哀しみの奏で方
俺はベッドの中で、二人の口論を聞いていた。原因は親父の浮気。際限なく続きそうな二人の怒鳴り声を聞いてため息が出た。
「もう嫌!あたし出ていくから」
「勝手にしろよ」
お袋の泣き叫ぶ声が聞こえ、玄関の扉が開く音がした。俺はうんざりしてイヤホンをつける。お気に入りのアーティストにカーソルを合わせ、音量を上げた。
ここ最近、二人の喧嘩は日常茶飯事になっていた。最終的にお袋が出ていこうとするのだが、朝になると笑顔で俺の朝食を作っている。俺は今回もいつもと同じ朝がくると思い、何も考えずに眠りについた。
朝になってもお袋の姿は見当たらなかった。俺は不審に思い、親父を起こす。
「…んだよ」
「お袋は?」
「出てったんだろ。知らねーよあいつのことなんか」
「は?…お前のせいじゃないのかよ」
「うるせえな、まだ7時だろ。寝かせろよ」
親父に振り払われ、俺は仕方なく引き下がる。ろくに仕事もしてないくせに、と心の中で毒づいた。無言で学校へ向かう。
下駄箱には手紙が入っていた。知らない女子の名前が書いてある。
「冬悟またラブレター?本当モテるよなお前」
怜が話しかけてくる。俺は手紙の封を切らずに怜に渡した。
「やるよ」
「いらねーよ!!ww」
「俺もいらない」
「じゃ捨てる。…へえ、3組の蒼井星華かあ、あいつ結構他の男子からは人気あるよ」
「誰それ?」
「知らないのかよ!w」
怜は手紙をゴミ箱に捨てると、机にランドセルを置いた。まだ4年しか使っていないのにもうすでにボロボロのそれは、兄からのおさがりらしい。
「ドッジボールしようぜー!!」
クラスの友達の呼びかけに、教室中の男子が振り返る。俺も怜も、急いで皆について行った。
学校から帰ると、何事もなかったかのようにお袋がいた。
「どこ行ってたんだよ」
「お買い物に行ってたのよ」
「…朝早くに?」
「…そうよ」
俺の日常は、いつも灰色だった。
*****
翌日、学校に着くと下駄箱で俺の隣にいた怜が舌打ちをした。
「…どうしたの?」
「まただ」
怜が紙を見せる。封筒のようだった。差出人には“斎藤紫帆”とある。
「誰、それ」
「冬悟と仲良くなりたいけど本人に手紙出す勇気はないんだろ。どうせ俺自身には興味ないんだよ。最近こういう手紙ばっかだよ!ああもうクソ!」
怜は封筒をぐちゃぐちゃに丸めて捨てた。俺はどうしたらいいのかわからず、黙ったまま教室に向かった。
2時間目は社会のテストだった。俺はテスト問題を完全にナメてかかり、問題文などよく読まずに回答していたので、時間を持て余していた。
チャイムが鳴るのを待っていると、教室のドアから見覚えのない先生と担任が顔を出した。
「藤田くん、ちょっと」
手招きされた俺は担任の横にいたらしい校長の存在に驚いた。
「ふじた、とうごくん。お父さんが今さっき倒れたらしい。病院まで送るから、すぐ支度をしなさい。」
淡々とした校長の言葉に、すぐ状況を呑み込めなかった俺は混乱する。色んな先生に促されながら、俺は校長の車に乗って病院へ向かった。
親父は即死だった。くも膜下出血。俺は泣きもせずずっと親父の顔を見ていた。
「冬悟くん」
看護師に呼び止められ、俺は振り向く。
「お父さんのポケットからこんなものが出てきたんだけど…」
看護師が俺に手渡したのは三角形のプラスチック片だった。『トウゴ』と書いてあるが、用途はわからない。
「あの、これ…」
俺が顔を上げた時には、看護師はもういなかった。疲れ果てて寝てしまったお袋を横目で見ながら俺も椅子に腰かける。
(バイバイ、クソ親父)
心の中で呟くと、俺は目を閉じた。
手渡されたプラスチック片をポケットに入れ、俺は通夜が終わった次の日から普通に登校した。気まずそうに朝話しかけてきた怜とは昼にはすっかり冗談を言うようになっていた。父が急死したということで話しかけてくる奴も少なかったが、やっぱり昼頃には俺と周りの関係はいつも通りに戻っていた。
「ところで、怜」
「何?」
「これなんなのか知ってる?」
俺は看護師から手渡されたプラスチック片を怜に見せた。
「ピックじゃね?」
「ピックって何?」
「ギターとか弾く時に使う…なんかこう、じゃかじゃかするやつだよ」
「へえ…でも俺、ギター持ってない」
「それどうしたの?」
「親父の遺品」
怜は一瞬申し訳なさそうな顔になったがすぐ続けた。
「じゃあ親父さんがギター持ってるんじゃん?」
「そっか…」
俺は考え込む。すると、怜が廊下側に冷たい目を向けて言った。
「何か用?」
ずっとこっちを見ていたらしい少女は赤くなって俯いた。怜が立ち上がる。
「斎藤、お前冬悟のこと好きなんだろ?話しかければ?」
そこで俺は少女が斎藤紫帆であることにやっと気付いた。少女は首を横に振る。
「何か喋れよ」
怜は見るからにイライラしている。斎藤は紙に何か書いて、俺たちに見せた。
『私は喋れません。あの手紙はラブレターじゃないです。』
走り書きだったが、整った字に怜は面喰らう。俺は立ち上がった。
「手紙出した理由も教えて。怜、屋上行くよ」
屋上に着くやいなや、斎藤は大量のメモ用紙を消費し始めた。
『私は生まれつき声が出ない病気です。耳は聞こえてます。』
『市川くんは勘違いしているみたいだけれど、私が市川くんに手紙を出したのは決して藤田くんのことが好きだったからとかそんなんじゃなくて』
『先月の音楽の合同授業の時に、歌が上手いなって思ったからです。』
『私の父は楽器を扱う仕事をしていて、私の家にはたくさんの楽器があります。』
『私は少しだけだけどギターが弾けます。この前曲を作りました。』
『手紙を出したのは、ぜひ市川くんに歌って欲しかったから』
『なかなか返事がこないから、直接お願いしようと思ったら、藤田くんが持ってるのはピックだよね?』
『ギターが弾けるんですか?』
怜は申し訳なさそうに頭を下げた。俺はそんな怜を見ながら握りしめた手を開く。
「親父の遺品だから俺は弾けないんだ」
『そうでしたか…それはごめんなさい』
「いや、全然」
俺が手をひらひらと振ると、怜が聞いた。
「手紙、読んでないんだ。ごめん。歌ってほしいっていう内容だったの?」
『はい』
怜は少し考えると、言った。
「いいよ。でもあんまり期待しないでね。あと、市川くんって書くのめんどくさくない?『れい』でいいよ」
「あ、俺も『とうご』でいいよ」
斎藤は少しはにかんだように笑った。
『ありがとう、れい、とうご』
「ところで斎藤が作った曲、今は聞けないの?」
『今はギターがないから…。放課後は暇ですか?』
「暇!暇!冬悟も暇だよな!?暇だろ!?決定!」
怜はテンションが高い。
『なら私の家に来ませんか?』
「こっから近いの?」
『すぐです』
「行く行く!ってかなんで敬語?」
『なんとなくです(´・ω・`)』
「おー!!顔文字!!」
いちいち感動する怜に、斎藤は戸惑っている。俺は立ち上がった。
「行こ。二人とも。もう5時間目始まるよ」
「おう!」
怜が元気よく返事する。斎藤は俺たちに紙を渡すと、頭を下げた。どうやら楽譜のようだ。
「すげー!普通の曲みたい!!」
「これ、俺ももらっていいの?」
『もちろんです。とうごも一緒に歌ってくれると嬉しい』
怜が大騒ぎする横で俺は斎藤にお礼を言った。始業5分前のチャイムが鳴る。
*****
家に帰ると、お袋が何か黒い大きなものを捨てようとしていた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「何、それ」
「…お父さんのものよ。ギターと、アンプ」
俺はポケットの中のピックを握りしめる。
「捨てんの?」
「そうよ」
「…じゃ、俺にちょうだい」
お袋は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに
「ほんと、あの人にそっくりね。」
と言って、黒いケースに入ったギターと小さなアンプから手を離した。親父に似ていると言われるのは嫌だったが、お袋が続けて
「お父さん、本当にギター上手だったのよ」
と一言呟いたのが聞こえて、何も気にならなくなった。
ケースを開けると、黒いギターが出てくる。小学生の俺が持つには少し大きかったが、気にしないことにした。
玄関のチャイムが鳴る。
「とーご!早くしないと置いてくからな!」
怜の声だ。俺は一瞬迷ったが、ギターケースを背負って家を出た。
「うわー、冬悟、何それ」
「ギターだよ、親父の」
「やっぱり親父さん持ってたんだ。斎藤に教えてもらえば?」
「…そのつもり」
『ギターですか?』
斎藤もいささか驚いたようだった。
「弾けないから、教えてもらってもいい?」
俺が言うと、斎藤は自信なさげな表情になる。
『それ、エレキギターですよね。私アコギしか弾いたことないから…』
「???」
『中見てもいいですか?』
俺が頷くと、斎藤はギターケースに手をかけた。怜も興味しんしんでその様子を見ている。
『ストラトですね』
「ストラト?」
『ストラトキャスターの略です』
斎藤は一冊の本を俺に手渡した。ギターがたくさん載っている。
『多分エレキギターの中では一番一般的なギターです』
「へえ…」
横で俺たちのやりとりをずっと見ていた怜が言った。
「とりあえず斎藤が作ったうた聞かせてよ」
斎藤は手を止めると、ギターを構えた。俺はページをめくる。“アコースティックギター”というらしい。
しばらくすると、怜が小さな声で歌い出した。俺と斎藤は驚いて怜を見る。
「なんで歌えんの、お前」
「斎藤が楽譜くれたじゃん、お前見なかったの?」
「見たけどいきなりは…」
怜は曲が終わると斎藤に向き直って、
「合ってた?」
と聞いた。斎藤は頷くと、紙を見せる。
『ほぼ完璧でした。すごいです、絶対音感ですか?』
「うーん?母親がピアノの先生だから、まあ多少は音感あるのかも」
『さすがです』
斎藤が怜をべた褒めするのにイライラして、俺は言った。
「俺も歌う。斎藤、もっかい弾けよ」
2回目の歌を、怜は完璧に歌い上げたが、俺はつっかえながらやっと歌えた程度だった。
「怜、すげぇ」
『すごいです』
「いやー、それほどでも」
怜はすっかり舞い上がっている。
「これタイトルなんていうの?」
『タイトル、まだ決めてないです。よかったら決めてください』
斎藤は俺たちを見る。俺は困惑した。国語は苦手だった。しかし怜は隣で何やら考え込んでいる。
しばらくして顔を上げた怜はキラキラした笑顔でこう言った。
「『モノクロコード』ってのは?」
斎藤は少し考えたあと顔を上げた。
『決まりです』
負けず嫌いの俺は怜の案が採用されたのが悔しかったが、自分自身の案は皆無だったので仕方なく従った。こういう場面で意外な才能を発揮するのが怜だということは昔から知っている。
「タイトルも決まったことだし、最後に一回歌わせて」
怜が言った。俺はまだ歌えそうになかったので、今度は斎藤が弾くギターの方に注目していた。案外簡単なリズムだったので、練習すれば俺にも弾けるかもしれない。
斎藤の真似をしてギターを構える。黒い、ストラトキャスター。ポケットの中のピックを取り出すと、斎藤が俺を見て笑った。
『右手だけでも動かしてみてください』
俺は頷くと、怜の歌声を聴いて指を動かした。
『本当に初めてですか?』
斎藤が俺に疑いの目を向ける。
「本当だよ、さっき初めて構えたし」
『様になりすぎです』
俺は首を振った。コードを覚えるのは難しかったが、たくさん練習すればできそうな気もした。
「やっぱ冬悟すげーな」
怜にまで褒められ、俺は少し照れくさくなる。
「うるさい。もう一回やろうぜ」
俺の言葉で斎藤がギターを構える。怜が深く息を吸った。
『もうほとんど完璧ですね、二人とも』
時計を見ると6時を回っていた。
「俺もうそろそろ帰らないと。斎藤、色々ありがと」
怜が立ち上がる。俺もギターをケースにしまうと立ち上がった。
「また新しい曲できたら呼べよ」
斎藤は嬉しそうに頷いて、俺に紙の束を手渡した。
『モノクロコードのコードです。とうごには歌よりもギターの方が似合う』
「ありがとう」
俺は素直にお礼を言った。怜が声を上げる。
「冬悟!明日までに完璧にしてこいよ!」
「明日はムリだよwでも、頑張ってみる」
俺はコード譜を、怜は歌詞を見ながら帰路についた。
*****
怜は、驚いたことに翌日には歌詞を覚えてきていた。
「お前すげーな、怜」
「いやいや。冬悟は?もう完璧?」
「な訳ねーだろ。難しいんだぞギターって。俺初心者だし」
「じゃあ、今日も学校で練習すんの?」
怜が俺の背中を見る。ランドセルを右肩、ギターケースを左肩にかけた俺は、息を切らして階段をのぼっていた。
2時間目と3時間目の間には少し長めの休み時間があった。ギターケースを背負ってせっせと屋上への階段をのぼる俺と、その後に続く怜を、クラスの奴らは不思議そうに見ていた。
「怜!斎藤呼んだ!?」
「やっべ、呼んでねえ」
「ちょ、呼んでこい!」
怜は上がったばかりの階段を下りていく。俺は屋上への扉を開けた。
ギターをケースから出していると、斎藤を連れた怜が息を切らせてやってきた。
『ギター、持ってきたんですか!?』
驚いた顔をする斎藤に俺は頷くと、重たいギターを押し付けた。
「もう一回、お手本見せて」
『…上手くできるかわかりませんが』
「ありがとう。怜、歌って」
斎藤はモノクロコードの前奏を弾きはじめる。その旋律は、昨日のものとは少し違っていた。
「昨日と違う…?」
怜が満足げに歌い上げた後、俺は斎藤に聞いた、斎藤は頷く。
『アルペジオにしてみました』
「アルペジオ…?」
『音を一つずつ弾く弾き方です』
斎藤はギターを鳴らしてみせる。俺が首をかしげていると、チャイムが鳴った。
「もう中休み終わりかよ…」
「みじけーな」
『本当ですね』
とぼとぼと教室に向かう俺と怜の後ろで、斎藤が思い出したように顔を上げた。
『私次体育でした!!』
「えっ!?何やってんだ、急げよ!」
『着替えてない…最悪です』
「もうそれ書かなくていいから!早く戻って着替えろ!」
俺と怜は焦る斎藤の背中を押し、階段を駆け下りた。斎藤は泣きそうな顔で頭を下げ、電気の消えた3組の教室に入っていく。
「あいつ、案外そそっかしいな」
「そうだな…ん?」
怜が足を止める。2組―――俺たちの教室も、誰もいなくて真っ暗だった。
「…冬悟、次の授業なんだっけ」
「……朝、3組と合同体育だって言ってた気がする」
「嘘だろ!!おい!!」
「やっべ!!早く着替えなきゃ!!」
俺と怜は目にも留まらぬ速さで着替えると、校庭のクラスの列に転がり込んだ。担任が俺たちを見て声を上げる。
「市川!藤田!遅いぞ!」
俺も怜も適当に返事をすると、3組の列に目をやった。斎藤が見当たらない。
「斎藤いなくね?」
「まだ着替えてんのかなあ…」
「さすがに遅いだろ」
怜が不思議そうな顔をしたとき、3組の担任の元に斎藤の姿が見えた。
「斎藤さん!遅刻よ。何してたの?着替えもしないで」
斎藤は何やら紙を見せている。この角度からは見えなかった。
「あいつ、着替えてないじゃん」
「忘れたんじゃね?」
どうやら、体操着を忘れた場合強制的に見学になるらしく、斎藤は木陰の階段に静かに腰かけている。俺と怜が先生の目を盗んで斎藤の方へ行こうとすると、3組の女子たちがクスクスと笑う声が偶然、聞こえてしまった。
「やっぱり見つからなかったんだ」
「そりゃあね。2組に隠したから」
「さすが星華ちゃん!」
「喋れないくせにあの二人と仲良くなる方が悪いのよ。身の程をわきまえてもらわなくちゃ」
怜がこっちを見る。その口が小さく動いた。
「冬悟、この前あいつから手紙もらってたよね」
「は?俺は知らねーよあんな女」
「3組の蒼井だよ、あいつ」
「…ああ、この前怜にあげたやつか。ってか、そんなことより」
「うん…俺、ちょっと2組の教室探してくる」
怜は担任に何やら言うと、昇降口へと走っていった。俺は女子たちに向き直る。
「おい」
「何よ?あ、ふ、藤田くん」
「お前ら斎藤の体操着隠したのか?」
「え?あ、」
「…そんなわけないじゃない」
「あの子が勝手に忘れたものを私たちのせいにしないでくれる?」
しどろもどろになりながらも言い返してくる女子たちに俺は舌打ちをした。
「今の会話丸聞こえだったんだよ。何?俺と怜が斎藤と仲良くしちゃいけないわけ?」
「…」
黙り込む女子たちの中で、蒼井だけが顔を上げて俺を睨む。
「藤田くん、私の手紙には返事もくれなかったじゃない!」
「え?ああ、やっぱり蒼井星華ってお前か…」
俺が怜の記憶力に感心していると、女子たちがそれぞれサイテーだのなんだのと俺をののしってきた。俺はその中心を睨み返す。
「お前な、そもそも斎藤は俺のことが好きだから話しかけてきたわけじゃねえぞ」
女子たちが怪訝そうな顔をしたとき、頭の上で怜の声がした。
「冬悟!あった!」
「おう!」
俺は怜が投げてくれた斎藤の体操着袋をキャッチすると、もう一度女子たちの方を向く。
「斎藤は手紙の返事が来ないから、わざわざ怜のところに来たんだよ。お前、俺とか怜とかと仲良くなりたいなら、こんな陰険なことやってないで自分でなんとかしろよ」
俺が体操着袋を投げると、斎藤は慌ててキャッチした。その唇が動く。
『ありがとう』
戻ってきた怜と一緒に、俺は2組の列に戻ることにした。
『3時間目は本当にありがとうございました』
「いやいや」
怜はピアノ教室があるらしく、斎藤の部屋には俺と斎藤しかいない。
「大丈夫?その後何もない?」
『大丈夫です』
「なんですぐ俺か怜に言わなかったんだよ」
斎藤は首を振ってギターを構えた。アルペジオは、難しい。
『慣れですよ』
「そうかなあ…難しいな、ちくしょう」
『手首をもっとこう…ちょっといいですか?』
斎藤が俺の背後に回り、左手首の位置を修正する。
『こんな感じです』
「…」
『ええ!?そんな、泣くほど難しいですか!?』
右手に落ちたそれは、涙だったらしい。夜中に聞こえてくる儚げな旋律―――その記憶が、突然よみがえった。
『どうしたんですか!?私、何かしちゃったでしょうか?』
焦る斎藤を手で制して首を振る。俺はきっと、
「…親父がギター弾いてるの、知ってたんだ…忘れてたけど。…多分、ずっと憧れてたんだと思う。こうやって、ギターを教えてもらうのを」
斎藤はしばらくして頷いた。
『私も、とうごのお父さんのギター聞いてみたかったです』
「…ありがとう」
『さあ!もう一回アルペジオ、いきますよ!』
斎藤がピックを鳴らす。もう何度目になるかわからないその演奏は、斎藤のお陰だろうか、思っていたよりも難しくは感じなかった。
*****
怜と斎藤は、改まった俺の態度につられて神妙な顔をしていた。
「話ってなんだよ」
「ああ」
怜に促され、俺はようやく口を開いた。
「お願いがあるんだ」
「お願い?なんだよ真剣な顔して」
「モノクロコードなんだけどさ、俺の、母親に、きかせたいんだ」
俺は親父が死んでから明らかにお袋の元気がないことを二人に話した。
「別に俺たちに頼む必要も…」
「必要なんだよ。お前らが」
俺は怜の肩を掴む。斎藤はびっくりしたようにその様子を見ていた。
「俺はギター弾きながら歌えないし、アルペジオもまだできないから、お前らがいないと曲が成り立たないんだよ。頼む」
俺が頭を下げると、さっきから一言も発言していなかった斎藤が笑った。
『やってやりましょう!私たちの演奏で、とうごのお母さんを元気にするのです!!』
「…やるか」
怜も笑う。
「俺の歌が必要なんだろ?仕方ないなあ」
俺は笑って、もう一度二人に頭を下げた。
「どうしたのよ急に」
困ったような顔をするお袋を座らせると、俺たちはその正面に並んだ。
「えー、市川怜、歌います!」
怜が笑顔で右手を挙げる。俺と斎藤はギターを構えた。斎藤のピックの音で始まる『モノクロコード』。
「…すごい…」
アルペジオはまだ苦手だったので斎藤に任せていたのだが、それでもお袋を黙らせるには十分だったらしい。
曲が終わると斎藤は深く頭を下げ、俺と怜は息をついた。笑っているお袋を見るのは久しぶりだった。
「どうしたの?本当に」
「別に。ただ聞いてほしかっただけ」
『めちゃくちゃ練習してましたよ』
「斎藤!」
「お袋を元気にさせたいんだって、俺たちに頭下げて」
怜が言う。俺は余計なこと言うなよ、と怜の腕を叩いた。お袋は笑って、言った。
「冬悟。ごめんね、ありがとう。お母さんは元気よ」
*****
「そういやもうすぐこのクラスも終わりだよな」
怜がジュースのコップを持ったまま口を開いた。斎藤が遠慮がちに菓子に手を伸ばす。
「そういやそうだな。…俺3人で同じクラスになりたい」
「!?」
斎藤も驚いて菓子を落とす。
「なんだよ…俺そんな変なこと言った?」
「いや…冬悟お前、変わったよな」
『そうですね…なんだか、人間らしくなったと言いますか…』
「え?そう?」
「なんか前はもっと、世の中全てに興味がない、みたいな感じだった」
『だから声かけづらかったんですけど』
「思ったこと言っただけだろ…大袈裟だなお前ら」
怜が思いついたように手を叩く。
「斎藤と仲良くしだしてからじゃね?冬悟が変わったの。斎藤すげーな」
『え、私ですか?そんなすごい人間じゃないですよ私』
「うーん」
自覚はなかったが一応斎藤に頭を下げる。
「ありがとう」
『そんな!!私何もしてないですよ!!』
焦る斎藤と、それを見て笑う怜。俺は確かに、この光景が好きだった。
*****
「冬悟!斎藤!同じクラス!!」
走って行って真っ先にクラス表をもらった怜は、それを見て大声を上げた。
「マジか!」
『よかったです』
一足遅れて俺と斎藤はクラス表を見る。一組の欄には3人の名前が全て揃っていた。
「見事に全員揃ったな」
「これで斎藤もいじめられなくてすむなー」
『え!?もう大丈夫ですよ!!』
俺たちはまたくだらない話をしながら一組の教室に向かった。
朝礼のあと、長い担任のあいさつに欠伸をかみ殺していると手紙が回ってきた。
『今日放課後、斎藤ん家。新曲発表』
怜の字だ。すぐ下に斎藤の字でよろしくお願いします、とある。斎藤の席に目をやると、斎藤はこっちを向いてにっこりと笑った。親指を立てて了解の旨を伝えると、斎藤は頷く。
帰りの会がやっと終わり、俺たちはランドセルをひっかけて急いで学校を出た。そのまま斎藤の家へ向かう。
「なんで朝言ってくれなかったんだよ、新曲のこと」
『言うタイミングなくて…』
「いやでも楽しみ!!」
怜が嬉しそうに言う。斎藤の新曲を聞くのは俺も楽しみだった。
もう何回も来て、見慣れた部屋のドアを開ける。
『また、よろしくお願いします』
斎藤がギターを構える。透き通るような旋律が、奏でられはじめた。