第60話 イナさんの正義
短剣を首元に突きつけられたまま、俺はイナさんへと恐る恐る顔を向ける。
するとイナさんがクククと肩を震わせ壊れたように笑い始めた。
「ケイ──K。この世界で契約書を与えられた異世界人。
コードネームKがクトゥルクの力を持っているってあの噂、やっぱり本当だったんだね。黒騎士とあんたが交わした会話を聞いてやっと分かったんだ。
異世界人に幸運の力があるなんて嘘。本当はその中の誰かにクトゥルクの力が隠されているから。だから黒騎士も各国の王も黒王も、異世界人に対してあんなにも執着しているってわけね」
そして急に声を荒げ、イナさんはおっちゃんへ向け声を飛ばす。
「あんたの負けだよ! その銃は床に置きな! この時点であんたはKの守護者から外れたことになる! 今度からあたいがKの守護者を名乗るのさ!」
イナさん……。
豹変したイナさんに俺は絶望する。
最初からわかっていたことだったんだ。こうなることは。
【こちらの素性が知られれば厄介な敵になるが、知らぬ間は強力な味方になる】
【彼女を利用しろっていうのか?】
【利用しろとは言ってない。ただ素性を聞かれない間だけ彼女と一緒に居ろと言っているんだ】
素性を知られた時点で、イナさんは味方ではなくなった。
おっちゃんが力なく銃を床に下ろしていく。
流れるほどの冷や汗を顔に浮かべ、限界であることを示すかのごとく血の気を失った顔で痛みに呻き、そのままその場にぐったりと倒れこむ。
おっちゃん!
「動くんじゃないよ!」
イナさんが俺の首にさらに短剣を押し込んでくる。
彼女は本気だ。
俺は素直に従い、動きを止める。
イナさんがニヤリと笑う。
「これでクトゥルクはあたいのモンだ。クトゥルクの力さえ手に入ればもう闇に怯えなくて済む」
イナさん……。
俺は悲しくイナさんを見つめた。
そうだ。イナさんはクトゥルクの代わりとなる力を求めて、命がけでここまで探しにきていたんだ。でも、今は目の前にクトゥルクがある。代わりとなる力はもう要らない。
短剣を突きつけるイナさんの手に力がこもっていく。
「あたいと来な、K」
言って。イナさんは俺に短剣を突きつけたまま、人質にする形で俺を建物から外へと連れ出した。
※
建物から外へ出て。
イナさんは白狼竜に向けて声を張り上げる。
「こっちを見な、天空の白狼竜! あんたの大事なモンはここだよ!」
白狼竜がゆっくりとこちらへ顔を向けてくる。
真っ白な毛並みに、透き通った蒼空の瞳。
なんてきれいな目をした獣なんだ……。
俺はその瞳に吸い込まれるようにして白狼竜を見つめる。
白狼竜は白い両翼を背に折りたたみ、真っ直ぐに俺を見つめる。
その姿はまるで神の使いであるかのように、そんな言葉では表せないほどの幻想的で、絵画のような世界を感じさせた。
無意識に。
俺は記憶のどこかで白狼竜に懐かしさを覚えた。
そのまま白狼竜を求めるように両手を差し出す。
白狼竜がそれに応える。
頭を垂れて、ゆっくりと俺に鼻頭を近づけてくる。
顔を近づけてくる白狼竜の迫力に圧されてか、俺に短剣を突きつけていたイナさんの手がカタカタと小刻みに震え出した。
恐怖に上ずった声で小さくぼそぼそと。
「これが白狼竜……覇者の持つ威圧……敵と見なされれば……死」
イナさんの生唾を飲む音が傍で聞こえた。
そして恐る恐る俺の首から短剣を離していき、そのまま俺を解放するように一歩、二歩と恐れ離れていく。
──ふいに。
俺の足元に出現した白い光の魔法陣が、静かに俺を包み込んでいく。
静電気のような電流が俺の周囲をほとばしる。
それに弾かれるようにしてイナさんがその場から吹っ飛び、地面に倒れた。
短剣がイナさんの手から離れて音を立てる。
そのことで俺はハッと意識を取り戻す。
イナさん!
振り向いて、俺はイナさんへと駆け寄ろうとしたが──。
その手前で足を止める。
イナさんの表情が恐怖にひきつっていたからだ。
俺から逃げるようにして腰で這い逃げていく。
いや、違う。イナさんは俺を見ていない。
その上空――
瞬間、一帯を覆うようにして大きな影が俺とイナさんを包み込んだ。
気付いて俺が振り向いた時には、すでに口を開けた白狼竜が間近に迫ってきていた。




