あれ? 俺、誰だっけ……?【50】
砂時計が上から下へと流れていくように。
俺は少しずつ記憶の中から何かを忘れていった。
ーーカルロス誘拐事件から翌朝。
右手首に鈍い痛みを感じて、俺は一人部屋の高級客室のベッドの上で目を覚ました。
痛みに慣れてきたせいか、最初の時と比べると穏やかな痛みに思えた。
寝ていたベッドから静かに身を起こし、右手首へと視線を落とす。
……。
右手首に付けていた腕時計が、一定の速度で時を刻む。
その秒針が右回りではなく左回りに逆回っていても、俺は何とも思わなかった。
ただ普通にそれを見つめて。
緩やかに自分の中に受け入れる。
視線を出入り口ドアへと移して、俺は普段通りにベッドから足を下ろし移動を開始した。
ベッド脇の椅子に掛けていた水兵服を手に取り、その服を着込む。
シャレた高貴な衣装より俺にはこっちの方が性に合ってる。
誰かに“働け”と言われたら、その時は喜んで働こう。
どうせ暇だし。
腕時計を袖口に隠し、ふと俺は窓へと目を向けた。
そこから見える砂海の景色。
どこまでも永久的に同じ風景が続きそうな気がした。
【オリロアン】にはいつ着くんだろう……。
退屈で仕方ない。
俺はその場で軽くノビをすると、「くわぁ」と大口で気楽に欠伸した。
そういえばずっと気になっていたんだが。
俺……なんでこの船に乗っているんだっけ?
※
「ケイ!」
客室続く通路を何気に歩いていた時、背後からミリアの声が聞こえてきた。
だがそれを他人事のように聞き流し、俺は振り向かなかった。
「ケイ!」
二度目の呼び声に、ようやく俺は足を止めて周囲を見回した。
ミリアが後ろからやってきて俺の腕を荒く掴んでくる。
「ケイ! 呼んでいるのが聞こえないんですか? それとも私を無視しているんですか?」
……え? ケイ?
俺はミリアへと振り向き、不思議に首を傾げて自分を指差した。
本気で問う。
ケイって、もしかしてそれ俺のことを呼んでいるのか?
「ふざけるのもいいかげんにしてください!」
別にふざけてねーよ。本気で言っているんだ。
真顔で俺はミリアにそう告げた。
ミリアが不安そうな顔で俺を見てくる。
「ケイ……もしかしてあなた、自分の名前をーー」
「いったいどうしたのだ? 二人とも。こんなところで」
……。
会話を割いて現れたのはアデルさんだった。
俺とミリアの顔を見比べながら尋ねてくる。
「また喧嘩でもしておるのか?」
「アデル様、ケイが……」
「む? ケイがどうかしたのか?」
……。
ミリアが俺から離れてアデルさんの傍へと歩み寄る。
「アデル様、ケイの様子がなんだか変なんです」
「様子が変だと? いったいどう変だと言うのだ?」
……。
ミリアが目で俺を示してアデルさんに訴える。
アデルさんが疑うように顔を渋めて俺を見てきた。
「……」
……。
アデルさんと顔を見合わせることしばし。
「……」
……。
何事ない普段通りの俺の様子に、アデルさんは肩を竦めてお手上げした。
ミリアに問いかける。
「我輩の目には普通に見えるが?」
「アデル様、ケイが自分の名前を覚えていないみたいなのです」
「覚えていないだと? 自分の名をか?」
「はい。本人がふざけていなければ、ですが……」
「ふむ……」
……。
アデルさんが口をへの字に曲げて再度俺を見てくる。
「ケイよ、今のミリアの言葉は本当か?」
あの。俺、本当にケイなんですか?
「……」
……。
アデルさんが顎に手を当て気難しそうな顔で「ふむ」と唸り考え込む。
「たしかに様子が変だな」
「もしかして頭の打ち所が悪かったんでしょうか?」
「それもあるやもしれん」
……。
俺はきょとんとして首を傾げた。
そして思い出したことをそのまま口にして呟く。
そういやなんで俺、こんなところに居るんだっけ?
何気なしに発したその言葉がさらにミリアとアデルさんの心配を加速させたようで。
アデルさんとミリアが俺の傍に駆け寄ってきて腕を掴んでくる。
「ケイ、お前さん本当に大丈夫なのか? 記憶がーー」
「私やアデル様のことが分かりますか?」
分かるって、何が?
「私達のことを覚えているかどうかです」
俺はこくりと頷く。
あーうん、それは分かるよ。ミリアとアデルさんだってことは分かる。分かるんだけど……。
「分かるけど、なんですか?」
……。
俺は顎に手を置き考え込むと内心で言葉を続けた。
二人のことは分かるんだけど、いったいどうやって知り合ったのか思い出せない。そういやなんで俺、この人たちと行動を共にしてるんだっけ? そもそもなぜ俺はこの船に乗ってるんだろう。【オリロアン】に行こうとしているのは分かっている。だけどそこで何をするはずだったのか……。
その辺の記憶がごっそりと抜け落ちている気がした。
ミリアが俺の体を揺すって言ってくる。
「ケイ、しっかりしてください」
「しばらくはまだ安静に休んでいた方が良いのではないのか?」
……。
そんな時だった。
通路の向こうから複数の足音が聞こえてきて、俺たちはその方向へと目をやった。
複数の足音ーー白騎士たちが、俺たちの所へ……いや、正確には俺の所へと真っ直ぐに向かってきていた。
白騎士たちが俺の前で一斉に足を止める。
そしてミリアとアデルさんを横に押し退け、二人の白騎士が俺の両脇に回り込んで腕を掴み、俺を拘束してくる。
え……? な、なんですか? 急に。カルロスが見つかったんですか?
虫食い状態の混乱した思考の中で、俺は訳も分からず戸惑った。
一人の白騎士が俺の顔横に手持ちの似顔絵らしき紙を突き付け、何かを確信したように言ってくる。
「間違いないな」
な、何が……?
似顔絵らしき紙に目を向ければ、その紙には俺そっくりの人物像が描かれていた。
「クトゥルク様関連の重要参考人だ。連行しろ」
は? え、ちょっ、ちょっと待ってくれ。“くとぅるく”ってなんだよ? 俺知らねーし。重要参考人なんて、きっと何かの違いだ。人違いだよ。
“くとぅるく”という言葉に俺は本気で聞き覚えがなかった。
きっと誰かと間違えているんだろう。
本気でそう思った。
アデルさんが引き止めてくる。
「いったい何を言っておるのだ、お前たちは。人違いであろう。ケイが重要参考人であるはずがない。十年以上も前のことだぞ? 関われる年齢ではない」
白騎士が強気に言い放つ。
「彼の身柄はしばらくこちらで預かります。この先の抗議はたとえ王族であろうとも我々教会への反旗と見なし、処罰となりますのでどうか粛しに、御身のお退きとりを」
「待ってください!」
ミリアが止めてくる。
「きっと何かの間違いです。ケイがそんなことに関わるはずーー」
「潔白ならばすぐにでも釈放致します。それが我が教会での準掟です」
「……」
いや、だから俺、くとぅなんとかなんて知らねーし、関わってもねーから。絶対人違いだって。
俺の抗議の声を軽やかに無視し。
白騎士たちは俺をどこかに連行していった。




