とはいえ、森の中だ。
獣がいて当たり前だ。
狼、は絶滅したらしいし。
熊かな。
それとも、森に住みついた野良犬か。
あー、そういや、タヌキも雑食なんだっけ。
熊はともかく、タヌキが人を襲って食べるとかは聞いたことないけど。
猿は、観光客の荷物狙うってのは聞いたことあるな。
猿も人を襲って食べる、とは聞いたことないけど。
いや、俺が知らないだけかも。
まぁ、そんなこと今更だ。
ガサっと、近くの藪が揺れる。
そして、現れたそれに、俺は自分の目を疑った。
それは、二足歩行の狼だった。
そうとしか表現しようのない生き物。
全身毛むくじゃらで、口からは涎が垂れ牙が見える。
あ、ゲームかアニメで見たことあるかも。
あと漫画。
というか、狼男って本当にいたんだ。
なんか、なんだろう、妙な感動を覚えてしまう。
そんなことをぼんやり考えている俺に、狼は気づく。
威嚇なのかなんなのか、唸り、吠える。
そして、俺に向かってその口を目いっぱい上げて、たぶん食べようとしてくる。
噛まれたら痛いかな。
あ、でも最近痛さも感じなくなってたし大丈夫か。
俺は夜空を見る。
星々が煌めいて、その中心には満月がある。
「…………」
俺は、目を閉じる。
草を踏み荒らす足音が響き近づいてくる。
衝撃に少しだけ備える。
でも、いつまでたっても衝撃は襲ってこない。
唸り声も、噛みついてくる気配すらない。
その代わり、鈍い打撃音と、
きゃんっ!
そんな鳴き声のようなものが耳に届いた。
不思議に思って目を開けると、逃げていく二足歩行の狼の姿。
そして、月明りに照らされた銀色の髪と褐色肌、長い耳をもった推定十歳ほどの幼女が立っていた。
二足歩行の狼の気配が完全に消えたところで、幼女が俺を振り向いた。
「怪我はないかい? 少年??」
幼女は俺にそう声を掛けてきた。
「え、あ、俺、ですか?」
昔、じいちゃんとばあちゃんの三人で観に行った指〇物語の実写映画。
そこに出てきたエルフ種族みたいだ。
「おもしろい返しだな、少年。
あぁ、まずは名乗ろうか。
私は、ミル。見ての通りエルフだ。
ダークエルフともいうが、今の若い子は知らんだろ?
こんな姿だ子供と思うだろうが。
これでも君よりはるかに年上のお姉さんだ」
「はぁ、初めまして?」
「私と君は初対面だ。初めましてで合ってるな」
「……」
これは夢、なんだろうな。
うん、夢だ。
ファンタジー作品、俺、好きだもんな。
だからか、最期に見る夢がこうなったのは。
と、なるとさっきの二足歩行の狼のことも説明がつく。
現実に、エルフなんて種族が存在しないことを俺は知っている。
あんな狼が存在しない、いや、今のところ見つかっていないことも知っている。
「少年、今度は君の番だ。
君の名前を教えてくれないか?」
「あ、えっと、稲村、明、です」
「いなむら、あきら、か。
ふむふむ覚えたぞ。
あ、念のために確認しておくが、少年、それはどちらが姓だい?」
そういえばハンガリーだっただろうか。
海外でも一部の国では日本と同じで姓が前に来るらしい。
「いなむら、が姓に、なります」
「そうかそうか。
それで、少年、君はどこから来たんだい?
そして、こんな時間にこんなところで、いったい何をしてたのかな?」
問われて、俺は持ったままだったロープを見る。
本当の事を言うべきか?
いや、どうせ夢なんだし言わなくてもいいかな。
「……寝ようと思って」
「はい?」
思ってた返答と違いすぎたのか、それとも彼女の笑いの沸点が低いのか。
ミルさんは無邪気に笑い出した。
「あはははは。
そうか。寝に来たか。
そうかそうか。
いやぁ、なるほど。だから、少年は逃げなかったのか」
あ、これ悟られてる。
でも、ま、いっか。
「しかし、だ。
少年、こうして大人の私が少年を見つけてしまった以上、私は君を保護しなければならない。見てくれはともかく、ね。
だから、」
言葉を切って、ミルさんは手を出してくる。
そして、続けた。
「そのロープ、私に渡してくれるかな?」
「……」
俺は、持っていたロープに視線を落とす。
ミルさんの言葉には圧があった。
それは、でも、怒りや苛立ちからくるものじゃない、とすぐに察せられた。
だからだろう。
「素直でよろしい」
俺は言われるまま、ロープをミルさんに渡した。
と、今度はミルさんは俺の体をべたべた触ってくる。
そして、一通り触り終えた後、
「ふむ、とりあえず安心だ」
なんて呟いた。
これ、ナイフとか持ってたら没収されてたのかな。
ナイフ、ナイフ、か。
刃物は、でも、怖いからなぁ。