魔女の誘惑【53】
白騎士たちから解放され、通路に出た瞬間から。
俺の中から全ての記憶が消え去った。
消えたというより封じられたかのような、頭の中に靄がかかっているみたいで、そこに在る全ての記憶が真っ白で薄く霞み、読み取れなくなっていた。
……もう何も、思い出せない。
何をしようとしていたのかさえも、なぜここに居るのかさえも。何も。
なぜ生きているのかさえ、俺は見失っていた。
それでもなんとなく。
息をして、心臓が動き、手足が動く限り。
俺はアテもなくふらふらと船内を歩き回った。
船内から展望デッキへ出て。
俺は人の賑わう場所をさまよい歩いていた。
何の目的も持たず、ただフラフラと。
通りすがる貴族の人達が景色の一部であるかのように感じた。
何もかもがスローモーションで俺の横を過ぎ去っていく。
ぼぅとする思考。
何も……考えられない。
浮浪者のごとくそのまま辺りを歩き続けた。
やがて。
展望デッキの人混み離れた壁隅を見つけて、俺は疲れた腰をそこに下ろした。
そして膝を抱き寄せて小さく蹲り、意味のない孤独感に身を震わせた。
どうして俺はここに居るんだろう。
これからどこへ行こうとしていたんだろう。
俺は一体何者で、誰だったんだろう。
知り合いはどこに居るんだろう。
そもそも俺に知り合いなんて居たんだろうか。
遠くどこかで誰かが俺を呼んでいるような気がした。
微かに感じる誰かの温もりと、それを失う寂しさ、呼び声に応えなければならないような訳の分からない不安と、見捨てられたかのような孤独に包まれる。
その声は必死に俺を呼んでいるように聞こえた。
記憶にないけど、記憶のどこかで聞き覚えある女性と男性の声。
でも呼ばれているのは俺であって俺じゃない。
俺は呼ばれていないんだ。
きっとこれは俺の想像が作り出した幻聴の呼び声なのかもしれない。
唯一記憶に残るのは、右手首にしていた腕時計。
これが何を示す物なのか。
俺は思い出せずにいた。
ふと。
そんな俺の前に一人の少女が歩み寄る。
気付いて俺は顔を上げて少女を見つめた。
白く高価な貴族令嬢然たる衣装に身を包み、背中まである長い髪を緩く編み込んで垂らしただけの風貌と、冷たくも物静かな印象。
毛むくじゃらの生き物を肩に連れた隻眼のその少女は、俺の前まで来ると足を止めた。
じっと無言で、俺のことを何の感情もない顔で見つめてくる。
いや、もしかしたら俺の慣れ果てを哀れんで見ているのかもしれない。
俺はこの時になってようやく彼女に対する感情が芽生えた。
ーー懐かしい、と。
彼女とはきっとどこかで出会っている。
俺がこの世に生まれてくるより前の、遠い昔に。
そんな気がした。
少女が俺に言う。
「捨て去りし者たちを捨て去り、あなたは今この瞬間からこの世界の住人となった。
現世を忘れ、この世界で私の従順なる僕となりなさい」
……。
少女が俺の前に座り込んで言葉を続ける。
「この世界でなら、あなたの望みがきっと叶う」
俺の……望みが……?
少女が頷く。
そして俺の頬に優しく片手を触れ、撫でるように。
「そう。黒騎士となり、私の僕となりなさい。守護者に与えられしその力で白騎士と戦い、勝つ者だけがこの世界の神殺しを許される」
クトゥルク……殺し……。
「弱者は死に、強き者だけが生き残る。それがこの世界に定められし絶対権力」
絶対……権力。
少女の触れた手が指先となり、俺の顔を辿るようにして唇へと滑り落ち、優しくその部分に触れる。
思わせ振りに唇から指を離して、少女はそのまま俺の右手首に触れた。
そして色っぽく瞼を落とし、俺へと顔を近付けてくる。
近付いてくる彼女の顔、その唇を俺は呆然と見つめた。
思考が働かない。
疑問すら沸いてこない。
ただ何かを刷り込まれていくかのように、俺は彼女の言動を素直に受け入れていった。
彼女の唇が俺の唇に触れようとした手前で。
俺は彼女に尋ねる。
……君は本当に、俺の味方なのか?
彼女が微笑してくる。
「そう思うのなら教えて。あなたの守護者が誰なのかを。教えてくれたら私がその守護者を殺してあなたを自由の身にしてあげる」
……。
ーーそして彼女の唇が俺の唇に触れ、俺は彼女と軽いキスを交わした。




