第26話 エスピオナージ
悩んだ末──。
結局俺は、彼女の馬車に乗ることに決めた。
聞きたいことはまだ言えていない。
何者かを問い返された時に答えられないからだ。
下手なことは言えない。
だからといっておっちゃんがこの現状に知恵を貸してくれるわけでもない。相変わらず言動も、まるで俺を突き放すように冷たい感じだ。
きっと俺が勝手なことばかりするから機嫌でも損ねたんだろう。
まぁ本当にヤバイ時は何か言ってくるだろうから安心はしている。
この選択にしてもあながち間違ってはいないんだろう。
俺は無言のまま、馬車の御者台──彼女の隣へと乗り込む。
……。
俺はちらりと彼女を見た。
しかし彼女がこちらを振り向くことは無かった。
どうやら彼女もこちらの素状を気にしている様子はないようだ。無言のままで事が通るのなら、ここは無言のままで過ごそう。
……。
「……」
俺も話さないし、彼女も何も言わない。
やがて。
無言の状態のままに彼女は馬に合図をかけた。
馬車はゆっくりと走り出す。
追う者がいないからだ。
……。
「……」
俺と彼女との間に会話はない。
どうやら本気で俺が何者かなんて気にしていないようだ。
……。
「……」
しばらく無言で通していると、やがてぽつりと。
彼女の方から話を振ってきた。
「なんであたいが声をかけてきたか、不思議でたまらないんだろ?」
……え?
呆然と問い返す俺。
まるで心の中を見透かされたようで図星になる。
彼女は被っていたフードをかき上げる仕草で首元に落とした。
その素顔が灯火の明かりで露となる。
一言でいえば年上美人なお姉さんだった。
短くカットした朱色の髪。少し褐色めいた肌と、俺を見つめてくる優しげできれいな翡翠色の眼がとても魅力的だった。
何より、彼女が耳につけていた銀色の輪のピアス。それが俺の中ですごく印象に残った。
彼女が俺の目を真っ直ぐに見つめて言ってくる。
「答えは簡単さ。あんたもあたいと同じ、この国で素性を隠した異国人だから。
いざ街に予想外の事態が発生すると必ず街の外へと避難したがるのが異国人。神殿に逃げこむのが本物の現地人ってこと。だから声をかけたのさ」
あーなるほど。
俺はようやくそこで納得した。
この人も俺と同じ異国人だったってわけか。
いや、だがちょっと待てよ。なぜこの人、あんな街にわざわざ素性を隠して──
おっちゃんが俺の頭の中で言ってくる。
『エスピオナージってとこか』
えすぴ……? なんだって?
『死を覚悟でこの国に入りたがる異国人は知れたものだ。おそらくどこかの王命で探りを入れている諜報機関の人間だろう』
なんかカッコイイな、それ。女性諜報員か。
『ちなみにお前の敵でもある』
え? なんでだよ。
『黒騎士という大きな支配がある中で、その支配を覆す絶対的要素を今、世界中の王たちが探している。その可能性がもっとも高いと噂されているのがこの国だ。
この国に居るエスピオナージはおそらく彼女一人ではないはず。そのせいか、どうやら彼女もお前のことをどこかのエスピオナージと思っているようだな。
こちらの素性が知られれば厄介な敵になるが、知らぬ間は強力な味方になる』
彼女を利用しろっていうのか?
『利用しろとは言ってない。ただ素性を聞かれない間だけは彼女と一緒に居ろと言っているんだ』
……なんか嫌だな、それ。まるで利用しているみたいじゃないか。
俺は負い目を感じるようにして彼女へと目を向けた。
すると彼女がクスと軽く笑って、俺に手を差し出してくる。
「あたいはイナ。あんた、名前は?」
『相手もおそらく偽名だ。偽れよ』
わかっている。けど……。
俺の目にはどうしても彼女が嘘を言っているように見えない。
散々迷ったあげく、名を口にする。
……ケイ。
「ふーん。ケイって名なんだ、あんた」
おっちゃんが俺の頭の中で言ってくる。
『聞こえなかったのか? 俺は偽れと言ったはずだよな? それなのに全く何も捻らずストレートに言うとはな』
偽る必要なんて無い。
俺はそう思う。
だって、偽る必要なんてないじゃないか。俺の名前なんてこの世界に来た時からずっと偽り続けてきた。俺の本当の名はKじゃない。
俺は彼女と握手を交わす。
「なんかお互い似たような名だね。短い道中かもしれないけどよろしく、ケイ」




