第2話 俺に睡眠は許されない
宿題は五時に終わった。
二時間ほど軽く寝て、いつも通りの朝を迎える。
いつも通りに支度して、いつも通りに家を出る。
学校に着いて教室に入り、ダチとしゃべって、担任教師が来て、授業が始まる。
何事もない、いつも通りの時間。
そんな日中を過ごすことで、俺はすっかり昨夜見た夢ことなんて忘れていた。
所詮は一夜限りの都市伝説。
夢の内容なんて、いちいち記憶に留めていない。
やがて午後の授業が始まってから五分後。
睡眠不足と昼飯の後、そして古文の授業だったせいもあって、俺はウトウトと眠りかけていた。
釘打つように何度も頭が下がる。
瞼が重い。
いつの間にか俺は意識を手放し、眠りについた。
頭の中で、おっちゃんの声が聞こえてくる。
『お? やっと睡眠休憩とったな。じゃぁ早速ゲームの世界に行こうぜ』
──スパン!
いきなり、俺は頭に衝撃を受けてハッと目を覚ました。
教科書を振り下ろしてきたであろう教師が俺の横を通り過ぎていく。
同級生が俺を見て声を押し殺して笑っている。
俺は痛む頭に手を当てたまま、呆然とした。
内心で思う。
もしかして今、教師に起こされてなかったらヤバくなかったか?
昨夜のあの夢が今頃になって鮮烈に蘇ってくる。
それと同時になぜかわからないが、確信を抱かずにはいられなかった。
おっちゃんは俺の頭の中に確実に存在する。
そして俺の眠った隙を突いて異世界に引き込もうとしている。
この先、絶対に眠ってはいけない。
その後。
俺は言い知れぬ危機感にかられたせいか、その日の授業は眠ることなくずっと起きていた。
その日の放課後。
俺の顔色が悪いと心配してくるダチに、俺は「なんでもない」と答えた。
するとダチが「気晴らしをしよう」と言って、俺をある場所へ連れ出した。
女子テニス部が練習する第二グラウンド場。
サーブを打つ時の、花弁のようにふわりと開く短いスカートがなんとも言えない興奮を覚えるとダチは言う。
興味がないわけではないのだが。
女子からの陰口と非難じみた目から逃げるようにして、俺はグラウンドに背を向け座った。
ダチは堂々とグラウンドに視線を向けたまま、真顔で俺に言う。
「今回の地雷原は凄まじいものだった。あの地雷原を無傷でいける強者は学年でただ一人、首席をキープし続ける綾原奈々だけだ。あれは綾原に合わせた出題のオンパレードだった。一限目でいきなり爆死したのはお前一人じゃない。お前の屍の横にはオレもいる。オレも赤点を超えられなかった一人だ。福田も山根も上田もミッチーも浜田も柏原もレッド・ラインを超えられなかった。
──共に夏期講習へ行こう、戦友」
俺が赤点のことで悩んでいるとでも思ったのか?
「違うのか? そいつは悪かった」
なぁ朝倉。お前、夜七時って何してる?
「テレビ見てる」
じゃぁウソホン見てる?
「【嘘か本当か都市伝説を追及せよ】のことか? 先月から放送が始まったラキボイの相方が司会してるやつだろ? あの番組だったら見た」
あれ略してウソホンって言うんだぜ。
「マジでか?」
その番組内で【小さいおっちゃん伝説】やってただろ? お前、あれどう思う?
「それ、トップアイドルASAKAの杉下ゆいなが調査しているファイルじゃないか。ネタがあるのか? あるなら迷わず番組に投稿しろ。そして調査が決定したら待ち合わせ場所は必ずこの学校を指定しろ。そうすりゃお前はオレたちの、いやこの学校の英雄になれる」
ネタ投稿、か。本気でそういうのを投稿したら絶対ドン引きされそ
「おー! 女子テニス部が練習を始めたぞ!」
おい。まだ俺が話している途中だろ。
「風よ吹け! 奇跡よ、おきろ! 草なき砂塵のグラウンドにその花を咲かせるのだ!」
そんな時だった。
俺たち二人を覆う大きな影。
嫌な予感に俺たちの顔は引きつった。
体育教師の鬼瓦泰造が仁王立ちで俺たちを睨んでいる。
「お前ら二人は職員室へ来い」
◆
職員室で体育教師の鬼瓦から長い長い説教を聞かされた後、俺とダチはようやく解放された。
その後。
俺は疲れた体を引き摺るようにしてやっとの思いで帰宅した。
出迎えた母さんが俺の顔色が悪いと心配してくる。
俺は「平気だ」と素っ気無く返事をして階段をのぼり、二階にある自室にこもった。
すぐに倒れ込むようにしてベッドに横になる。
もうダメだ。限界だ。眠い。
枕に顔を埋める。
そのまま俺はゆだねるように目を閉じた。
要するに完全に眠らなければいいわけだ。
『それはどうかな?』
やっぱり居たのか、おっちゃん。
『失礼な奴だな。俺はずっとお前の中に居たぞ。お前が一方的に遮断してきたんだろうが』
俺にそんな便利な機能があったなんて知らなかった。
『あれ? なんかお前、ものすごくテンション低くなってねぇか?』
誰のせいだと思っている、誰の。
『よし、じゃぁこのままゲームの世界に直行だ。さぁ眠れ。今度はお前の大好きな魔法の扱い方を教えてやるぞ』
あ、そうだ。なぁおっちゃん。
『なんだ?』
アイドル歌手の杉下ゆいなって知っているか?
『知らんな』
知らないはずないだろ。彼女の頭の中にもおっちゃんがいると言っている。
『あ、それヤバイなぁ』
……それ、どっちの意味でだ?
『その【ゆいな】って奴に話しかけているのは俺とは別人だ』
別人?
『そいつ、お前のことを捜してなかったか?』
いや、捜してないけど。なんで?
『なら良かった。お前さぁ、ちょっとこっちの世界に来て【杉下ゆいな】のアバターを捜すの手伝ってくれないかな?』
なんで?
『まぁいいから、お前はとりあえずこっちの世界に来るんだ。色々話したいこともある。それに──』
突然。
一階から鳴り響く電話の音に、俺はびくっとして飛び起きた。
あーなんだ。電話か。
俺は再びベッドにうつ伏せる。
……あれ?
おっちゃんの声が聞こえてこない。
おーい。
……。
しばらくして、一階から母さんが俺の名を呼んでくる。
どうやらダチが電話してきたようだ。
俺は仕方なくベッドを離れると、自室から出て面倒くさそうに一階へと下りた。
電話してきたのはダチの朝倉だった。
用件は、数学の宿題をどこまでやらねばならなかったのか。
なんでお前はいつもメモってないんだ?
「オレそん時思いっきり寝ててさ。気付いたらいつも授業終わってんだよ。──なぁそれより、今ウソホン見てる?」
見ていたら電話に出ていない。
「だよな。お前ん家の電話、なぜか玄関にあるもんな」
ほっとけ。母さんの都合で置かれてんだ。
「今ちょうどゆいゆいがテレビに出ているぜ? お前が言ってた例の【小さなおっちゃん伝説】特集やってる。なんかこれ、全国からすげー投稿がきてんだな。やっぱりゆいゆい人気のお陰か?」
お前、今テレビ見ながら俺と電話してんだろ。いったん電話切っていいか?
「ははは。誰だよ、これ投稿した奴。おっちゃんの力でゲームの世界にログインできる都市伝説だってさ。どこの世界のファンタジーだよ。こんなん絶対嘘だろ。ゆいゆいは純粋だからすぐそういうの信じちゃうんだよな。――お? なんか投稿内容がどんどんぶっ飛んできてんぞ」
おーい。俺と電話していること忘れてねぇか?
「これ終わったらちゃんと電話切るから」
だったら今すぐ切ってくれ。ってか、切るぞ。
「待てって。またお前に電話するの面倒くせーだろ。ちょ、なんだよこれ。なんかスゲー投稿来てんぞ。コード・ネーム【K】伝説ってなんだよ」
……え? 今なんて言った?
「はぁ!? 有力情報には投稿者A氏が百万出すってよ! マジかよ。これ、マジでもらえるのか?
あ、そういやお前もネタ持ってんだっけ。ネタってどんなのだ? なんならオレが代わりに投稿──」
ぶつり、と。
俺はすぐさま電話を切った。
固定電話の置かれていた玄関からテレビのある居間へと移動する。
テレビの電源がついていないことを知り、リモコンを探す。
母さんが不思議な顔して問いかけてくる。
「何を探しているの?」
リモコンを探しているんだ。どこにある?
「そこにあるわよ」
どこ?
「そこのクッションの下」
あった。
リモコンを見つけて俺はテレビの電源を入れる。
ウソホンの番組は終盤に差し掛かっていた。
アイドルの杉下ゆいながテレビに向かって情報提供を呼びかけている。
手にしたボードに書かれた『コード・ネームKの情報お待ちしています』の文字。
そして、有力情報は投稿者A氏が百万で買うだと!?
俺は思わずリモコンを床に落とした。
◆
ウソホンの番組で言われていたことが頭から離れなかった。
コード・ネーム【K】の有力情報に百万円。
投稿者A氏っていったい誰だ?
こんなに気になるくらいなら録画機器の必要性をもっと強く両親に訴えておくべきだった。
誰か録画してねぇかなぁ?
その後、ぼぅと考え事しながら飯食って。
考え事しながら風呂に入り。
そして考え事しながら今、宿題をしている。
気になって問題が一つも解けない。
数字が頭に入ってこない。
なんだかそわそわする。
俺はちらりと机の置時計に目をやった。
午後十時、か。
……。
おっちゃん、居るのか?
『お? なんだ。珍しいな、お前から話しかけてくるとは。お前の意固地もここでギブアップか?』
意固地になった覚えはないんだが。
『じゃぁゲームの世界に行ってみるか?』
一つ気になるんだが、なんでおっちゃんは俺をそんなにゲームの世界に誘うんだ?
俺がそう言うと、おっちゃんはフッと鼻で笑った。
『刻が来たからさ。お前は元々こっちの世界の人間だ』