第51話 劣等コンプレックス
紙に書かれていた内容は、慶徳義塾での綾原の成績と順位だった。
その日付は夏休みの──Xから電話があったあの日。
彼女の成績と順位は夏休みの少し前から階段を下るように落ち始めていた。
「私はもうあの世界には戻りたくないの……」
消えるようなか細い声で、綾原は俺にそう言ってきた。
慶徳義塾といえば頭の良い優秀な奴らが集まるエリート塾として有名である。
その中に綾原は居て当然だと思っていた。
もちろん綾原の成績を見た今でもその考えは変わらない。
綾原のことだから、そのくらいの成績が下がったって絶対挽回できる。今から頑張ればなんとかなるって……そう、励ましたかった。
「もう帰らないって決めたの。お母さんにも遺書、残してきたから。
ここが私の居場所。私にはもうここしか居場所がないの」
流れる涙を手で払い、綾原は俺へと振り返ると気丈に言葉を続けた。
「最低でしょ? 見損なったよね。これが本当の私。誰かに誘拐されたわけでもなく、私は自分の足でこの世界に逃げてきたの。
弱虫で、泣き虫で、臆病者で、嫌われ者で。優等生を演じることしか自分を守れない、ただのいじめられっこ」
綾原、お前……
「このまま夏休みが終わってしまうのが怖かったの。塾の順位が下がり続けた状態で学校のテストを受けて、学校の順位までもが下がってしまうのがすごく……怖かった……」
俺は視線を落とす。
平均の下を行く俺に優等生の綾原の気持ちなんて理解できない。
落ちたら次また頑張ればいいじゃないか。
俺はそう思う。
けど綾原にとってはそんな問題じゃないんだろう、きっと……。
綾原は言葉を続けてくる。
「先生やお母さんの落胆する顔を見たくなかったの。クラスのみんなが囁いたり後ろ指さしてくる毎日が来るんだと思うと、すごく怖い。
だったらいっそうのこと、この世界に逃げてしまえばいい。……そう思ったの。
ここなら誰も私のことを知らないし、もう寝ても覚めても勉強勉強って無理して頑張らなくてもいい。ここには優秀な私でなくても頼りにしてくれる人たちがたくさんいる。こんな最低な私でも話しかけてくれる人たちがたくさんいる。
もうこれからはご飯を食べる時も一人ぼっちじゃないし、毎日毎日ここには笑顔があふれている。だから私……」
――。
俺は綾原に向けて言った。
声は出ないけど、口パクで。
気持ちも通じないかもしれないけれど、それでも俺は綾原に言いたかった。
すると巫女が何を思ってか綾原の傍へと歩いていく。
そして綾原と向き合うようにして、巫女は言葉を告げる。
「帰ろう、綾原。どんなに逃げたってここはお前の在るべき世界じゃない」
そのまま巫女は平然とした顔で俺へと人差し指を突きつけて言い放つ。
「──と、アイツが言っていた」
誰が通訳しろと言ったッ!
俺は苛立ちに両手をわななかせて内心で叫んだ。
だいたいなんで通訳する必要があるんだよ! こういうのは空気でいいんだよ、空気で! エアー・スピリットで通じれば充分なんだよ!
巫女が「言ってやったぜ」と言わんばかりの満足げな顔して鼻で笑ってくる。
『なんせ俺はKYだからな』
上手いこと言ってんじゃねぇよ!
内心で叫んで、俺は手短にあった枕を掴むと巫女に向けて思いっきり投げつけた。
だが──
巫女が右腕を俺に向けて突き出し、魔法陣を展開させる。
がふッ!
直後に急ターンして戻ってきた枕が俺の顔面にぶち当たった。
勢いによろめき、顔に手を当て。
俺は悔しげにうめく。
おのれ魔法を使ってくるとは卑怯な……!
巫女が俺に向けて無言で親指を突き立てると、そのまま突き立てた親指を下に向けて振り落とす。
『俺と戦おうなんざ百万年早ぇんだよ、このクソガキが』
うるせぇ! もう二度とやるか!
――くすくす、と。
会話は聞こえていないはずなのに、綾原が急に笑ってきた。
俺と巫女はいがみ合いを止める。
巫女が無言で綾原に指を向けるが、俺はわからず無言で首を傾げてお手上げした。
すると綾原が笑い声を押し殺しながら言ってくる。
「なんだかパントマイムを見ているみたい」
綾原のその言葉に、俺も思わず笑いがこみ上げてきて笑った。
二人で笑い合う俺たちを見て。
事の収拾がついたことに、巫女が無言でお手上げして「やれやれ」とため息を吐いた。
──そんな時。
ふいにトントンと。
部屋を軽くノックする音が聞こえてくる。




