第57話 俺に自由はないのか?
俺はとある食堂の、その裏手にある“離れトイレ”のドア前でずっと待たされていた。
ずっと、である……。
トイレのドアの向こうからおっちゃんの声が聞こえてくる。
『いいか。俺が出てくるまで絶対にそこを動くなよ、絶対にだぞ』
俺は頭を抱えてドア前に蹲った。
なぁ、おっちゃん。俺をいくつだと思っている?
『いいから黙ってそこで待っていろ。一歩たりとも足を動かすなよ。思考読めば動いたことがすぐ分かるからな。いいか、絶対にそこを動くな。あと五分だ。あと五分で出る』
心配しすぎだろ、おっちゃん。もういいかげんにしてくれよ。
『早死にするタイプなんだ、ほっといてくれ』
害がなければほっとくよ。だけど、なんで俺の行動までいちいち制限かけられなければならないんだ? 俺の方こそほっといてくれよ。どこで何しようと俺の勝手だろ? あとトイレくらい一人で行けよ。いい大人なんだからさ。
『そうだな。お前が誘拐される心配がなければここまで神経質にはならなかっただろうな』
だから、“誘拐される誘拐される”ってさっきからずっと言っているけど、いったい誰に誘拐されるっていうんだ?
『教えない』
教えないじゃなくて、そういう大事なことはちゃんと話してくれよ。俺だって警戒のしようがないだろ? それに、本当に秘密にする意味があるのかよ? だいたい──
『知らない方が安全だって言ったのを忘れたのか?』
トイレでクソしている奴に言われたくない。
『うるせー、話しかけてくるな。クソに集中できなくなる』
……。
俺は無言で怒りとともにクトゥルクを手の平に集中させると、そのまま拳を固めた。
『その怒りは一旦静めろ。こんな時に厄介事を増やすんじゃない。今この状況は俺にとってあまりにも過酷だ。とりあえずクソだけは出させてくれ』
……。
真剣な声音で言ってくるおっちゃんに、俺は落胆のため息を吐く。
そして退屈気味にクトゥルクの力を手の中から消した。
無になったその手を握ったり開いたりして見つめながら、俺はおっちゃんに尋ねる。
なぁおっちゃん。
『なんだ?』
頼むから別の場所で待たせてくれないか? 俺、絶対迷子にならない自信あるし、誘拐されないように気をつけるし、知らない人にもついていかないようにするからさ。
『やめろ。もうそれ以上言うな。フラグ立ちまくりだ。余計心配になってくる』
心配し過ぎなんだよ、おっちゃんは。だいたい今までずっと俺を放置してきたじゃないか。それを今更──
『ログアウトの気配はまだか?』
まだ、だと思う。……たぶん。
『たぶんだと!? お前──』
正直あの例えもいまいちよく分かんねぇし。ボールが来るとか言われても
『もういいかげん向こうの世界に帰ってくれ! これじゃ安心してクソもできねぇじゃねぇか!』
カチンと頭にきた俺はその場から立ち上がった。
込み上げてくる苛立ちに、思わず口調強く言い返す。
もういい、わかった。それじゃぁおっちゃんはこのまま思う存分一人でクソしていてくれ。俺は別の場所で待たせてもらう。
『なッ!? お前、絶対そこから一歩も動くなっつってんだろうが! いつ拉致られるかも分からん状況なんだぞ!』
クソしている奴に言われたくない。
『うるせぇッ! クソは自然の摂理だ、逆らえるか馬鹿野郎!』
なぁおっちゃん。頼むからこういう束縛みたいなものやめてくれないか? 俺、もう二度と勝手にクトゥルクを使わないようにするし、拉致られないようにもするからさ。
『いいから! 頼むから何も言わずにそこで大人しくジッとしていてくれ! ──ったく。待ってろ、あと十分だ。十分で出る』
――って、時間延びてんじゃねぇか!
もういい。勝手に一人でクソしてろ。俺は行くからな。
『あぁ!? 馬鹿、コラ! 待てっつってんだろうが! いいからそこを一歩たりとも動くな、絶対だぞ!』
だったら早く出て来い! 五分だ!
『五分で出るか、十分だ! 十分待て!』
はぁ!? ふざけんな、五分で出て来いよ! 五分で!
俺は言葉とともに激しくトイレのドアを叩きまくった。
『うるせー! ドアをがんがん叩くな! クソに集中できねぇだろうが!』
叩くのを止めて。
俺はため息を吐きながら、ずるずるとまたその場に座り込んだ。
内心で愚痴る。
はっきり言ってどんだけ自分勝手で我がままなんだよ。
振り回される俺の身にもなってほしい。
もういいかげん精神的にも疲れてきた。
一人で待ってろって言ったり、離れるなって言ったり。自己中すぎるんだよ、このおっちゃん。
『オイ、お前の内心は全部筒抜けで聞こえてるぞ』
あーうん。わざと言ったんだ。
『このガキ……!』
――ふいに。
トイレに誰かが入ってくる。
知らない異国の身なりをした貴族風の男だった。
男は俺を見てシルクハットをちょいと挙げ、紳士的に微笑んでくる。
あ、どうも。
思わず俺は反射的にぺこりと頭を下げて挨拶した。
男はちらりと俺の背後――トイレのドアへと視線を向けるとぽつりと言ってくる。
「ご使用中ですか?」
まぁ……そうですね。俺は使わないですけど。
「すぐには入れそうにないみたいですね」
……たぶん。
大用のトイレは一つしかない。
しかも今おっちゃんが使っている。
俺は申し訳なく言葉を返す。
もうそろそろ出てくるとは思いますが。
『馬鹿言え、あと二十分だ』
――って、また時間が倍に増えてんじゃねぇか! もういいかげんにしろよ! とりあえず一旦トイレから出て来い! 今すぐにだ!
俺は再びトイレのドアを叩きまくった。
おっちゃんが具合悪そうな声で答えてくる。
『今はまだ無理だ。……俺の人生が終わっちまう』
人生が終わるほどのどんなクソしてんだよ!
「どうかお気遣いなく」
会話を割って、男が申し訳無さそうに俺に声をかけてくる。
「別のところで済ませてきますから」
そう言って、男はすぐに踵を返して出て行ってしまった。
あ。
男が出て行く途中、俺はその人のポケットからハンカチが落ちたことに気付く。
あの! 待ってくれ、ハンカチが──!
呼び止めたが、その人はハンカチを落としたことに気付くことなく、そのまま外へと出て行ってしまった。
俺はすぐに落としたハンカチを拾い上げる。
そして男の後を追いかけようと──
『ほっとけ』
けど、おっちゃん。
『いいから』
だけど、このハンカチすげー高価なんだ。
『だからなんだ?』
俺、ちょっと届けに行ってくる。
『おおお前、ちょっ、待て! マジで言ってんのか、それ!』
今行けばたぶんまだ間に合う。大丈夫。ちょっと行ってくるだけだし、すぐ戻るから。
『おい待て!』
制止もきかず、俺は外へと飛び出した。
※
トイレを飛び出し、大通りに出て。
人ごみの多い中を、俺はハンカチを落としたあの人の姿を懸命に目で捜した。
きっとまだそんなに遠くに行っていないはずだ。
――そんな時だった。
ちょうどすぐ近くに位置する路地裏から、聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「そんなところで何をしておる? 小僧っ子」
俺は声のする方へと振り向く。
あ、ディーマン。
そこには見知った小猿の姿があった。
小猿は俺をちょいちょいと手招く。
「小僧っ子。ちょいとこっちに来い」
え? 何?
「少し話したいことがある」
あ、うん。わかった。
俺は素直に頷いて、親しげに小猿のところへと駆け寄った。
──それは路地裏に入ると同時だった。
突然背後から忍び寄ってきた複数の男たちに囲まれ、俺は口を布で塞がれた。
抵抗できないようすぐに体を捕らわれ、そのまま路地裏の奥へと連れ込まれていく。
逃げる術もなく、俺は地面に押し倒されてすぐに両手首を重ねるようにして後ろで組まされ、紐のようなもので縛られた。
そして頭から真っ白い布袋を被せられて、あっという間に全身を袋の中に入れられる。
しかも口を塞がれた際に当てられた布には薬品みたいな匂いを仕込まれていたせいで、急な眠気に襲われた。
意識を失うまでの間、俺は自由に動けないよう袋の上から両足と胴を縄で縛られていった。




