第52話 過去の呼び声
今更ながら俺は思った。
──竜騎軍の指揮って、どれ?
見回せど土竜の姿は皆同じ。リーダー的特徴を持った土竜の姿は無い。
ふと。
カルロスのドラゴンが俺に声をかけてくる。
《なぜ、クトゥルクを使って戦わないのですか?》
え?
《竜騎軍の指揮を捜しているのでしょう?》
あぁ、うん。
《クトゥルクの力を使えば竜騎軍指揮など簡単に姿を見せましょう。なのに、なぜ? 何をそんなに躊躇うのですか?》
そんなこと──
真下から突き上げて襲ってくる土竜により、会話は一旦中断された。
それを回避した後で。
カルロスのドラゴンが言葉を続けてくる。
《白き神に恐れるものなど無に等しいこと。たとえ黒騎士の大群が押し寄せようともクトゥルクの力なら簡単に殲滅できるというのに》
俺はムッとして言い返す。
だったら言わせてもらうが、クトゥルクを使ったら本当に誰も死なずに済むのか?
何の犠牲もなく──戦いだって、大規模にならずに簡単に終わらせることができるのか?
《白き神よ。あなたは何をそんなに恐れているのです?》
恐れる? 恐ろしいよ。使えば使うほど俺の目の前でどんどん誰かが犠牲になって死んでいく。
もしクトゥルクが誰も死なせず、平穏で平和的な優しい魔法だったならば俺は使うよ、当然。
でも違うだろ? クトゥルクを使えば黒騎士が来る。そうなれば余計に戦いを増やし、新たな犠牲者が出るだけだ。
俺たちはいいよ? それで。戦うだけの力を持っている。
だけど戦う力の無い人たちはどうする? 俺の力の犠牲になれっていうのか?
それにクトゥルクを使えば結界がなくなる。
結界がなくなったら地下とか影とか、光の無いところに魔物は現れて、そこで犠牲になる人たちが出てくるわけだろ?
その人たちにとってはいい迷惑だよ。
──敵を殲滅? そして最強?
人を平気で殺して、弱い人たちを目の前で見殺しにして、本当にそれで最強と言えるのか?
俺が恐れているのは俺自身の犠牲じゃない。俺がクトゥルクを使うことで関係ない人たちまで余計な戦いに巻き込んで、そして死なせてしまうことだ。俺の手の届かないところで。そういう人たちのことをいったい誰が守るっていうんだ?
《……白き神よ。あなたは変わりましたね》
変わった? 俺が?
ドラゴンは失望に声をにじませる。
《しばらく姿を見ない間に、戦場での戦い方をも忘れてしまったというのですか?》
忘れた、というか……。
記憶にすらないのだが。
《ならば分かりました。もう何も言いません。黙ってあなたの指示に従います。ではその、クトゥルクを使わない戦い方とやらの指示をください》
だから! まだ何も思い浮かばないんだよ!
《戦場で考えている暇などありません。一刻早戦で敵を討たなければ、後で取り返しのつかない事態を招くだけです》
わかってるよ、そんなこと!
《ならば躊躇わず、今すぐクトゥルクを使いなさい!》
ふいに奇怪な獣の断末魔のような声が聞こえてきて、俺はその声の方へと目をやった。
瞬間――その光景に息を飲む。
体中に無数にうごめく魔物を這わせた、真っ黒く巨大な魔物の塊。
それ以上の言葉はなかった。
闇のヌシか何かだろうか。
俺が蟻ならその魔物は象といったところか。
それくらい巨大な黒い魔物だった。
闇がざわめく。
その中で、黒い魔物はゆっくりと歩き出した。
黒い魔物が一歩踏み出すたびに、その黒い魔物の足元の大地から小さな魔物が蜘蛛の子のように次々と生まれ出てくる。
まるで孵化した虫が増殖し、巣穴から溢れ出てくるかのごとく。
大地はあっという間に小さな魔物で埋め尽くされていった。
黒い魔物は今にも腐りただれ落ちそうな赤い目を闇に光らせ、大地に居た土竜や逃げ惑う他の魔物を次々と喰らい、食事を始める。
それこそ獰猛的に。
空を駆るドラゴンは小虫のごとく散り散りになり、黒い魔物の口をなんとか避けていたようだった。
黒い魔物は大地から出てきた土竜や、それだけに飽き足らず、大地に顔を突っ込み、土竜を引きずり出しては次々と喰らっていく。
一頭、二頭と喰らっていくたびに黒い魔物は益々その巨体を大きくしていった。
俺とカルロスのドラゴンもその魔物に喰われそうになる瞬間をギリギリで交わし、風に乗り、その魔物の巨体を沿うようにして飛んだ。
ふと俺は黒い魔物に目を向ける。
手を伸ばせばその巨体に触れられる距離。
化け物の体には無数に魔物が密集して張り付き、うごめいていた。
なぜだろう。
理由も無く無意識に、俺はまるで吸い寄せられるようにして黒い魔物の体に手を伸ばした。
すると体に張り付いていた一体の魔物が、俺を引きずり込もうとして手を伸ばし、掴み掛かってくる。
《いけない!》
寸でのところでカルロスのドラゴンがそれを避け、俺はそこでハッと意識を取り戻した。
お、俺、今……
《あの魔物に触れてはいけません。取り込まれます》
取り込まれる?
《あれは魔物の融合結晶体――呪蟲》
デイダラ?
瞬間!
大気を震わせ、黒い魔物は口から血を滴らせながら奇怪な声で一鳴きする。
それはあまりにも悲痛な声で。
喉を引っかき、助けてくれと叫び、もだえ苦しむかのように。
俺は呟く。
……泣いている、のか?
《泣いている?》
俺は首を横に振った。
いや、なんでもない。それよりなんなんだ? あれ。
《呪蟲。黒騎士のなれ果ての姿です》
黒騎士のなれ果て?
《欲望を求める者に魔物は集い、同調します。その身に無数の魔物を引き込んだ黒騎士は、やがて新たなる魔物へと進化するのです。――それが呪蟲。
もはやあの姿となった以上、もう元には戻りません。獣となり、自我を失い、本能だけに生き、ただひたすらに生ある血肉のみを貪り、渇望し、求め彷徨う魔物となるのです》
魔物……。
すれ違うように、その魔物は俺たちとは真逆の方向──結界へと向かい動き始めた。
俺は慌てる。
急いでカルロスのドラゴンの背をべしべしと叩きながら、
向きを変えろ! 逆だ、逆! あの魔物の狙いは俺たちを喰らうことじゃない!
瞬間、跳躍するように。
黒い魔物がいきなり瞬発力を上げて猛スピードで大地を駆け出した。
その勢いのままに激しく、光の向こうに。
まるで建設重機のような音をたてて、黒い魔物は勢いのままに結界へ体当たりした。
俺はカルロスのドラゴンをすぐに旋回させて。
ようやく目にする現状に言葉を失った。
落とした鏡に走る亀裂のごとく、大きく蜘蛛の巣状にヒビ割れた結界。
結界が、壊れる……!
俺の中に北の砦の惨劇が甦った。
黒い魔物がもう一度体当たろうと動き出す。
やめろー!
俺は叫び、反射的に右手を振り上げた。
その手にクトゥルクの光を集わせる。
しかし。
俺はすぐにその力を押さえ込んで打ち消した。
駄目だ、使えない……! この力を使えば余計に──
北の砦で戦いを強いられることになった兵士たちのこと。
そして、俺の身代わりになって死んだエマのお兄さんのこと。
いつだって俺のやることは過ちばかりだ。
きっとここでも同じ結果を繰り返すだろう。俺がクトゥルクを使えば結界は壊れ、さらに黒騎士を呼び寄せることになり、戦いは悪化を強いられることになってみんなが死ぬんだ。
倒す魔物は所詮一匹。
クトゥルクを使わずとも、他に方法があるのならそうしたい。
右手を強く握り締め、俺は胸の前へと引き寄せる。
こんな時おっちゃんならどうしただろう。
俺にどんな指示をして、どう動いてどういう方法をとっただろう。
肝心な時にはいつだって、おっちゃんの声は聞こえてこない。
だから。
決めるしかない。考えるしかないんだ。俺が、一人で。
デイダラの二度目の体当たりの音が辺りに響き渡った。
ともに繊細な音も響き渡る。
結界が壊れ、砕け散る音だった。
光の境界線が消え。
黒い魔物──デイダラは、魔物を引き連れて一線を超え侵入していく。
遅れて。
交錯するように真横から来た水龍が、デイダラとすれ違って通り過ぎた。
タイミングがずれたのだ。
もう誰にも、止められやしない……。
スピードを上げて遠のいていくデイダラの背を、俺は絶望な思いで見つめた。
その脳裏におっちゃんのあの言葉が過ぎる。
【この世界にはクトゥルクが必要だ。だから──いや。願わくば、クトゥルクも結界も必要としない平和な世界になってもらいたいもんだ】
そしてあの時の巫女の言葉が。
【あなたはクトゥルクを災いの種と思い込んでしまっている。戦うだけの力。逃げるだけの術。誰かを殺す為の手段。あなたはクトゥルクの本当の意味を知らない】
ふいに。
一陣の風が俺を吹き抜けていった。
クトゥルクを打ち消し握り締めた俺の手を包み込むように。
優しい温もりが俺の手に残る。
そして風に乗って、懐かしい声が俺の耳に届いた。
あの時――おっちゃんとの墓参りで聞こえてきた、あの声が。
【行け。お前の背は我が軍が守ろう】
風に流され。
前方から赤い布が俺の横を通り抜けていく。
まるで俺の背を──守りきれない場所を、俺の代わりに守ってくれているかのような。
そんな気がした。
穏やかな安堵の心地に包まれて。
俺は再び拳を強く握り締めていく。
押さえ込んでいたクトゥルクの力を解放し、右手に瞬時に集わせる。
俺は叫んだ。
行ってくれ!
カルロスのドラゴンが俺に言ってくる。
《デイダラに向かってどうするのです!》
違う! デイダラじゃない、水龍だ! 水龍に向かって行ってくれ!




