第10話 俺が居るべき世界【前編】
──その後。
検査で何の異常も見られなかった俺は退院することが決まった。
そして退院日を迎えた今日。
退院手続きや荷物整理の関係で俺と母さんが病院を出たのは昼過ぎだった。
迎えに来た父さんの車に乗り、途中で外食を済ませてようやく家に帰り着く。
荷物を玄関に放って、俺は二階の自分の部屋へ行くとそのままベッドに直行して倒れこんだ。
はぁ。やっぱり自分の家が一番落ち着く。
『明日から学校ってのもだるいしなぁ。よし、じゃぁこのままゲームの世界へ逃げちまおう』
行かない。
『……。なんか最初の時と比べてノリが悪くなってきたな、お前』
さんざん騙しといてよく言うよ。
『俺がいつお前を騙した?』
最初からだ。おまけに目が覚めればこの有様だし、ほんと最悪だよ。
『全部俺のせいだっていうのか?』
そうだよ。今回のことでどんだけ周りに迷惑かけたと思ってんだ? もしあのまま俺が元の世界に帰れなかったらどうなっていたと思う? 父さんも母さんも俺のせいですごくやつれた顔してたよ。俺はもう二度とあっちの世界には行かないからな。クトゥルクの力も俺には必要ない。欲しがっている奴がいればくれてやる。だからもう二度と俺に話しかけるな。わかったか? おっちゃん。
一階から母さんが俺を呼んでいる。
どうやらダチが俺に会いに来たらしい。
俺はベッドから起き上がると、部屋を出て一階へと降りていった。
玄関に立っていたのは朝倉だった。
そういや俺が入院して寝ている時に何度か見舞いに来てくれたんだっけか。
俺は朝倉に向けて手を挙げる。
よぉ。
「おぅ」
朝倉も同じように反応を返してきた。
短い会話で伝わるコミュニケーション。
行くとこはだいたい決まっていた。
俺は母さんに「ちょっと行ってくる」とだけ告げて朝倉と一緒に家を出た。
今日が日曜日のせいもあってか、公園にはけっこう人がいた。
家族連れやカップル、犬の散歩等。
広場を抜けて、公園の池のわき道をぐるりと歩き、そして──
朝倉が真顔で俺に言う。
「ちょうどいいところに椅子があった。あそこに座ろう。女子トイレ前に椅子があるって最高じゃないか」
どこの変態だ。
そんないつもの冗談を軽く流しながら、俺はトイレ前を通り過ぎ
「なぜ座らないんだ? あの場所が空くことなんて滅多にないというのに。せっかくオレの勧める絶景ポイント百選の何が気に入らないというんだ?」
俺、そろそろお前の将来の為にもマジで通報しようと思う。
すると急に朝倉が俺の首に腕を回し、締め上げるようにして引き寄せてくる。
「ガチで聞くが、お前今好きな奴いるか? もちろんアイドル抜きでだ」
何を急にそんなこと。
「いるのか? いないのか?」
……いない。
「よし、じゃぁオレが速攻でお前に彼女を作ってやる。今からこの公園にいるフリーでかわいい女どもに片っ端から声をかけていくぞ」
勝手にやってろ。
「ダチのオレから見てもお前の顔はそう悪くない。オレの元カノも言ってたが、お前はEXのボーカルのTAKUYAに似ていてカッコイイんだそうだ。それを聞いたあの夏、オレは無性に腹が立ってプールサイドにいたお前を背後から全力で蹴落としてプールの底に沈めてやったが忘れてくれ」
お前やっぱあれ、わざとやったんだな。
「この話をキッカケにオレと愛華は別れてしまったが、あれから一年。その間に梨花や真菜や沙良や陽菜や花音とも付き合えたし、今は妃愛莉とチョーラブってるからもういいんだ。あの時のことは水に流してやる」
俺の水は一生流れない。
「詫びにお前に彼女を作ってやるって言ってんだ」
いらねぇよ。そこまでして無理に彼女作りたくないし。
「まぁそういうなって。公園の次はレベル上げて渋井駅周辺だ。その後は女どもと楽しく飯食って帰る。それでいいだろ?」
いいわけねぇだろ。
俺は重いため息を吐いて足を止めた。
もういいよ、ここで。なんか俺、疲れてきた。
すると急に朝倉が態度を変えて心配してくる。
「だ、大丈夫か? 眠くなったとかそんなんか? マジ病院すぐそこだし今から行くか?」
は? なんで?
「いや、ほらお前あれだろ。退院したばっかでなんか急に体に負担が来たとかで大変じゃん」
……。
「とりあえずお前そこのベンチに座ってろ。オレ、飲み物買ってきてやるから」
……。
朝倉は俺をその場に残し、焦るようにして自販機を探しにどこかへ行ってしまった。
とりあえず。
俺は身近にあった無人のベンチに腰掛けた。
ゆるりと背もたれに寄りかかり、空を見上げる。
気のせい、だよな?
疲れたと何気に吐いただけなのに、急に見せた朝倉のすごく心配してきた顔。
いつもと少し様子が違う気がした。
※
公園のベンチに腰掛けてから、そんなに時間は経ってなかったと思う。
どこからか一羽のカラスが俺の近くに舞い降りてきた。
じっと俺を見つめてくる。
俺は足で追い払った。
あっちいけ。エサなんて持ってねぇぞ。
カラスは首を傾げる。
どうやら動く気配はないようだ。
はぁ。
俺はため息を吐いて視線を逸らした。
──ふいに。
何の気配もなくそいつは突然俺の隣に現れた。
俺の肩にポンと馴れ馴れしく手を置いて告げる。
「捕まえた。これでゲーム・オーバーだ」
は?
俺は怪訝な顔して隣を見た。
ダーク・スーツに身を包んだ真面目な営業マンっぽい感じの男だった。
年齢はだいたい二十代後半といったところか。
きっと一人でいた俺をターゲットにしてこれから売り込みでも始めるつもりでいるんだろう。
男が微笑してくる。
「無防備に油断し過ぎだ。隙をついてやったというのに動揺もせず逃げもしないとは大したもんだ。てっきり──」
俺は先にハッキリ言ってやった。
間に合ってます。
男の片眉根がぴくんと跳ねる。不快に顔を顰めながら、
「間に合っている、だと?」
俺は言葉を続ける。
欲しいものは何もない。金もないし携帯電話もクレジットも持っていない。俺の親から搾り取ろうとしてもたかが知れてる。
「何の冗談だ? それは」
誰と勘違いしているのか知らんが俺の父さんの役職は係長だ。ターゲットにするなら明らかに金を持っていそうな奴を狙ってくれ。
「……」
……。
男が馬鹿にするように鼻で笑ってくる。
「どうやら奴に記憶を消されたようだな、K」
俺は時を止めた。
「ずっと俺が誰なのかわからずに話していたのか?」
男がこめかみに指を当てながら言ってくる。
「お前の頭ン中で声が聞こえてくるだろう? 知らない奴の声が。奴がお前に何吹き込んでいるのか知らんが、奴の言うことは全て信じるな。ここはお前の在るべき世界じゃない」
な、何言ってんだ? お前、いったい誰だよ。
ちょうどそこに朝倉が飲み物を持って帰ってくる。
俺は朝倉へと振り返った。
朝倉が冗談に笑いながら俺に言ってくる。
「さっきから誰と話してんだ? お前」
え?
思わず俺は隣にいる男へと振り返った。
俺の隣にはたしかに男が存在している。
見えていないのか? 朝倉。
朝倉が俺に飲み物を差し出してくる。
「見えるって何が? 幽霊か? お前演技下手だなぁ。オレを驚かしたいならその手の話は夜にしろよな。昼間じゃ何の意味もねぇぞ」
俺は呆然としたまま朝倉から飲み物を受け取る。
隣で男が俺に言ってくる。
「これでわかっただろう? これがこっちの世界での正しい反応だ。
あともう一つだけ、これも言っておこう。
最初からお前のところにカラスなんて舞い降りていない。あのカラスが見えるのはこの世界で住人に成りすました異世界人だけだ」
無意識に飲み物を持つ手が震えた。
違う。嘘だ、そんなはずない。
「そういや俺のこと覚えていないんだったな。改めて名を言おう。俺の名はセガール。お前の味方だ。どうせ奴から黒騎士は敵だって聞かされているんだろ? 奴にとって黒騎士は敵だからな。お前が奴にさらわれて姿を消してからみんなで手分けしてずっと捜していたんだ。ほんとクトゥルクの力が暴走する前にお前を見つけ出せて良かったよ。
俺とともに国へ帰ろう、K。国王がお前の帰りを待っている」
男──セガールが俺に手を差し出してくる。
けど俺はセガールの手を掴めずにいた。
「迷うことはない。どうせこの世界はお前にとって偽りの世界だ。気にしたところで意味はない。すでに刻を迎えたお前にこれ以上クトゥルクの力を抑え込み続けるのは無理だ。遅かれ早かれお前の日常はこうして崩れる予定だった。
いいじゃないか、こんな世界の一つや二つ。お前にとっては微々たるもんだ。あっさり捨てちまえ。無理に力を抑え込んでおくよりもお前の在るべき世界でその力を惜しみなく有意義に使った方が世のため人のためだ。そうだろう? K」
俺は差し出されたセガールの手を掴もうとしていた。
──その寸前で。
横から俺の手を掴んで阻止してきた少女がいた。
長い黒髪を高い位置でツインテールにした同じ年頃の少女だった。小柄で活発そうなその子は初対面でいきなり俺を睨みつけて言い放つ。
「馬ッッ鹿じゃないの!? あんた!」
そのまま俺の手を捻りあげる。
俺は痛さのあまりに悲鳴をあげた。
朝倉が助けに入ってくる。少女の肩を掴んで、
「何やってんだよ、てめぇ! 俺のダチに!」
少女は噛み付かんばかりの形相で朝倉に喚きたてた。
「いいからあんたは黙ってて!」
「はぁ!? お前何様のつもりだよ!」
「何様でもないわよ! 通りすがりにあんたの友達を助けてやっただけよ!」
言い放ち、少女は再び俺に顔を向けて言ってくる。肩の力を抜くようにため息を吐いて、
「これで少しはあんたの目、覚めたでしょ?」
何のことだ?
尋ねる俺に、少女は無言で俺の隣を視線で示した。
視線に沿って俺は隣を見る。
隣にいたはずのセガールの姿は消えていた。
少女が俺の手を解放する。
「奴らの言葉を真に受けないで。契約したが最後、二度とこっちの世界に戻れなくなるから」
戒めるように、俺の額を指で弾いてくる。
「あんたは間違いなくこっちの世界の人間。本当に信じるべき者はいつもあなたの傍にいる」
少女が俺に向けてにこりと笑う。そしてこめかみに人差し指を当て、言葉を続ける。
「そう。あんたとあたし、それぞれの頭の中にね」
照れくささを隠すように少女は俺の頭をくしゃくしゃに撫でてきた。
「あたしのコード・ネームはM。興味があったら捜してみて。今度はゲームの世界で会いましょ、K」
ひらひらと手を振って、ツインテールの少女――Mは、俺の前から去っていった。
※
──そして、日も暮れかけた夕刻。
朝倉と別れた俺は一人で家に帰り着き、家の中に入ろうと玄関のドアノブに触れた時だった。
セガールが再び俺の隣に現れる。
「その様子だと、奴をまだ完全に信用しているわけじゃなさそうだな」
……。
俺はセガールへと振り向いた。
セガールが軽く笑みを漏らす。
「そうでなければ俺が二度もこうしてお前と接触できるのは可笑しな話だ」
俺は無視してドアノブを回し、ドアを開けた。
その背にセガールが言葉を続けてくる。
「お前はクトゥルクの使い方を知らない。だからあの世界には興味がない。そうだろう?」
思わず、俺は動きを止めてしまった。
「行きたい時はいつでも心の中で俺を呼べ。奴ではなく俺を呼ぶんだ。俺がクトゥルクの正しい使い方を教えてやる。力こそが絶対権力。黒騎士としてのお前の席は空けておく。世界を制する力を知れば、お前の心にも野心が芽生えてくるだろう」
悪いが俺、そういうのに興味ないから。
「そう思うのはお前がまだクトゥルクの本当の力を知らないからだ。無理に抑え込んで使っていれば誰だって面白くない。あれは無理に抑え込んで使う力ではないからな。クトゥルクの力を知ればその偽善的な考えを捨てたくなるだろう」
馬鹿らしい。付き合ってられるか。
「そうか。ならば仕方ない。使う気がなければ使いたくなるようお前に仕掛けるしかない」
俺が振り向いた時には、すでにセガールの姿はそこにはなかった。




