惚れ薬
「出血多量でしたが、発見が早かったために大事には至っていないですね。
意識が戻れば、数日中に退院できるでしょう」
運ばれた病院の医師から説明を受けていた烈は、一先ず安心した。
「そうですか……」
「ただ、精神が参っていなければですが」
「……」
だが、精神は見えない。
安心は打ち消された。
「菜穂」
一人部屋に眠る菜穂の傍で声を掛ける烈に反応したのか、菜穂が目を開けた。
「……烈?」
「気が付いたか?お前なんだってあんな事…」
飽く迄、優しく訊き出そうとしたのだが、
皆まで言い終わらない内に、菜穂が言葉を紡ぐ。
小さな、小さな声で。
「……め、なさい。ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「な、菜穂?」
その言葉を聴いて狼狽する烈。
烈が名を呼んでも謝罪の言葉は止まない。
「やめろ、菜穂。俺は怒っていない、謝る必要は無いんだ」
それでも、菜穂は続ける。
暗い瞳は烈を映さない。
「菜穂、こっちを向け。俺を見るんだ!」
暗い瞳は闇の様。
「俺を見ろよ!!」
悲鳴に近い懇願の声が病室に響いた。
心地好い初夏の風が、黄色のリボンを付けたウサギのぬいぐるみを置いた窓辺から吹き抜ける。
「烈、何を書いているの?」
ひょっこりと、書き物をしている烈を菜穂が覗き込む。
「仕事のだよ。すぐに終わるから新婚旅行はどこに行くのか、パンフレットを見ておくと良い。
お前、行きたい所が決められないんだろう?」
カルテファイルを机の上に素早く裏返して、烈は菜穂を促す。
「うん、そうするわ。早く、来てね?」
菜穂が甘えた声を出して、烈を急かす。
「わかっているよ」
微笑みながら言うと、安心したのか菜穂は書斎から去って行った。
烈は菜穂が去ったのを確認して、ファイルを表に返す。
そこには、菜穂のデータが記載されていた。
あの日、病院から戻った烈は鍵付きロッカーの中に入っていた薬を取り出した。
通称、惚れ薬。
それを、烈は菜穂に飲ませたのだ。
それから、記録をつけている。
彼女自身に気付かれないように、どんなに細かい事でも。
彼女に異変があれば、すぐに対応できるように。
菜穂を壊さない為に。
「烈ー?」
居間から声が掛かる。
「わかっている。今行く」
ファイルを、机の引き出しに入れて、鍵を掛ける。
烈は菜穂と共にパンフレットを眺め、揃いの指輪を嵌めた手を絡めた。
ファイルにはこう綴られてある。
一月十九日、午前九時二十三分。
惚れ薬を飲ませて、意識が回復した。
視線が定まると、泣き出した。
二度謝られてしまったが、謝り続ける事はなかった。
一月二十五日、午後二時。
退院許可が出たので、菜穂を俺の家に連れて帰る。
午後四時三十五分。
この日、菜穂の元婚約者、二ノ宮竜が惚れ薬の購入者である高園さわ氏により、惚れ薬を使われて、高園家に戻ったと報告が入る。
惚れ薬は、菜穂の場合、精神の安定を図るものなので定期的に接種させる必要がある。
惚れ薬の新規販売は、三月をもって停止される予定である。
だが、製造は続ける。
最近、思う事がある。
母も菜穂と同じ境遇だったのではないかと。
そう、思いたいだけなのかも知れないが。
漸く雨続きの空は、快晴が続くようになった。
ウサギのぬいぐるみを虫干ししてやらなければならない。
「菜穂」
「何?烈、改まって……」
「好きだ」
「っ、私も好きよ」
菜穂は、屈託なく嬉しそうに笑った。
烈は、幸せで哀しくなった。
やっと完結していた物語を、再び完結させる事が出来ました。
読了ありがとうございました。