第3話 ちょ、待て。冗談だよな?
ハッと気付けば。
俺は異世界にいた。
しかもなぜか密林のジャングルの中である。
鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた薄暗い熱帯ジャングル。
差し込む陽は弱く、少し肌寒さを覚える。
聞こえてくるのは変な獣の声と飛び立つ鳥。
人けなど無い。
どこを見回せど出口となりそうな道は見当たらなかった。
その前に、まず道が無い。
完全な獣道である。
その中に、俺はぽつんと一人立っていたのである。
何度瞬きするも風景は変わらない。
頬をつねっても、腕の肉をつねっても、座り込んで足元の地面に触れても、近くの樹木に手を触れても。
リアルな感触が返ってくる。
俺は乾いたように笑った。
夢だ。これは夢だ。俺は今夢の中にいるんだ。
その言葉を意味するようにチンパンジーが空を飛んでいる。
現実のチンパンジーは空なんて飛ばない。
スライムもいる。
木に止まっている鳥も、よく見たら鳥じゃなく化け物といっていいほどの怪異な姿をしているじゃないか。
きっとゲームだ。俺はゲームの夢を見ているんだ。
俺は現実逃避するように空を見上げる。
生い茂る木々の間から見える空はとてもきれいな茜色をしていて、今が夕刻であることを知らせていた。
俺は頭の中でおっちゃんに問いかける。
なぁおっちゃん、聞こえているんだろ? 今度は俺に何をやらせる気だ?
……。
なんで黙っているんだ?
……。
聞こえているんだろ、おーい。
……。
ちょ、マジふざけてんのか? 俺もいいかげん怒るぞ。
いくら待てど。
おっちゃんが言葉を返してくることは無かった。
俺に一気に不安が襲ってくる。
何を装備しているわけでもない。
魔法が使えるわけでもない。
こんなんで魔物に遭遇したら──
ふいに草を掻き分ける音が聞こえてきて、俺はびくりとした。
恐る恐る振り返ってみる。
そこには二メートルほどはある大きな黒ヒョウが低いうなり声を上げながら俺に狙いを定め、捕食体勢で忍び寄ってきていた。
俺はどう対処していいかわからず、恐怖に足が竦み、思わずその場に腰が抜けたように座り込む。
逃げるしかない。
俺には戦う武器も何もない。
付近の地面を目で探すも、運悪く木切れも何も落ちていなかった。
ある程度の距離で黒ヒョウが立ち止まる。
鋭い牙をむき出して俺の隙をうかがているようだ。
俺はここで獣に食い殺されて死ぬのか?
いや、まさかこれはゲームだ。きっと痛みなんて感じずログアウトでき──
できるのか? ログアウトが。おっちゃんの助けも無しに。
脳裏を過ぎるさきほど腕の肉をつねった痛み、その感覚。
その記憶がさらに俺の恐怖心を煽った。
黒ヒョウが少し腰を落とした次の瞬間、勢いよく飛びかかり、俺の喉に喰らいつかんとばかりに襲ってきた。
俺は身を竦めて悲鳴を上げそうになる。
その時だった!
鋭い矢が俺をかすめるようにして過ぎ去り、黒ヒョウの体を射抜く。
「蒼炎火」
若い女性の声とともに黒ヒョウの体はあっという間に蒼い炎に包まれた。
──魔法!?
俺は振り返る。
森に差し込む一条の夕日を背に、弓を構えて凛と佇む一人の異国的な女性。
歳は二十代前半だろうか。獣の毛皮をあしらった服で豊満な胸と下半身を隠しただけの野生的な魅力を感じる金髪の美女だった。
俺は吸い込まれるようにして、その女性に目が釘付けになった。
女性がどこかを向いて誰かに話しかける。
「ダーウィン、来て。人間がいる」
するとその声を聞いて、その女性のそばに駆けつけてくる野郎が一人。
俺は静かに舌打ちした。
運命を期待した俺が馬鹿だった。
男とその女性が俺のところへと歩み寄ってくる。
俺はチラ見程度で男も観察した。
長い金髪を後ろで一括りにした長身の、体格のがっしりとした野生的な二枚目顔の男である。例えるならジャングルのターザンといったところか。勝負を挑んでも絶対に勝てない気がした。
近づいてきたことで、俺はようやく彼等が俺とは違う種族であることを知った。
褐色肌に青いヘビ目、尖った耳。額には紋様を刻んだタトゥーが施されていた。ゲームで言うなら、エルフに近い種族である。
男が身をかがめて心配そうに尋ねてくる。
「人間、なぜここにいる? ここは危険な森。我ら以外の種族が無闇に近づいたりしない場所」
俺はどう答えていいかわからず言葉をためらった。
すると女性が男──ダーウィンとやらに話しかける。
「いま私たちの村、討伐団来ている。きっとその一人。討伐の途中で仲間とはぐれたと思う。案内人この人間のそばにいない。彼、この森で迷子」
女性の言葉にダーウィンが頷く。そして俺に告げる。
「赤竜討伐は終わった。お前の仲間、すでに我が村へと戻っている」
赤竜討伐? 仲間?
俺が尋ねると、ダーウィンは苦い表情を浮かべて同情してくる。
「どうやらヤクルの毒気にやられたようだな。記憶をなくしている」
いや、記憶をなくしたわけじゃなくて。
ダーウィンが俺の腕を掴んで引っ張り、その場から立ち上がらせる。
「我が村に案内する。解毒剤を調合し、早めに毒を抜く必要がある」
俺は半ば強制的にダーウィンに腕を掴まれ連れて行かれた。
◆
何かのテレビ番組で、原始に近い格好でジャングル生活をする民族を見たことがある。
ダーウィンに連れてこられてやってきた小さな村は、まさにそんな感じの人々が暮らす村だった。
現実世界とはちょっと違ったこの世界の生活感。
高い木の上に作られた木造の家々。
見上げれば、高い位置の木と木の間に縄梯子が張られていて、その梯子を生活の道として住民が行き来していた。
地上に目を向ければ、人馴れしたスライムが駆け回り、それをエルフの子供たちが棒を手に追い回して遊んでいる。
他にも洗濯物と一緒にゲテモノの干物が吊るされていたり、狩りに使う弓とか矢を作っていたり、焚き火の上に鍋を置いて夕食の準備がされていたりと、ゲームとは違うリアルな人々の生活がそこにはあった。
俺、本当に異世界に来てしまったのかもしれない。
ここから帰れなくなるのではという不安に、怖くて心が締めつけられそうになった。
おっちゃんの声が頭の中で聞こえないって、こんなに不安なんだな。
改めておっちゃんの大切さを痛感する。
ふとダーウィンが村の中心で足を止めた。
俺も金髪女性も同じように足を止める。
ダーウィンは村を見回し、金髪女性に声を掛ける。
「リラ。お前、この人間を長老のところへ案内する。我、討伐団のリーダー連れてくる」
金髪女性──リラさんは彼の言葉に無言で頷く。
そして俺の手を掴むと俺に言ってきた。
「お前、ついて来い。案内する」
俺はただ流れに任せるようにしてリラさんに黙ってついていくしかなかった。
◆
長老は古い大木の根元に鎮座していた。
仰々しい飾りっ気も威圧もなく、ただ疲れた爺さんが杖を片手に木の根元に腰掛けて休憩している。そんな感じの人だった。
ある程度の距離を置いて、リラさんが足を止めて俺に声を掛けてくる。
「お前、長老と話す。私、その間に解毒剤作る。わかったか?」
え? 話すって何を?
「この村、人間来る。長老に挨拶して、許可もらう」
つまり、俺がここに居る為には許可が必要ってことか。
「そうだ。お前敵じゃない。この村のみんな、誰も知らない。知らない奴、攻撃して追い出す」
そういうことか。部外者に厳しい村なんだな。
まぁ俺はどうせすぐ消える存在なんだが、それがいつになるかもわからない状況だし、許可は一応取っておくか。
「お前、わからないこと言い出した。毒のまわりがひどい。頭の治療、すぐに必要」
きれいな人に面と向かってそう言われると、何かこう心にグサリとくる。
俺のその言葉にリラさんが急に顔を真っ赤にして飛び退く。
「この村、『きれい』は求愛。私、無理。夫いる」
ご、ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。
俺も火を噴くように火照った顔で慌てて謝る。
リラさんは言った。
「でも嬉しい。人間の求愛、初めて受けた。これお礼」
俺の不意を突くようにして、リラさんが俺の頬に軽くキスしてくる。
簡単な挨拶のキス。
俺も嬉しい。
リラさんが言葉を続ける。
「お前、悪い人間じゃない。それわかる。だから長老、挨拶する」
うん。わかった。
リラさんの行為で、俺も少し安心できた。
リラさんと別れ、俺は挨拶する為に長老のところへと向かって歩き出した。
俺は長老の傍へと歩み寄った。
そして足を止める。
俺が近づいてきたことで長老が静かに顔をあげてきた。
……。
俺と長老はしばらく無言で見つめ合う。
座ってよいとか、楽にしなさいとか言ってくれないのだろうか。
なんとなく雰囲気的に立っているのは失礼だと思い、俺はその場に腰を下ろして地面に座り込む。
長老と同じ目線位置。
それも失礼だと思い、俺はさらに小さく縮こまるようにして身を丸め、長老よりも低い目線位置から見つめる。
……。
長老は何も言ってくれない。
もしかして俺が先に話し出さなければいけない雰囲気か? これ。
俺は長老に話しかけようとした。
だが、俺の言葉を遮るように手で制し、長老は無言で俺をじっと見つめ続ける。
やがて長老は俺に言った。
「そなたはこの世界で何を望む?」
いや、特に何も望んでないです。
「この世界の事情を知らぬと見受ける。ワシから話を聞いておかなくても良いか?」
いえ、結構です。別にこの世界に長居するつもりもないし、話聞いても仕方ないから。
「そうか。ならば仕方あるまい」
長老は俺との会話を諦めた。
「そなたから敵意は感じない。だが、そなたの中には恐ろしい力が眠っておる。そなたが平然としておられるのは力を封じる強い呪縛のお陰か」
俺、本当にそんな力持ってる感じですか?
「今夜はこの村で眠るがよい。だが明け方には早々にこの村を発て。闇がそなたに迫り来る前にな」
そして、俺はリラさんのお宅に泊まることとなった。
迎えにきたリラさんと一緒に俺は部屋にお邪魔する。
一戸建て一間の小さな部屋。俺の部屋と同じくらいのスペースだった。二人の間に子供はいないようで家具も閑散としている。料理は外で済ませるのかキッチン道具は一切無く、寝るだけの簡易な物しか置かれていなかった。
俺は床に座ると、しばらくここで待つよう言われた。
リラさんが俺を置いて一度家から出て行ってしまう。
部屋に一人残されて、俺はその場から動くことなく目だけで物珍しげに見回していた。
──しばらくして。
リラさんがヤシの実のような器を手に、外から戻ってきた。
「ダーウィン、もうすぐ討伐団リーダー連れて戻ってくる。私、解毒剤用意した。お前、これ飲む」
と、リラさんが俺にヤシの実のような器を差し出してくる。
俺はその器を受け取り、何気に器の中へと視線を落とした。
……。
俺の口端が痙攣するように引きつる。
それは飲むのも躊躇うほどのあまりに毒々しい色をした液体だった。青と紫と緑と赤を混ぜたような危険な色をしている。
失礼と思いながらも俺は器に鼻を近寄せた。
匂いはあまりしないようだ。
次に俺はその器を軽く揺らしてみる。
小鳥の足みたいなモノと何かの小さな目玉みたいなモノが水面上に浮かんでは静かに沈んでいった。
俺は器から視線を上げると、どこか遠いお空へと意識を飛ばした。
おっちゃん。居るんだったら頼むからマジで何か言ってくれ。
今すぐログアウトしたい……。
リラさんが不思議そうに俺を見つめて言ってくる。
「どうした? 飲まないのか? 毒入っていない」
わかっている。だが俺にリアクション芸人の真似事なんて無理だ。
するとリラさんが俺から器を取り、言ってくる。
「毒ない、ほんと。私、先飲む。次、お前飲む。わかったか?」
言うなりすぐに、リラさんは俺から器を奪って口へ運ぶと、そのままごくごくと飲み始めた。
か、考え方次第だよな。
健康に良い飲み物が必ずしもおいしそうな色をしているわけじゃない。
そうだ。そうだよ、俺。この飲み物には食物繊維が豊富に含まれていると想像しながら飲めばいいんだ。
半分ほど飲んで、リラさんが俺に器を返してくる。
俺は震える両手でその器を受け取った。
いざ!
腹を決めて器を口へ運ぶ。
目を閉じて呼吸を止め、健康ジュースを飲んでいると想像しながら一気に喉に流し込む。
器に入った全てを飲み下して。
胃の奥からこみ上げてくる何かに耐え切れず、俺は器を力なく床に落とした。
そして俺はそのまま青ざめた顔で後ろにひっくり倒れるようにして意識を手放した。