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2-1

 九月。菜乃華が神田堂の店主になって一カ月半ほどが経った、とある夜のこと。草木も眠る丑三つ時でありながら、九ノ重神社の母屋の二階、菜乃華の部屋にはいまだに煌々と明かりが灯っていた。


「ハードカバーのノドの修復は、編み棒や竹串に糊を均等にたっぷりつけて……」


 机に向かい、図書館で借りてきた修復マニュアルをノートに書き写していく。机の上には、他にも和紙で作った喰い裂きやら澱粉糊やらが並んでいる。本の修復について、勉強と練習をしているのだ。


 二週間前から二学期が始まり、神田堂にいられる時間が極端に減った。お客さんは元々少ないので店は回っているが、菜乃華にとっては本の修復について勉強する時間が取れなくなったのが地味に痛い。


 これでは、新しい修復方法を覚えることもできないし、今まで覚えた修復の練習をすることもできない。神田堂の店主をやっていく上で、実に厄介な状況だ。新しい修復方法を覚えることができなければ、対応できる依頼が限られてしまう。練習ができなければ、腕は上がるどころか鈍ってしまう。


 瑞葉からは、自分の生活を大切にして、焦らずゆっくりやっていけばいいと言われた。

 だけど、その言葉に甘えているわけにはいかない。今のままでは、一人前の店主になるまでに、何年かかってしまうかわからない。


 そう考えた菜乃華は、二学期が始まって早々に決意した。一日でも早く祖母に追いつくために、生活サイクルをがらりと変えたのだ。


 よって、現在の菜乃華の一日は、昼間は学校、夕方は神田堂、夜は学校の予習・復習、深夜に修復の勉強となっている。一学期までと比べて睡眠時間が半分ほどになってしまったが、とやかく言っている暇はない。学校の成績を落とさず、神田堂の店主としても一人前を目指すなら、多少の無理は覚悟の上だ。


 すべては、祖母から引き継いだ神田堂を守っていくため。自分に喝を入れながら、勉強に励む。


「……で、最後に本の上下を板で挟んで、上に重しを乗せて乾かすっと。よし、OK!」


 ノートへのメモが終わり、マニュアルを閉じる。


 同時に、菜乃華は大きなあくびをした。スマホで確認すれば、現在の時刻は午前二時半を回っていた。朝は六時に起きないといけないから、もうそろそろ寝ないとまずい。

 菜乃華は机と部屋の電気を消し、もう一度大きなあくびをしながら、ベッドに潜り込んだ。



         * * *



 菜乃華の朝は、境内の掃除から始まる。Tシャツに短パンというとてもラフな格好で外に出た菜乃華は、あくびを噛み殺しながら竹箒を手に取った。


「おはよう、菜乃華」


「おはよう、お父さん。ごめん、寝坊しちゃった」


 すでに掃除を始めている父に謝りながら、せっせと手を動かす。

 起きるつもりだった時間から、すでに十分以上寝坊している。さっさと掃除を終わらせてしまわないと、朝ご飯を食べている時間がなくなってしまう。頬をつねって眠気と戦いながら、石段の上を掃いていった。


 ただ、睡眠三時間半はやはりきつい。気を抜くと、自然と瞼が落ちてきてしまう。集中力を欠いているからか、掃除も一向にはかどらない。いつの間にか箒の柄に顎を載せていて、起きているのか寝ているのかわからない状態になってしまう。


「顔、洗おう……」


 このまま掃除をしても、効率が悪い。というか、バランスを崩して石段から転げ落ちてしまう。社務所の脇にある水道のところまで行き、気付けに水を顔へ引っかけた。朝の水の冷たさで、意識が少しだけはっきりする。


「……菜乃華」


「はい?」


 ハンドタオルで顔を拭いていると、父が後ろに立っていた。


「随分と眠たそうだな。顔色もそんなに良くないし、大丈夫か?」


「うん、平気。顔洗ったらすっきりしたし、目も覚めた」


 嘘だ。本当は意識がはっきりしたのも少しの間だけで、すぐに眠気がぶり返してきている。体もだるくて、心なしか頭痛もした。


 けれど、父に心配はかけたくない。気遣わしげな様子の父に向かって、精一杯の笑顔で首を振った。

 すると、父はやれやれとでもいうように深くため息をついた。


「お前、ここのところは二時過ぎまで起きていて、あまり寝ていないだろう」


「――ッ!」


 自分が何時まで起きているか正確に言い当てられ、菜乃華は思わず目を丸くしてしまった。


 神主の父は生活習慣も規則正しく、寝るのも早い。どんなに遅くとも、夜の十一時には毎日就寝している。それは、父のライフサイクルに合わせている母も同じだ。

 だから菜乃華も、父が自分の就寝時間を知っているなんて思いもしなかったのだ。


「お父さん、寝るの早いのに、よく知ってるね」


「先週、夜中に目が覚めた際に偶然知った。最近のお前の様子を見る限り、毎日あのような無茶をしているのだろう」


 さすがは父だ。見ていないようでいて、きちんと菜乃華のことを見ている。それがうれしくもあり、同時に少し心苦しい。


「お前が、なぜそのようなことをしているかはわかる。それに、学校の勉強やうちの手伝いを疎かにしていないことも知っている。だから、私もあまり強くは言えないのだが……あまり無理はするなよ。それと、辛ければ境内の掃除も休んでいい」


「ありがとう。でも、自分で決めたことだから。神田堂を理由に、学校や神社の手伝いを投げ出したりしないよ」


 そんなことをしたら、きっと祖母は悲しむだろう。それにきっとあの人も……。一日も早く一人前の店主にはなりたいが、そのために他のあらゆることを放り出していたら本末転倒だ。


 今までこなしていたことは、これからもきちんとこなす。その上で、神田堂の勉強も頑張る。そんな気持ちを込めて、父に向かってもう一度微笑んだ。


「大丈夫。わたし、お父さんが思っているよりも頑丈だから。少しくらいの寝不足なんて、へっちゃら、へっちゃら!」


「まったく……。我が強いところが、母さんそっくりだ。似なくていいところばかり似てしまって……」


 菜乃華が力こぶを作って見せたら、父は頭をがりっと掻きながら、再び深いため息をついた。

 明らかに呆れられている。そして心配されている。これには菜乃華も、笑って誤魔化すしかなかった。


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