それは偶然でも強運でもなく、ただ一つの運命論【80】後
ーー突然!
それは起こった。
逆上したカルロスが俺に掴みかかろうと襲ってくる。
俺を鋭い眼差しで睨みつけ、胸倉を荒く掴んで船の淵に押さえつけて。
カルロスは頭から俺を砂海に落とそうとしていた。
「全部お前のせいだ! お前が早く角笛を返さないから僕はこんな目にーーッ!」
アデルさんとデシデシが慌てて止めに入る。
「よせ、カルロス! こんなことをして何になる? 止めるのだ!」
「そうデシよ!」
「返せ! 返せよ、僕の角笛! 今すぐ返せ!」
「止めるのだ、カルロス!」
「ふ、船が転覆するデシよぉ!」
ぐらぐらと、小船が激しく左右に揺れ始める。
アデルさんとデシデシは止めに入るのを諦め、すぐに船のバランスを優先して端にしがみついた。
カルロスの逆上は治まらない。
「返せよ、角笛! 僕はこんなところで死にたくない! 何の栄誉も勲章もない、こんな場所で僕は無様に死ぬわけにはいかないんだ! 僕は神に選ばれし勇者なんだ! 僕はこの世界で歴史に名を刻む為に生まれたんだ! こんな場所でーーこんな無名の場所なんかでーーッ!」
わ、分かった。悪かった。だから落ち着けって!
今にも砂海の中に頭が浸かりそうになりながらも、俺はヤケクソに謝りながら言い返した。
ズルッと一瞬本当に落ちそうになって、俺は悪いと思いながらもカルロスを激しく突き飛ばし、押し退けた。
カルロスが勢いに転んで倒れ込む。
俺だってこんなとこで死にたくない。
ようやく俺は船の淵から身を起こし、角笛に手をかけた時だった。
ーー。
それは一瞬の出来事で。
俺は自分の身にいったい何が起きたのか理解できなかった。
自分の中の時間が止まったように思えて。
愕然としたままその場に固まった。
見回せば全ての時間が止まってしまったかのように、カルロスが、アデルさんが、デシデシが、みんな俺を見て驚いた顔を固めている。
その直後ーー!
ズキッとした鋭く鈍い痛みが、背中と腹を通じて全身を駆け巡り襲ってきた。
恐る恐る自分の腹へと視線を落とせば、そこに突き出ている鋭い剣先。
痛みは背中にも感じた。
気付けばそれは、俺の背後ーー砂海から姿を現した盗賊が俺の腕を掴み勢いよく突き刺してきたことによるものだった。
剣は背中から腹にかけて俺の体を貫通し、叫ぶよりも悶絶するような痛みに耐えきれず、俺は体をくの字に曲げる。
カルロスが放心したような気が抜けたような声で呟く。
「お、お前……もしかして僕を助けようと突き飛ばして身代わりに……?」
……。
盗賊から刃を引き抜かれ、俺は糸切れた人形のようにして小船に倒れ込んだ。
その後、小船の上がどうなったのか、見えなくても音だけで伝わってきた。
不意をつかれ、油断したことによる悲鳴と戦慄なる物音。
小船が静かになるまでそんなに時間はかからなかった。
気が遠退きそうになりながらも、俺は震える手で自分の腹に手を当て、それを目前に持ってきて見つめる。
自分の血にべっとりと染まり濡れる掌。
あぁ、これが俺の最期なんだと知る。
ここはゲームの世界だったはずなのに、死ぬ時までもがなぜこんなにも生々しくリアルで、血も出るし、触れられるし、痛みもあって、死に行く感覚までもが本物みたいに感じ取れるんだろう……。
ふいに脳裏を過ぎるJの言葉。
【少なくとも俺の目の前で死んだ奴が復活したんは見たことない。痛いモンは痛いし、死ぬ時は死ぬんちゃうんか?】
俺……ここで死ぬのかな……? こんな誰も知らない世界で独りで……
こんなゲームじみた世界の中で、たった一人で。
俺がここで死んだことはきっと誰も知らない。
友達も、家族も。
誰も会いに来ないし、花も手向けられずに。
俺はここで孤独に死んでいくんだ……。
最期に脳裏に浮かぶのは現実世界での走馬灯。
友達と楽しかった日々、家族と過ごした大切な時間。
そんな思い出ばかりが次々と名残惜しむように溢れてくる。
抑えきれない最後の感情に、俺の目から涙が零れ落ちていく。
帰りたい……。
元の世界に帰りたい、おっちゃん。
こんなところで死にたくない……。
俺は最後の気力を振り絞って船底を這い、小船の淵に何とかしがみつくと、そこで力尽きた。
もう動ける気力は残っていない。
息をするのも苦しくて、意識が眠るように遠退いていく。
このまま呼吸を止めたら楽に死ねるかもしれない……。
俺は静かに目を閉じていった。
ふと。
トントン、と。
俺の頭を誰かが杖の先らしき物で軽く叩いてくる。
いったい誰なんだろう。
それを確かめる気力は俺にはなかった。
もう誰だっていい。
そう思えた。
再び、トントンと。
誰かが悪戯でもするかのように俺の頭を杖先らしき物で軽く叩いてくる。
ーーっつうか、これから死に行こうとする奴に対してめっちゃしつこくないか?
俺は朦朧とする意識の中でゆっくりと目を開いていった。
そこに見えるは、砂海の上を平然と立つ人の足、そのエレガントな黒い靴。
まるで砂漠でも歩いているかのような錯覚さえ思えて。
俺は死に行くことも忘れ、痛み耐えながらも顔を上げていった。
太陽を背に、砂海の上に平然と立っている一人の英国風貴族紳士。
シルクハットをちょいと持ち上げて、爽やかな紳士的笑みでエレガントに挨拶してくる。
「やぁ、少年。死にかけかい?」
……。
「あぁ、私かい? 私の名はミランだ。君とは一度、トイレで会ったね。あの時はハンカチを拾ってくれてありがとう。
これから先、君とは何度かこの世界で出会うこともあるだろう。その時は私の名を記憶のどこかに留めておいてくれると有難い」
……。
聞いてもいないことを一方的にベラベラと、貴族紳士は語ってきた。
貴族紳士が人差し指をぴっと立てて、アドバイス的なことを言ってくる。
「実は君がここで死ぬのは偶然ではなく必然なんだ。予め定められた運命論というべきかな?
白騎士の船がここにあるのも、盗賊が船を襲うのも、討伐団がここに来るのも、カルロスという青年が偶然誰かに助けられて盗賊の船から脱出し、偶然誰かが用意した小船を見つけてそれに乗るのも、偶然ガレオン船に向かうのも、偶然君がそこから出てきて小船に転がり込むのも、その船の上で君が殺されるまで、その全部。
実は偶然に見えて偶然じゃないんだ。誰かが仕組めば、それは必然になる。面白いだろう?」
……。
言って、貴族紳士は俺の傍に歩み寄り、そこに腰を下ろし座り込む。
まるで砂漠の上に座り込んでくつろぐかのように。
貴族紳士が懐かしみに微笑みを浮かべ、俺の頭を撫でてくる。
「君(、)は記憶にないだろうが、実はシヴィラの予言の一節にはこんなことも含まれている。
ーー大きな嵐がくるだろう。黄昏の砂は悲しみに染まり、神は第二の死を迎える。天より光が差し、不死鳥は天へとその魂を導く」
……。
「ふむ。無反応、か……」
溜め息を吐いて。
貴族紳士は顎に手を当て、考える仕草をする。
「君はシヴィラの予言をどう思うかね?」
……。
指折り言い上げながら、
「道化の戯言か? 真実を知る者からの警告か? 巫女としての託宣か? あるいは未来を見透す女からの宣告? それともーー」
貴族紳士がニヤリと笑う。
「君への死の予言は、女の嫉妬と僻みからくるただの嘘か?」
……。
貴族紳士が手を下ろす。
「どちらにしろ、君は嵌められたんだよ。恐らくもう一人の君はそれを知っている。まぁもっとも、二度目の死の予言は私がこうして必然にしてしまったがね」
……。
ニコニコと笑みを浮かべて、貴族紳士は言ってくる。
「良いことを教えよう、少年。彼女の予言を狂わせるんだ。そのことで面白い何かが君の前に現れる。だが、それは容易なことではない。彼女の予言は的確的中。狂わせることはとても難しいだろう。誰もが彼女の手の上で踊るしかない。
ーーこの世界の住人ならば、の話だがね」
意味深な言葉を呟いて、貴族紳士は俺の右手を掴んで持ち上げた。
力なく死体のようにだらりとした俺の右腕。
貴族紳士はその俺の右手首をまじまじと見つめる。
「ふむ。黒王の呪い、か。君は運の良い奴だ、少年」
……。
持ち上げた俺の右手首に、貴族紳士は失ったはずの腕時計を付けてくれた。
あの時盗賊に奪われたはずの腕時計を。
「君にはこれが何に見えているのか、私には見当もつかない。これが何であるかは君にしか分からない。
ーーそしてこれが、君の運命を変えてくれるはずだ」
俺の腕に戻った時計。
今度はちゃんと正確に右回りで時を刻んでくれている。
貴族紳士が微笑して。
俺の両手を掴み、胸元で重ね合わせた。
まるで納棺でもするかのように。
「これだけは覚えておいてほしい。
シヴィラの予言を狂わせるということは助かるはずだった誰かを犠牲にするということだ。そのことをよく考えながら運命を切り開いていってほしい。
シヴィラは必ずまた君の前に現れるだろう。その時はただ漠然と会ってはいけない。同じことを繰り返すだけだ。
予言に怯えるのではなく、彼女を迎え入れるくらいの余裕と君を救ってくれる仲間を手に入れておくといい。
この世界でも、もちろん向こうの世界でも。
ーーそれが私から君に捧げる最初のアドバイスだ」
……。
告げて、貴族紳士はその場を立ち上がった。
シルクハットを被り直し、どこかへと歩き出す。
背中越しに手を振りながらーー
「私の言葉を疑うな、少年。きっと未来は変えられる。
失った仲間も君なら取り戻せるはずだ。
クトゥルクの力は自分の為にではなく、誰かを守る為に使うといいだろう。
ーー良い意味でも、悪い意味でもね」
……。
謎めいた言葉を残して。
貴族紳士は俺の前から消え去った。




