第63話 リ・ザーネ
綾原を帰還させた場所――俺が閉じ込められていたあの部屋を目指して、俺は身を潜めつつ神殿跡地を駆けていた。
なんとなくではあるが、道順は覚えている。
建物としての形状をほとんど失った神殿跡地。
天井はなくなり、割れた壁だけがところどころに痕跡を残している。
回廊だった場所には倒れた壁、落ちた天井の瓦礫が散乱し、山道のようにして行く手を邪魔していた。
それを踏み越えていかなければ前へは進めない。
俺は元の世界に戻りたいという一心で瓦礫を登り、踏み越え、前へと突き進み続けた。
ふと見上げれば白狼竜の巨体な姿。
座り込み、目だけで俺を静かに捜している。
黒炎竜の姿が見当たらない。
──ということは、黒炎竜が負けたのか?
争いは収まり、再び異常なまでの静けさが辺りを深く包み込んでいた。
俺は白狼竜に見つからないよう慎重に、白狼竜の近くを通り抜けた。
さきほどの戦闘のおかげか、運良く白狼竜が帰還魔法陣のある場所から離れてくれている。
本当に、帰るチャンスがあるとすればこの時だけだ。
俺は物陰や瓦礫の下を利用して上手くかいくぐりながら前へと進み続ける。
積みあがった大小の瓦礫をくぐり、踏み越え、そしてようやく俺はあの部屋の跡地へと辿り着くことができた。
ここだ!
室内と思われる場所はすでに倒れた柱や壊れた天井や壁の残骸で埋め尽くされていた。
その最奥。
奇跡的にもその場所は、無数の亀裂や裂け目があるもののなんとか現状を保ち、形を残している。
これで向こうの世界へ戻れる!
希望を胸に、込み上げる興奮を抑えながらも急いで瓦礫を降り、そこへと駆け寄った。
――あった。
帰還魔法陣。
元の世界へと帰れる唯一の方法。
崩れるギリギリ手前の場所で、それは奇跡的にも原型を遺していた。
床に亀裂もなく、その形はきれいに床に残っている。
良かった……。
俺は安堵の息を吐く。
これで元の世界へ帰れるんだ。やっと。
歩み寄り、俺は静かに魔法陣の上に立った。
あとはクトゥルクの魔法で元の世界へ戻ればいいだけだ。
俺は一度深呼吸をして、そして気持ちを落ち着けてから意識を集中し始めた。
ふと。
何かの気配を感じて正面の壁へと目を向ければ。
その壁の亀裂から、どす黒い油のような液体が流れ込んできている。
なんだろう?
不思議な心地で俺は、顔をしかめて怪訝にその場所を見つめた。
何かが漏れ出しているのだろうか?
コールタールのような液状の物である。
その液体は滑らかに壁をつたい流れ落ちて、床に黒い水溜りを作っていた。
気にするほどのことでも、ないか。
黒い水溜りから視線を外し、俺は再び意識を集中させる。
しかし。
やっぱり何かが気になって、俺は再びそこへと目を向けた。
その時事態は一変する。
黒い水溜りから何かが生まれ出てこようとしていたのだ。
液状のコールタールはまるで意思があるかのように盛り上がり、蠢き、そして人の姿をみるみると形成していく。
一つの宝玉を手にしたセディス。
セディスの体は人間とも思えないような歪みを見せ、肉塊のように膨らみ、体中からは何本の手足が生えた異形でおぞましい姿になっていた。
顔もどす黒く、まるで何かに呪われたような岩肌になっている。
――気付くのが遅すぎた。
俺は怯えるようにそこから一歩退く。
その様子にセディスが異形めいた顔で見つめ、穏やかに微笑んでくる。
「こんなところにいたのですか。ずいぶんと捜しましたよ」
俺の体が恐怖にすくむ。
コイツから逃げられない。──そう直感する。
セディスが余裕めいた笑みを浮かべ、柔らかな物腰で告げてくる。
「その魔法陣を使いたければどうぞお使いなさい。それは私が奈々に教えた魔法陣です。それを取り消す魔法陣はすでに用意してあります。
さぁ、どうぞ。お使いなさい。何度でもあなたの目の前で取り消して差し上げましょう」
複数の腕の中に紛れるようにして、セディスの体から生えた一匹の大蛇。
次なる標的とばかりに俺をギロリと睨みつける。
その口からはすでに丸呑みにされた人間の足が出ていた。
恐らく黒衣からして黒騎士なのだろう。
複合喰鬼。──強い力を喰らい取り込むことで己を強化していく禁忌手法。
セディスは笑う。
原型を失い壊れかけた顔で、
「ようやく巡り合えたクトゥルクの力。世界中が血眼で捜し、どんなに求めようと姿を見せぬ神なる存在。
闇を切り裂き、光がこの地に降りそそぎし時。白き獣は現れて、戦場は一瞬にして焦土と化す。
その力を私に譲ってください。
黒騎士を震え上がらせ、あの黒王をも魅了させるその力を。
もはやその力に勝るものなど、この世のどこにも存在しないのです」
たしかにこの力を誰かに譲りたいとは思ったが。
俺は怯えるように身を引く。
「なぜ逃げるのです? クトゥルクは私にこそ相応しいというのに。
光はこの世界から永遠に失ってはならないものです。闇に怯える人々の気持ちを理解できない異世界人にクトゥルクの力を持つ資格などありません。
それなのになぜクトゥルクを持ち去ろうとするのです? なぜ? 何の権利で?
私ならばクトゥルクの力でこの世界に平和をもたらし、人々を闇から救い、そしてその心から恐怖を拭い去れるというのに」
俺はここで喰われ殺されるのか?
そんな恐怖が胸を埋め尽くす。
セディスの狂気に圧され、俺はまた一歩足を退ける。
それに気付いたセディスが、宝玉の持つ手を差し出すようにして俺に向けてくる。
「どこにも逃がしませんよ。せっかくこの世界に引き込んだクトゥルクの力。あなたはここで喰われ、これから代わる神の礎となるのです」
宝玉が仄かに光り輝き、そして一筋のヒビが走る。
それはヒナが孵るかのごとく無数にヒビ割れていき、やがて異形の化物が顔をのぞかせた。
頭は無く、首の部分に鋭いサメのような口を持った恐竜の赤子の魔物だった。
サメのような歯をカチ鳴らし、俺を喰おうと首を向けてくる。
そいつは奇怪な鳴き声をあげた後──
瞬時、勢いよく俺の喉元に向かって飛びかかってきた。
反射的に俺は体を避けて、そいつを無我夢中に叩き払い床に落とす。
そこまでは奇跡的になんとか避けられた。
だがそいつはすぐに床を跳ね起きて、再び口を開けて俺に襲い掛かってくる。
その行動があまりにも早すぎて、俺は対応が間に合わず隙だらけとなった。
そいつが俺の首元めがけて喰らいつこうとした──その寸前。
音なき一矢が風のように突っ切って、そいつの体を貫いた。
矢に串刺しとなっていたそいつは床に落ち、体を微動に痙攣させた後にぴくりとも動かなくなる。
次いで二投目となる矢が俺のすぐ足元の床に突き刺さった。
セディスが怒りに声を荒げる。
「な、なぜこんなことが──!?」
矢の飛んできた方向、それを俺とセディスは同時に見やった。
まるでリンゴを射抜こうと構えるロビンフットのように。
大きな瓦礫の山の上に佇み、三投目となる弓矢を勇ましく構えるその姿。
俺はその人物に見覚えがあった。




