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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

極月暮刃の異貌なる世界

作者: MTL2

本作にはグロテスクな描写を含みます。苦手な方は頑張ってください。

「アルペシドの種」


空音鳴り響く一室にて、彼女は椅子に腰を沈めながら一言を読み上げる。

覆々に積み上げられた書物はその椅子さえも隠し、埃立たせ、床を軋ませ。

華奢な言葉へ相槌を打たんがばかりに軋轢の根を奏で流す。


「エウリュアレの秘石、亜華金色之絹糸、Eo-J、黒暁の刃、カグラザカ……」


坦々と読み上げられていく言葉は、この世界に生きる者の知るべきところではない。

表があるならば裏がある。裏があるならば表がある。然れど二つあるならば境目がある。

彼女は、否、彼女達はその世界に生きるべき存在だ。この異端に混ざり合い、黒さえ超えた混沌の深淵に。

魔法、魔術、超能力、念力、超常現象、未確認生物、SCP、絶技、神々、精霊、妖精、次元法、憑依法、呪術、言霊、機戦鎧、魔機武刃、異次元人、宇宙人、異界人、魔獣、超人、機人、現神人、パラレルワールド、異空間、表層世界、地底界、海底遺跡、亡歴の遺物ーーー……、etc.etc。

世界には、全てが混ざり合う。このちっぽけ過ぎる星に収まりきるはずもない、それ等が。

表でも裏でもなく、その狭間にてーーー……、幾千の刃を交わし、幾千の詞を述べ、幾千の願いを持って。

余りに小さな狭間の世界に、押し込められている。


「総して、異貌」


彼女は、その妙齢なる女性は何かを感じ取ったのか、華奢にして陶磁器のような真っ白い指で机からテレビのリモコンを拾い上げた。

ぶつりという音と共に生まれ落ちたブラウン管の画面は、やたらと騒がしいオーケストラの演奏と共に、キュビズム画集展示会のCMを流していた。だが、彼女の瞳が目指すのはそのCMから、上。

『都内中心部にて死因不明の遺体を発見』。人間生きていれば4回は目にするであろう、何ら変哲のない文字列の流れだった。

無闇な緊張で彩られたニュースキャスターの顔色を侮蔑するように左眼を細めながら、否、片目しかない眼を閉じながら、彼女は再びリモコンのスイッチに力を込める。


「……仕事ね」


レインコートのように丈の長い、藍紺の衣を纏い。

指先一寸の隙間無く覆う鋼鉄線の縫い込まれた手袋、靴底に特殊防弾ガラスさえ踏み抜く超圧鉄の仕込まれたブーツ。

対魔礼装が七十四式まで組み込まれた拳銃と聖水による加護を受けた純銀の弾丸。

朧月と称される唯界の白銀刀に修羅仏の髪より結ったとされる封殺の糸。

その他、幾十に渡る異貌を殺す為の道具の数々。彼女が毎朝食べるトーストよりも長くその身に宿る生命線。

異貌達を絶つ武器の数々にしてーーー……、彼女という存在を示す証。


「何と、脆い」


反芻する。

彼女はこの武具の数々を、防具の数々を身に纏う度に反芻する。

嫌になるほど矮小なこの世界を。余りに小さく、一つの魂さえ収まり切らないこの世界を。

彼女の有す片眼にはとても映りきらない、この世界を。


「世界」


その言葉と共に扉が開け放たれ、鬱蒼とした一室に旋風が舞い込んだ。

幾多の埃は部屋の隅に追いやられ、積み上げられた本達は僅かにずれて塔を揺らす。

彼女はその様を嫌うかのように扉を素早く、然れど丁寧に締め、懐から一つの鍵を取り出した。

鍵。鍵穴に差し込み回すことによって螺具が周り施錠する、一般的なセキュリティーアイテム。

だが彼女の場合に到っては、いいや、彼女の一室に到ってはそうではない。

その部屋に溢れかえり塔を成し埃に埋没した幾百の書物。それ等は全て一冊数億は下らない貴重なものである。

彼女だからこそ、この一室だからこそ保管が赦されるーーー……、神語の綴り。

故にその施錠は何よりも強固にして絶対な防壁となるのだ。その一室を、書物達を護る為の。


「さて」


かちん、と。

その荘厳な意味を嘲笑うほどに呆気ない音。

安物のマンションの方が余程らしい音を立てるぐらいに、呆気なく。

その建築物の薄汚さに似合った音を立てて、扉は閉まる。


「行きましょうか」



【某県某市某町某丁某区】

《路地裏》


薄暗い、新設マンションと塀で覆われた民家の狭間。

日照権で争っただろうと一目で解るほど薄暗いその場所で事件は起きた。

民家に住む老婆がいつものように日影で育つはずもない花へ水やりをしていた時、異臭に気付く。

鼻腔の奥にこびり付くような、目元のひくつく臭い。野良猫の死骸ならよく転がっているが、それもこんなに酷い臭いはしない。

塀の奥ーーー……、マンションとの狭間から、それは臭ってきていた。

老婆は恐る恐るそれを覗き込み、眼に深黒い紅色を映した瞬間に悲鳴を上げて卒倒。その声を聞いたマンションの住人が通報して事は発覚したわけだ。


「酷いな」


彼は並み居る野次馬と警察を超え、『KEEP OUT』の文字が塗り込まれたテープを潜り抜けた。

警察官達は彼を見るなり軽く頭を下げ、再び自身達の作業に戻っていく。散らばった、人間のものだった痕跡を集める作業に。


「ご苦労様です、カケイさん」


「あぁ、そちらこそ」


黒地の、ラインが入ったスーツを着込むオールバックの男。

厳格な顔付きと剃刀に例えられるほどの眼光。同僚から枯木のような男と言われるほどの身長と細身。

そして、今にも懐からどす黒い銃口が出て来そうな佇まいは周囲の者を少なからず威圧する。

これでは枯木と言うよりまるで太刀ではないか、と。そう言わせんばかりに。


「被害者は?」


「若い……、恐らく大学生ほどでしょう。体内から食い破られて顔が食い荒らされておりますので身元の判定は難しいかと」


「だろうな。こちら側の事件は身元の判定が出来る方が珍しい」


筧と呼ばれた男は胸元から銀色の懐中時計を取り出した。

秒針と時針のない、奇妙な文字列だけが刻まれた盤面。それ等を除けば薇もあるし美しい装飾の施された二面もある。

アンティークと呼び、マニアならば笑顔で頷くであろう、ただの懐中時計だ。


巻き戻す(・・・・)。離れていなさい」


警察官が軽く瞼を伏せると共に、筧の指先が弾かれた。

瞬間、秒針も時針も無いはずの懐中時計が盤面ごと急速に回転する。

周囲の人通りは人体に有り得るはずもない速度で後歩し、警官や警察官も直ぐ様撤退。

やがて空模様さえも煌々と輝く太陽を引きずり下ろし、金色の月光を空へ輝かせた。


「……ふむ」


彼の隣を、一人の青年が歩き去って行く。

その手に地図を持ったところを見ると、旅行者か何かの待ち合わせか。

ともあれ真っ黒に塗り潰された顔と穴だらけの臓腑、欠けた四肢以外をしっかりと観察せねばならない。

この空間において、巻き戻された世界において、それが何よりの手掛かりとなるのだから。


「足取り……、若く健康な男だ。周囲を目視するような動きとこの路地裏に入ったことからして、待ち合わせと言うより旅行者だな。この街に初めて来たのか?」


唇に指先を這わせ、男の一挙一動に視線をくれ果てる。

せめて顔面が残ってくれていれば楽だったが、人間の形状を辛うじて保っている程度の骸にそれを期待するのも酷だろう。

恨むべきは自身の技術不足だがーーー……、今はそんな事を言っている暇もない。


「……さて、そろそろだろうが」


ぞぶり、と。

青年の胸が跳ね、踵が浮き上がる。

臓腑が月光に照らされ、艶を輝かせた。鮮血の雨が丁度、彼の足下にあったマンホールへと染み込んだ。

悲鳴さえ上げる暇はない。青年に何かが起こった瞬間、彼は息絶えたのだ。

強いて言うならば、その狗のようなーーー……、否、狼男のような影が食い破って殺した、と言うべきか。

青年の心臓から這い出たその化け物が、彼を喰い散らかして殺しているのだ。


「…………ふむ」


執拗に周囲の血液を舐め取り、顔を食い破っている。手足の指先も美味そうに貪り付いている。

この化け物の特性、ではない。これは証拠の隠滅だ。捜査の撹乱を目論んでいる。

と言うことは知っている。我々の存在を、知っている。表の人間でも裏の人間でもない。

狭間に生きる、異貌なる者か。


「厄介だな」


化け物は彼の推察が終わると共に、その青年を喰らい終わった。

口端から滴る鮮血と骨片、脳髄の汁が水油のようにアスファルトと混じり合っていく。マンホールへと流れていく。

そのまま呆然と、滴るものを飲み込むでも拭き取るでもなく。

こちらをーーー……、見ている。


「…………」


見ている? 馬鹿な。この世界は隔絶した存在だぞ。

デウス・エクス・マキナの欠片から造られし『観測の時計(ウォッチャー)』のみが存在し、創り出した空間だ。

その世界には何人も存在することは出来ないし、観測も干渉も赦されない。

ただ起こった事象だけが不確かな形で再現される。それだけの映像に過ぎない、はずなのに。


{ぐるぁ}


化け物が、嗤ったように見えた。

その言葉が蒙昧としているのは抽象的な姿や自身の緊迫故にではなく。

眼前の信じがたい景色を覆い隠す、藍紺纏う腕があったから。


「この世界に置いて過信は死を意味する。……でしょう? 筧」


鼓膜を突き破らんばかりの爆発音。跳ね上がる腕、頬を擦る裾地。

刹那に隠され、僅かに開かれた幕から見えるのは幻影が如く消え去る化け物の姿だった。

いや、それさえも銃が吹き上げる白煙に飲み込まれ、沈み逝く。


「……消えた、か?」


「逃げられた、よ。憑依か降臨のどちらかでしょう」


筧は思考と安堵の入り交じった頭を落とすように膝を折り、大きく息を吐き出した。

もし彼女が現れなければやられていた。この隔絶した、何人も立ち入れるはずのない空間で惨めに死していた。

ーーー……否、何人もというのは語弊がある。彼女という例外、いや、あの化け物も含めるなら僅かな例外を除いて決して立ち入れぬ空間で、と言うべきだ。


「自信を無くすな。やはり未だ神話級には敵わん」


「神話級に敵う人類なんて居ないわ。彼等は彼等の貌に嵌めて殺さなければならない」


世界は急速に腐敗の一途を辿り、溶解し、空に再び彩を灯す。

穴だらけになって崩れ落ちた夜空を眺めていた瞳は自然と細められ、その情けなさに筧は再び息を零した。

やがて彼の大きなため息が終わる頃には、たった今(・・・・)彼に報告を終えた警察官が駆け寄ってきて。


「ご無事ですか!? 筧さん!」


「いや、少々危なかった。彼女が来てくれなければ腕の一本は飛んでいただろう」


「彼女……?」


「そう、彼女」


筧の視線が向けられた先に現れた、その女性。

実際は筧の時空を隔絶した空間に侵入し、そこから出て来た為に移動の狭間を認識出来なかっただけなのだがーーー……、警察官からすれば瞬間移動でもしたのかと思っただろう。

尤も、彼女の顔を、或いは漆黒刻まれし眼帯が示す隻眼を知る者ならば、例え本当に瞬間移動をしていたとしても納得出来るであろうが。

いや、むしろ次元を斬り裂いたと言う方が彼女ならばと頷ける知れない。


「こ、これはこれは……、ご苦労様であります!」


絵に描いたような、綺麗な敬礼と伸ばしきられた背筋。

拍手の一つでも送りたくなるほど洗練されたその動作にも、彼女は感想一つくれてやることはない。

ただ手で払うように挨拶をしながら、路地裏の、先程の世界では平然と歩いていた遺体に歩み寄っていく。

漂う異臭にも、集り飛ぶ蝿にも、余りに堂々とした歩みに狼狽える警察官達も、誰も彼もを潜り抜けて。

その、辛うじて原形を留めている旅人らしき青年の遺体へと。


「成る程」


彼女が右腰元のポーチから取り出したのは片レンズの顕微鏡。

幾重もの硝子が螺旋巻きによって左往し、濃度次第で魔力を感知する道具である。

右目に眼帯、左目に顕微鏡という様は随分滑稽であろうが。さて今回はそれを晒すまでもなかったようだ。

余りに濃厚過ぎる魔力反応によって、顕微鏡を当てるまでもなく彼女の勘が歪を感じ取ったのである。


「……高濃度の魔力跡があるわ。やはり『憑依』ね」


「神霊や精霊の『降臨』ならばここまでの反応は示さないだろうしな。神級の妖怪ならばまた話も違っただろうが……、彼等が下賤なる人間に肉片をくれてやるとは思えない」


『降臨』とは様々な紋章や代償、魔方陣によって悪魔から神霊まで、己の技量と生贄次第でそれ等を呼びだし取引する行為である。

『憑依』とはその身に様々なもの、それこそ神や精霊の一部を宿し、その力を貰い受ける行為だ。

筧の持つ懐中時計もデウス・エクス・マキナなる超常の存在の欠片を宿すが故に隔絶という力を得ているのと言える。

尤も、双方とも西洋から東方、神から悪魔まで様々なものを呼び出すには幾億通りの陣や生贄、性質が必要な為、それが解っただけで特定することは不可能に近い。

いいや、それを特定しただけでも100%追跡不可能から99.9%追跡不可能になったのだ。

決して無駄とは言えない、が。それは余りにも遠い行為だろう。


「神話級……、獣の姿であり次元の壁さえも越える特質」


99.8%。


「崇められる、或いは忌み嫌われる明確な存在ではないな。闇に潰された貌は姿を想像出来ない、想像してはいけないということだ」


98.2%。


「概念や舞台装置チクタクマンの類いでもない。相手を体内から食い潰すという且つ獣の姿を持つということは地域ごとの伝承等ではないでしょう」


96.1%。


「……ふむ、となれば西洋に近いか」


「絶対概念を持つか神話級の概念、相手の体内から食い破る特性を持つ生命、神話級であり、神々の眷属に位置する存在ならば確実よ」


90.0%。

例え0.1から10であろうと、その僅かな数字が解明の鍵となる。

彼等の記憶や推察は確実な一途を辿り、正解へと確かな道を作っていく。

ただし、それは彼女の尤も、という言葉で容易く翻る。


「組織のリストにもある超常級の転移者だとか現神の悪戯だとか被害者が神罰の対象者だとかーーー……」


92.4%。96.8%。99%.1。

可能性が増える度に筧の眉間は皺が一つ、二つ、三つと増えていく。

やがては耐えきれないと言わんばかりに閉じられた瞼を抑えるが如く、指先は眉間を摘み上げた。

結局はこういう事なのだ。この世界では、この界隈では、この領域では。

有り得ないということが有り得ない。可能性に際限はなく、最善も最悪も存在しない。

故に推測は懸念となり、杞憂であり、憂慮でしかない。


「……やめろ、毎度のことではあるが頭が痛くなる」


「後手に回るだけの組織に意味があるのかしらね」


「嫌味は他でやれ……!」


警察官にまぁまぁと落ち着けられながら、筧は場を取り直すように大きく息をつく。

気苦労溢れる吐息からは僅かに薬品臭さが滲み出ていた。

彼の近くで仕事をする者ならば、それが筧の愛用する胃薬の臭いであることは直ぐ様理解出来ただろう。


「……兎も角、捜査はこちらで進める。お前は関与するな、とまでは言わんが積極的に関わることは勧めん」


「私の管轄でもあるのだから、協力するのは吝かではないわよ。キュビズム画展までならね」


「お前、また……」


「それに私の探しているものなのかも知れないのだし」


探している、という言葉に警察官は疑問の声を上げかけたが、細い指先がそれを制した。

筧の眉間には先程より遙かに濃い皺が刻まれており、最早嫌悪にさえ近い感情が読み取れる。

自然と、警察官の背には恐怖や悪寒に近い身震いが奔り、喉を詰まらせた。

そして、その狭間に氷解の雫が如く、彼女の言葉が滑り込む。


「……そう出来ない、理由があるとでも?」


「あぁ。どちらから聞きたい?」


良い話と悪い話。洋画でよく使われるそんなフレーズを、彼が使わなかったのは何故か。

それは悪い話と悪い話しかないから。そんなものを並べる理由はないし、意味もないから。

序でに言えば、彼女のどちらでもという返答も、聞くことなく解っているから。


「一つ、喰狗ハウンドという暗殺者がお前を狙っている。理由は精々、名挙げか……、まぁ、その辺りだろう」


「もう一つは?」


「もう一つはお前に弟子が出来る、という話だ」


激しく嫌悪。

筧の眉間にあった皺だとか、勝手な妄想を浮かべる野次馬達の訝しむ皺だとか、グランドキャニオンにある巨大な皺という名の亀裂だとか。

そんなものよりも遙かに深く鬱陶しく面倒臭く、刻まれて。


「……は?」


その声を上げたのは女でもなく、他の誰でもなく、筧自身でさえもなく、喉を詰まらせていた警察官だった。

いや、女に問おうとしていた言葉の吐息を、漏れ出させたと称すべきか。

伊達に信じられる話ではない。彼女に、弟子。誰に関わることはなく、関わろうともせず、関われることさえなく。

組織にさえ属さない孤高の彼女が、弟子。

弟子、弟子、弟子。まだ彼女が髪型を変えたとか住処を変えたとかいう言葉の方が信じられる。

いやそれも、天地がひっくり返るような話ではあるのだけれど。それでさえも。


「あ、あの、冗談ですよね? まさかあの、彼女にそんな……」


「冗談だと言いたいのはこちらだ。だが組織からの確かな命令がある」


筧が懐から取り出した、薄っぺらい一枚の資料。

それは組織からすれば彼女を繋ぎ止める鎖であり、彼女からすれば面倒事への招待状であり。


「以下の者に研修者の監督を命じる。貴殿ーーー……」



《大通り》


極月 暮刃(キメヅキ クレハ)さん、か」


幾多の摩天楼に覆われた一本の大通り。

真っ直ぐ行けば都市部の中心である、県名を有す駅に続く道に彼は居た。

ある女性の顔写真がクリップで留められた資料とこの街の地図を持ち、田舎者よろしく周囲をキョロキョロと見回す、青年。

道行く人々はそんな彼を見ると半歩遠ざかって顔を引き攣らせる。当然のこと、道案内をしてあげようなどという人は一人もいない。

いや、そんな彼に駆け足で近付く影が二つ。青と白の制服と、金色の紋章がある帽子を被った、警察官。


「ちょっと君、良いかな?」


「あ、はい。何でしょうか」


「いや、何と言うかね。その格好は……」


不良。ギンギンの金髪と龍の刺繍が刻まれたジャンパー。

指にはメリケンサックのように幾つも指輪が連なり、ズボンにもちゃらちゃらとチェーンが巻かれている。

耳にも金色のピアスが2連、唇や鼻にはないが、それよりも眉毛までしっかり染められた金色が目を引く。

もう一度言う。不良だ。これでもかと言わんばかりに解りやすい、一昔前の不良なのだ。


「カッコイーっしょ! 俺のダチが都会行くなら舐められないように、って……」


「……いや舐められるというか、その格好は無駄なトラブルを招くというか」


「つーか現に無駄なトラブル招いてるよ、君。挙動不審な不良がいるって通報あったんだけど」


「うわ怖っ。都会には色んな人が居るんですねぇ」


「君だ、君」


二人の警察官にがっちりと腕を抱えられ、どなどなと言わんばかりに青年は引き摺られていく。

街行く人々はそんな彼に少しだけ目端で視線を向けつつも、やがて何事も無かったかのようにまた大通りの風景の一部へと成り果てていった。



《警察署》


「しゅんじ……、きら、じゅ?」


「あ、いやそれ春路 耀寿(はるじ あきと)って読むんです。ちとややこしいですけど」


ややこしいって言うかなぁ、とペン尻で頭を掻きつつ、老齢の警察官は椅子へ腰を沈め込んだ。

この青年、見た目こそバリバリの、自分が幾人と更正させてきた不良そのものだが、性格はとても素直で受け答えもしっかりしているし、何より真面目で礼儀正しい子だ。

名前の読み以前に、この、格好と性格のギャップが何とも衝撃的すぎる。

不良の見た目で好青年。ーーー……一昔前のドラマでもあるまいし。


「……まぁ、その、何と言うかね。見た目どうにかならないのかい? やたらとカクついたファッションというか」


「げ、現代スタイル……」


「いや、前衛スタイル。それか昭和スタイルだよ」


一瞬、止まって。

ああああああああああとずるずる崩れ落ちて。

春路なる青年は涙を流しながら机へと突っ伏した。警官はその肩を叩きつつ奥の部屋から饅頭を持って来た。何とも言えぬ、まるで罪を告白した犯人と刑事の一幕が底にはあった。


「では、後始末はそのように」


と、そんな彼等の世界が繰り広げられる机上とはまた別に。

奥の部屋から若い警官に資料を渡す、一人の男が出て来た。

寝不足なのか目の下には薄らとクマができており、頭髪も数本ほど逆さに跳ねている。

明らかに昨日から入浴も出来ずキーボードを叩いては奔り回っていました、と。そう言わんばかりに顔だ。


「筧さん、栄養剤いかがです? マムシですけど」


「結構だ。常用性がな……」


じゃあ珈琲もですかと問われ、頷いて。

その男、筧は跳ねた頭髪を撫で梳き、寝かせ置く。

尤も、初めから無理やりワックスで寝かしつけているような癖毛だ。その程度で馴染むはずもなく。


「兎も角、こちらのーーー……」


「あひ?」


涙を流し鼻水垂らす青年が、その声に思わず面を上げた。

色々とぐちゃぐちゃになった顔が目を丸く口をとがらせ、彼と目を合わせたのだ。

二人はあっけらかんに丸々となった眼に互いを映しながら怪訝さを顔面いっぱいに広げて停止する。

警官達さえも何事かと止まって、無駄な緊張感に息を呑んで。


「春路ですぅ……」


「……何をやっているんだ、君は」


呆れのため息ついでに筧が差し出したハンカチで鼻をかみながら。

少年はさらに鼻水と涙を垂らして号泣する。まるで迷子の子供が母親であったかのように。

いや事実そうなのだろう。母親というか、父親だが。いやそもそも親子ではないが。

そんな彼等の様子に警察官達もまた目を合わせ、首を傾げながら。

何とも奇妙な出会いの場と空気が、そこにはあった。



《住宅街の外れ》


コピー&ペーストのように同じような、ただ色違いの文字列が並ぶ住宅街。

一文字一文字、色さえ違わなければきっと直ぐに迷ってしまうような文章。

その規律とも言える句読点である十字路を超えながら、彼等は歩んでいた。

やがて文字が途切れ途切れとなり、一つ一つが家と認識出来る様になった頃、漸く筧は渇いた唇を開いた。


「春路。君がか」


「えぇ、予定より来るのが遅れちまって……」


春路は申し訳なさそうに頭を掻きむしると、へへと笑い声を零す。

いちいち小物臭い青年に筧はまた呆れの息を零すが、今日で何度目のため息だろうと思うと、またため息が出た。

明らかに自分が年寄りも老けてみられる理由はこれなのだが、もう癖になってしまっているのか、やめようとしてもやめられない。

煙草と酒は止められるのに。いや、胃薬もやめられないような。


「いや、数日の誤差はよくあることだ。道中何かあったかね?」


「電車の乗り方が解らなくて」


「そうか。取り敢えず始末書ぐらいは覚悟しておくように」


驚愕と衝撃に顎を落とした彼は置いておいて、と。

彼、春路 耀寿こそあの極月の弟子となる青年だ。

訓練学校で第一位の成績を叩き出し、歴代六位の記録に到達した超新星。

経験乏しい身ではあるが、それ積めば今すぐにでも前線に出られると言われている期待の星だ。

尤もーーー……、その実体は性格と叛した見た目不良青年だった、と。せめて写真ぐらい請求してから弟子を決定付けられなかったのか、本部は。


「まぁ……、それはそうと君が弟子入りする極月 暮刃について予習はしてきたかね?」


「え、あぁ、はい。確か」


極月 暮刃。

女性。美人。


「以上です!」


「始末書が増えるな」


「あ、ひ、貧乳! そして美尻!!」


「倍々が好みか」


「やだーーー!!」


「……はぁ」


いやしかし、無理もない。

極月という女について情報は存在しないからだ。

極月 暮刃。組織に属さない異貌狩り。個人で矮小な事務所を持ち、探偵業で生計を立てる変わり者。

だがその実体は如何なる異貌であろうと、例え悪魔だろうが天使だろうが、それが人世に仇成すものならば如何なるものであれ狩り、滅す異貌狩りのエキスパート。

まるで異貌を殺すだけの天災のような人物で、組織の中でさえ彼女を人間や個人ではなく、一種の災害に指定すべきではないかと声を上げる者が居るほどだ。

つまりはそういう存在なのだ。彼女は人間や個人以前に、あくまで存在であり現象である。

そんな存在の、一介の見習い学生が性別を判明させただけでも褒めるべきか。

まぁ、始末書は増やすが。


「兎も角、彼女は非常に気難しい人物だ。下手な事を言って機嫌を損ねないように」


「ど、どんぐらい気難しいんスか……?」


「……そういう性格なんだ。深くは聞かないでくれ」


苦言を繰り返すようだが、本部はもう少し相手を選べなかったのか。

女子とか、せめて見た目も真面目な人物とか。

ただでさえ弟子などという機嫌損ねも良いところの指令を出しておきながら、さらにはこの見た目。

組織に繋ぎ止めるための楔にしては余りに錆び付き、脆いものではないか。


「ここだ」


荒れ地の中、生え伸びた葦の草々に紛れて。

いや、葦の茎が鉄骨となり葉がコンクリート、筋が錆苔となったかのように。

廃墟だ。一目見れば工事中止にでもなった廃墟と解る、長方形の建築物。

恐らく夏場に来る台風を受ければ跡形も無く吹っ飛んでしまうんじゃないかとさえ思えるほどに錆びた、3階建ての礫塊。


「……なんつーか」


「言いたいことは解る。……だが常人が視認出来ないように結界を張り、万が一素養持ちが視認しても興味さえ持たないようにするにはこれぐらいしか、な」


正直なところ、あの廃墟は完全に極月の趣味だ。

彼女は廃墟マニア、というものではないらしいが、どうにも退廃的な、非文明的なものを好む傾向にある。

実際の住居空間は全く異なる場所であるとは言えーーー……、あの見た目はどうにかならないのか。


「見た目……」


「どうかしたッスか? 筧さん」


「いや……」


見た目を好きなものに変えられる便利アイテムは何かなかったか。

そんな有り得そうだが、いざ有り得させたらまた書類審査が増えるであろう妄想に辟易しながら、筧は廃墟の階段に脚を掛ける。

靴底が錆と擦れ合ってぎゃりと音を立てた。革靴ではなく安全靴でも履いてくるべきだったか。

後方では春路が手摺りを触ってしまい、赤錆特有の粘つきに悲鳴を上げている。

服で拭かない方が良いぞという忠告を言う暇はなく。また悲鳴が一段と大きくなって聞こえるが、筧にはそれを案ずるだけの精神的体力が残っていなかった。

こんな調子で彼女に会えるのか。いや、そもそも会ったとして彼女の機嫌を損ねない反応が出来るのか。


「いいか? まず会っても変な声を上げない。挙動不審にならない。きちんと挨拶をすることだ。それさえ護れれば後は私がフォローしよう」


「洗濯機借りるのはセーフですか」


「ギリアウトだが今回は目をつむってやる」


流石に半泣きでジャンパーの汚れが拡がらないよう引っ張る彼を放置するのは心が痛む。

そんな事を考えながら、筧がコートの右腰辺りから取り出したのは小さな鍵だった。

鍵、と言うには鍵であるが、見た目は本当に鍵屋に幾らでも並んでいる有象無象そのものの銀。

いや、と言うより本当に有象無象だ。金型と言うか、鍵特有のあのギザギザがない。

ただの棒。菱形に長方形を突っ込んだだけの、ただの棒だ。


「えっと、それ……」


「ん? あぁ、君もすぐ持つようになる。これが彼女の部屋への鍵だ」


廃墟の、階段を上りきった三階。

屋上への入り口は他にあるのか、階段はそこで手摺りと共に途切れていた。

また触れば赤さびが付くのだろうと春路は極端に恐れていたが、筧はもう気にするのもため息が出そうなので見ない振り。

それよりも今、大切なのはこの鍵についてだ。


「重要なのは空間でね。それ自体が魔方陣になっている」


「空間って、下の雑木林とかが?」


「いや、これだよ」


筧の革靴が叩いたのは、春路の服を汚した赤錆に覆われた踊り場だった。

いや、よくよく見れば彼が掴み、若しくは上がってきた階段とは何かが違う。

塗装、じゃない。かと言って本当美錆びているわけでもない。

これは、幻術か。それとも幻覚か。


「残念、両方外れだ。これは多重写影能力者による偽装だよ」


「……あー! 別のトコにある映像と重ね合わせてんスか!?」


「そうだ。大抵の襲撃者は君と同じように幻覚か幻術と思い込む。能力者による写影はそんな先入観を持って見破れるものではないからね」


「しゅ、襲撃者って……」


「極月という女性においてはよくある話だ。現に今も狙われている」


本来なら彼女が所有する表向きの事務所で会う手筈だったんだがね、と。

筧の指先が錆苔こびり付いた扉へと伸び、鍵はごりごりと鉄屑を零しながら形を精製していく。

その波状は複雑怪奇。時に翻り、時に捻り、時に丸まり、と。

最早、鍵と呼ぶべきか現代アートと呼ぶべきは定かではない形となった時、漸くそれは鍵穴へと収まり。

かちり。その形状とは叛して、驚くほど呆気なく解錠は行われた。


「……さて」


ドアノブに手を掛けると共に、筧の眼が鋭く吊り上がる。

と言うよりは何かを堪えているような、奥歯を噛み締めるような。

まるで、腹痛を押さえ込むかのように。


「彼女の機嫌を損ねるという事は世間一般で起こり得る異貌事件が10は解決されない、ということだ。比喩ではなく……」


「さ、流石にそれは……」


「……彼女に吸い寄せられるんだよ。事件も、異貌も」


筧の聲には確かな重みがあった。実感、という重みが。

この言葉を前に、やはり極月という女性の凄まじさを思い知らされる。

何者なのだろうか、とか。そういうのではなく。

彼女という存在について幾つもある噂とか畏れが嘘っぱちなどではないのだ、と。

そう、改めて突き付けられるかのような。


「……同時に、彼女の部屋にあるものには決して触らないことだ。あの部屋にある蔵書一冊で国が動くと言われているほどで」


あり、と。彼がそこまで言い切ることはない。

その言葉に泥を塗るような、それこそ赤錆が如くこびり付いて。

ぎぃー、と。金属を擦る微音が彼の喉を詰まらせた故に。


「ひぎっ」


春路は、その扉の狭間より垣間見えたものに声をせり上げた。

ドアノブにぶら下がった右腕。その下にある肉体には、あって当然のものがなかった。

四肢が、ないのだ。右腕以外の四肢が、左腕が右足が左足が、ない。

いや、序でに言えばその肉体に刻まれた火傷や裂傷などもまた、余りに生々しく。


「……極月」


彼等の視線は、自然とドアノブにぶら下がる彼女へ向けられた。

ずるり、と。その肉体は右手の掴むドアノブに引っ張られて。

やがて全てが開き切った時には、その肉体は赤錆の上へ俯せに投げ出された。


「極月ぃっ!!」


筧は彼女を抱き上げ、躊躇無く己のコートをその白肌へと覆い被せた。

彼はただ彼女の名を叫びながらその身を揺すり、切迫した声を張り上げ続ける。

さらに、いったい何が起こったのか、何があったのか、これは何なのかと困惑し続ける春路の鼻先に、それは漂ってきた。


「ぅっ……!」


生ゴミを擦り合わせて発酵したかのような、異臭。

それだけではない。生物特有の腐った臭いや、コンビニの生ゴミから漂うあの鼻腔を劈く異臭まで。

臭い。焦炭や香水等とは違う、生物敵嫌悪の異臭。

それは鼻腔から口の中で反芻され、胃液の呼び水となって凄まじい吐き気を催した。

そう、これでは、まるでーーー……。


「ご、ゴミ屋敷っ……!?」


むぅわっと。

部屋の中から流れてくる生暖かい異臭。

頬を撫で耳元から這いずり込んでくるかのような。

一言で述べよう。臭い。


「極月、お前! いつから風呂に入っていない!?」


「……三日前」


「馬鹿だろう!?」


ぎゃあぎゃあと騒ぐ彼等は、秘匿とか機嫌とか以前に間違いなく目立っていた。

住宅街の外れであったことが幸いしてその喧騒に人だかりが出来ることはなかったがーーー……。

いやそれよりもこの異臭が外に漏れることはなかった事が、何より幸いだったかも知れない。



《異界書庫》


「良いお湯だったわ」


「では、毎日は入れ……」


「嫌よ。面倒だもの」


からからと、埃を被った風車のように。

彼女の姿は何とも異様なもので、しかしその空間には奇妙なほど馴染んでいた。

タオルが巻かれ、湯気立つ体を運ぶのは車椅子。右手は車輪をこぎ出し、足の踏み場もないような床をひょいひょいと進んでくる。潰れた片目さえ負っているというのに随分と器用なものだ。

その手慣れた車椅子の扱い方や一人で入浴を済ませたところを見るに、彼女の欠損は随分と歴が長いらしい。

いや、見るにとは言え、そんなまじまじと見られるものではないのだが。

幾ら痛ましい傷があるとはいってもその美貌と妖艶な唇とか、濡れ髪掛かる首筋とか背中とかお尻とか、シャンプーやリンスーとかの華やかな香りは、何と言うか、とてもいけない。


「ち、ちと俺、あの、地元のダチに電話してくるッス。それかメール……」


「逃げるな春路。……逃げるな」


「逃げるって言うかむしろ男として立ち向かわない方が正しいって言うか」


そのまま通話ボタンを押して扉へダッシュする春路。

そしてそんな彼の首根を引っ掴んで戻す筧。

きっと春路の友人は携帯に届いた悲鳴のようなワンコールの意味を知ることはないだろう。

ともあれ、春路が彼女のそんな様子を慣れるのにはそこそこ時間を要すことはなかった。

いや、慣れると言うより、別の意味で興味を無くすのには。


「……で、この餓鬼が?」


餓鬼。


「そうだ。君の弟子になる」


「不細工ね」


不細工。


「……そ、そう言うな。格好はアレだが、顔立ちは、まぁ、好青年というか」


「原形を保ってるだけでしょう」


原型。


「ちょっと酷くないッスか!? 餓鬼とか不細工とか原型とか!! ……原型!?」


「……極月は、特殊なんだ。キュビズムにしか興奮しない」


「変態じゃねーーーかぁっっ!!」


めごりと春路の顔面にめり込む、古書。

漢和辞典のように分厚い角目が顔面の形を文字通り凹ませて。

大きな騒音を立ててゴミ山へ落ちる青年と絶叫を挙げて古書へ飛びつく筧。

そんな彼等を見下すように、首根からタオルを掛け落としたまま珈琲を入れる極月。


「誰が変態よ」


「秘真書がぁああああああああああああーーーーーーっっっ!!!」


「目が目が目がぁああああああああああああーーーーーーーーっっっ!!!」


野郎二人が転げ回り部屋の埃を巻き上げることいざ数分。

互いにその煙で咳き込みながら、やれ窓を開けるかだのやれ古書が傷むだのやれ酸化するだのと。

少なくとも極月が自分で淹れた無駄に200gで2万円もする高級な珈琲を、そのくせ百均で購入した陶磁器のカップを使って飲み終えるまで。

彼等は掃除し終えられるはずもないゴミの山々を、自分達が座れる程度には片づけて。

何もしていないのに疲労困憊でぐったりと項垂れながら、数時間経って漸く話し合いの席に着けたのだった。


「……で、何の用?」


キッチンの、幾つもの皿が積まれた水洗い場にコップを浸けながら。

彼女の車椅子はきぃきぃと渇いた音を立てて先程よりは通りやすくなった通路を転がしてくる。

尤も、春路と筧はそんな質問どころではないと言わんばかりに頭を項垂れさせ、疲弊の色を見せているところだが。


「何の用だ、じゃない。春路 耀寿。お前の弟子になる彼の紹介と……」


「私を狙う暗殺者のことでしょう」


筧はその通りだ、と呟きつつ懐から煙草を取り出した。

しかし古書達に万が一にも燃え移るのを嫌ったのか、渋々それを収め込む。


「……そうだ」


「あ、暗殺者って、さっき言ってた?」


「そうだ。喰狗ハウンドという暗殺者でな」


「どんな奴等なんスか?」


「不明、と言うより他ない。仮にも暗殺者だからな。情報は少ないが……」


筧が取り出した数枚のリストには老若男女人外含め七人の顔が合った。

その内の一人を見た時、極月の表情が僅かに歪む。それは人外の、人間がタコを被ったような者だったが。

彼はそれを確認しつつも指先で一人一人と静かになぞり、経緯を述べていく。


「調べてみて解ったのは……、危険性だけだった」


一人目は成年。一般人で、背中を刺されて死亡。現場には喰狗ハウンドの文字が。

二人目は少女。サイコキネンシスの持ち主であるが自宅に戻る最中、行方不明に。現在も捜索中であるが、本部に喰狗ハウンドから誘拐したという伝言だけが。

三人目は男性。彼は対異貌の経験者で訓練校の事務教官を務める人物だったが、彼もまた少女と同じく喰狗ハウンドに誘拐されたという。ただし現場には、彼のものと思われる右腕だけが残っていた。

四人目は老人。異貌狩り本部でも相談役の一人だったが、本人自体はただの博識な老人であり、戦闘痕一つなく誘拐されたようだ。

五人目は獣人。四人目の、相談役である老人の護衛であり凄まじい戦闘力を誇っていたらしい。しかし喰狗ハウンドには勝てず惨殺された、と。だが何故か彼は誘拐されず骸もそのままだったそうだ。

六人目は外宇宙よりの来訪者。


「ア=ラベイ。……一流の異貌狩りだった男」


「……そうだ」


そして極月と幾度か共に仕事をこなした仲でもある。

別に、付き合いとか交流が言うほどあったわけではない。ただ彼女は知っている。

あの男の強さを。下位の異貌程度ならば一閃の内に数百は跳ね飛ばす彼の実力を。

そして自身に負けずとも劣らぬ知識を持つ人物であったこともまた、彼女の不快に拍車を掛けていた。


「お前と同じくフリーだった異貌狩りだが、狩りや調定に協力的だった人物で、彼の亡失は本部としてもかなりの痛手として見ているだが、流石はア=ラベイと言うべきか……、戦跡に暗号を残していた」


筧が極月と春路に差し出したのは一枚の紙だった。

紙、というより図。言葉とか地図とかではなく、図。

鋭角。くの字。九十度以上百度未満。それは確かに図形であり。


「……く?」


「或いは鋭角だ。調査員達が一瞬ただの痕跡かと見逃し掛けたらしい」


「これが、その、ダイイングメッセージ? 一本の線がッスか?」


「一本の線と侮るな。名前以外は不明の暗殺者に対する情報だぞ。今は億千の価値にも……」


かちん、と。

そんな彼等の会話を弾いたのは極月だった。

いや、さらに言うのならば彼女が纏った義手の拘留音というべきか。

左腕だけではない。右足と左足も。まるで己の名前を記すかのように慣れた手付きで、片腕のみを使って三肢を纏ったのだ。

潰れた片目を覆う眼帯と共に、一つの確信も加えて。


喰狗ハウンドとやらの正体が解ったわ」


安堵するようにため息を零す筧と顎を落として眼を見開く春路。

流石に此所で反応が分かれたのは付き合いの長さと言ったところであろう。

異常とも言える彼女の推測力と知識を知る筧と、今日からそれを知ることになっていく春路。

彼等はただ、その推測を確かめんと幾多の装備を纏って出掛けようとする彼女を見て、同じ言葉を述べる。


「服を着ろ」


危うく裸衣にサイドポーチという変態を外に出すところだった。

真顔のまま胃薬を飲み込む筧と、僅かに流れた衣の端から見える太股に顔を覆う春路。

流石に此所で反応が分かれたのは付き合いの長さと言ったところであろう。

そして傍目に後は任せたと肩を叩き、そのまま逃げ出すあたりも、嗚呼。

付き合いの長さと言ったところ、かも知れない。


「さて、と」


改めて、胸形の目立つ黒ネックとヒップラインがこれまた目立つジーンズ。

春路は目をそらしていたがその中には漆黒のスポーツブラが纏われている。

いやスポーツブラと言うよりは最早、拘束具染みた逸品なのだが傍目には完全にブラジャーである。

筧が言うには本部の特注品であり、その外見はデザイナーがこれ以外は作らないと断言したほどの品なのだとか。

いや、それは単純に趣味だと思う。


「じゃあ私は行くわ。筧、部屋の片づけ宜しく」


「え゛」


「……春路、だったわね。さっさと行くわよ」


「い、ややや! 部屋任せて良いんですか!?」


「別に。筧なら古書の扱いは知ってるし、部屋の掃除だって初めてじゃないわ」


「だって男性……!」


「そんな度胸がある男なら、この年まで独身じゃないでしょう」


「それを言うならお前もだぇぼっ」


「筧さぁああああーーーーんっ! そして古書ぉおおおーーーーーーっ!!」


「さ、行くわよ」


彼女は懐から鷲掴みにしても掌から有り余るような、いや両掌でさえ抑えきれない鍵束を取り出した。

明らかに懐に入れておけば変形するだろうに、彼女の衣類が崩れる様子はない。

懐に異次元でも入っているのだろうのか。それとも谷間とか。いやいや。


「……ぁれ?」


そんな事など気にする暇もないほどに、彼女が開いた扉の先へ拡がるのは果てしない道だった。

真っ暗な、そして渦巻く漆紫の闇に連なる、一閃の道。廃棄泥水に白の絵の具を流し垂らしたような。

果ては見えない。いや、それどころか道が歪み、霞んでいるようにさえ見える。

異次元、と。そう称すのが一番正しいのかも知れない。


「異次元街道。様々な次元に通じる一本道だ」


上着を、辛うじて見えている椅子の背に掛けながら、白シャツの腕を捲り上げて。

如何にも今から掃除しますよと言わんばかりの筧は横目にそれを眺めつつ、春路へ説明を行う。


「基本的に外界の者達はこの星に住まわない。等しく何処かの次元か異星に住まう。故にそれを繋ぐのが異次元街道だ」


「あ、空気が合わないとか食事が合わないとかッスか? ……なーんて」


「重要な問題だぞ、それは。……無論、そういうのもあるが何より彼等がその場所から離れられないことや、離れたくないといった問題がある」


「……えーと、つまり?」


「憶えておけ、春路。誓約や誇りというものは彼等にとって、時に命より重い」


そんなまさかと引き攣った笑みを浮かべるも、筧の冗談ではないという言葉に彼は息を呑む。

緊迫は空気さえ震えさせ、春路の中で静寂という電雷になり、より精神を圧迫する。

息さえ忘れるほどの威圧、とでも言うべきか。茶化すことさえ出来ない、確かな言葉だった。


「……で、まだ?」


尤も、それを打ち切ったのは下らない切迫に飽きた極月だったわけだが。

彼女は傍目には見分けの付かない義手の指先でコインらしきものを弄びつつ、彼等の下らないやり取りを眺めていた。

いや、それは決して下らなくはない。と言うよりむしろ研修生には望むべくしてある会話である。


「極月……」


「足手纏いも覚悟の無いのも要らないわ」


その言葉と共に極月が春路へ投げたのは、彼女が弄んで居たコインだった。

コイン。ゲームセンターにあるような、無駄な装飾が浮き彫りになる銀色の硬貨。

指でなぞっただけでも感触が解るそれに春路は困惑の色を隠せなかった。少なくとも、自分が今まで調べた中ではこんな硬貨は見たことがない。

一種の対異貌道具か何かだろうか。いや、それとも何処かへの通行書とか。


「あ、解った! この道を通るための!!」


「違うけど」


「あ、はい。違いますか」


いや別に彼女の冷徹さを責める訳ではない。訳ではないが、些か冷たすぎる。冷徹すぎる。

一部の方にはご褒美かも知れないが春路には如何せんキツいものがあった。

幾ら仕事とは言え、この仕打ちはあんまりではないか。もう少し優しくてもバチは足らないだろうに。

およよと泣ければどれ程楽だろう。それが赦されないのは背後で頷く人の同情の眼差しが何よりも物語っていた。


「それで極月、お前は何処に行くつもりだ? 異次元街道を開いたということは情報屋か?」


「それもあるけれど、道具を揃えにね。今回の相手は手持ちの道具と情報じゃ足りないもの」


彼女の言う相手とは、つまり喰狗ハウンドのことだろう。

奴等が何を用い、或いは使役し、そして何を企んでいるのか。

それを彼女は先程の犠牲者達とア=ラベイが残したダイイングメッセージから推測したとでも言うのだろうか。

いや、出来る。彼女ならばーーー……。極月 暮刃という女ならば。


「け、結局、どんな……? と言うより何処から解ったんスか? 俺、さっぱりで……」


「重要なのは誘拐された、ということ。そしてその誘拐が始まった直後から明らかに手練れを狙いだしたことよ。春路、貴方……。強い者に勝負を挑む時はどうする?」


「いや、どうって……。そもそも挑みたくないッスけど、まぁ、挑むとしたらそりゃ万全に準備整えて計画練って……」


「そう、準備。喰狗ハウンドにとってそれは他ならぬ『憑依』だったからよ」


「……ひょーい」


憑依。

その身に様々なもの、それこそ神や精霊の一部を宿し、その力を貰い受ける行為。

信仰、或いは契約し対象から能力、魔法、魔術、因果、特性などの一部を借り受けることが殆どである。


「誘拐された者達は、生贄か……」


「でしょうね。特に相談役の脳味噌なんか極上だったはずだわ」


ひぇっ、と。

春路の挙げた短い悲鳴と共に筧の眉根が歪む。

誘拐された者達が無事ならば、と。刹那的な希望はあった。有り得るはずも無い願いはあった。

しかし、やはりーーー……、望みは、なかったか。


「解った、私は上層部にそれを伝えよう。この部屋を掃除し終わってからだが……。極月、お前はこれからどうする」


「簡単よ。情報を漁るわ」


「……また使うのか? ()を」


「情報が出なければね」


「危険だ。あの場所はいつもっ……!」


「出なければ、と言っているでしょう」


何が何だか解らない内に、また険悪。

春路はいつまでこの空気に身を染めれば良いのだろうかとただ首を引っ込めていた。

筧が胃痛になるのも解る。毎日毎度毎回、こんなやり取りをしていれば毛根さえ死滅してしまいそうだ。


「行くわよ、春路。情報集めは人手が多い方が良い」


「え、あ、うっす。……でも良いんスか?」


「いつもの事よ」


彼女の爪先が異次元街道とやらに触れた瞬間、その片足が消え失せた。

文字通り扉と異次元街道の境界線から先に入ったものすべてが、消えていく。

春路が顎を落とす暇さえなく、彼女は何の躊躇も無く消失の中へ身を投げたのだ。

やがてその髪先一本さえも、存在していなかったかのように、澱みへ消えて。


「き、き、消えっ……!」


「案ずるな、春路。一つの世界が一本の線として、それ等が集まり次元となる。彼女はその狭間に、線と線の存在しない狭間に入っただけだ。お前も入れば姿が見える」


「……ちゅっ、つっ、つ。つまり俺も入らないと?」


「当然だろう。早くしないと置いて征かれるぞ。と言うか置いて征くぞ、彼女は」


ひぁあぁあと情けない叫びを上げつつ、一度の躊躇と共に異次元街道へ飛び込む、春路。

そんな様子に何処か懐かしさを憶えながらも、筧は春路へ聞こえないよう、いいや、自身にさえ聞こえないような声で呟いた。

彼女を頼むぞーーー……、と。異貌を狩る為なら全てを捨てる女を、自分の手足が吹き飛ぼうと物ともしないような女のことを。

山積みになった古書と仕事、そしてスケジュールの山に押し潰されそうになりながら。

彼は懐から煙草を取り出して口端に咥え、火を付けようとしたところで気付き。

大きなため息と共に、吸い口をくしゃりと歯牙で押し潰した。



【???】


「おうどうした坊主ぅ~? 餓鬼がこんなトコ来るもんじゃあねぇぜ~!」


「良い尻してんじゃねぇか! どうだ、一晩三千ペカネツェーロ!」


「おいおい極月の肉バ〇ブかぁ? 羨ましいなァオイ!!」


今にして大体七回目ぐらい。そして、もう一度繰り返そう。

どうして自分がこんな目に遭うんだろうか。


「相変わらず下品な場所ね、ここは」


下品とかそういう問題じゃない。

西洋の、それも中世の酒場だ。幾つも積み上げられた樽に、無愛想なほど剥き出しなランプ。

それ等が照らすのは喧騒、喧騒、喧騒。幾人もの化け物と称すに相応しい獣人や半魚人や宇宙人や。果ては何かもう形容するに出来ない触手的なスライム的なゴリラ的な何かまで。

いっそのこと人間の姿をしている自分の方が異貌なんじゃないかと思えてくるような連中が、我飲むぞやれ飲むぞそれ飲むぞとばかりに巨盃を掲げ挙げている。

アルコールが入って高揚するのは何処の人種も同じなのか、ゲラゲラ嗤いながら何か言葉を交わしたりトランプみたいな、自身の顔ほどもあるカードを広げあっていたり。

酒場。一言で言ってしまえばそうだ。もう少し付け加えるなら、化け物のごった煮酒場。


「こ、こんなトコ来てどうするんスかぁ……。明らかにR表記が付きそうな場所っすよ、ここ……」


「下劣愚劣蛮劣な連中が集う酒場ではあるけれど、同時にそういった連中の好む情報が集う場所でもあるのよ。アンダーグラウンドの情報を集めるのなら最適だわ」


そう述べながら、彼女はつかつかと革靴の底を鳴らして店の奥へ進んでいく。

春路もまるで子犬のようにその後を付いて行くが、やはり見えるのは恐ろしい出で立ちの化け物と、正しくR表記の付きそうな娼婦達。

それ等の隣を過ぎ去る度に化け物はこっちを押し潰すような眼孔を送ってくるし、娼婦達はキス投げてくるし。コレはちょっと嬉しい。

尤も、そんな者達もやがては少なくなっていく。と言うより店の形が変わっていく。

有象無象が集う酒場から、娼館のように紅幕で隔てられた個室へ、やがては何も無い一本道の廊下へ。

そして、扉。鋼鉄の中央に巨大な鍵穴だけが拡がる、壁とも言えるほどの扉。

心なしかその中からは心が躍り下半身がいきり立つような香りが漂ってくる。媚薬、ではない。麻薬だ。

それも人間の世界にはないような、嗅ぐだけでも明らかにヤバいタイプの。

春路は口と鼻を押さえ、僅かに屈み込む。この香りは嗅ぎすぎたら戻れない類いだと悟ったからだ。


「入るわよ。マザー・オー」


だが極月はそんな事には構いもせず、鍵穴とは何だったのかと言わんばかりに平然と扉を開け広げた。

確かに鍵穴は飾りだったらしいがその巨大さは本物のようで、数ミリ開く度に地鳴りのような音が廊下に反響する。

ちらりと傍目をやれば見える重圧さ。扉は自分の握り拳ほどのそれは、納得の厚さだった。

尤も、扉の先にあったそれを見て納得出来るはずなどないのだが。


「……ひぶっ」


彼の口から漏れ掛けた悲鳴を、裏拳一発。

折れた。絶対折れた。鼻がねじ曲がってる。絶対折れた。

と言うか顔そのものが凹んでいるのではないか。めっこりと。

まぁ、実際は鼻も折れてないし顔もめっこり凹んでないが、鼻血ぐらいは垂れていた。


「来る時は連絡なさいと言っているでしょう」


美麗な、その声だけで道行く男達は振り返ってしまうような、華麗なる声。

上流貴族がセンスで口元を覆いながらおほほと微笑みそうな、ヴィ・レ・フランス。

その姿さえ見なければきっと、春路も心を躍らせながら、抑えていた呼吸のことさえ忘れて覗き込んだだろう。

貴族の私室のような、壁に掛けられた剣や宝石で彩られ、月光差し込む天蓋ある部屋で、聞き惚れただろう。

ーーー……その姿さえ、見なければ。


「ごめんなさいね。急ぎなのよ」


それは現代アートのような、いや、現代アートであって欲しかった。

耳。犬とか猫とか、様々な耳。それが人の耳へピアスのように繋がれて。

角。竜とか鹿とか、様々な角。それが人の頭蓋にアクセサリーのように垂らされて。

鼻。魚とか鳥とか、様々な鼻。それが人の耳や頭蓋のそれぞれから生えていて。

目。目目目目目目。目目目目。目目目目目目目目目目目目目目目目。

耳、角、鼻。不自然なほどに繋がれ垂らされ生えたそれ等を押し潰すように、塗り潰すように、目。

一室の半分以上を塗り潰し、天蓋さえ貫いた、目。


「……その子は? 今月の生贄?」


「別に良いわよ。でも、そうすると私が睨まれるのよ。それに貴方好みの罪人の魂でもないしね」


「そう、私は別に構わないけれど」


ぷしゅぅううーーー、と。マザー・オーなる人物、ではなく、化け物。

化け物が一息つくと共に、凄まじい魅惑が彼女の体から煙幕のように吹き抜けた。

先程の麻薬染みた異臭は、煙草とかお香とかで焚かれているわけでなく、それの体内から発生する一種のガスだったらしい。

そのガスはたった一度で一室を覆い尽くしては天蓋の隙間から上へ抜けていく。

訂正しよう。これは化け物ではない。これこそ、異端なる貌。ーーー……異貌だ。


「っ……!」


春路は、怯えた子供が人形でも抱えるようにして携帯電話を胸元に添えていた。

他に掴むものがなかったのか、そればかりを唯一の支えにして口を押さえる道具として宛がっている。

もし、ついさっき悲鳴を上げていたらどうなっていたことか。多分、無事では済まなかっただろう。

あの沢山の目に、睨まれるどころでは。


「それで、マザー・オー。貴方に問いたいことがあるのだけれど」


「何かしら? 極月 暮刃。明日の天気と運勢なら貴方とのよしみでタダ。耳寄りな情報は罪人の手指三本、馬鹿やってる異貌の情報なら罪人の脚一本。新しく開いた異界の情報は罪人の頭一つでーーー……」


喰狗ハウンドという連中について」


ぷしゅう。

春路は吐き出された異臭に、鼻血が袖に付くのも構わず鼻を押さえつけた。

先程までの麻薬染みた異臭とは桁が違う。こんなもの、一息でも吸ったらその場で昇天だ。

だと言うのは彼女は、極月はどうして平然としているのか。顔色一つ変えないのか。


喰狗ハウンドね。最近売り出し中の暗殺者だわ」


「そう。彼等についての情報を……。出来れば何と憑依の契約を結んでいるのかも」


「よろしい。では対価を要求しましょう」


ぷーーー……。


「罪人千人」


しゅう。


「……せ、せっ!?」


思わず吹き出した春路は急いで己の口と鼻を押さえつけた。

少し吸ってしまったためか、頭がぐらぐらする。いや、それ以上にマザー・オーなる異貌の要求だ。

千人。先程まで指とか頭とか言ってたのに、千人。桁が違いすぎる。まだ悪徳商法人の方がよほど良心的だ。


「そう。じゃあ良いわ」


当然、断る。

極月はひゅるりと踵を返すと、そのまま来た時と同じように扉を開いて、娼館風の個室通りを抜けて、下品な酒場で擦り寄ってきた獣人を蹴り飛ばして。

そしてまた、異次元街道まで帰って来た。何一つもの言わずに、表情も変えずに。

あんな無茶な取引を出されたのだ。その眼帯に覆われた眼の下で皺ぐらい作ろうものだが、やっぱり彼女の顔色は変わっていない。

然れど異次元街道の最中、混沌の道へ出たとき、彼女はほんの少しだけ苛つきを見せるような声を零した。


「……やられたわね」


「そ、そうッスよ! あんな無茶な取引っ……!!」


「違うわ。先手を回されたってことよ」


「先手? 何がッスか? ……というか、さっきの異貌はいったい」


「マザー・オー。罪人の魂を喰らう異貌でありあの世界の支配者。裏ではポピュラーな情報屋よ」


聞けばあの異貌は罪人の肉や骨、果ては血液から臓腑まで、当然魂も含まれるが、罪人のものを差し出せば何でも答えてくれるのだと言う。

当然、先程そうだったように、それと見合った罪人の何かを要求されるがーーー……、やはり喰狗ハウンドについての情報は些か異常すぎたようだ。

本来ならば精々、罪人二人の魂といったところらしい。それが千人も要求されたのは、つまり先手(・・)を打たれた、ということなのだろう。


「……つ、つまり、喰狗ハウンドがマザー・オーへ情報を漏らさないよう脅したって事ッスか?」


恐る恐る見上げた彼の瞳に映るもの。

呆れ、そして笑みを伴わない嘲笑。


「取引よ。……彼等と我々の間に存在するのは平等などではなく、ただ一方的な絶対」


彼等、異貌と人間は違う。

極月が言うにはそれを真に解っている者は居ないという。

自分自身さえ、その狭間には気付けていないのだ、と。


「そんな、馬鹿な……」


「油断、過信……。それが死に直結さえしない世界は、直結する世界より恐ろしいのよ」


春路は思わず、生唾と空泡を飲み込んだ。

喉をごりゅりと押す嫌な感触が食道と気管、どちらかも解らず流れていく。

違う。その悠然と突き付けられた事実よりも、彼女の笑みを伴わない嘲笑の方が余程恐ろしい。

体の底からせり上げられるような、その眼孔の方が、余程。


「……解っ」


その瞬間、春路は思わず瞼を閉じてしまった。

まばたきと言うよりは、条件反射のように。びくりと首を撥ねさせて目を強く閉じたのである。

何故か。それは至極単純なことであった。湯を沸騰させたやかんに触れば手を弾けさせるのと同じ、単純なこと。

急に、目の前へ影が出て来たから目を閉じた。吃驚したから、目を閉じた。それだけ。


「ぇ、あ」


一瞬だった。いや、まばたきだから一瞬でさえなかっただろう。

だからこそその光景が理解出来ない。脳の思考回路が凄まじく停止し、現実という信号が吹っ飛んだ。

彼女が、極月が。倒れている。彼を驚かせた影の牙に腕を喰われたまま、倒れている。

朧な脳味噌はその光景への理解を拒んでいるくせに、一秒、二秒と過ぎ去っていくことだけが嫌に理解出来た。


「き、……めづ」


何秒経った。四秒か、五秒か。

いやもっとーーー……、十秒、三十秒、一分?

脳味噌から指先までの回路はまだ焼けたままだ。足も、眼も、まだ。

唇でさえ、声色でさえ、変わらない。焼け爛れ、動かない。

ただその痛みを和らげようと、無為な鼓動だけが鬱陶しく鳴り響き、臓腑を異様に働かせ、血の流脈を絞り上げる。


「き、さ」


彼の震えが、聲を絞り出した時。

影の頭蓋は爆ぜ飛んだ。


「ん?」


喰われていた腕先が掴むものは、否、腕先から生えて(・・・)いたのは、黒銃。

隕鉄が墜とされ銃口から白煙吹き荒ぶ漆黒の拳銃が、義手からその姿を見せていたのだ。

仕込み、か。喰われた義手に仕込んでいたのか。いや、そこではない。そこではないだろう。


「どぶ、つえ、んっ!?」


「行かないわよ、動物園なんて」


どうやって。無事ですか。強ぇ。と諸々。

それ等が重なって訳の分からない言葉になりつつも、春路は彼女に駆け寄っていく。

先程までの停止が嘘のように、彼の体は軽やかだった。一種の安堵か、焦燥か。


「そ、そうじゃなくて! 何が、いや今のは!?」


喰狗ハウンドの罠でしょう。何処でどう仕掛けられたかは知らないけれど、私の此所に仕掛けたのよ」


彼女が生身の指先で引っ張ったのは頬。

相変わらず表情一つ変えないが、その歯牙からは鮮血が滴り落ちていた。

いや、歯牙の隙間である歯茎から。歯槽膿漏、なんて冗談が春路の頭を過ぎったが、それを言ったら本気で撃たれそうなので黙っておいた。


「い、いや、それもあるッスけど……、義手ッスよね?」


「仕込みよ。左右の義脚にはナイフとか呪符も仕込んでるけど」


何と言うーーー……。いったい何をどう考えれば日常生活でも使う義手義足にそんなものを加えられるのか。

そんな春路の思想を無視するように、極月は未だ熱を持つ義手を軽く振って白煙を薙いでいた。

そして折れ曲がるように伏せられた手首から上を手動で戻し、何事も無かったかのように小指から親指までを曲げて、動作を確認する。

それだけやればもう充分だ。平然と、いつものように掌を握り締めるだけのこと。


「さて……、これだけ脆いのだから欠片なのは間違いないわね。毛先一本で仕留められると思われたのなら癪だわ」


「や、あの、ちょっ……」


「情報収集を続けましょうか」


解った。この人は、アレだ。人の話を聞かない人だ。

そのくせ全部自分で出来てしまうから何から何まで説明が足りない。

一瞬だぞ。一瞬だ。文字通りまばたきの間に全ては片付いてしまった。

あの化け物が出て来たのもそうだが、いや何より彼女はそれに反応して義手を相手の口に突っ込んだと言うのか。さらには銃を発動したと言うのか。

何と言う反応速度。そして、順応力。化け物と戦えるのは化け物、なんて。

どんなにやっても、先程のじゃ彼女は死なない。もうどっちか化け物だか解らなくなってきた。


「じょ、情報収集って……、あのマザー・オーはダメだったんスよね? じゃあ誰を」


「彼女はダメで当然よ。まだ知り合いの情報屋は腐るほど居るわ」


彼女。そう言えば筧の言っていた奴とやらは男だったか。

いやアレが彼とか彼女とか以前に、性別があるかどうかさえ怪しかったけれど。

いやいや、そう言えば好みがどうとか言っていたけれど。

いやいやいや、と言うことはあんな化け物より凄いのが出て来るということだけれど。

うへゃあ、と情けない声を出しつつ、春路はその場にへたり込む。何だかもう、本当に。


「さて、次は……」


なんて暇も無く。

歩んでいく彼女に、彼はもう勘弁してくれと叫ぶ足を引きずって歩き出す。

尤も、数刻後にはさらに更なるさらさらの、とんでもない世界に行くことになるわけだが。

合わせ鏡の世界とか全てが逆さまの世界とか一本道しかない世界とかが平和で仕方ないと思えるほどに。

とんでもない場所を幾つも渡ることになるのだが、今の彼はまだそれを知るはずも無い。



【異貌狩り本部】

《異空二課・第七十三会議室》


「ってな訳で聞いてよ筧ちゃぁ~ん! 俺さぁ、もうさぁ、こんな仕事したくねーの!」


「知りません。働いてください」


「あ、冷たいね冷たいねー! 良いんだぜボイコットしちゃって! ボイボイしちゃっても!!」


「減給しますよ、桃仙とうせん殿」


うへゃあ、と。丁度何処かで零されたため息と同じような声を上げて。

桃仙と呼ばれた彼女、否、女のように見える彼は巨大な円卓へのんべりと体を投げ出した。

その様に呆れると言うか辟易すると言うか、どちらにせよもう吐き出すことさえ小慣れたため息と共に。

筧は自身の銀長髪に埋もれた男の前に一枚の資料を差し出して見せる。

会社の会議室のような、と言うより本当に会議室ままな灰色の一室にその資料はよく馴染む。

尤もーーー……、その資料に載った写真が普遍では存在するはずもないものであるように。

その会議室もまた、異空に挟まれ許可無くは入れない完全密室と成り得る場所であった。


「これが先日起こった、身元不明人殺人事件の概要です」


「あー、極月管轄のでしょ。でもアイツは今、暗殺者に追われてんだっけ」


「えぇ、はい。喰狗ハウンドという連中に……。というか、管轄と言いましても彼女はこちらには属してないんですが」


「もー、ほぼ属してるよーなモンじゃん。御上は繋ぎ止めるのに必死みたいだけどね」


その通りだ。

極月という、異貌を求める女からすれば情報が集まるこの組織は都合が良い。良すぎるのだ。

だからこそ、彼女は未だこの組織に属してくれているのだろう。然れどそれは、一種の呪いでさえある。

彼女をこの世の理に縛り付ける、一種の呪い。


「……全くです」


諦めの色が、また吐息に変わる。

そんな様子を見て桃仙なる男はのそりと体を引き起こした。

女性らしい、中性だった顔立ちとは裏腹に骨肉で引き締められた肉体。

何度見ても、首から上と下がものの見事に噛み合ってない。腰からぶら下げられた刀剣だとか、懐の小道具入れとか。

そういう物があるからこそ、やはり顔との差を目立たせるがーーー……、それを引っ付けるのは首や肩幅とかではなくて、彼の右眼を潰す一閃の傷だった。


「んで? 俺がやる今回の仕事ってコレ?」


「え、えぇ、そうです。概要は資料の中に」


「ふーん。ま、良いけどサ」


まだ内容も確認していないのに、どうやら彼は受ける気満々らしい。

彼もまた極月と同じ異貌を狩る者だ。尤も、彼女と違って戦闘一辺倒の人物ではあるが。

彼、桃仙キンジ。日本史に残り、昔話としても語り継がれる鬼斬り四天王、坂田 金時の『金』を受け継ぐ人物でもある。

名前から示されるように彼は異貌狩りとして、特に鬼の分野に関しては最高峰の知識と実力を持つ人物だ。

故に今回の仕事も彼に依頼した。人を喰らうのは、古来より鬼の役目であるが故にだ。


「あ、これ鬼じゃないね」


けろり、と。

その事実は言い放たれる。

呆気にとられる暇すらない。筧が眼を見開き、喉を詰まらせるのが精々だった。


「喰い方が雑過ぎる。見てこれ、臓物残しちゃってるじゃん。人間の胆はごちそうよ~?」


「……ご馳走、と申されましても」


「特に脳味噌なんかもね。だけど見てみなよ、この写真を見る限り脳漿どころか臓物さえ散らばってる。内部から喰い破ったてーのはその通りだが、喰ってない。牙で、裂き破ってる」


「つまりは喰らう為ではなく殺す為だった、と……」


「粉みじんにな。そーとーな怨みがあったんだろうねぇ。つっても内部から……、これ獣? 獣鬼の類いじゃないな。じゃあ怨霊……、で、えー、西洋のー……」


「極月と幾つか予想はしましたが、所詮予想ですので解決までは……。今回、桃仙殿にはその辺りの調査をお願いしよう……、とも思ったんですが」


「鬼じゃないよね、これ」


「えぇ、ですので他に……」


「いンや、いーよ。やるやる。偶には他のもやっとかないと鈍るしねェ」


ふと、筧の背筋に蛇のような、深海類の鱗が纏わり付くような。

そんな、錆びた刃を擦り付けられるような悪寒が駆け抜ける。

殺気、と述べればそれまでだ。だが、これは殺気であって殺気などというものではない。

毒持つ牙に纏う舌が背筋を舐める。斬れず潰せぬぬめりが背筋を流れる。

錆び凍てついた刃が斬ることなく背筋に刷り込まれる。

ただ純粋に死を感じ取れるのなら、どれほど良かっただろう。これは、違う。

相手を沈めるためだけのーーー……、殺気。


「……しかし、西洋は専門外では? 危険ですよ」


「おいおい筧ちゃん。この仕事に危険じゃないことなんてないぜ? 常に危険いっぱいデンジャラス!」


例え百戦錬磨の戦士であろうと、千戦錬磨の猛者であろうと、億戦錬磨の達人であろうと、兆戦錬磨の極彼であろうと。

死ぬ時は死ぬ。老いさらばえてでなかろうと、どんなに単純な依頼だって死ぬ時は死ぬ、と。

彼はそう述べながらへらへらと笑っているが、これは紛う事無く真実なのだ。

彼、桃仙キンジという人物が異貌を狩る生涯で培ってきた教訓。彼の仲間や部下、或いは先人達がその身をもって示してきた、教え。


「まっ、そーゆー訳で今回は全力で挑もうかナー。毎回全力だけど」


「……まぁ、有り難い話です。鬼狩りが一、桃仙殿の全力となれば件も解決しましょう」


「お世辞上手いよね。俺ってイケメンだし」


「……ははっ」


「いやイケメンはマジだろこの前だって女の子からきゃーきゃー言われたし更衣室覗いてたらァ!!」


「そうですか。事務課に始末書の追加を申請しておきましょう」


「始末書はもうやーーー……、追加っ!?」


とまぁ、そんな取引を経て。

筧は桃仙キンジと共に先日の事件解決に奔走することとなる。

尤もーーー……、その旨を記した書類提出と共に始末書数百枚の追加申請で、事務課が凄まじい混乱へ巻き込まれたのは言うまでもないことだろう。



【某県某市某町某丁某区】

《異貌狩り本部・第四正門前広場》


「事務課の女の子マジこえぇ。アイツのビンタ世界狙えるぜ」


「覗きの相手が居るとは思いませんでしたね。……しかし何故私まで」


頬に紅葉の押し葉二つ。堂々と腕を組み、吹き抜ける風に煽られて。

男二人は硝子張りのビル前、何の変哲もない高層ビルの前にある広場に居た。

ビル群と車が行き交う国道から道一本挟んだ広場には、熱々のカップルだの食事中のサラリーマンだの子供連れの母親など。

何とも平和な午後の昼下がり、と言ったところか。枯葉が転がっていく広場では、現実の暖かな色が拡がっていた。

その中で紅葉押し葉二つ浮かべた男達は何とも浮つくが、まぁ、それを気に留めるような人は居ない。

ててて、と走ってきた子供以外は。


「おじちゃんたちへんなのー!」


「こ、こら! ごめんなさい!!」


子供を宥める筧、母親を口説く桃仙。

直後、桃仙の体がくの字に折り曲がるわけだが、母子には何が起こったか解らなかっただろう。

時間停止を用いたパンチ。ツッコミにしては強力すぎである。


「お、ぉごほっ……」


「失礼。手が滑りました」


「光速滑りだことで……、ほへっ」


脇腹を抱えて内股に震える男と、その隣で懐中時計を懐に仕舞う男。

そんな二人に見送られて、申し訳なさそうに頭を下げ続ける母親と元気に手を振る子供は去って行く。

あんな人達を守るのが私の役目なのです、と。筧は子供を撫でた掌を見詰めてそんな風に呟いた。

自分は戦うことは出来ない落ちこぼれだ。精々、この時計が無ければこの世界で生きて行くことさえ出来ないだろう。

それでも事務書類を何枚も片づけ、危険に身をさらして現場を洗うのも、時には死にかけることにさえ。

彼女達のようにこの平和な世界で笑っていられる人が居るから、耐えられる。だから私は頑張れるんです、と。

そんな彼の決意を横目に桃仙は人妻の熟れた尻と衣服から弾けんばかりの胸に目をーーー……。


「ろぼえ」


拳撃、二発目。


「取り敢えず昼食でも取りますか。この辺りだと良いカレー屋があります」


「ゃ、あの、お腹……、がね?」


「気合いで直してください」


「鬼かよ」


「貴方がそれを言いますか専門家」


兎も角、戦の前には腹ごしらえ。

彼等はぐだぐだとした言い合いや最近の愚痴を述べつつも、大通りから路地に逸れて、怪しいスナック通りを抜けて。

彼等は十数分歩いて、やっと目的のカレー屋へ辿り着いた。

薄暗いビル群の隙間にある、隣の駐車場に駐められる車は精々数台ほどという通が好みそうな店。

今にもカレーの香ばしさが鼻先をくすぐりそうだ。吹き抜ける風が、それを運んできてくれる。

ーーー……改装中でさえ、なければ。


「……カツカレー」


「言うことそれなんだ筧ちゃぁん!?」


膝から崩れ落ちる筧と鳴り響く金槌の音。

きっと一週間後には綺麗な店となっていることだろう。新装開店。


「も、もう吉ね屋で良いじゃん!? 牛丼大盛りつゆだく好きだよ!?」


「カレーが食べたかった……」


「君そんなキャラじゃねぇだろぉ!? わか、解った! ココサン! ココサンいこーぜ!!」


「トッピング大盛りで……」


「いやそれは自分で決めて!?」


ぎゃあぎゃあと騒ぐ彼等はさぞ建設業の方々からすれば迷惑だったことだろう。

新人らしき若者の一人が何やってんだとひょっこり顔を出した。その際に釘が一本、下へ落ちた。

かーんっ、と。金槌のそれより遙かに小さく、そして鋭い金属音。ふと、筧の視線がそちらへ向く。

釘がーーー……。そう、言いかけた瞬間。

彼の掌から、それは現れた。


「これ、は」


未だ、子供を撫でた暖かさが残る掌。

中指と薬指の隙間から、それは出現した。

ランプの魔神のように、僅かな隙間から。然れどそれは願いを叶える陽気な魔神などではない。

己の肉を喰らい臓腑を食い潰す、殺戮の異貌。

血走る眼と涎滴る牙。そして、異臭放つ鼻腔と紅蓮が如く紅き舌。

鋭利なる爪は肉を裂くだろう。漆黒覆いし漆の体毛は針より細いだろう。

その姿は影の獣と言うよりーーー……、なり損ないの人狼だった。


「はい伏せるゥッ!!」


跳躍、脚撃、斬撃。

その三転が一挙に、刹那に、放たれた。

振り上げられた桃仙の靴先が人狼の眼を潰し、踏み込みが如く捻りて追撃。

相手がほんの僅かに怯んだ隙を逃さず廻転により振られた刃を喉元へと突き刺した。

一撃であろうと勝敗が決する剛力を持つ鬼を、普段より相手取る彼だからこその初見必殺。


{ぐるゥオア}


吐息と共に零れるような、悲鳴。

聲は斬り裂かれた隙間から溢れ出し、鮮血が桃仙の頬へ飛散した。

肉が潰れ骨を削る慣れた感覚。それに相まる血管を薙ぐ感触まであれば、違いなく。

呆気ないほど、鶏の胸肉を叩き潰したような感触まであれば、違いなく。


「と、桃仙殿……」


己の指間から出でる、異貌。瞬間に飛散する残骸。頬端へ振り抜かれる白銀。

反応出来なかった。ただ、彼の名を呼ぶほどしか、出来なかった。

次元が違う。反応速度と言い、戦闘技術と言い。彼等異貌狩りと道具を持つだけの自分では、これ程に。


「鬼ってェのは一撃必殺みてーな連中ばっかだかんねぇ。反応速度には自身あるのよ、俺。……まっ、それはそうと無事? 筧ちゃん」


「……御陰様で。今のは、いったい」


「何処かで仕込まれたんでしょ? いや何処かは知らないけどさ」


鮮血が、刃の鋒を伝う。

何気なく桃仙はそれを振り払い、アスファルトへ斑点を作り出した。

然れどその刃は鞘には収まらない。振り抜いた気道のまま、彼の指先で弄ばれ、翻され。

当人は後始末がどうだとか、お昼ご飯は食べれそうにないだとか。そんな、何げない事を考えながら。

己の背後から迫る異貌に、一閃を弾き飛ばした。


「けっこーしつこいみたいよ? お相手さん」


気管。胸元の中央、喉下の臓腑から切り落とす。

臓腑が斬り裂かれ、骨は引き裂かれ、臓腑は擦り裂かれ。泥のようにべしゃあと拡がった。

鮮血と共に溢れるのは体内にある異臭。サウナの扉を開いた瞬間、全身へ染み渡るような熱気。

筧は思わず眉根を顰め、後退る。然れどそれさえも、異貌は赦さない。


「筧ちゃん後ろッ!!」


筧の背後、迫り来る狂牙。

姿は見えない。然れど影はある。己の姿と重なる何かがある。

酷く蒙昧な刹那に四肢は停止する。指先は動かない。絶息が鼓動を早める。

幾度となく確信した死。幾度となく見聞した死。幾度となく迫瀕した死。

刹那は、今。


「停止ーーー……」


牙が、肩を斬り裂いた。

首筋でも頭蓋でもなく、肩。それも擦る程度に。

激痛がある。恐怖がある。然れどそれ等は死への痛みと恐れには及ばない。

だからこそ指を動かせた。ほんの一瞬、爪先が懐中時計へと届くことが出来た。


「ナァアイスッ!」


喧しい称賛と共に、刀身が全力で投擲される。

何処ぞのピッチャーよりも数倍良いコントロールで、鋒は見事に異貌の頭蓋を貫いた。

血飛沫、頭蓋の欠片、化け物の断末魔。それ等全てを耳に受けながらも、筧は安堵の息をつく。

そして刀剣がアスファルトに叩き付けられ鋭い金属音をがなり立てた瞬間、彼は漸く死の束縛から解放された。


「ひっふー。やべぇなコイツ等。不死身な上に転移能力持ってんのかよ」


「……不死身、と言うよりは複数居たように感じましたがね。幾ら再生能力者だとしても、姿形が異様だし、何より……」


「転移の精密度がヤバいよね。これ、超能力者レベルでしょ」


「ですが超能力は原則、一人一つ。これのように異貌の見た目であることや転移からも考えて、何か別の存在と考えるべきでしょう」


「だよねー。……ってか、何でコイツはこんなトコで襲撃掛けてきたのかねぇ」


その言葉に返事を返したのは、筧の頷きではなく。

どちゃり、と。水の入ったビニール袋を落としたような、そしてそれが弾けたような音だった。

彼等が視線を向けた先。改装中のカレー屋の隣にある駐車場。いや、そうではなく。

改装中のカレー屋から落ちたそれ(・・)がある、駐車場。


「……わーお」


先程、彼等の騒ぎに顔を覗かせた若手の大工が其所に居た。

いいや、若手の大工を喰らう異貌が、其所に居た。

その肉体は先刻とは比べものにならないほど隆起し、感じ取れる殺気も尋常ではない。

端的に言おう。強化されている。


「……逃げるか」


「いや、ここで逃げては被害が……」


「だってどう見てもアレ無理だってば! 精霊? 精霊の類いなの!? 本体倒さないと駄目なタイプあれぇ!!」


「……しかし、となれば」


幸い、狙いはこちらにあるようだ。いやそれを幸いと言うべきかどうかは解らないが。

兎も角、奴等をこの場に置いても良いことはない。早急に仕留めるべきなのだろうが、この始末の謎を解かねばどうしようもない。

ならば、どうすべきかーーー……。


「逃げましょう」


「な!? やっぱそうなるでしょ!?」


「いえ、逃げると言っても闇雲には逃げません。奴の本体を炙り出します」


「……何? レモン汁かけんの?」


「まず移動手段を用意しましょう。バイクが良い」


「わおスルースキル高いなぁ!」


そうは言いつつも桃仙は刀剣を鞘に収め、筧は凄まじい速度のタップでコールを行い。

異貌なる人狼の咆吼がビル街を激震させた時にはもう、彼等は曲がり角へ向かって全力の疾駆を行っていた。

彼等は逃げる。異貌は追う。入り組んだ路地を、怪しげな暗灯通りを抜けて行く。

絞りきられた肺胞が酸素を求め、心臓が急速をも止めども、なおーーー……、彼等は逃げ続けるのだった。



【異次元街道】


「……ははっ」


もう、笑いしか出ない。

何がどうしてこうなった。何がどうしてこうなった。何がどうしてこうなった。

異世界に行くのが初めてなワケじゃない。いや、確かに今までは直接転移だったからこの道を通るのは初めてだが。

それにしたって、有り得ない。それにしたって、酷すぎる。


「何笑ってんのよ。まだ笑い茸が残ってるのかしら」


「いや、むしろクラーケンに喰われた時のが……」


「脳味噌抜かれて全身サイボーグにされかけたショックで気が狂ってるわけじゃないなら良いわ」


彼等がこの数時間で、いや、異世界だから時の流れも右往左往とあったが。

それでもこの世界の、この数時間で渡った数々の世界とどうしようもない程にとんでもない出来事達。

極月は近所の公園でも散歩するかのように、春路は地獄の街道を逃げ回るように。

鬱蒼森林大樹群生なキノコの森、陸地無き水平な古代の大海、メルヘンチックメカチックメリケンチックなSF世界。

だけじゃない。合わせ鏡で道が出来る世界も全てが逆さまな世界も一本道の後ろから闇が迫る世界とかも、色々あった。もう数えるのが嫌になったと言うか、数える余裕がなかったので詳細な数は憶えていないけれど。

少なくとも彼女が色々な道具を購入した世界の数より、情報屋に首を振られた数の方が数十倍なのは間違いないだろう。


「……あ゛ぁ゛ー。すんませんッス、極月さん。ちと電話してきて良いッスか」


「電話? 構わないけれど、此所まで深いと電波通じないわよ」


「うげっ。マジッスか」


「何の電話?」


ふと、春路は驚愕の色を顔に表した。それに対し何よと極月から言葉が返ってきたのは当然だけれど。

いや、春路からすれば彼女がまさか電話内容に興味を持つなど思ってもみなかったのだ。

自分の目的とか、やること以外はどうでも良いと言い切りそうな彼女だったからこそ。

けれど彼は少しだけ、興味を持って貰えたことが嬉しかった。


「……地元のダチッス。この服だって、アイツが選んでくれて」


「その趣味の悪い服? 凄い友人ね」


「しゅ、趣味悪いって言わないでくださいよぉ! カッコイイでしょぉ!?」


「……どうだか」


「ま、まぁ、それはそうと……、凄い友人ってか、凄い馬鹿な奴なんスよ、アイツ」


誤魔化すように苦笑する彼の笑みには、何処か悲しさがあった。

その友人について春路が述べたのは、同時に彼が異貌狩りを目指す理由だったのだ、と彼は言う。

昔、仲間内でよく遊んでた友人が居た。一緒に馬鹿やったし飯も食った。ゲームだってした。親友と、呼べる奴だった。


「けど……、ある日、アイツしか居なかった日なんスけどね? アイツ、山奥の廃神社にイタズラしちまって。そこが運悪く悪性の異貌が溜まってたトコだったんス。……そんで、そいつそこでの事件が切っ掛けで、歩ける体じゃなくなって」


「よくある事件ね」


「そ、そうなんスよ。だけど……、俺が異貌狩りを目指すには充分だった。もうアイツみたいなのを出さない為に、って思って……」


少し、間を置いて。

彼は照れ隠しなのか鼻先を指で掻きながら、携帯電話を懐にしまい込んだ。

もうこの話題は終わりにしましょう、なんて。何処か詰まった声をあげながら。

極月もそんな彼の意志を尊重するかのように、隻眼の瞼で首肯を示した。


「に、にしたって情報がないッスねぇ! 殆どのトコがやられてるか、情報屋が外出してるかッスよ」


「……それだけ、相手も自分達の情報が漏れることを避けたいのよ」


「外出してる情報屋が戻るのを待つッスか? こんだけやってもですし、望みは薄いッスけど……」


「戻って来ないわよ、彼等。死んでるから」


平然と、彼女は言い放ち。

春路は先程の照れくささなど塗り潰す、ぞぉと凍る恐怖に肩をすくめ挙げた。


「で、でも……、じゃあどうしようもないじゃないッスか! お手上げッスよ」


「……はぁ」


それは、彼女の無表情振りからは初めて取れる嫌悪と疲弊の色だった。

流石に口を出しすぎたかと春路は己の唇を覆ったが、どうにもそうではないらしい。

彼女の嫌悪は街道の先へ向けられている。疲弊はそこにある何かに向けられている。

何か、嫌なものを前にした時のような。


「行くしかないわね。面倒だけど」


「えと、どちらに?」


「最終手段」


そう述べながら彼女が持ち上げたのは、この道に入る時にも使った鍵束だった。

幾つも連なる、様々な鍵。いいや、その中でも特に巨大で異様な闇色。

それは教会のステンドグラスのような、継ぎ接ぎだと言うのに一つの形を成す、一種の造形美を持っていた。

ただそれだけで美しい。流砂のように、果て無き水面のように。

飽きるという感情を忘れてしまったような、果てという存在を消してしまったような、ずっと、見ていたい、ような。


「春路」


目潰し。


「ぬぐぅおぉおおおおおおおおおえええええええええええええっっっっ!!!」


「呑まれるわよ。これはそういう鍵だもの」


それどころじゃないと言わんばかりに転げ回る春路。

今のダメ。今のダメなやつ。絶対目を閉じさせるためのじゃない。潰すためのアレ。


「おぬぐぐふふふふふうううううう~~~……!!」


「うるさい」


そして背骨一発。

背中の痛みと顔面の痛みでワケが解らなくなってきた。

どんな場所よりどんな化け物よりこの人の方が怖いんじゃないのかと思えてくる。

いやそうだ。絶対そうだ。間違いなくそーだ。


「な、何なんスかその鍵ぃいい……」


「七大罪の鍵よ」


一拍、置いて。

春路の頭から全ての痛みが吹っ飛んだ。

その表情が恐怖に上塗られた驚愕に満ち、歯牙が凄まじくかち鳴らされる。

まさか、だとか。嘘でしょう、だとか。そんな言葉は出て来ない。

彼女は知っているはずだ。その単語の意味を。たった数文字程度だが、その語句が紡ぐ、意味を。


「な、七大罪……!」


『色欲』、『暴食』、『強欲』、『嫉妬』、『憤怒』、『怠惰』、『傲慢』。

総して七大罪。それは伝承や伝説、或いは宗教的な意味ではない。人を戒める罪の詞ではない。

それは、災禍の証だ。精霊や天霊、妖精や天使。そんなものを隔絶し、最悪の異界を原初の古来より統治せし七人の異貌達。

その彼等を、示すものだ。


「あ、会うんスか? あの、七大罪と……!」


「……そんなに怯えるものでもないわよ。今から会う男は七大罪で一番まともな男だから」


男。つまり筧が戦慄し彼女が忌避したのはこの者のことか。

成る程正しく最終手段である。七大罪などというものは、会うどころかその名を呼ぶべきですらない。

度重なる信仰と嫌悪。そしてある種の憎悪と願望が入り交じり、彼等の名だけでも呪文となるのだから。

クチではまともと言っても、ゼロだってマイナスから見ればまともだ。いいや、数字さえ小さければマイナスから見たマイナスだって。

名でそれなのだから、実物となれば、きっとマイナスではーーー……。


「嫌なら付いてこなくて良いわよ。別に居てもやることは変わらない」


鍵輪を指先で回しながら、彼女は冷徹にそう言い放った。

いや、冷徹と思うべきではない。確かにそれは冷徹な口調で冷徹な表情ではあるけれど、言っていることは何も間違いではないのだから。

この世界は常に死と隣り合わせではない。死が、常に自分の前にある。

そんな世界だからこそ意味を成すものはあるし、成さねばならないことがある。

異貌を狩る者故にーーー……、その壁を越えれば、得られる者は、幾らでも。


「……行くッス。俺、行きます」


「そう」


覚悟を決めた一言だったのに、帰って来たのは何とも腑抜けた返事だった。

いや彼女からすれば足手纏いが付いてくるかどうかという場面だし、そもそも自分、活躍のかの字も見せてないし。

そろそろ何とかせねばと思う反面、彼女に付いてくだけで精一杯だとも思えてしまう。

一応は弟子という立場なのだから、いやしかし、これが終わるまで自分は生きていられるのかーーー……。


「じゃあこれ渡しておくわ」


そう言って彼女が差し出したのは別に何の変哲もないメモ帳だった。

今すぐにでもメモを取れと言わんばかりにご丁寧にペンまで添えて。

当然、いったいこれが何の意味を持つのかとかどうして渡すのかなどと教えて貰えるはずもなく。


「付いてきなさい。死んでも助けないわよ」


でしょうね、なんて皮肉を言えれば良いのだけれど。

きっと言ったら死ぬ。いや間違いなく死ぬ。この渦巻き状に続く、底も果ても見えない世界に放り出される。

それだけは勘弁だ。いや本当に。


「……さて、行きましょうか」


鍵はあくまで切っ掛けでしかない。道の中に存在しないはずの扉を作るための礎でしかない。

大業な鍵。大袈裟な装飾。全てを無に帰すが如く、呆気なくその扉は現れた。

否、扉ではない。それは箱だ。チエノワのようにガッチリと噛み合った箱。それ等が幾重にも重なり、重厚なる防壁となっている。

その防壁を一枚、一枚、と。鍵は右から左から、時には腕を突っ込んでまで開いて。

数十枚を解いて漸く、入り口は姿を現した。


「これが……」


坦々と解錠を進めた流れで、極月は扉に手を掛けた。

少しぐらい待ってくれてもとは思うが覚悟したことだ。例えこの先に何があろうと、自分は立ち向かうだろう。

そう、例えそれが南の島の崖先に建つ喫茶店がある景色だとしても。


「…………」


老後はこんなトコに行きたい。南国のね、ちょっと暑いぐらいのトコでね。

アロハシャツ着てサングラス掛けてね、何かこう水色のソーダっぽい炭酸かお酒にレモンの切り身差してね。

椰子の木から零れる光に微笑みながら潮風に揺られてね、真っ白いハンモックで一日を過ごすんだ。

雨の日なんかは家の中で読書に励んだりして、高価なパイをフォークで一切れ一切れ……。


「帰って良いッスか」


「帰れば?」


「ネタ潰しやめてください泣くッスよ」


閑話休題ともかく

現れたのは南国にある喫茶店。そこそこ繁盛してるんだろうけど数年後来たらうっかり閉店してそうなお店。

見れば隣に井戸とか小さながらも畑があるし、自営業なのだろうか。

いやいや、そもそもここはどういう世界なんだ。見たところは今までのようにトンデモって感じではないが。

切り立った崖上か、此所は。森を背にした場所から少しだけ突出した崖にお店があるのだ。

その崖下には砂浜があって、蒼快の海も拡がっている。何とも美しい、南国感溢れる世界。

老後はこんなところーーー……、いや思考がループしてるループ。


「……ホントに此所なんスか? 見た感じ、今までの世界の方が余程『っぽかった』ッスよ?」


「ある意味では此所だけれどね」


生い茂る緑の芝生を歩み抜けて、彼女の手は喫茶店の扉へ掛かる。

からんからんという寂れたベルの音と言い、暗木色で彩られた室内と言い。

マスターよろしく食器を磨く男性やカウンターに腰掛ける西部劇のガンマン。そして店の奥で寝息を立てる男が一人。

常連しか入れないような、何処か固執的な空気に当てられながらも春路は極月と共に入店していく。

いやしかし、鼻腔の奥に香ってくる苦みや一歩進む度にぎしりと軋む床、古くさいけれど綺麗に清掃された椅子や机なんかは趣があるかも知れない。

尤も、極月はそれ等に視線一つくれずガンマンと席を一つ空けてカウンターへ腰を下ろしたのだが。


「君もどうぞ」


カウンターのマスターはにっこりと微笑んで春路へ席を示してくれた。

その笑顔に一瞬ドキッとしたが、よくよく見ると彼は男である。男だ。いや自分はノーマルだ。

見た感じが長髪然り美形然りどうみても女性なのが悪い。長身なトコとか凄まじくスタイルの良い脚とか。

少女漫画によく居るこういう人。美形とかいう次元じゃなく効果音や漫符でキラキラ星が付きそうな感じの人だ。


「え、と。でもお金……」


「無料だよ。お客さんが来るのは久々だ」


だったら尚更有料の方が良いんじゃないか、とか。あぁやっぱりお客さんは来てないんだな、とか。

そんな風にちょっと失礼な事を考えつつも、彼は畏まって席に着く。

改めて見ても古風の喫茶店と言うか。戸棚に並ぶお皿や端っこにあるお酒を見ればバーにも思えた。

漂う苦さはやはりコーヒーのものだろう。いや、少し煙草の臭いなんかも混じっていて。

落ち着きはしないけどくつろげる。そんな場所だ。


「七大罪への面会を」


春路のささやかな感想さえ、その一言で塗り潰される。

マスターが食器を磨く手が止まり、ガンマンの眼光が極月に向けられる。

奥で寝息を立てている男は相変わらずだが、店の雰囲気は明らかに一変した。

懐かしささえ感じさせる暖かな苦みは気管を締め付ける冷気へ。優しく微笑んでいたマスターの眉根は険しく皺を作って。


「……お嬢さん、貴方が何方かは存じません。何処で彼の話を聞いたのかも」


「Code:T.U.K.I.G.A.M.I」


マスターはその言葉に驚いたのか、僅かに口を開いてひゅうと息を吸い込んだ。

そして間もなくその呼吸はため息となり、合図するが如く彼に手を掲げさせる。

否、それは合図だ。極月の隣にて、彼女の側頭部に銃口を突き付けるガンマンへの。


「……此所に来るのは、何回目ですか?」


「四回目よ」


「では、無理もありませんね……」


カウンターの端、恐らく出入り口だろう。マスターはそこを開き、春路の後ろを通って彼女を店の奥へ案内していく。

当然、春路もまた何が起こっているか解らないながらに慌てて付いて行こうとしたが、ガンマンはそれを呼び止めた。

マスターも同じように君は来ない方が良い、と。そうとだけ言い残して店の奥へ。


「や、やっ、でも……!」


「お前みてーなひよっこが行ってどうなる。行くならもうちっと能力磨いてから出直せ」


春路は僅かにむっと表情を歪めたが、直ぐ様いけないいけないと首を振り払った。

この奥に居るのは多分、七大罪だ。ならば付いて行かない方が良いのは間違いない。

けれど、やはり、彼女の行動やマスターの言動には納得がいかない部分もあって。


「……それでも」


確かに、そうだ。自分は何の役にも立ててない。

だけど弟子というのはそういうものじゃないのか。見て、学んでいくものじゃないのか。

いいや違う。このままじゃ自分は足手纏いにもなれない『ひよっこ』だ。見捨てられるだけの、大馬鹿だ。

ダメだ。こんなのじゃ、ダメだ。

極月の役にーーー……、立たなければ。


「俺は彼女についていく!」


春路は椅子から跳ね上がるように立ち上がった。

その叫びは店内に反響するほどのものだったし、彼の起こした騒音もあったが、ガンマンも眠る男も反応を返ることはない。

ただ懐から煙草を取り出し、或いは相変わらず寝息を立てているだけ。


「……ついて、いきます。ハイ」


あの人と言い、彼等と言い、どうしてこうも反応が薄いのか。

気合いを入れて立ち上がった自分が馬鹿みたいではないか。いや実際頭は良くないかもとは思うけれど。

それにしたって、いや、もう少し反応を示してくれてもーーー……。


「どぁいてぇっ!!」


どすんとぶすりが相まった音も、彼の絶叫に掻き消されて。

先程の覚悟より数倍大きな声だった。数倍うるさい声だった。数倍腹の底から出た声だった。

無理もあるまい。それは彼のお尻にぶっすりと刺さったのだから。


「な、何これ、ペンとメモ帳……?」


尻を擦りつつ、彼が取り出したのは何の変哲もないペンとメモ帳だった。

はて、自分はこんなものを持っていたか。何処でこんな物を尻ポケットに入れたのか。

いや、尻ポケット? 自分は、こんな服を着ていたっけ。


「あれ?」


そもそも、ここは何処だ。自分はどうしてこんな所に居る?

隣で悠長に煙草を吸っているのは誰だ? この、ガンマン風の男は。

ここは喫茶店か? どうして自分はこんなところに、一人で?

一人? 自分は一人だったか? いや、一人だ。今は、今?


「……ふん」


ガンマン風の男は鼻を鳴らすように、白煙を吹き出した。

白煙は息を吹き抜けさせたかのようにくるりと回ると、空中に溶けるでもなく消えていった。

ふつり、と。ただ一度回っただけでその存在ごと、消えてしまった。

それこそ今の春路のように。己の存在を、己という存在を忘れてしまったかのように。


「……俺」


自分は何だった。自分は、何をしているのだろう。

ここで、何を。何の為に。何で、何が、どうして。


「何だっけ……」


縋り付くように懐を漁れば、様々な道具と一つの携帯電話、そして財布が出て来る。

携帯電話? それは、何だ。いったい何の名前だ。このずっしりした物は何だ。

さいふ? これは、どういうものなんだ。ぱらぱらしている。となりのものよりかるい。

おふだとかじゅうとかないふとか、これ、なに、なんで、じぶん、なにーーー……。


「……ぁっ」


視界が眩む。指先から、眠りに落ちるように感覚が抜けていく。

彼の掌から財布が零れ落ちた。腰が椅子から転げ落ちた。ペンと手帳が後を追うように机から落ちた。

次第に、薄まっていく。彼という存在が消えていく。全てが、無くなって。


「お、れ……」


最後の証を残すように、春路は手を伸ばした。

何かを掴もうとしたわけではない。何かをしようとしたわけではない。

ただ足掻くように、それを。偶然にも財布の端っこを、掴んだのだ。

そこからはみ出る、ストラップのような、金具を。


「……は、ぁッ!」


ばしィンッ!! と。

彼の拳が暗木色の床を叩き上げ、その身を弾き起こす。

ガンマンは驚くようにその様へ目を見張り、煙草を咥えたまま振り返った。眠る男は依然として寝息を立てるばかりだが、喫茶店の空気は明らかに変貌した。


「こんな、所でェッ!!」


春路は財布の中身を散らしながら、目に見えない香りを掻き乱しながら。

ただ藻掻くように周囲を転がってペンとメモ帳をつかみ取った。

そして迷わずメモ帳へ文字を書き殴る。自分でも読めないほど、ペンの先端が焼き付くほどに、頭の中身を書き記していく。

何でも良い。単語だ。忘れるな。自分の頭に浮かぶ物全てを書き出せ、と。


「俺は、まだっ……!!」


文字を一つ、一つと書いていく度に頭の中が鮮明になる。

自分は誰か。何をするために此所に居るのか。誰と此所に来たのか。何の為に来たのか。

ここまでの道のりや幾つもの異世界のこと。好きな食べ物のこと、友人のこと、彼に連絡しなければいけないこと。

何から何までを思い出す。メモを数ページに到ってぎっしり埋めても、まだ止まらない。

それは最早走馬燈に近かった。いや、走馬燈とは少し違うが、己の一生を思い出す作業に近かった。

インクが目に見えるほどの速度で減っていく。筆圧が強すぎて次のページにまで文字の痕がくっきり残っている。

だがそれでも良い。思い出せ。自分の役目を、覚悟を。思い出せ。後に退けるような道を、歩んできてはいないはずだ。

何の為の異貌狩りになった。何の為に、何の為に、何の為に!


「何も、やってねェッ!!」


最後の文字を書き終えた瞬間、春路の脳内には全ての記憶が鮮明に甦っていた。

四肢に力が入るし、何より姿もしっかりしている。跳ねても奔り回っても大丈夫。流石にこれはうるせぇとガンマンに怒られたが。

それでも彼は確かにそこに居た。全ての記憶を取り戻し、全ての存在を取り戻し、此所に立っている。

記憶が手に取るように解る。いや当たり前なのだけれど。それでも先程の状態からすれば、今はまるでテストの最後の問題を解けず悩んでいたら、時間ギリギリで解き方を思い出したようなーーー……。


「あっ、そういう……」


極月がペンとメモ帳を渡してくれたのはそういう事か。

反復だ。受験生がよくやる、英単語とか数式とかを何回も書くアレ。反復学習。

言ってしまえば再確認。メモを取ることで頭の中を整理すること。勉強したのある奴なら誰だって知っているあの方法。


「案外馬鹿に出来ないもんだな……」


「馬鹿云々じゃねぇだろ、ったく。……死ななかったか」


「あ、そ、そうだ! 知ってたんなら教えてくれても良かったじゃねぇかチクショウ!」


「ここで死んだ方が余程マシだからな。むしろ優しいぞ、俺は」


彼は席を立ち、勝手にカウンターの向こうへ入って戸棚のクッキーを持って来た。

チョコかバニラ、あとプレーンがあるが、と。


「いやいや、勝手に……」


「良いんだよ、俺もこの店の一員だ」


「あ、じゃあココナッツで」


「ココナッツねぇよこの前食ったわ。と言うか切り替え早いなお前」


取り敢えず、と気を取り直して春路は席に座る。ガンマンはカウンターにクッキーの皿を置きながら、豆の入ったコーヒーサイフォンに手を掛けた。

こつこつと豆がひかれ、エキスが抽出されていく。苦いけれどとても良い香りだ。この店に拡がっていた香りは、この香りか。

ともあれ彼は継いだり火の加減を調節したりと随分熟れた手付きで珈琲を淹れていく。

余談だが、ちらと見えたコーヒーサイフォンには『Made in Japan』と書いてあった。流石である。


「……うまっ」


「当たり前だ。アイツよか俺の方が珈琲淹れるのは美味い。……それぐらい、憶えてる」


煙草を、また一本。

カウンターには彼がまだ吸いかけだったものが灰皿の上で白煙を溶かしていた。

それだけではない。彼はカウンターから席へ帰る時、自分が座っていたのとは真逆の席へ腰掛けた。

幾枚ものクッキーが乗った皿は、春路と先程の席の間に。


「大体気付いてるだろうが、この空間は『忘却』の空間だ。酷けりゃ存在さえも忘れて消えちまう」


「……さっきの俺みたいに、ッスか?」


「そうだ。逆を言えば憶えてりゃ無事なワケだから……、そのメモっつー方法は最適だな。誰に聞いた?」


「え、誰って……」


極月はマスターと奥へ入っていくとき、此所に来るのは四回目だと言っていた。

つまり、彼女は何度か此所に来て、此所がどういう場所なのかを知っているはずなのだ。

けれど彼等は知らない。店の一員だというのなら必ず会っているはずなのに。

ーーー……それはつまり、煙草のように、席のように、彼は忘れてしまったということ。

この忘却の空間で、彼女という存在を。


「……あの、女の人ッス」


「ふん、ありゃベテランだな」


ガンマンは手を伸ばしてクッキーの入った皿を引き寄せた。

その最中に春路はひょいと一枚を摘み上げ、口へ放り込む。

うん、美味い。この仄かな甘さがコーヒーの美味い苦みとよく合って、うん。

いやいや、それはそうと。美味いのはそうと。自分は彼女に、極月に付いて行かなければーーー……、なんて言うつもりはない。

先程ので解った。この空間でさえ死にかけたのに、より近付けばどうなる。それこそ、死ぬだけだ。

だが何もしないというのは、それはそれで違う気がする。


「……あの、質問なんスけど。この先に居る七大罪って誰なんスか? や、あの、名前言っちゃアレなんで属性だけ」


「『怠惰』。ベルフィゴヴル。或いはベルフェゴール。七大罪にて堕落と怠慢を司る悪魔だ」


「だーかーらーなーまーぇええーー!!」


「あんなモン迷信に決まってんだろ馬鹿か」


ズッパリ。鬼か悪魔かこの人は。

いや悪魔はあっちだった。


「……で、あ、あの、べ、べるふぃごうりゅ」


「噛んでんじゃねぇか。嫌なら言わなくても良いよ。どーせ怠惰でも通じる」


「えと、じゃあその怠惰とこの空間に関係が?」


「そうだな。この空間はアイツのせいであって、俺達はアイツを見張る番人として居ると言っても良い。ここはそういう空間だ」


じゃあどうして喫茶店なんですか、とは聞かない方が良いのだろう。

そんな事を聞いて機嫌を損ねられたくはないし、このコーヒーとクッキーは美味しいし。

ならばまぁ、むしろ喫茶店というスタンスは納得だ。客が居ないのも納得ーーー……、と言うか奥で眠ってる人も店員なのか。よくクビにならないな。

いやそういう問題じゃないけれど。


「……だとすれば怠惰と忘却に何の関係が?」


「簡単な話だ。アイツが憶えるのを面倒くさがってるだけだよ」


思わずはっ、と。鼻で笑うような声が出てしまった。

急いで春路は口を閉ざしたが、やはりその声はガンマン風の男にも聞こえてしまったようで。

彼は不機嫌そうに眉根を顰めながら、すすいとクッキーの皿を横に避けていく。


「……まだプレーンしか食べてない」


「うるせぇ。……ま、何にせよお前の言いたいことも解る。ンなアホなことが、ってな」


だが事実だ。

怠惰は、この先にある一枚扉の中で堕落して過ごしている。

起きることはない。眠ることもない。ただ浅い微睡みのなかで幾億の時を過ごしている。

故に奴は何かを憶えることをしない。何かを思い出すこともしない。その忘却が、こちらまで溢れているだけのこと。

奴の行為一つが、この空間に影響を及ぼしているだけのこと。


「……マジっすか」


「そうだ。だから外に出さないよう俺達が居るし、この店がある。知ってるか? この喫茶店な。建築に神木を使ってる。皿だって秘石を固めたものや……、椅子のガワは幻獣の体皮だぜ」


「何スかそのドリーム喫茶店」


「建築だけで国四つが吹っ飛ぶ金が動いたんだとよ」


成る程、この喫茶店自体が超強力な結界というワケだ。

いやだったら何で尚更喫茶店なのだろう。カモフラージュ、カモフラージュなのか。

と言うかお一人寝てますけど大丈夫ですか。


「……そりゃ、何とも。でも極月さんは情報を集める為に、って」


「馬鹿かお前。悪魔ってェのは古来より取引で人間の魂を掠めてきた連中だぞ。その悪魔が何も識りませんし何も持ってませんじゃ話にならねェだろ」


「えー……、ぜんちぜんのー?」


「神域の化けモン共と一緒にすんじゃねぇ。精霊も妖精だろうが己に適したモンなら持ってんだろ、知識とか道具とか……。英霊だって宇宙人だって、やつらはみんな~」


「もっている~ってやかましいですわ。……で、その悪魔とあの人は取引を?」


「だろうな。つってもまァ、怠惰の野郎は良心的だ。ものぐさ(・・・・)な癖に寂しがりやでよ、誰かと話すのを何より好む」


「それが代償になる、んスか……?」


「此所でこの始末。奥に入り対面し、話せばどの始末やら。……お前、呼吸の仕方を忘れたことはあるか?」


ぞくり、と背筋に寒気が走る。そうか、その通りだ。

忘れるということは思い出せないこと。思い出せないということは出来なくなること。

この空間でさえ、自分の存在さえ忘れかけた。メモがなければ消えていた。忘却の彼方に失せていた。

もし対面すれば、呼吸などでは終わらない。もっと何か、何かを、忘れてしまうのではないか。


「解るか、ガキ。奴の恐ろしさが……」


「……ッス」


春路はメモを取り出し、そのページに目を通していく。

自分でも解らないような、集中して漸く数文字解読できるような文字ばかりだ。

けれどこの文字に救われた。この言葉に、意味に、追憶に。自分は救われた。


「…………」


春路は上から3ページを破りとり、くしゃりとポケットの底へ押し詰めた。

極月は生きているだろうか。彼女はまだ、無事だろうか。

四回、と彼女は言っていたけれど。たった四回で、この忘却を克服出来るものなのか。

万が一のことがあるかも知れない。けれど、自分に何が出来るはずもなくーーー……。


「……あー、頼むから死なないでくださいッスよぉ」


ただ、願うばかり。



【???】


「……では、お気を付けて」


時は少し遡り、春路が自身の存在を思い出す為凄まじい速度でメモを書いている頃。

極月は扉一枚隔てた空間へ、マスターの見送りを経て踏み入っていた。

がちゃり、と。扉が閉められれば拡がるのは漆黒の空間。暗い、のではない。黒い。趣味の悪い暗色質の部屋とでも言おうか。

いや、部屋と言うのは語弊がある。ベッド一つしか置いてないその空間が、いったいどうして部屋と言えよう。

漆黒の中、漆黒のベッド、漆黒の影。この部屋は何処までも黒く。

故に極月の姿は随分と浮いていた。闇夜に浮かぶ月とでも称すか。暗くないのに果ての見えない夜天の、月。


{やぁ}


けれど、夜の空には月が恐れるものはない。

敢えて恐れるのなら、それは闇だろう。己さえも覆い隠してしまう、闇。

雲さえも、星さえも、夜鳥であれ飲み込むような、闇だ。


{久しいね、極月}


「……えぇ、怠惰ベルフィゴヴル。久しいわ」


漆黒のベッド。台木も枕も毛布でさえ真っ黒な、そのベッドに横たわる何か(・・)

影か靄、と言うのが一番正しい表現だ。それ等を押し込めて、人の形にしたような。

角がある。翼も、尾も。あった。あった、だけ。出来ては霧散を繰り返す。

それはベルフィゴヴルーーー……、怠惰が己の形を保つことさえ怠けた、結果だった。


{君と会うのは、何回目かな……}


「……九十三回目よ、怠惰ベルフィゴヴル


くすり、と。沸き踊る何かを漏らすように怠惰ベルフィゴヴルが微笑んだ。

共に彼が横たわるベッドの前に、同じく黒靄の椅子が組み敷かれる。

そして怠惰ベルフィゴヴルは優しく囁くのだ。座りなよ、と。気軽く、長年の付き合いがある友人にでも述べるかのように。

そして極月もまた、戸惑う様子を見せずその黒靄の椅子へ、腰を下ろす。


{極月……、君が来てくれて、僕はとても嬉しいんだ。僕の影響を受けにくいのは、君と、あと少しの友人ぐらいだからね……}


「そう。それは嬉しいわ」


{外のお天気は、どうかな。雨かな、晴れかな……、曇り? 雪?}


「晴れよ。怠惰ベルフィゴヴル


{じゃ、あ、そうだな。新しく、友達は、出来たかい? 表の子は、どうかな?}


「言えないわ。貴方に言えば、そして貴方が忘れてしまえば、その者の存在は消えてしまうのだから」


{ざ、残念だな。ふふ、ふ}


悪魔が世界に及ぼす影響は、それほどまでに大きい。

自身の記憶と認識を、怠惰ベルフィゴヴルが得た時。それ等は同等のものとなる。

そして怠惰ベルフィゴヴルが憶えることを放棄し忘却すれば、その者の存在は、自身と彼の脳内と。

世界から、消え失せるのだ。


{極月……、僕はもう此所に居るのが飽きたよ。何処か、別の世界で、別の生き方をしたいな}


「貴方はそれにさえ飽きるでしょう。そして、飽きることにも飽きるわ」


{厳しいな、ふふ、君も……。此所に来る皆が、同じことを言うんだ……}


くすりくすり、と。溢れ出す微笑の声が漆黒の空間に反響する。

極月はただそれを無視するように、否、耐えるように隻眼を閉じて口端を下げていた。

この者と対峙すると、安眠前のような、意識が沈む感覚に襲われる。頭に靄が掛かり、体が堕睡を求めていることが解る。

だがここで眠れば、思考することを放棄すれば、自己の思考のみに意識を向けてしまえば、自分は怠惰ベルフィゴヴルに取り込まれるだろう。

此所は、そういう空間だ。


{お喋りは楽しいなぁ、極月ぃ……}


「そうね。じゃあ、本題に入りましょう」


脚を、組み直して。


喰狗ハウンドについての情報を」


くすり、と。その声が止まった。

微かな静寂。極月の閉じられた片瞼が、僅かに開く。

その眼に移ったのはずるりと己の口端へ伸びる。漆黒の靄だった。

靄は己の唇を這い、押し、口膣の中へ流れ込んでくる。

だが極月は抵抗することはない。薄く開いた眼で、怠惰ベルフィゴヴルを見詰めるだけ。

然れど黒靄はその視線を意に介すこともなく口の中を這い続け、やがて異貌に受けた、奥歯辺りの傷を探し当てた。


{これだよ}


ずるん。

極月から、唾液の糸を引いて引き抜かれた黒靄。

それが掴んでいたのは、いや、摘んで、いや、くっつけて。

兎も角、その先にあったのはーーー……、何も無かった。


{君には見えないかも知れないけれど……、ミクロ単位の鉄だね。鋭角120度を保った物体}


「……やはり、奴等が憑依として契約しているのは」


{ティンダロスの猟犬。ーーー……クトゥルフ神話に登場する、時間の角に住むと言われる異貌達だ}


鋭角120度以下の角度より現れ、対象を限り無く追跡、殺戮する異貌。

その能力は凄まじく、角度さえあれば如何なる場所でも、状況でも、或いは過去や未来に到るまで追跡を行い獲物を仕留める、正しく無限の猟犬。

ア=ラベイが残したくの字はつまりこう言う事だったのだろう。だが、だとすれば。


「異貌の多くは能力の共存を嫌う。火炎の能力とでさえ、火の精霊は共存しない」


{個別一律。自分の力に絶対の自信を持つもの。他者との関わりを拒絶するもの。他者との融合、邂逅を嫌うもの……。僕らはみな、自身を絶対の存在にしたがる。確実な存在に、したがる}


「それが貴方達という、不確かな異貌の証明に繋がるから。……でしょう?」


{ふ、ふふふ。ふふっ。やっぱり楽しいなぁ。君とのお喋りは、あぁ、お喋りっていうのは、ふふっ}


くすりくすり、と笑みが踊る。

極月はその声に耳を澄ますことはなく、然れど意識を逸らすこともなく。

ただ、横たわるだけの、毛布の中に眠るだけの黒靄へ、話題を進めて。


「それで……、話の流れから察するにその鉄、と言うより角度を模したミクロ単位の欠片は能力者によるものかしら?」


{だろうね。だから、2人以上いるよ、喰狗ハウンドは。ふふっ}


「……ふむ」


{ぼ、僕と君の中だ。もう少しだけ教えるのなら……、憑依とは言ってもかなり限定的な物のようだ。伝承ではティンダロスの猟犬は120度以下なら何処でも出てこれるけれど。これはぴったり120度しか駄目なみあいだね。ふふっ}


「……それを作る為に、そして気付かれない為に相手の体穴から内部へ120度の鉄を送り込む、か」


{そう……。けれど、それはあくまで転移に限って。本体が近くに居るのなら、ら、その限りではない}


「条件は当て嵌まる、ね。……成る程、奴等の武器については解ったわ」


だが、知りたいのはその先だ。

奴等が何者なのか。今、何処に居るのかを。

その為に此所に来た。この異様なる世界に、足を踏み入れたのだ。

そうして今、危険を冒してまで怠惰ベルフィゴヴルと会話しているのだから。


{それを知りたいのなら……、契約しなくちゃ。これ以上は付き合いだから、じゃ駄目だよ}


「そう言うと思って持って来てるわよ」


彼女が懐から取り出したのは匣。ボックス。パズル。

いわゆるルービックキューブだ。尤も、その面は数万近くあり、面々の色より別け隔てる黒線の方が強く主張している。

一見すればただの真っ黒な正方形体だが、怠惰ベルフィゴヴルはそれが取り出された瞬間、飛び上がるように、いや実際は毛布を避けさえしなかったけれど、靄を弾かせるように喜んだ。


{そ、そ、それは何だい? とても、面白そうだ}


「バルゥエズゥール社の新作。ここに来る時店の商標ごと買い取ったの」


と言っても貴方は社名を憶えては居ないでしょうけれど、という言葉を飲み込んで。

うきうきと躍動する黒靄はその正方形体を包み、覆い、咀嚼する。

こりこりこり。ごろごろごろ。こりゅこりゅこりゅ。


「違うわよ、怠惰ベルフィゴヴル。それは食べるものじゃない」


{へぇ、違うんだ。美味しそうな色だから、てっきり}


「解くものよ、それは。パズルなの」


{解くゥ?}


くすり、と。

その笑いを最後に、漆黒の空間は凄まじく強震する。

それこそ空間という匣が掻き回されるように、振り回されるように、引き回されるように。

楽器や弓の弦が如く張り詰めていたものを幾度も爆発させ、然れど抑え付けるように。

異様なる震動が、肉体を揺らす。脳を揺らす。四肢を、骨を、血管さえも。

しかし極月は表情を歪めない。依然として平坦を保ったまま、薄く開いた隻眼で怠惰ベルフィゴヴルを睨む。

大笑い一つで空間さえ倒壊させかねない、悪魔を。


{可笑しなことを言うね。常に答えを知るような人が、答え合わせだけに死を覚悟する人が。ぃひっ}


「……必要なことよ。手段があれば、それを用いる。相手が手掛かりを残さなければ、直接相手を刺す。それだけのこと。この世界に間違いは赦されても過ちは赦されない」


この予測推測考測なにもかもが無駄な異貌達の中で。線を引けば必ず途切れさせる異貌達の中で。

それを繋げる者が居るのなら、喜々として頼ろう。頭を下げよう。そうしよう。

悪しき魂を正しく狩り殺す為ならば、奴等を狩る為ならば、構わない。何ら問題は、ない。


{きひ、ぃひ。そんなだから君は三肢と片目を失うんだよ? 極月 暮刃}


「それが何。奴等を殺せるのなら、構わないわよ」


{ひひ、ぃひ。面白い。本当に、面白い}


空間の強震が止み、刹那の静寂が訪れる。

音一つなき漆黒の空間。視界は黒という光に満ち溢れているのに、音だけが暗黒の中に墜ちた。

その空間に、怠惰ベルフィゴヴルは一つを述べるのだ。この事件の核心という答えを。

問題の方程式全てを吹っ飛ばすような、下らない解決方法を示すように、答えを。


{これが喰狗ハウンドの正体さ。そりゃ君ほどの異貌狩りならば真正面から挑もうとはしないだろうねぇ}


「成る程、答え合わせにしては上等だわ。名挙げ目的の仕様も無いクズ共には似合いの解決始末だしね」


{ふ、ふふっ。スッキリしない?}


「……いつだって、この世界の結末なんてこんなものよ。遺恨が残らないことはないし、憎悪が消えることはない。私達はその代行人になるだけ」


{ふふふ、ふふ。君らしいよ。君とのお喋りは、本当に楽しいなぁ……}


そう、と一言。付け足すように形ばかりの礼言を残して極月は席を立ち、怠惰ベルフィゴヴルに背を向ける。

ただ去りゆく者を見送るでもなく、黒靄は与えられた玩具を弄び、転がし、眺めて。クリスマスプレゼントを貰った子供のように、無邪気に遊び回っていた。

叛するように極月の眼は鋭く、深く、重く。それは正しく死地に赴く者の、眼光であり。


「…………チッ」


予測はしていた。推測も、考測も。

別にどうという事はない。ただ不快。ただただ、不快。

名挙げなどという下らない理由の底に、もっと他の意味があるのかと思っていた。

ア=ラベイほどの者を殺したのだから、もっと難解な手管を用いたのだと思っていた。

自分を殺すと挑戦状を送りつけたなら、もっと重要な意味があると思っていた。

不快だ。何も、無かった。恐ろしいほどに単純。この世界を、界隈を、舐め腐っている。


「解錠を」


ノック、二回と指背でなぞりを一回。漆黒の空間から脱出する唯一の合図。

漆黒の空間に一閃の線が開き、それは黒を照らす白となる。

壁と同化した扉だ。と、言うよりは空間の中に一枚の板を隔てているに近い。

向こう側から開かれなければその空間は隔絶したままという、高等な、そして一方的過ぎる封印術。


{……あぁ}


怠惰ベルフィゴヴルはその光を眺めながら、ふと思う。

いつ振りだろう。あの光を見たのは。そんな事は忘れてしまったけれど。

でも憶えている。この空間から出ることが出来ないのは。出るのが面倒なのは。

嗚呼、面倒だ。余りに、面倒だ。ーーー……だからこそ。


「無事ですか、お嬢さん」


「その気色悪い呼び方をやめなさい。極月で良いわよ」


「これは失礼」


マスターと極月は爪先を躙り、喫茶店のカウンターへと戻っていく。

少しだけ歩けばその先にはクッキーを食べながらコーヒーを嗜む春路の姿。そして、その隣で三本目の煙草を吸うガンマンの姿があった。

彼等は互いにぼりぼりすぱすぱと音を立てながら、退屈したように待っていたのだろう。

二人の姿が現れた瞬間、おぉと小さく声を上げるようにして。

同時に、その手からクッキーと煙草を、落とした。


{此所に居るのも、飽きたなぁ}


ずるり。

極月とマスターの背後より、靄が迫る。数メートルとない刹那が黒闇に覆われる。

刹那だ。意識の、隙間。ただ一つ。怠惰ベルフィゴヴルは扉を閉めるという動作だけを、極月とマスターの脳内から忘却させたのだ。

それだけで良い。たったそれだけ忘れさせれば、この飽きた空間から、出られるから。


「テメーーー……!」


極月とガンマンが同時に銃を抜き、マスターが魔力を収束させ、春路が悲鳴を上げる為の息を吸い込み。

刹那の中の、一瞬。それ等全てを超えて怠惰ベルフィゴヴルの靄が扉から這い出る、はずだった。

その男はーーー……、扉を足蹴にし、最後の一押しとばかりに靄を押し込んだ。どすん、と。鈍い音が響いた。

先程まで春路とガンマンの後ろ隣で眠っていたはずの男。彼は誰の反応よりも速く、怠惰ベルフィゴヴルが出現しようとした扉を蹴り閉めたのである。


「…………」


皆が、思わず口を噤んでいた。

男はそんな中をあぁ面倒だと言わんばかりに頭を掻きむしりつつ通り過ぎて、また同じソファに倒れ込む。

周囲の視線など何のその。またぐーすかと寝息を立てながら呑気にぼりぼりと尻を掻く始末であった。


「……ぶ、無事で何よりだ。皆、うん」


マスターの一言で皆が大きく息を吐き、強張った肩を降ろす。

然れど極月だけは雑念を払うが如く首を振り、カウンターから出て春路の隣へ着いた。

それに彼が反応するまでもなく、その首根っこを掴み挙げて。


「行くわよ、春路」


「え、へ、はい!? いやちょ、まだクッキー全味食べてない!! チョコ味はこっちの人が独占すっから……!!」


「知らないわよ。それより」


彼女が懐から取り出したのは、携帯電話。

皆の視線が逸れに集められ、いざ何事かと思えば数秒後に着信が入った。

表示される名前は筧。解ってたんスかと驚く春路、まるで未来予知だなと唸るガンマン。

その二人を他所に彼女は通話口で一言二言を交わし、通話を終了させた。


「お、おう。もう行くのか?」


「えぇ。さっさと行きたいもの。キュビズム画展」


マスターやガンマンはキュビズムの言葉に首を傾げるが、春路だけは何を想起したやらげっそりと頬をやつれさせた。

その様を見て、またマスター達は首を傾げるが極月は気にする様子もない。

ただ春路の首根を引っ張りながら、本人の意志など何処へやら。

親猫が子猫の首を雑に咥えて運ぶように、無理やりにでも連れて行くだけのことだった。



【某県某市某町某丁某区】

《国道》


「昔はさー? 桃仙家で修行詰んでた頃はさー? 夢見てたのよ。ノーヘルノー免バイクで女の子と湘南の風を浴びてさぁー? 海岸線をさー」


「ぐだぐだ言わずに運転してください。極月に連絡は付きました」


携帯を懐に仕舞いながら、筧は豪風に煽られ乱れた頭髪を軽く整え直す。

現在、彼等が疾駆するのは国道某号線。薄暗く夕暮れ、ネオンライトが残像を映す黒硝子の道。

会社帰りか団らん帰りか、幾台もの車が二車線通りに列を作り、硝子の先にある赤と同じ停止ランプを光らせていた。

規則正しい、停止線を守った鉄箱の行列。その中では様々な世界が繰り広げられていることだろう。

コーヒーを片手にハンドルを握る会社員のため息。遊園地で遊び疲れた子供の寝息とそれを見て微笑む若夫婦の声。友人同士で騒ぎ合いながらカラオケに行く大学生達。荷台に幾つもの買い物袋を乗せて夕飯のメニューを呟く主婦。

そんな、彼等の意識を、背後より爆速で迫る二人乗り道交法ガン無視バイクが一挙に奪い去った。


「……なんだぁ、あれ」


「ちょっと、貴方……」


「何あれ!? やっべ!!」


「……鯖の、味噌煮」


行列の狭間を縫うように、バイクは仄かに浮かぶネオンを斬り裂いていく。

唸る轟音、疾走の切風。誰もがそれを暴走族か何かかと息を呑んだだろう。

だが違う。その直後、彼等の車の天井がずがんとへこみ、幾つもの世界から悲鳴が響き渡った。

轟音も切風も、微塵のように躙り潰す跫音の悲鳴が。


「おーおー、来てる来てる。秘匿とかコレ大丈夫? 筧ちゃん」


「既に被害が出てますので、隠匿部隊の手間は変わりません。むしろ相手が狙いを定めていることとーーー……」


筧の視線が背後へ向けられ、同時に車々の天井を足場に跳躍しつつ異貌を捉える。

一直線だ。最短の距離でこちらに向かって来ている。

その姿は獣と言うより猟犬。飼い慣らされ、訓練を経て、獲物を殺す術を学んだ生きる刃。


「周囲の人間を喰らわないことが解った分、こちらの方が得でしょう。奴はあの大工の青年を喰って明らかに強化されていました。贄の直送、と言ったところでしょうかね」


「なはーっ。それってさ、もしアイツが車の屋根剥がして喰いだしたらどうするつもりなのよん?」


「……そうしないという確信はありました。しかし万が一の場合は我々の仕事です。部隊の応援も頼んでは居ますが、この速度での移動となると到着は望むべくもないでしょう」


「ホント無理するよね、君って」


桃仙は苦笑混じりに高速でハンドルを切り、バイクの後輪が浮くほどのカーブを見せる。

同時に異貌はビルの鉄柱へ片腕を食い込ませ勢いを殺すことなく遠心力で廻転、跳躍。

否、最早飛躍にさえ等しき速度は制限速度を倍ほど超えたバイクさえ、追い越して。


「そこ、曲がって!」


筧の言葉と同時に、右から、左へと。

バイクの前後車輪がスリップして車体が浮遊する。横に、流れていく。

だが瞬間のブレーキと体重移動によりバイクの車体は道路へ戻り、凄まじい速度をアスファルトへ刻み込む。

火花が散り、黒炭の線を引き。然れど速度を上昇させながら、その先へと。


「このまま螺旋道路へ進んでください! そろそろ高速の料金ゲートが見えます!!」


「ETC? ETC!?」


「ETCは取り付けてませんから通常口から! ただし悠長にお金は払ってられませんのでゲートを突き破ってください!!」


「いーけないんだいけないんだー! 犯罪なんだー!!」


「さっきからうるさいですね貴方は!!」


喚くようなやり取りをしている内にも、彼等の眼前には高速へ入る前に速度を落とさせるための螺旋道路が見えてきていた。

だが此所で速度を落とせば後方から迫る異貌に追いつかれるだろう。故に、速度は落とせない。

ならばどうするか、と。彼等は合図を取るまでもなく全力で内側へ重心を移動させた。

先程のようにスリップしない為の正しいカーブの曲がり方だ。だが、それは余りに掛けすぎている。

横転直前の、車輪の角が辛うじてアスファルトを擦っているような状態であり。


「よし、このまま……!」


視界の端を、それは遮った。

螺旋道路の中央、吹き抜けになる、その隙間。


{ぐる}


異貌は駆け上がってきたのだ。

数段飛ばしに跳躍を繰り返し。筧達が一歩一本上ってきた道を。

彼等の軌跡を嘲笑うが如く。全てお見通しだと踏み躙るが如く。

現れ、そして気付く。バイクで疾走する者達の表情が眉端一本、動いていないことに。


「お前さん、暗殺に関しちゃプロみてーだが……」


嘲笑い返すは桃仙。

銃を構えるは筧。


「戦闘に関しちゃズブの素人だなァ」


筧は左腕を支えに銃を発砲する。豪風を劈くような銃声が反響し、夜の闇へ消えていく。白煙が豪風に呑まれて失せていく。

彼が狙ったのは頭ではない。胸元の急所でもない。ただ、端だ。身体の端。

異貌は空中で跳躍した故に、一瞬の空白を生んだ。脚が浮き、踏ん張りの利かない空中故にだ。

例え不死であろうと強靱であろうと構わない。

身体の端を撃ち抜き態勢さえ崩させれば、後は、落ちるだけ。


「これで随分と間が……」


だが、未だ追えることなく。

それは桃仙の言葉通り戦闘に関しては素人だ。だが、暗殺に関しては玄人だ。

筧が異貌を撃ち抜き、懐に銃を仕舞おうとした瞬間。その、僅かな狭間に。

バイクの内部より、腕を突き出すが如くーーー……。


「はい邪魔ー」


桃仙は虫螻でも払うが如く、出現し掛けていた異貌を蹴り飛ばした。

そして、その行動は異貌に恐怖を刻み込む事となる。

高速で疾走するバイクから、物を捨てればどうなるか。況して制限速度の数倍は出すようなバイクから。


{る、がァアッ!!}


地面に接触する瞬間、僅かに異貌が唸った気がした。

だが直後、ぱごんっと弾けるような音で唸りは塗り潰されることとなる。

桃仙も筧もその様子を見ることはなかったが、想像するのは容易であった。

もし自分達の前でそれが起こっていたのならーーー……、随分と嫌な異臭を浴びることになっただろうが。

兎も角、一端退けたとは言え奴は不死であり転移の能力を持つ。

油断は出来ない。また、何処からか襲い掛かってくるのは間違いないのだから。


「おっ、料金所」


などと覚悟している内にも、料金所が目前に迫ってきていた。

料金ゲートの遮断機が下がる。見慣れた赤と白の棒きれだ。

居眠りをこく警備員の隣で遮断機をへし折るのは心苦しいが、緊急事態だ。仕方ない。


「そのまま突っ込んでください、桃仙殿。一応は引き離しましたが、またいつ追いつかれるか解らない」


「オーケー了解。アクション映画みたいで面白いねー」


さっきは犯罪だ何だと喚いていたのに。

ともあれ協力的なのはむしろ有り難いことだ。無駄なことに意識を裂かなくて済む。

異貌が追いつくまで数分もない。いや、或いは数十秒すら。

だが、それだけあれば頭を駆け巡る情報を整理するには充分だ。僅かに霞む、嫌な予感を払拭するには充分過ぎる。


「突っ込むぜ筧ちゃん!」


「はい。バランスに気を付けてくださいよ」


まず、奴の本体は何処か。不死と転移の能力を持つ以上、獣人ではないのは間違いない。

あの人狼を彷彿とさせる姿は精霊か妖怪や悪魔の類いだろう。尤も不死は兎も角転移の能力の説明はつかないが。

そこに説明を付けるのなら、もっと別の次元ーーー……、強力な不死性からして神域か、伝承並の神秘性を持つはずだ。

そしてこの人間界の物々に戸惑う仕草を見せないところ、慣れた移動から見るに、操者は人間。或いはこの世界に近いーーー……。

いや待て、ならばその人間は何処に居るという話に帰結するではないか。それを調べる為に態々バイクを使って此所まで来ているのではないか。

待て。ならば何故、奴は姿を見せない。召喚系統の技にしては射程距離が長すぎる。

だとすれば、憑依? 奴自身が本体なのか? ーーー……憑依?


「憑依……?」


何処かで、と。そう呟いた瞬間、彼等の乗ったバイクが遮断機を突き破った。

轟音と破砕音。幾多の破片が闇を裂くネオンライトに照らされて、スターダストように輝いた。

煌めきの中で、それは。彼等の隙間に異貌なる獣は、腕を伸ばして。


「飽きないねお前さんもっ!!」


桃仙の裏拳が異貌を殴り抜き、後方へ吹っ飛ばした。

幾度繰り返そうと変わらないことだ。いいや、違う。そうではない。そこではない。

そうだ。此所には何がある。他の場所にはない、此所には、何が。

ぞくり、と。筧の背筋を嫌な汗が伝う。悪寒が指先を凍えさせる。

ほんの少し、振り返って、視る。料金所の鉄柵に踏み込み、両脚に力を込める異貌の姿を。


「桃せーーー……ッ!!」


ひゅるり、と。何かが通り過ぎた気がした。

闇夜の中に確かな影。星空が黒く染まり、また輝いて。

刹那と称すに相応しき一瞬。獣は、その刹那を声ながら。

彼等の眼前に、アスファルトを破砕しながら着地した。


「筧ちゃんハンドルよろしくっ!!」


「……ぇ、えっ!?」


筧が事態を把握するよりも前に、桃仙はバイクのステップを蹴り飛ばして、シートとヘッドランプに両脚を掛けた。

高速で疾走し、さらには遮断機を破壊することで大きな衝撃を受けたばかりのバイクだ。当然ながら操縦者が急に歌舞伎役者が如く大立ち回りの格好を取れば起動は大きく狂う。

だが、ハンドルを任せたと言われても筧は後輪上の乗席。そもそも桃仙が邪魔で両腕が伸ばせない。

その事を伝えようと彼は叫んだが、獣との激突目前故に意識を集中させ、周囲の豪風音を捨てた桃仙に届くはずもなく。否、彼は敢えて聞いてはいなかった。

瞬間、前輪は泣き喚くように暴れ回り、高が小石一つを踏んだ瞬間に、車体が浮き倒れーーー……。


「ぃ、っが!!」


捻り出すような悲鳴と共にバイクは平勢を取り戻し、どうにか道路へ車輪を戻す。

腕が届かないなら、脚。それはもうブリッジと言うより曲芸同然の態勢で。乗席を背中に両手でバランスを取りつつ、桃仙を避けて両脚を伸ばしてハンドルを抑えるという。

曲芸よりも芸人のような、精神的にも肉体的にもかなりキツい、滑稽な態勢であった。


「とォオオオオオオオオせェエエエエエエンッッッ!!!」


「あ、遂に呼び捨てしたなコノヤロウ! 密かにSNSとかで上司の悪口書き込むタイプでしょ君ィ!!」


直線上の高速道路を以前変わらず、凄まじい速度で。いや、心なしか先程よりもさらに加速して。

筧は無茶だ、とか。ふざけるな、とか。そんな風に罵声を浴びせかけようとしたけれど。

目の前で半身仁王立ちする男の脇腹が大きく抉れていることに気付き、その言葉を失ってしまった。


「き、傷が……」


「はい前見るゥ。足場崩したら死ぬぜ」


刀剣纏う半身構えの男と、曲芸よろしく足甲でハンドルを支える男。

対峙するは両脚をアスファルトに滅り込ませ狂爪、穿牙を唸らせる異貌。

距離にして、数メートル。秒間にして、一秒以下。交差にして、一撃。


{ぐるぁ}


「しつこい男は嫌われるのよ~……、ってな」


刹那。


「……いざ」


黒闇を滑る銀の閃光。月光斬り裂く影の牙爪。

眼を打つ塵が、頬を斬る風が、臓を流れる血が、鮮明に肉体を躍動させる。

対する異貌に対し桃仙の足下は決して安定していない。むしろ酷く乱れ視線は上下に揺れる。呼吸は震動で潰され、動作は豪風に抑され。

然れどーーー……、彼の意識は静寂の極地にあった。

自身の首へ振り下ろされる爪の起動が見える。眼と刀身以外が肉体から消え失せたようだ。全てが流れるように、決まったように。


「狩るべし」


剣閃、絶。


「……ッ」


桃仙の首筋を、爪先が伝う。

その爪は有り得ぬ挙動で彼の首だけを擦り、消えていく。

否、刹那の狭間に爪の先へ、剣閃が抜けて行く。獣の肩口へ、白刃が。


{ぐ、がァ、アッッ!!}


獣が慟哭し、鮮血がアスファルトの亀裂に流れ込んでいく。

同時に桃仙は全身から一切の力を抜き捨て、酸素という酸素を吐き出した。

全神経が感覚を取り戻す。豪風が鼓膜を刺す。心臓が数倍の鼓動を起こす。

それ等は全て重なって目眩と吐き気を起こし、意識を取り戻すべき呼吸さえも塞ぐが如く、気管をきつく締め上げた。


「ごめ……、ちと逸れた……」


桃仙は鮮血溢れる脇腹を抱えながら、膝を折った。

同時にバイクは大きく姿勢を崩し、前輪が暴れ狂いながら車体を揺らす。

瞬間、筧は最早バイクは使いものにならないと判断して即座に時間を停止。

自身の態勢を建て直すと共に桃仙ごと薙ぎ倒すように、道路端を仕切るトタン板へと突っ込んだ。


ッガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッッ!!!


激突と爆発。折り重なる衝撃の爆風は全てを飲み込んだ。

筧は桃仙を抱えたまま、背中から仕切りに衝突し臓腑を吐き出さんばかりの衝撃を受ける。

トタン板は彼の形に拉げ、業火の煽りを受けてぱきりぱきりと音を立てた。


「ぐ、が……」


ずるりと摺落ちながら、彼は激痛に弄ばれる意識を必死に抑えていた。

桃仙の脇腹が斬り裂かれ、臓腑が垣間見えていた。今すぐ手当てしなければ致命傷となってしまう。

だが、どうする。この騒ぎを聞きつけた保安員の到着を待つか。それとも後続の異貌狩り達を待つか。

否、どちらも間に合わない。このままでは、彼がーーー……。


{……ぐるゥ}


漆黒の闇。星空が、バイクの炎上により覆い尽くされていく。

いや、もっと別の影によって覆い尽くされていく。

炎上する残骸を背に、異貌は佇んでいた。凶血に染まり狂気に満ちた牙を拡げて、佇んでいた。

桃仙が斬った腕は既に復活している。怯む様子はない。戸惑う様子もない。

異貌はただ、その牙爪を振り上げ、そしてーーー……。


「統括せしめる天の七詠」


異貌の腕に、天輪が如き七の輪が括られ。


「祖、六道輪廻に啓き五神の系譜を斬り四幻の龍虎朱玄を祷り三賢者を奉り二極の陰陽を禍ちて憑神の因果を刻印す」


その者の一言ごとに異貌を括る天輪は召喚される。

右腕、左腕、両手首、肩、足首、指先、太股、土手腹、首根、背随。

数秒の内に唱え終えられた詠唱により、異貌は容易く自由を奪われたのだ。

だがーーー……、その異貌をこの程度で縛れるはずはない。如何なる結界であろうと、その異貌は。


{る、がッ……!?}


否、解けない。逃れられない。

120度という角度があれば、どんな場所でさえ瞬時に移動出来るはずなのに。

その身は縛られ能力は使えない。恐らく、いや確実に今は不死性さえも封じられている。

何故だ。今、この身が、何故ーーー……。


「名は大きな意味を持つ。型落ち(・・・)には契約せし者の名でさえ……」


業火の中より、彼女は歩み出て来た。

異貌なる者の影を踏み越え、突き立てた双指にて夜天を指し。

隻眼美麗なる容姿を持って、人間界に再臨する。


「き、極月……!」


振り絞られたその声に、異貌の眼は見開かれ、その背後より冷酷なるため息が零れ落ちる。

義手の掌が弄ぶ鍵達の鳴き声が灼炎の最中に融け込み、灰燼吹き荒ぶ冷風さえも溶け褪せさせる。

彼女は、極月は封縛した異貌に興味などないと言わんばかりに平然と歩み、地に伏す虫螻が如き男達の前へ歩み立った。

依然として変わらぬ、隻眼で見下ろしながら。


「桃仙……、無様ね」


「……いーかたキッツいぜぇ極月ちゃぁーん。今度デートでもどう?」


脇腹に蹴り一発。

軽く致死レベルの一撃であったが、自業自得な桃仙の無駄口は一瞬で収まった。

尤も、その代わりに筧の胃がキリキリと悲鳴を上げ始めたわけだが。


「で……、どうして標的のところに貴方達が居るのかしら」


「そ、それはこちらの台詞だ! 何故貴様が……、いや、それよりも春路はどうした! 彼は!?」


「うるさいわね。あそこに居るわよ」


彼女が指差したのは封縛された異貌の向こう側、囂々と燃え盛る残骸の端に出来た扉からちらりと顔を覗かせる青年だった。

彼はこちらを見つけるなり手を振るが、捉えられた異貌の姿を見てぎょっとした驚愕を見せる。

だが流石に消えつつある扉に居るわけにもいかず、怖がりな子供がお化け屋敷でも駆け抜けるかのように目を瞑って異貌の隣をだーっと駆け抜けて。


「来なくて良いわよ、春路」


駆け抜けようと、して。

極月にそんな風に言われたものだから、そりゃないですよぉと涙声になって。


「友達を助ける方が先じゃない?」


嘲笑うような、言葉だった。

冷徹な眼光が全てを物語る。ただその一瞬で、春路は反論だとか言い訳だとか、そういった選択肢が奪われた気がした。

困惑の隙間さえも赦されない。彼女はただ、こちらを見下している。

最早虫螻にも劣る、ただの死に体な獲物を、肉塊となる屍を、蔑むように。


「き、極月!? どういう事だ! 彼は試験学校の生徒で、本部が推薦したっ……!!」


「手を広げてみせなさい」


筧の言葉など意にも介さぬ、命令。

春路は諦め、全てを悟ったように微笑むと左掌を拡げて見せた。

そこから何が落ちたのか、もし背後の炎上さえなければ筧は見逃していただろう。

それ程までに小さく、細い。封縛されている異貌の体毛というものは。


「……何処で解ったんスか?」


「別に。強いて言うのなら、貴方と筧が家に尋ねて来た時かしら」


「っかしいなぁ。あの時はまだ、下手踏んでなかったと……」


「貴方は喰狗ハウンドの名前を聞いた時、奴()と言ったのよ」


金属を知る者に、ニッケルや青銅の名を問えばどんな味かという質問は返さない。どんな性質か、形状か、堅さかを問い返す。

果物を知る者に、りんごや蜜柑の名を問えばどんな場かという質問は返さない。どんな味か、色か、大きさかを問い返す。

地理を知る者に、国や地域を問えばどんな色かという質問は返さない。どんな場所か、特産品は、暑いか寒いかを問い返す。


「それを知るから、そう言える。況して貴方は自身のことだった。だから、自然と口から零した。……でしょう?」


「……ははっ、てっきり電話でバレたと思ったんスけどねぇ。アレ、折角ミスリード狙ってたのに」


春路が懐から取り出し、ぶらぶらと揺らす電話には確かに発信履歴や着信経歴がある、が。

最早隠すつもりもないのだろう。それからは強烈な異色が漂っていた。彼の隣で縛られた者と同じ、色。

つまりーーー……、もし極月がその携帯電話を調べれば直ぐ様あの化け物が飛び出していた、ということなのだろう。


「でも、それで確信したんスか? 言い間違いかも知れないのに?」


「まさか。もう一つはマザー・オーのところで彼女が貴方を拒まなかったことにある。罪人しか好まない彼女がね。……そして駄目に押しにもう一つ。春路、貴方、私にメモ帳を見せられる?」


ふふ、と。思わず笑みさえ零れてしまう。

その通りだ。自分があの喫茶店で存在を失いかけた時、記憶を取り戻す為にメモを奔らせた時。

何よりもまず思い出したのは自分が何者か、何をしに此所に来たのか。そして、自分の役目は何なのか。


「確認の為に、本当は弟子かも知れない奴をあんな場所へ? ホントに死んだらどうするつもりだったんスか」


「だから?」


「……だから、って」


嗚呼、駄目だ。この人に話し合いは通じない。揺さぶりも意味を成さない。

この人は解っていたんだ。何もかも、初めから。ア=ラベイのダイニングメッセージを見た時から。

ただそれでも確認の為だけ(・・・・・・)に幾つもの危険を冒した。幾つもの世界を渡った。

姿を見せず、形を赦さず。闇夜から首根を掻くだけの自分達が、嗚呼、こんなにもあっさりと。

何と惨めなことだろう。何と虚しいことだろう。ーーー……舐めていたのか、この界隈を。


「ま、待て極月……! だとすれば彼は、彼はいったいいつから異貌と組んでいた!? 成績も優秀な彼が、どうやって」


「筧。貴方の大好きな私の弟子になるはずだった青年ってのはね、既に死んでるわよ」


筧の頭の中で、繋がるはずもなかった線が合わさっていく。

答えとなって、驚くほど呆気なく、繋がっていく。


「彼の骸は私より先に貴方が見たはずだけれど?」


どうして、こんなに単純なことに気付かなかったのだろう。

あの時は影だったからか? いいや、そんな物は言い訳だ。

彼は旅人のような格好をしていたではないか。そうだ、気付くべきだったのだ。

旅人で当然だろう。彼は、彼女に付き添うはずだったのだから。

彼女の元で多くを学び、長くを過ごし、大きを成すはずだったのだから。


「成り代わったのか……ッ!!」


本部が送るはずの、極月の弟子となる者。

それは疾うに死んでいたのだ。あの日、極月の元へ春路が訪れる前に。

いや違う。春路を名乗る者が訪れる前に、本当の春路は殺されていたのだ。

だから顔面を破壊した。その姿を悟らせないよう、時間を稼ぐように、奴等は本当の春路の顔面を無残にもーーー……。


「その通りッス。いやぁ、努力家な優秀性で良かったッスよ。突出した能力はなく、けれど全てが高い平均値を持つ。時に凡百と唯一は見分けが付かない。天才と馬鹿は紙一重って言うじゃないッスか」


へらへらと嗤う春路、否、春路を名乗る青年を前に筧は胃液が迫り上がる思いだった。

何故気付かなかった。どうして、今の今まで気付かなかったのだ。

自分はこんな奴に、極月を任せたのか。彼女の背中を預けるようなことをさせたのか。

何と、無様。何と、愚か。


「こればかりは予想だけれど。春路……、で良いわね。貴方、超能力者でしょう?」


「えぇ、ご名答ッス。俺の能力は鉄の生成。つっても能力が強くないんで、小さい奴しか作れなかったんスけど……。俺は逆に極小を目指した」


彼が行ったのは、極小ーーー……、ミクロン単位の鉄の生成だった。

その鉄に異貌の体毛を取り込ませて120度の角度を保ったまま生成させる。

後は簡単で単純だ。その鉄を空気中に分散させ、相手の体内に送り込むだけ。口の表面に付着したり喉に突っ掛かったりはするけれど、それでも充分。

そこから異貌の分体を召喚し、相手を不意打ちで暗殺するには、余りに充分過ぎた。

傲慢。この世界で死に直結しない(・・・)もの。直結してさえ、くれないもの。


「……フフッ、貴方の教えは役に立つッスねぇ」


皮肉。当然、彼女にそんなものが通じるはずはなくて。

そんな当然のことを噛み締めながら、春路を名乗る男は異貌の牙に指先を添わせ口端を歪ませる。

その歪みは必然、異貌自身に伝わり。その地肉は爆ぜ散り、消えて。

異貌は男の持っていた毛先より、新たに生誕する。


「不死性も封じていたはず、と思うッスか?」


確かに異貌の不死性は封じられていた。あのまま刃で貫かれれば、或いは殺されればそのまま憑依者の肉が朽ちて死んでいただろう。

だが、男は己自身の肉体を触媒とすることで、中間の『繋ぎ』とすることで新たに異貌を憑依させ直したのだ。

こうなれば肉を喰らうだけでは済まない。己の能力も得たさらに上位の存在が出来上がる。

自身の出来損ないな鋼鉄生成能力を遙かに上回る、金属類なら自由に創造出来、不死性と条件付きではあるが瞬間移動が可能な暗殺者へと進化するのだ。


「使いたくなかたッスよ、この奥の手は! これを使えば俺自身にも負担が大きい!! けれど、これで確実な、あのア=ラベイ達さえ殺した異貌が出来上がる!!」


「馬鹿な……、異貌の共存!? そんな事をすれば、契約が!」


「何の為にクトゥルフ神話なんて狂った連中と契約したと? ティンダロスの猟犬なんて群生と契約したと! 奴等は旧世代として区切られた存在! だから神々の耳にさえ届かなければ果ての俺達が気付かれることは有り得ない!!」


だからこそ、今までやってこれた。幾億のものさえ捧げれば、あの異界の狗共は喜んで力を与えてくれる。

その為に此所まで来た。名を挙げる。名を挙げてやる。貴様等全員殺して、名を挙げてやる。

そうすればあの狗に頭を垂れることも、手柄の証をくれてやることも、契約に縛られることもない。

神々の域に到るための、力さえ手に入れることが出来るーーー……!


「征け異貌よ! 鋼鉄のティンダロスよ!! 今こそ、お前の」


ーーー……契約違反ト見naス。

その一言が、男の頭蓋へ反響した。

時が止まり、四肢が事切れ、膝から崩れていくのが解る。

ただ肉体が墜ちていると言うのに、視線だけは依然として空へ浮いていた。

違う。頭が掴まれている。肉体では無い、魂としての形である頭が、掴まれている。


{汚Ra愚カなru羽虫ヨ。貴様ノ行為ha他ナraぬ我等heの侮辱でアru}


砂嵐でも掛かったような、雑音。

それは確かに言葉だった。人間が理解出来る言葉であったが、日本語だとか、そも人語ではなかった。

男の意識のみに伝えられる言語。彼の魂を腐らせぬよう、優しく語りかける為の言葉。

それは如何なる毒より恐ろしく、如何なる果実よりも腐り果てていて。


{ヨっte貴様の魂ハ我等の餌とnaッて貰u。死ヲ得raレnu骨トなり磨ri減ル事無ki牙に喘ぐga良イ}


ずるん。肉体から毛先が、眼が、首が、指先が、爪先が。

抜ける。抜けて行く。決して離してはいけない何かが、抜けて行く。


「あ}


彼はそこで漸く理解した。自分が最後の手段と粋がっていたものが、如何に恐ろしいかを。

自分が狗だ何だと見下ろしていた存在が何者であるのかを。

彼等の決して終わることなき牙の研ぎに弄ばれ、血肉が砕けようと四肢がもげようと臓腑が飛び出そうと。

これより死すことさえ赦されぬ地獄が待っているのだ、と。


{あaアあアあaaアあaあアあアあaアアあaアあaあアあアあaアーーーーーっッ!!!}


霊魂の絶叫は、如何なる者にも届かない。

ただ現世に、人間の理に立つものが見るのは崩れ落ちる男と、その隣で灰燼に帰す異貌の姿だけ。

そうして漸く知るのだ。燃え滾る灼炎の黒が、夜天の星を覆い尽くすのを諦めた時。

己の手には余るのだと嘆きて、その涙で自身を消し去った時に、漸く。

全てはーーー……、この下らぬ一件は終わったのだと、知るのだろう。




【異貌狩り本部病院】

《第十一特別治療室》


「…………」


上半身を起こしたそのベッドから見えるのは、病院公園で遊び回る子供達の姿だった。

看護婦が忙しそうに駆け回り、その子達にお昼寝の時間ですよと叫んでいる。

少し肌寒い風が吹くにも関わらず子供達はまだ遊ぶと言って聞かず、看護婦を困らせていた。

そんな景色が見える、病院の個室の中で。筧はただ己の脇腹から来る鈍痛で眠ることも出来ず、かと言って仕事をすれば同僚や部下に文句を言われるしで何も出来ずに居た。

目の前にテレビはあるがドラマなんてここ最近見てないし、バラエティを見る気分にもなれない。教育番組は少し見たけど飽きた。

本だ。本でも、持ってこようか。そう言えば仕事用の資料がーーー……、いやいや。

少し休んだ方が良いのかも知れない。自分も、今回は些か疲れた。

ーーー……思えば、こんな風にぼうっと過ごすのはいつ振りだろう。と言うか、こうして寝床にもたれ掛かるのさえいつ振りだろう。


「入るわよ」


と、そんな蚯蚓が如くのたうち回る思想を打ち壊すように彼女は入室してきた。

片手に紙袋と見舞い品のフルーツ盛り合わせを抱え、脚でベッド横のパイプ椅子を引き摺って当然のように腰掛ける。

いや別に元から腰掛けてくれとかどうぞとか言うつもりだったが、まさかここまで堂々と座るとは思わなかった。

と言うかそもそも彼女が見舞いに来るとさえ思っていなかった。この女、極月が。

尤も、理由なら彼女が入室した瞬間に解ってしまったわけで。


「行ってきたのか、キュビズム」


「あら、よく解ったわね」


「口角が僅かに上がって……、なんて推理を出来れば良いのだがな。その紙袋を見れば嫌でも解る」


訳の分からないカクカクした絵がプリントされた、随分と重そうな紙袋。

中にはぎっしりとキュビズム画集が詰まっていることだろう。彼女のご機嫌はこういう事だ。

ふと思う。あの紙袋にお茶でも零そうものならどうなるのか。

断言しよう。死ぬ。


「で、容態は? クソ野郎が見当たらないけれど」


「背骨に亀裂が、な。ただ異界の治療で問題なく治癒するそうだ。……それと上司をクソ呼ばわりするのはやめろ。あんな方でも一応は鬼狩りのエキスパートだ」


「クソ野郎で奴を直ぐ連想するのもどうかと思うけどね」


「因みに今、桃仙殿は口説いた看護師と異界に置いてきた数十人の彼女が全遭遇した修羅場に居る」


「クソ野郎じゃない」


兎も角。

そんな風に間を置いて、極月は自分が持って来た袋から林檎を取り出して齧り付いた。

聞けばキュビズムから帰り序でに此所へ寄ったので腹が空いているそうだ。

人に見舞い品を持って来ておきながら自分で食べるのはどうなのかという意味だったのだが、もう問うだけ無駄だろう。


「……で、だ。極月。今回の事件についてだが」


「どうせアンタがそういうと思って調べてきてるわよ」


彼女は右側のポーチから小さなボールを取り出し、筧の腹へと置いた。

設置されたボールは赤色のボタンを押されると同時に近未来SFでよく見る、電視画面を空中に展開する。

そしてその場面に映されるのはこの傷の原因でもある騒動を起こした、黒幕の男。

いやーーー……、無邪気に笑うその姿はあの時よりも、少し、幼く見えた。


「男の名前は櫛木 家数(クシキ ヤカズ)。犠牲になった春路 耀斗と同年代で鋼鉄生成の能力者だったそうよ。異貌狩り本部のデータベースに登録情報があったわ。……二年前の死亡覧にね」


「……偽装、か」


「えぇ、内部から手引きした馬鹿が居るみたいよ。研修生としての申請書類に顔写真を乗せなかったのもそいつの仕業。今頃はマザー・オーとお楽しみじゃないかしら。情報分より多いのはいつものお礼と言っておいたわ」


「容赦のないことだ……。で、あの異貌は何だったんだ」


「『ティンダロスの猟犬』を変異した死体に憑依させたものよ。残留思念で櫛木の命令を聞いていたみたいね。携帯電話からのコール数に特定の命令を当てはめた、単純な電気信号よ」


「それは解るが……、変異させた死体?」


「えぇ、元は櫛木の友人だったそうね」


彼女が指先でスライドした画面に映るのは、廃材や瓦礫が積み上がって瞑れた社と拉げた鳥居。

廃神社、だろうか。いや、確かこの写真には見覚えがある。

かなり昔に処置するはずだった廃神社に一般人が侵入。その後、祟りによって死亡した、とーーー……。


「奴等の目的は名挙げだけだったのかしらね」


ふと、そう呟いた彼女の言葉で筧は陰鬱な気分に落とされた。

変異した死体と残留思念。名挙げ。嘗ての友人関係。これ等を並べれば、自然と予想は付く。

名を挙げて変異した死体となった友人を戻そうとしたのか。異貌の力に頼り、治そうとしたのか。

有り得ない話ではない。時間を戻せば、因果を収束させれば出来たかも知れない。死人さえ甦らせる道具は確かにある。

だがーーー……、だからこそ櫛木という男は見てしまったのか。可能性という夢に希望を見てしまった。

そして外れた道を歩み、無残なる、最期を。


「終わってみれば呆気ない事件ね。もっと内部を綺麗にした方が良いんじゃない? この組織」


極月は呆れた声を上げながら、林檎の角を囓り取った。

果汁滴る指先を舐め取り、爪先で唇を弾く。生身だとベタつくから嫌ね、なんて皮肉まで付け足して。

だが当然のことながら筧がそんな冗談に頬を緩ませるはずもない。いや、むしろ不機嫌ですら。

その理由は彼女の冗談にあるわけではない。この事件の、いや、あの終結にある。


「極月」


「何? 貴方の好きな蜜柑は置いておくけど」


席を立ち、筧に背を向けたまま彼女は備え付けの手洗い場で指先を注ぐ。

冷水に指腹同士を擦り合わせて、果汁の汚れを落とす。僅かに指先へ付着した果肉が、排水口へ流れていった。

やがてベタ付きのなくなった指をタオルで拭き取り、彼女はまた席へ着こうとした、が。

筧の一言で、振り返るべく躙られた足先が、止まった。


「お前、使ったな?」


腹の上に転がるボール型の映写機を抑え付けながら、彼は視線を落とす。

訪れるのは沈黙。それは肯定なのだろう。もの言わぬ首肯と、変わりはしない。

自然と、映写機を抑える指先に力が入る。脇腹から刺すような痛みが伝わるが、それよりも自身のそこから湧き上がる憤怒の方が大きかった。

どうして彼女はこうも顧みない。自分という存在を。自己という形を。


「……極月! その眼は、お前を」


「知ってるわよ。……解ってる」


「解っちゃいない! お前も知ってるはずだ。その眼は異貌を引き寄せる!! 霊的にだとか魔力的にじゃなく、その眼こそが奴等の通り道になる!!」


荒げた声が個室に反響する。

自身の傷に響き、嫌な鉄の味が口の中に拡がっていく。

それでも、止められない。止まる訳にはいかない。


「お前が『万神なる者』から埋め込まれた、その眼はーーー……!」


ごぶり、と。筧の喉に何かが詰まる。

彼は驚愕と困惑を入り交じらせてそれをシーツの上に吐瀉し、続いて喉に引っ掛かった痛みを誤魔化すように咳き込み続けた。

だが一度咳き込む度に脇腹と背骨へ激痛が走る。痛みがあれば、また誤魔化すように咳き込んでしまう。

そんな苦痛の循環が起こったものだから、最早彼は喋れるはずもなく。


「お、おまえ、りんごのっ……、芯をぉっ……!?」


「好きでしょ、りんごの芯」


「そんな趣味は、がぼっ」


うぅううと弱気な悲鳴と共に、脇腹を押さえて彼は蹲る。

傷口が開いただろうか。いや、遂には背骨が折れたかも。ーーー……有り得るはずはないが。

けれど、もしそうなったとしても彼女は何も気にしないはずだ。自分の身さえ塵芥のように扱う彼女が。

その眼を埋め込んだ者を殺す為に、ただ異貌を狩り続ける彼女が、どうして気にするだろう。

気にするはずなんて、ないのに。


「……もう少し、自分を大切にしろ」


蹲ったまま、消え入りそうな聲で彼はそう呟いた。

外から、子供達の笑い声が聞こえて来る。肌寒くなってきた風の吹き抜けが窓を揺らしている。

それ等に掻き消されそうな聲。筧本人にさえ、届いたかどうかは解らない。

ただそれでも彼女の表情も雰囲気も、変わりはしないのだろう。きっと今頭を上げたって、見えるのはいつもの表情だけだ。

変わらない。あの時、忌まわしきあの神に左足と片眼を奪われた時から、彼女は何も変わらなくなってしまった。

異貌を狩る者として、日々に鮮血を流すばかりーーー……。


「ヘルプミーあーんどトラストミー」


そんな空気を真横からブチ壊す。

扉を引き摺るように開いて現れたのは頭に注射器三本、背中にパイプの残骸、首に鉄製の首輪を付けられた哀れな男こと、桃仙 キンジだった。

極月と筧はその者の来訪にそれぞれ銃を構え、侮蔑を構え。

尤も、流石に本人があの事件の時より死にかけなので勘弁してやったが。


「……で、何でそんな事になってるんです」


「ナースプレイしたいって言ったら殺されかけてね……」


「筧、殺しましょう」


「よし、許可する」


「ちょおま」


病院に響き渡る絶叫と銃声の嵐。そして数分後にそれ等を軽く上回るナース長の怒号、序で全員のあっという言葉と悲劇の一弾。光る手術室のランプ。運び込まれる変態数十股男。

ただ混沌と悲鳴と鮮血に染まった部屋で退院はいつになるのか、帰宅できるのは、仕事を再開させられるのはいつになるのか。序でに胃薬も貰って帰ろうかと考える筧の見る空は、何処までも青かった。

例えその後ろで、幾人の女やもう人型ですらない獣や異貌とさえ呼べる者達が暴れていようとも。


「ま、そろそろ帰るわ」


「おい待て極月、こんなところに俺を置いて征くな」


「頑張りなさい。見舞いぐらいならまた来るわよ」


並み居る女達や彼女達を止めようとする看護婦を蹴り飛ばして、彼女は紙袋を下げたまま入り口へ向かって行く。

ただ、そんな風に喧騒に巻き込まれた一室の扉に手を掛けたとき、少しだけ振り返って。


「……忠告、ありがとね」


そう言い残し、去って行く。

全く持って、彼女という存在は度しがたい。決して揺れることも壊れることもない、脆き存在。

幾多の異貌を狩りその鮮血を身に浴びて、一眼三肢を失えど未だ諦めることなく。

無果なる永劫の世界へ足を踏み入れ、幾億の呪言に浸り尽くせど。

彼女は未だ生きている。この日々で、この界隈で、未だ、生きて行く。

極月 暮刃。彼女はまだ、異貌なる世界でーーー……。



読んでいただきありがとうございました。


編集君にあれやりたいこれやりたいって言ってたらじゃあ全部纏めてやれやとキレられて出来た作品。

基本的に(短編だけど)1章で1つのテーマが出来る感じですね。今回はクトゥルフ。でも本腰入れるともっと話は変わると思います。

色々なテーマを欲張りすぎてる感はありますが、その端々をつまみ食いする、というのが一番合ってるカモ。


さて、獣人の姫特別編もまだ書けてないのに調子乗ってやり始めたら大変なことになっちゃったテヘペロ。

まぁ、某所での更新休暇中だったり他の短編も仕上げられたりで獣人の姫連載当初よりは大分余裕も出来ました。執筆量増えたけど。

今回の短編は一応連載モデルとしてあったアイデアを短編に仕上げたものです。

むしろ長編向きですね、これ。いっぱい要素があるのでネタには困らなさそう。

その分知識も必要なワケですが。勉強は嫌だね!


てなワケで読んでいただきありがとうございました。

次は獣人の姫特別編に取り掛かります。さていつになるやら……。


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[良い点] 面白くて引き込まれました。 作者さんの地の文好きです。 [気になる点] すいません報告を 視線を暮れ果てる→くれ果てる その青年を暗い終わった→喰らい? その情けなさに筧は再び意気を零した…
[良い点] 読んでいて楽しかったです [一言] こんなに面白い作品を書いてくださり、ありがとうございました
2016/01/03 19:30 退会済み
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