第12話 牧場少女――エマ
ハッと目を覚ませば俺は家畜舎の中で仰向けになって寝ていた。
しかも大きな親豚の乳を枕にして、である。
家畜舎の外は清々しい朝を迎えていた。
小鳥がさえずり、どこかでニワトリが鳴く声が聞こえてくる。
俺の両隣では数十匹の子豚がブヒブヒ鳴きながら親豚の乳を飲んでいた。
いったいどういうことだ? これは。
状況が全くと言っていいほど飲み込めなかった。
頭を整理するのにしばらくの時間を要し、俺はそこから起き上がれずにいた。
すると何匹かの子豚が俺の腹の上に乗ってきて首元や顔やらと匂いをかいでくる。
最悪だった。
おい、おっちゃん。聞こえているんだろ?
『あーわかっている聞こえている失敗したんだ、言い訳は後でさせてくれ。俺は今モーレツに腹の調子が悪ぐぉぉぉ、き、きた』
その言葉を最後に、おっちゃんとの連絡は途絶えた。
マジで最低最悪だ、あの野郎。
――そんな時だった。
バケツが地面に落ちた音が聞こえてきて、俺はその方向へと目を向ける。
檻を挟んだ向こうで、昔話にでも出てきそうな爺さんが豚のエサを地面に散らかしたまま、俺を見つめてワナワナと震えていた。
俺は慌ててその場から飛び起きる。
あ、いや、あのえっと! ど、どうもすみません! けして怪しい者ではありませんから!
その老人は声を震わせて言う。
「こ、こいつぁたまげた(驚いた)だ。オラの豚さ、人間さ産んじまっただ」
そこに現れる一人の牧場風の格好をした年頃の少女。胸まである栗色の髪を三つ編みにして垂らしている。
「どうしたの? お祖父ちゃん」
老人はその娘にすがるようにして泣きついた。
「エマ、今すぐ村長さ知らせてくるだ。オラの豚さ人間さ産んじまっただ。これはきっと神様さ“お告げ”に違ぇねぇ」
◆
牧場少女――エマの善意により彼女の家に誘われ、俺は汚れた体を洗う為に風呂と服を借りることになった。
そしてその後、服が乾くまでの間お邪魔することになった。
さきほどの誤解を説明するのにもちょうどいい時間が作れた気がする。
俺は食卓に座り、エマと話そうとした。
するとエマが朝食をごちそうしてくれると言い出した。
たしかに朝も早い時間だった。朝食の時間に来た俺も悪い。
一応俺も断った。断ったのだがこの村の礼儀だといわれると何とも言えない。
エマが朝食の準備をしている間、俺は食卓に座って家の中を見回した。
古い木造の家である。裕福でもないが貧乏でもない、といったところか。
この家に住んでいるのはさきほどの老人とエマだけ。
エマの両親は少し前に他界してしまったそうだ。
実の兄が一人いるそうだが王都に兵として徴収されたまま、ほとんどここには帰らないのだとか。
「お待たせ」
目の前に用意される温かなミルクとチーズにパン。
「どうぞ、召し上がって」
なんか色々と……ありがとう。
俺は遠慮がちにミルクを手に取ると一口飲んだ。
すごく濃厚でおいしい。
エマが俺の向かいに座ってくる。テーブルに頬杖ついて、褐色の瞳を輝かせて興味津々に尋ねる。
「どうしてあんなところで寝ていたの?」
い、いきなりそこから話すのか? ちょ、ちょっと待て。
俺は考え込む。
どうすれば上手く説明が伝わるだろうか。
エマが質問を続けてくる。
「もしかしてあなた、本当にクトゥルク様だったりして」
え……。
呆然とする俺を見て、エマがくすくすと笑ってくる。
「うそうそ、冗談よ。迷信に決まっているじゃない」
だ、だよな。ははは。
ぎこちなく笑って、俺は早々にパンを手に取り口に運ぶ。
「どうせあなたも兵士として王都に連れて行かれるのを恐れて隠れていたんでしょ?」
え?
「違うの?」
あ、えっと、いやまぁそんなとこ、かな? ははは。
とりあえず今はそれで話を合わせておくことにした。
俺が異世界人であることを彼女に打ち明けるのは少々面倒そうだ。
すると急にエマは元気をなくすと、視線を落として声を沈ませ、言葉を続ける。
「隠れて正解よ。どんなにたくさんの兵士を集めたって敵うわけがない。相手は黒の騎士団。お兄ちゃんも戦場に行かされたらきっと殺されるわ……」
……。
俺は彼女に返してあげられる言葉が浮かばずに、ただ黙って朝食を口にすることしかできなかった。
◆
やられた。
その一言である。
俺がこうしてニワトリとひよこにエサをやったり花壇に水をやったり、エマの掃除や洗濯の姿を見つめたりしながら、そろそろ三時間が経つと思う。
ここには時計が無いから正確とは言えないが。
俺は頭の中で何度も何度も何度も何度もおっちゃんに呼びかけ続けていた。──が、待てど暮らせどいつまで経っても反応が返ってこない。
三時間でログアウトが最低条件だと言ったはずだよな?
騙されたのはこれで何度目だ? そろそろ学習しようぜ、俺。
脳裏によみがえる悪夢の三日間。
やっと現実世界に戻れたというのに、なぜまた俺はこの世界に来てしまったのだろう。
ログアウトのやり方を事前に聞いておくべきだった。
きっと目が覚めたらまた病院の中だ。
ははは。
俺は思わず笑いをこぼしてしまった。
エマが身を屈めて俺の顔を覗き込んでくる。
「どうしたの?」
いや、なんでもない。
「そういえばあなたの名前、聞いてなかったわね。なんて言うの?」
俺の名は……。
一瞬ためらった後、告げる。
Kだ。
「ふーん、Kっていうの。珍しい名前ね」
隠しても仕方ない。クトゥルク持ちであることがバレたらどうとか言われたけど、そもそも使い方が分かっていないんだ。証明しようもないし、たとえこのことで騒ぎになったり誰かに捕まったりしたとしても、クトゥルクが扱えないと分かればすぐに俺が偽者だと気付いて落ち着くことだろう。
エマがにこりと俺に笑いかけてくる。
俺もそれに連れるようにして微笑した。
エマが問いかけてくる。
「ねぇ、K──」
「エマ!」
ふいに聞こえてきた男性の声に、俺とエマは声のする方へと目を向けた。
牧草地広がる道の遥か遠くから、こちらに手を振る軍服の青年が一人。
エマの表情に満面の笑みが浮かぶ。そしてその青年へとすぐに駆け出していった。
「お兄ちゃん!」
嬉しそうに叫んで、エマは青年の胸に飛び込むようにして抱きつく。
「お帰り、お兄ちゃん」
青年もエマを抱きしめ「ただいま」と告げる。
そうか。お兄ちゃんが帰ってきたのか。
二人の様子を見て、俺もなんとなく嬉しくなった。
やがて青年がエマとともに家に帰ってくる。
そして俺を見るなり一言。
「誰だ? お前」
ごもっともです。
※
エマが俺の代わりに事情を説明してくれた。
さすがに兵士になりたくないから逃げていたという説明ではいけないと思ったのだろう。
兄には旅人だと説明していた。
おかげで、俺は服が乾くまでの間しばらくこの家に居ることになった。
ちなみに服はまだ生乾きである。
ぼぉーっとしているのも暇なので、俺は自ら酪農の手伝いを申し出た。
簡単な作業でいい。
掃除とか運び物とか何か手伝うことはないだろうか?
するとエマが表情を濁し、「手伝われても金銭的なものは払えない」と言ってきた。
俺は「それでもいい」と答えた。
この世界で稼いでも仕方がない。元の世界へ帰ればこっちのお金はゲームのコインでしか価値がないのだから。
俺は家畜舎の掃除をすることになった。
箒とバケツを手に持って、離れの家畜舎までの道のりを歩き出す。
さきほどからなぜかずっと俺のあとをついてくる数十羽のニワトリとひよこ。
空を飛んでいた小鳥も俺の肩にとまってくる。
放牧されていた毛の長い牛やヤギがたくさん集まってきて、なぜか俺の後ろをついてくる。
番をしていた犬も俺の周囲をうろつきながらついてくる。
そいつ等をぞろぞろと引き連れて、俺はようやく家畜舎にたどり着いた。
開口一番に言う。
助けてください。
家畜舎にいた老人が俺を見るなり驚いたように腰を抜かす。
「こ、こいつはたまげただ。やはりクトゥルク様のお告げに違ぇねぇ」
怯えるように俺に向けて手を合わせて拝み出す。
エマの兄が唖然とした様子で俺に駆け寄り、マジマジと俺を見てくる。
「お前、獣使いだったのか?」
そう……かもしれない。
「自分の能力を理解してないのか?」
そもそも使っている自覚がないから。
「能力は意識して使うのではなく無意識で使うものだ。それがお前の能力なのだろう。エルフならまだしも人間での獣使いとは珍しいな。人間が森で生まれ育つとそういう能力が身につくと聞いたことがある」
いやもうジャングル生まれジャングル育ちでいいです。
「そう悲観するな。誇っていいんだぞ。森で暮らすなんてとても勇気のいることだ。普通の人間なら森で寝ている間に魔物に食い殺されているからな」
……。
「よし、じゃぁ掃除を始めよう。とりあえず──」
檻を脱走して子豚がわらわらと俺の周りにやってきた。
遅れて親豚も俺のところへやってくる。
動物たちに囲まれた俺はその場から動くことすらできず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
エマの兄が同情するような目で肩を上下し、お手上げした。言葉を続ける。
「そうだな。とりあえずはお前の周りの動物たちを先にどうにかしよう」
※
牛やヤギは牧草地へ戻し、豚は檻に入れてニワトリひよこはそのままに、俺たちはようやく掃除を始めた。
陽も空高く昇り、昼を感じ始める。
相変わらずおっちゃんとの連絡はとれていない。
はぁ。これで病院行きは確実だな。
マジで最悪だ、あの野郎。
俺が箒でゴミを払っていると、エマが俺に声をかけてきた。
「色々手伝ってくれたみたいね。ありがとう。あなたの服、ちょうど乾いたところよ。
それとあなたの分の昼食を用意したの。良かったら食べていかない?」
昼食か。
俺の腹がぐるると鳴る。
うん、わかった。遠慮なくいただくよ。
エマがにこりと笑う。えくぼの似合うかわいい笑い方だった。
彼女の笑顔には、なぜかこっちもほっこりさせられる。
エマが少し離れた場所に居る兄に向けて言う。
「お兄ちゃんもキリがいいとこでやめてご飯にしよー。お祖父ちゃんも呼んで来て」
彼は「あぁわかった」と頷いた。
エマが俺の手を取る。
「行こう、K」
え、ちょっ──
無理やりエマに引っ張られるようにして、俺は掃除半ばで歩き出した。




