0歳0ヶ月1日 『あなたのおなまえ』〈2〉
酷くゴワゴワする。ぶらぶらと落ち着かない。皮膚と体毛と粗布とは、やはり互いに相容れぬ。間に肌触りの良い薄布の緩衝があってこそ、共存が許されるのだ。
破った下着の補修が終わるまで、ナルに下着を没収された。ブカブカだが無いよりマシだと言う。
この心地悪さを体感すれば納得がいく。部屋に戻ったら早速縫おう、そして、ナルが起きたら下着を返してもらうんだーー朝焼けの中、目覚めゆく村を歩む足が急く。柔らかに芝を包む朝露が突っ掛けから足の甲を侵すが、そんな事を気にしている余裕はない。
件の集会のお触れ回りは、もう終わった。村長も村のみんなも、集合場所の教会に向かう途中で道すがらの世帯には伝えながら来てくれたらしく、各々二件程度の受け持ちで済んでしまった。
ーーパーレル村長の顔が所々腫れていたり僅かに裂傷があったのは気にはなったが。
まあ、しっかりと歩けていたし、骨の方は無事だったらしい。なによりだ。
レゾン神父と修道女ミラシドを伴って教会の両開き扉を開ける。朝食を誘われたが、断った。人質の解放が、何よりも先決だ。
まだナルも赤ちゃんも寝てるだろうし、階段を登って二階の廊下から先は、静かに…静かに…
短刀レベル20解放の永続技能に、切替型スキル『忍び足』がある。その名の如く移動に伴う音を無感知レベルで消す事の出来る技能なのだが、この時ばかりは習得しておいて良かったと思った。
部屋のドアノブに指を絡める。力は込めるが金鳴りも立てぬよう静かに…
「ふぇ…ふぇえ…ふえぇえぇぇえ」
心当たりはあるが、初めて聞く声。頼りなく、消え入りそうな程に儚い。
「ぐ…うぁっ!」
聞き覚えのある中性的な緩女声。いつも間近で聞く、耳朶に心地よいくぐもった叫声。
…叫声?
「ナルっ!」
何らかの異常を察知した脳はその名を呼びながら扉を開け放つ。そして眼前の状況を理解すべく巡らされた視界が、踏み入れようとした足を躊躇わせた。
「な…何なんだ…っ!くっ、お、重い…」
頼りなげな泣き声を上げる赤ん坊の右側から抱き抱えようと背に回し入れた両腕を持ち上げる事の出来ぬまま、寝床に土下座する様相で額に脂汗を浮かべている。
「ど、どうしたの、ナル…っ!?」
助け起こすべくその肩に手を触れると、まるで体重が倍にでもなったかのような重圧が襲ってきた。と、ビックリ箱に大仰に驚くように諸手を上げながらナルが倒れ込んで来る。
咄嗟にそれを支えると、謎の重圧はまるで何も無かったかのように霧散していた。
「な、泣き声で起こされて…抱こうと、思った瞬間に、全身を、虚脱感が襲った…どうにか動かそうと必死になったんだが、まるで無理、だった…」
いまだ泣き止まぬ赤子を眼前に据えながら、その視線にはいささかの畏怖さえ浮かぶ。
余程肉体に負荷を掛けたのだろう、肩も背も小刻みに震えている。
とにかく、泣き止ませなければ。謎の現象はさておき、赤ちゃんが可愛そうだ。
「視覚同期、客観観察開始。手始めに熱源感知から」
抱く手が変わった程度で事態が収まる訳もない。体躯を丸めた熊男が赤ん坊を抱き上げようとする中途半端な土下座で硬直している背中から、喘ぎを堪えつつ魔導術式を展開する声が届く。
幾度となく聞いた覚えのある文句。特に初会敵の魔物に用いる事の多い、観察術式。踏み入った解析ではなく、被観察体の様相を伺う程度の簡単な術であるため、詠唱時間も再詠唱時間も、消費MPも少ない常套手段。
OBjective OBservation、通称『OBOB』とナルは呼んでいる。
「んー…必死に体動かそうとしてキバってるジェンドの体温は少々高いとして、赤ん坊の方は至って…ん?」
視界の片隅、簡素な机と椅子の下あたりに人肌程度の小さな熱源反応が。
「…なんだこりゃ」
それは肘から手首程度の長さの、細長い柩の小型模型のような箱。側面にスライド式の止め具が付いており、天面には緑色の長方形に『待機中』と白の染め抜きで書かれている。
「赤ん坊と一緒に送られて来たものだな」
冒険者に配布される冒険者証、その機能の一つに『超異空領域』がある。各個人に規定枠で、いつ何時でも自由かつ手軽に所有物を出し入れ出来る亜時空の倉庫が貸し与えられる。
しかも数多ある冒険者証その全てが独立した時空連結術式を持ち、他者との混同はもとより個人情報保護も完璧という、現代をして未だ超過技術とも言えるシステム。
二十数年前に民間の大手生活魔法開発企業『ファーレンハイト』と冒険者統括機構の共同開発と言うこの多機能冒険者証の発行以来、冒険者は道具袋の圧迫や、出入国を初めとする冒険を妨げるほど厄介な各種手続きという死活問題から解放された。
個人の所有物は全てこのストレージに預けてあるため、部屋にある道具と言えば元からある調度品(と、椅子の上に広げられた見事に股の裂けた下着)のみで、この小さな柩が互いの所有物でない事は一目瞭然であったのだ。
であるならば、このアイテムの出処の心当たりは一つしかない。近々に需要のあるアイテムが内包されているであろうという一縷の望みを掛けつつ、止め具を外す。内部には海綿状の中敷きに固定された、乳白色の液体を湛えた瓶が一つ。取り出すため触れると、ほんのりと暖かい。これが熱源感知に反応したようだ。
半分に切った卵型の蓋を外すと、柔らかな内蓋が。丸みを帯びた雫型に窄まった先端に小さな穴が空いているようで、押し潰すと僅かに付着した内容液が滲み出た。
匂いは甘く、柔らか。乳だ。
そう言えば、よく見ればこの形状…
「乳頭…」
網膜に未だ熱源情報を送り続ける客観観察術式をそのままに、背を丸めた熊の肩に触れる。途端、先の重圧が襲うが、動けない程ではない。
命の限りを尽くして泣き続ける赤ん坊の唇に、柔らかな乳の瓶の先端を触れさせる。
口腔が開く。挿入。
「あ…う、動く」
何とも気と間の抜けた、呆気とも取れる声が垂れ、ゆっくりと赤ん坊を持ち上げていく。
「どうやら昨晩、赤ん坊と一緒に現れたアイテムらしい。バタバタしてそのまま寝ちまったからな、気付かなかった」
重圧が徐々に緩和されると、片腕に赤ん坊を納めたジェンドのもう片指に乳の瓶を預ける。
「…あれ?」
ふと、視覚情報が熱源感知映像でない事に気付く。
いつの間にか、解除されている。
「まさか…」
考え得るいくつもの想定が脳内を飛び交い、憶測と疑心が結論を急ぐ。
「客観観察、『霊子流動検知』起動」
顬に右指を触れ瞳を閉じ、開く。通常不可視である精神エネルギー、霊子を可視化し、視覚に同調させる観察術式だ。
霊感知覚である第六感はこれを抽象的に感じるものだが、視覚に限定する事で具体的に霊子の流れを把握出来る利点は多い。
例えば敵を観察した場合、得意とする攻撃を繰り出す部位には霊子が集中するし、逆に弱点は霊子量が他部位よりも少ない。あくまで一般論であり、全てが当てはまる訳では無いが、目安としては充分に機能する。
微かに輪郭の滲んだ視界に、熊男の背が映る。腕に抱いた赤子は、無心に乳を貪ったままだ。
「…有り得ん」
あらかじめ青でマーキングしてあったジェンドの霊子流の一部が、その胸元…包み布団から覗く赤子の顔部分に向けて集約している。大部分は平時の通り湯気のように全身から立ち上っているから、恐らくこの現象が先の重圧の残滓なのであろう。
不可解と驚愕に支配された奥歯がカタカタと鳴る。この状況に対してではない。あらかた予想は出来ていた。
何故この赤子がこれを成し得たのか、それが問題なのだ。
「現象としては、特定できた。恐らくだが、その赤子は何らかの契機で近接もしくは接触対象の霊子を喰っている。泣き声のような物理挙動ではないな、恐らく感情の発露だと推測される」
一つ溜息を空に溶かし、観察術式を解く。
「しかし昨夜説明した通り、この子には俺の新生児期の素霊子構造をそっくりそのまま模倣してある。新生児期の俺にこんな特異質があったなら可能性としては考えられるが、そんなものはない。だとすれば…健常であった脳もしくは心臓が、新しい体に順応する過程で生み出した現象なのか…?」
一人黙々と考察に耽る横顔に、穏やかな囁きが頬を撫でる。
「どうだろね。でも、赤ちゃん落ち着いて良かった。ナルがこの…瓶?見つけてくれたから」
まるで我が子を愛おしむ母のような安らかな眼差しが、その髭面を見返す小さな翠の双眸に注がれる。
「けぷっ」
瓶が口許を離れる。まだまだ内容液は残っているが、どうやら腹は充たされたらしい。
「…?表示が…」
『授乳後、キャップを閉めボトルを元の位置に戻し蓋を閉めて下さい。自動で洗浄・消毒の後、ミルクを充填します』
緑の長方形は白地に黒の文字に変わっている。指示通りに蓋を閉めると、その上部空白にさらに『授乳量:47cc』と追記が入る。
「べ、便利だ…」
「僕らみたいに、男同士でも、子育て出来ちゃうね」
…ん?
「お前、まさか…育てる気か!?現役の、冒険者が、冒険を、しながら!?」
思わず素っ頓狂な声が挙がる。
「そういうのも、悪くないかな…とは、思う。するかしないかは、別として」
満更でもない顔だ。今日の午後の話し合い如何では、本当に降って湧いた得体の知れん赤子の親になってしまうかも知れん。
「あー、いや、まあ、そういうのは後で決めるとして」
危うく話題の奔流に流されそうになってしまったが、こちらも忘れる訳にはいかない。
「すまんジェンド、赤ん坊を少し貸してくれ。客観観察でなく素霊子解析で再度診てみたい」
昨晩のように青の球体を生み出すと、包み布団を剥いだ赤子を浮べる。中空から現れた幾つもの透明な長方形の機材を、せわしなく十本の指で叩く。
「比較対象は、昨晩の最終データ。何か分かってくれると良いが…」
昨日のような緊迫感がないためか、待ち惚けするジェンドの方も荷が軽い。
「ナルは、どうなの?この子のお父さんに、なる事」
機材の映像からは目を離さぬまま、独白のような答えが返ってくる。
「子育てだとか親だとかは良く分かんねぇが、こんな小さな子を連れて冒険を続けるのは難儀と思うな。この村で引き取ってもらえりゃーー」
最後まで、答え切れなかった。
「な、な、な…何だ、こりゃ…」
ピタリと指が止まり、注視した画面から目が動かなくなる。
「ど、同一人物、だよな…これ、ほんとに」
喉を鳴らして唾を飲み込み、驚愕に頬を揺らしつつ続けた。
「検体と比較データの相似率、19%…素霊子書換非対象の臓器を覗いて、全く別人になってる」
目を見開いたまま、手近にあった椅子にへたり混んだ。
「ど、どう言う事だ…ここまで来ると、神の悪戯としか言えん…!」
「あ、あの…ナル?全然よく分かんないんだけど、とりあえず赤ちゃん、出してあげたい」
脇から顔を覗き込まれ、はたと我に帰る。
「あ、そ、そう、だな…」
青の球体の中の赤ん坊を抱くと、素霊子介入機材ごと消失させる。
「つ、つまり…昨日の治療が終わった後と今とでは、この赤ん坊は別人みたいになってるって事だ。普通有り得ないだろ、寝て起きたら全くの別人になってたなんて。
何なんだよもう、この、コイツはーー」
包み布団で巻きながら再び上げた視線が、窓から柔らかに降り注ぐ朝日に溶ける。
「名前、無いと不便だな」