ゴッドオンザネットワーク(Gods on the Network)
翌朝、ウィルスを退治する即効性のワクチンプログラムがネットの広域電子掲示板に高々と掲げられた。汚染地域の主要民間・公共団体にも電子メールのプレゼントとして、同じワクチンが届けられた。例によって差出人は不明。IDコードもなく、例えどんな方法を使ったとしても相手のアドレスを探るのは不可能。こんなことができるのは“神”だけだ。
ネットワークには伝説があって、さまざまな神が登場する。ギリシャ神話の神の名前がついていることが多いが、なかには仏教やヒンズー教、聖書やカバラ秘教の聖典に登場する天使の名前を持っている者もいる。天才的なハッカー集団である彼らは、ネットで悪事を働く者の前に現れて偉大な奇跡を起こす、らしい。その厳格な神罰は国家や大企業も免れえないそうだ。
今回、ワクチンの福音をもたらしたのは大天使「ミカエル」だとのちに噂されたが、ウィルスも聖書に由来するものであったし、出来過ぎのきらいがないでもない。
彼ら神々の棲むオリュンポスの中心はアメリカ西海岸に点在する技術系大学の中にあると噂されており、FBIはネットを徘徊する電子テロリストであるとして血まなこで捜しているが、誰ひとり捕まっていない。何度か神が捕まったというニュースが配信されたことはあるが、しばらくしてハッカー気取りの単なる学生だったことが判明している。配信した通信社が信用ある大手だったので、この誤報自体が神によって仕組まれたのではないかという憶測が流れたぐらいだ。
現実の世界では彼らは世界中に分散し分断されているが、ネットの中にある彼らの社会には物理的距離など問題ではなく、強力な連帯で結ばれている。その結束力をもって、もはや文字通り神がかり的レベルに達した情報処理技術を行使するのだから、いかなFBIといえども尻尾すら掴むことができないのは致し方ないことかもしれない。
いかなる情報へのアクセスにも、(たとえ国家機密、私的個人情報であろうとも)いっさいの障害があってはならないという思想を持つ彼らテクニカル・アナーキストの敵はデータを独占する国家、企業、そしてネットの平和を妨げるサイバー・クラッシャーである。また、自らは私利私欲のために技術を悪用してはならず、その禁を破れば“神”から人間に堕ちることになる。人間に堕ちた“神”は、もはや我が身を護るすべを何一つもたない。街を徘徊する野良犬に喰い殺されるだけだ。
神々の共同体であるH・Cは堕神を屠ったベトナム人街のある組織に祝福を与えた。ワクチンはその際のささやかな贈り物だったというわけだ。
街が平常に戻った朝、藤田は定時に署に出勤してきた。出勤簿に印鑑をついたあと、朝礼まで時間があったので2、3の報告書を完成させた。つまらないカード詐欺や手形割引に関する事件だ。端末の処理が遅いので、苦情を言いに情報室に行ってみると人だかりがしている。“神”の奇跡を前に、署内のウィザード(コンピュータの熟達者)たちが熱っぽく討論していた。が、朝礼の始まる前に“神”に関しては箝口令が敷かれてしまい、みんなすっかり白けた顔で朝礼のある講堂へ向かった。
朝礼のあと刑事課に戻ると、課長から二課で今朝の“神”の奇跡に関する報告書を作成しなければならないことを告げられた。面倒な作業だが、本庁の依頼だから断ることはできない。やっと完成してサンプルと一緒に本庁に電子メールで送信したときは午後になっていた。しかし昨日の暴動の後始末にまだ忙殺されている課もあったので、比較的ましな方かもしれない。
食堂に遅い昼食をとりに行くと、彼を見つけた一課の刑事が声を掛けてきた。
「よお、九州バイオの贈賄事件、お前んとこでやってただろ? あれ、後で資料見せてもらうかもしれないよ。」
「昨日の警官殺しと関係あんのか。」
「ああ、あれか。とっくに解決してるよ。パトカーにいた制服はベトコン(ベトナム移民の蔑称)と刺し違えたんだな。ああ、すまん。」
「かまわんよ。」
藤田がベトナム系だからだ。
「しかし英雄になっても、死んじゃあつまらんね。」
彼のような人間でも感ずるところがあるのかしばらく黙っていたが、思い出したように、
「いや俺が担当してるのは、もうひとつの方。害者、女なんだけどさ、贈賄事件の関係者で、つーかダンナが関係者で……いや、離婚してるから元ダンナか。」
「関係者っていうのか?それ。」
「まあね。だからそっちの件とはつながんないかもしれないよ。」
「ありがたいね。これ以上仕事が増えちゃかなわんよ。」
彼は終業間際に藤田の二課に顔を出し、企業汚職の調書が入ったディスケットを何枚か持って行った。