第44話 神殿の姫巫女
セディスに魔法をかけられ、俺はしばらく眠るように意識を失っていた。
あれからどのくらいの時間が経っただろうか。
意識を取り戻して目を覚ました時には、俺の前に一人の姫巫女が立っていた。
そう、たった一人で。
いつからここに居たんだろう……?
俺は顔を上げて彼女を見つめる。
白い巫女服に腰の辺りまで伸ばした栗色の髪。その左右少しだけ無音の鈴の付いた髪留めをした女の子──俺に水晶玉を託したあの女の子だった。
あの時見かけた時よりも姫様らしく金の飾りを身につけ、衣装も少し豪奢になっている。
女の子――神殿の姫巫女は、ただ無言で俺のことをじっと見つめていた。
俺は言葉を発しようと口を開きかけたが、声が出ないことを思い出して苦笑まじりに情けなく口を閉じる。
「……」
姫巫女は話さない。
ただ俺のことを静かに見つめ続ける。
やがて、そっと。
姫巫女の小さな手が俺の首に触れた。
「声を封じられたのですね」
鈴を転がすような可憐できれいな声だった。
……。
俺は答えられなかった。
視線をそらし、顔を俯ける。
「あなたの中にとても強い力を感じます。とても邪悪で危険な力を」
俺はハッと顔を上げ、巫女を見つめた。
わかるのか? クトゥルクの力が。
巫女は問う。
「なぜ、この力を使わないのです? どうして?」
なぜって……
「誰かに使うなと言われているからですか? それとも、この力を使うことで犠牲を恐れているからですか?」
その言葉に俺は再び顔を俯ける。
さすが巫女だな。なんでもお見通しってわけか。俺の頭の中で話しかけてくるおっちゃんのことも、俺が抱えるトラウマのことも、彼女には全部分かっているということだ。
──あぁ、その通りだ。
俺はこの力に怯えているのかもしれない。この力を使うことで黒騎士が来るというプレッシャーと、北の砦の時のように、また大勢の人たちを目の前で犠牲にしてしまうんじゃないかって……。
そう考えてしまう瞬間が、とても怖かった。
ここが異世界であれゲームの世界であれ、もう俺の目の前で誰も死んでほしくないし、戦ってほしくもない。
力を使わないことで平穏に過ごせるなら、俺はそれを望みたいんだ。
「それがあなたの望みですか?」
巫女はまるで俺の心を読んでいるかのように言葉を続けてくる。
「平穏に過ごすことがあなたの望みだというのですか? だから力を使わない、と……。
無限にして最強の力を持ち、戦いを知りながらも戦わず、荒れ狂う血を求めながらもそれを拒む、二つの顔を持つ【戦場の白い鬼神】――それがクトゥルク。
あなたの望みがこの先、けして叶うことはありません。
無力のままなら平和は望めても、力を持てばそこに集うのは力だけです。たとえ力を隠したとしても、それは仮染めの平穏に過ぎません。
クトゥルクはやがてあなたを戦いの道へと導くでしょう。
戦いこそがこの世の全て。逆らうことなど無に等しいのです」
こんな最強の力なんて欲しくもないし望んでもいない。戦いで世界を制するとか興味ないし、神にも正義のヒーローにもならなくていい。
俺はただ平穏に人生を過ごしたいだけなんだ。
元の在るべき世界に戻って、学校に行って、普通にダチとしゃべって、遊んで、勉強して、テレビ見たりゲームしたり、馬鹿みたいなことで笑って過ごして──何も考えていなかったあの頃みたいな平穏な生活に、俺は戻りたいんだ。
「あなたはクトゥルクを災いの種と思い込んでしまっている。戦うだけの力。逃げるだけの術。誰かを殺す為の手段。
――あなたはクトゥルクの本当の意味を知らない」
本当の意味、だと?
「……」
無言で。巫女が俺の首から手を退ける。
ともにリン、と。
髪についた鈴の飾りから音が聞こえてきた。
「このまま何もしないでいるつもりですか? 危険を避け、何の方法も考えずにただじっとこうして与えられた環境に身をゆだねて誰かの言いなりになり続ける。それで全てが平穏に過ごせると思いますか? 望み通りの世界になると思いますか?」
……。
俺は顔を上げて巫女を見つめた。
巫女が俺を見つめて告げる。
「あなたは私に似ています。心の中で、いつか誰かがこの現状から救い出してくれると儚い理想ばかりを抱いている……」
一瞬。視線を落とす巫女の表情が、どこか追い詰められたかのような、そんな悲愴な感じに見えたのは俺の気のせいだろうか。
巫女は再び俺を見つめて言葉を続ける。
「たしかにクトゥルクの力を使えば黒騎士が来てしまいます。ですが、馬鹿みたいにこうしてずっと力を使わずにいるのもどうかと思うのです。
あなたに力を使わせない理由はただ一つです。
クトゥルクの力はあなたにとても忠実です。故にあなたが迷えばクトゥルクも共に迷ってしまいます。
意志を忘れて迷いの心でクトゥルクを使えば、やがてあなたはクトゥルクの強大なる力に呑まれて自我を失い、混沌の闇へと堕ちていくことでしょう」
これは何かの予言か?
俺はこの巫女に未来を見透かされたような、そんな気がした。
そう。
この時までは──。
次の瞬間。
巫女の表情と態度が明らかに大きく変化する。
急に小馬鹿にしたように鼻で笑ってきたかと思うと、いきなり腰に手を当てて胸を張り、ツンとかわいらしくも小生意気な顔を持ち上げてくる。
そのままふてぶてしくも傲慢な態度で巫女は俺を見下してきた。
次いでその口から、思わず耳を疑うような聞きなじみのある声が聞こえてくる。
『なーんつってな。俺がモップの姿で今と同じセリフ吐いたとしても、お前は絶対信じねぇだろうけどな』
……は?
俺は間の抜けた顔で唖然とした。




