第55話 天空の白狼竜
空が闇に蝕まれ、支配されていく。
部屋は夜の帳に包まれたように暗くなった。
声も音もない静寂に包まれた部屋内。
俺以外に人の姿はない。
陣の発動と同時に全てが忽然と消えてしまったのだ。
理由はわかっている。
綾原のいなくなった魔法陣を、俺は静かに見つめていた。
魔法陣の中心では綾原と入れ替わるように白い子犬が現れ、ちょこんと座っている。
子犬は俺を見つめ、忠誠を示すかのごとく両の翼を背に折りたたんだ。そして興奮を抑えきれない尻尾をパタパタと振りながら無邪気に尋ねてくる。
――戦ウノ?
俺は答える。
戦わないと生きていけない世界ならば、俺は戦う。それで全てが終わるなら……。
子犬が首を傾げる。
全テ ガ 終ワル?
その言葉に俺は頷く。
俺の中に本当にクトゥルクの力が眠っているというのならば、この戦いを終わらせることができるはずだ。
終ワラセル?
そうだ。終わらせるんだ。
犠牲のない戦い方なんて無い。それはわかっている。
逃げて結果を先延ばしにしているだけだというなら俺はここで立ち止まる。立ち止まって、戦う。
戦イ ハ 終ワラナイ。君ハ再ビ コノ世界ノ 覇者ニナル。
覇者になるつもりはない。俺はこの世界の人間じゃないんだ。全てが終われば、俺は在るべき世界に戻る。
違ウヨ。ココガ 君ノ 在ルベキ世界。
君ハ コノ世界ノ 人間。
記憶ヲ 失ッテイルダケ。
またそれかよ。そうやって俺を騙してこの世界に引き込む気なんだろ? その手には乗らないからな。
騙ス?
そうだよ。俺には生まれた頃からの記憶がある。家族だっているし、思い出の写真だって──綾原の中にだって俺の記憶がある。俺はこの世界の人間じゃないんだ。
アノ世界ハ 君ガ 創リ出シタ 理想ノ世界。
ココガ 君ニトッテノ 現実。
君ハ 逃ゲ出シタンダ。コノ世界カラ。
ヤガテ 君ハ アノ世界デ クトゥルク ヲ 制御デキナクナル。
コノ世界ガ 君ノ 在ルベキ世界。
ナゼナラ君自身ガ クトゥルク ダカラ。
その言葉に俺は怪訝に眉をひそめた。
俺自身が……クトゥルク、だと?
刻ハ来タ。後ハ 君ガ ソレニ 気付クダケ。
──フッ、と。
空間が歪んだ。
そして。
次に俺が目にした光景は、避難してきた大勢の信者たちであふれた神殿の中だった。
※
皓々と頼りない光の球がいくつも天井に浮いて照らした大広間。
その大広間の中で、力なき老若男女が両手を組んで静かに祈りを捧げている。
俺は不思議に辺りを見回した。
神殿兵や使役魔術師たちの姿はない。
ここは一般の人たちが誘導されて避難してきた場所なのだろうか。
開かれた窓からは見張りと思われる一人の男性が外の様子を気にしている。
ふいに──。
「ケイ!」
俺を呼ぶ声が聞こえてきて、俺はその声のする方へと振り向いた。
イナさんだった。
肩に小猿を連れたイナさんが、駆け寄ってくるなり俺を強く抱きしめる。
「良かった。無事だったんだね」
「Kが生きてたデシ!」
次いでデシデシも俺の足にしがみついてくる。
「小僧っ子、無事じゃったか」
イナさんの肩の上で小猿が安堵のため息を吐いた。
……。
俺はみんなを見つめたまま呆然とする。
その脳裏に浮かび上がる一つの疑問。
あれ? そういや俺、どうしてここにいるのだろう?
ようやく今になって、俺は不思議に周囲をきょろきょろと見回した。
ここはどこだ? セディスは? 神殿兵は? 巫女はどうなった? なんで俺だけここにいるんだ?
「何してるデシか? K」
「どうしたんだい、ケイ。誰か捜しているのかい?」
……。
俺があまりにも不審にあちこちを見回しているからだろう。
イナさんとデシデシが尋ねてきた。
次いで小猿も尋ねてくる。
「ところで小僧っ子よ。奴と一緒ではないのか?」
その言葉で俺は気付く。
肩に目をやればモップの姿がない。
おっちゃんの声も聞こえてこない。
何がどうしてこうなったのか。
記憶のない出来事に、俺は眉間に指を当てて考え込む。
どういうことだ? なんで俺だけここに?
「ケイ?」
イナさんが心配そうな顔で俺を見てくる。
デシデシも不安そうに俺を見上げて問う。
「K。どうしたデシか? なんで何も言ってくれないデシか?」
ちょっと待ってくれ。俺にも何がなんだか説明のしようが──
声に出そうとして、俺は声が出ないことを思い出した。
説明しようにもどう説明していいかわからない。
とにかくできる範囲のジェスチャーでイナさん達に伝えようとした。
まずは自分の喉を指差し、口パクをしながら片手を仰ぎ、声が出せないことを伝える。
それを見てデシデシが小首を傾げながら言ってくる。
「声が出ないって言っているんデシか?」
その言葉に俺は二度頷きを返した。
イナさんが心配そうに尋ねてくる。
「いったいどうして?」
さすがにそこまでの経緯は説明しきれない。
俺は苦く笑って頬を掻いた。
小猿がハッとした表情を浮かべて言ってくる。
「もしや小僧っ子は、ここに逃げてくるまでの間に黒騎士に声をやられたのではないのか?」
小猿の言葉にデシデシが顔をしかめて口を尖らせる。
「声だけ奪って命を助ける黒騎士デシか?」
「いるんじゃよ、そういう奴が。一人だけ心当たりがある」
デシデシが首を傾げる。
「声を奪って何をするデシか?」
「あたいもそれ聞いたことがある」
イナさんが口を挟んだ。
「黒騎士の中に一人、頭のイカレた奴が居て、自分の目が見えない代わりに相手の体の一部を持ち帰ってどこかに保管するらしいって話。その奪った相手は絶対に殺さないことをポリシーにしているとか」
怖ッ! そんな奴がいるのか?
俺の顔が引きつる。
するとデシデシが己の尻尾を抱きしめて震えるようにその場にうずくまった。
「嫌デシ! ボクの大事なかわいい尻尾を持っていかれるのは嫌デシ!」
尻尾って……お前の本体そこだったのか。
――ふと。
どこか遠くで狼の遠吠える声が聞こえてきた。
なんだ?
俺は真顔になり、耳を澄ます。
イナさんもデシデシも小猿も、聞こえてくる遠吠えに耳を澄ませた。
大広間全体が急に静かになる。
誰もが祈るのを止めて、その遠吠えに耳を澄ませているようだ。
狼の遠吠えは続く。
何かを呼び寄せるかのように、ずっと。
──ぅぐッ!
突然襲ってきた突き刺すような鋭い痛みに、俺は顔を歪めて額に手を当てた。
「どうしたんだい? ケイ」
「どうしたデシか?」
俺は無言で首を横に振った。
耐えられそうにない痛みに額を掻きむしるようにしながらも、俺はその場に膝を折って座り込む。
小猿が声を落として誰にでもなく呟く。
「この様子……いやまさか、な」
見張りをしていた男性が窓を指差して叫ぶ。
「見ろ! クトゥルクの化身だ! 天空の白狼竜がこの街にご降臨されたぞ!」
周囲が一気に騒然とした。
皆窓辺へと駆け出していく。
窓の外を見るなり皆一様に感動の吐息を漏らした。
「おぉ」
「奇跡じゃ。奇跡が起こっておる」
「やはり神は私たち信者を見捨てにはならなかった……」
人々は白狼竜に向けて祈りを捧げる。
そんな中──。
俺はイナさんの肩を借りてどうにかその場を立ち上がる。
「大丈夫かい? ケイ」
痛みは一向に治まる気配がない。
遠吠えが聞こえるたびに痛みが激しさを増し、さらなる苦痛に苛まれた。
それでも俺はイナさんの肩を借り、フラフラになりながらもゆっくりと窓辺へと歩いていく。
遠く向こうに、窓から見えるクトゥルクの化身──天空の白狼竜。
その姿はとても神々しくきれいな獣だった。
暗闇を切り裂き、天から降りそそぐ一条の白い光。
真っ白いベールのような光のカーテンとなり、半壊した神殿の頂に真っ直ぐに差し込んでいる。
その半壊した神殿に俺は見覚えがあった。
さきほどまで俺が居たはずの場所。
その半壊した神殿を占領するかのように、純白の毛並みをした巨大な狼が佇んでいる。
白狼竜は穢れを知らない無垢の両翼を背に折りたたみ、天を仰いで遠吠える。
まるで誰かを呼び寄せているかのように。




