第15話 現実世界は寒かった
――ハっクシュ!
盛大なくしゃみとともに鼻をすすって。
俺は目を覚ました。
途端にゾッとするような寒さに見舞われる。
寒ッ!
薄手の一枚服だった俺は、あまりの部屋の寒さにぶるりと身を震わせた。
さきほどまでの暑さから一変。
部屋内は冷房いらずの寒気に包まれていた。
両腕をさすり摩擦熱で体を温めながら、俺は眠り込んでいた勉強机から頭を起こし、辺りを見回す。
どういうことだ?
どうだもクソもなかった。
周囲を見回せば見慣れた自分の部屋内。
冬の手前とも思える肌寒さを感じる深夜である。
俺はいつの間にかあのゲームの世界から抜け出し、元の世界へと戻っていたのだ。
こっちの世界に戻れたっていうのか? 俺一人の力で。
そういえば以前、Jがこんなことを言っていた気がする。
あの世界には三つのログアウト方法があって、強制的に戻される方法と、誰かと一緒に戻る方法、そして自分の力で戻る方法があるのだと。
馬鹿だよな、俺。
今更ながら気付いた。
なんで今まで自分からログアウトをしなかったんだろう、と。
思えば最初にあの世界に行った時からずっと気になっていたはずだったんだ。なのに、いつの間にかすっかり尋ねることを忘れてしまっている。
別におっちゃんに頼らなくても、こうやって勝手にいつでもあの世界からログアウトできたはずなのに。
それなのに、俺は……。
目の前の勉強机へと視線を落とす。
そこに広がった空白の問題集。
山のように残された宿題。
机上の時計は午前三時を回っていた。
乾いた笑いがこみ上げてくる。
終わらねぇ。絶対に終わる気がしねぇ……。
俺は勉強机にうつ伏せると、静かに涙を浮かべた。
※
――あれから。
俺はいつの間にか勉強机の上で眠り込んでしまっていたようだ。
目を覚ました時には窓から陽の光が差し込んでいて、朝であることを知らせていた。
やけに頭がだる重い。
朝を迎えたにも関わらず、すっきりとした目覚めにはならなかった。
机にうつ伏せたまま俺は力なくうめく。
すげー寒い……。
思考が鈍い。頭が重い。節々が痛い。体が起こせない。
なんだろう。なんというか、寝ている間に文鎮でも頭の中に詰め込まれたんじゃないかと思えるほども、頭を起こすのが辛すぎた。
それにさっきからずっと体に力が入らない。
気のせいか、胸やけして少し気分が悪いようにも思う。
このクソ寒い中、机でうっかり寝とか俺は馬鹿だ。絶対これ、風邪引いたかもしんない。母さんになんて言おう……。
夜遅くまで宿題をしていました、なんて言い訳は通用しない。
なぜなら宿題は空白のままだからだ。
では何をしていたのか? と問われれば、何も言い返すことはできない。
あまりに自分の情けなさに変な笑いがこみ上げてきた。
はは。どうしよう……。
そんなことはどうだっていい。どちらにせよ、今日を休むわけにはいかない。
今日は荒俣が授業で大事なところをやると言っていたし、それに母さんも昨日の夕食の時に“明日は友達と出掛ける”と、父さんに話していた。
とにかく今日は学校に行かなければ。
俺は無理やり机から頭を起こした。
しかしすぐにクラクラとめまいのようなものを感じて、また力なく机にうつ伏せる。
あっちの世界は暑かったが、こっちの世界だともうすぐ冬だ。
そんな環境の中を、俺は夏感覚で部屋着一枚のまま──しかも机の上で眠り込んでしまっていたのだ。
薬飲んで早めに治るといいんだが……。
もう一度気合いを入れ直して、俺は再び机から頭を起こした。
円描くように回る視界を何とか自制し、持ちこたえる。
痛む腰に手を当てながら熱を帯びた体でフラフラと、俺は体にムチを打つようにして椅子から立ち上がり、物を支えにしながらゆっくりと歩き出す。
その後は壁つたいに部屋を出て、倒れそうになる体を引きずりながら一階へと下りていった。
※
リビングのソファーで横になりながら。
ふと、音を鳴らす体温計を手に取り、俺はその数値をぼやける頭でジッと見つめる。
……。
見ているだけで数値が頭に入ってこない。
すると母さんが傍に来て、俺の手から体温計を取った。
「風邪の引き始めね。微熱は微熱だけど」
そう言って、母さんが心配そうな顔をして俺の額に片手を当てる。
「でも触った感じだと高熱っぽい感じではあるのよね。それに顔色も青ざめていて良くないし。体温計が壊れているのかしら」
微熱なら学校行く。
「今日は休みなさい。そんな体調で無理して学校に行って、熱が上がって倒れでもしたら迎えに行くはめになるでしょ」
平気。微熱って聞いたら元気になれた。
「空元気っていうのよ、そういうの。今日はもう休みなさい。学校の先生には電話入れておくから」
いや、行く。
言って、俺は寝ていたソファーから無理やり体を起こした。
胸中で付け加える。
部屋で寝ていたら絶対におっちゃんからゲームの世界に連れて行かれそうな予感がするし。
フラフラする体をなんとか起こしてソファーに座り、ため息を一つ。
……。
体だるい。頭重い。
しかも頭の回転が鈍すぎて次の行動がすぐに思い付かない。
「体きついんでしょ? 無理して学校に行って、倒れでもしたら先生や友達に迷惑かけるだけよ」
あ、そうだ。制服に着替えないと。
スローモーションで再生されているかのごとくゆっくりとした動作で俺はソファーから立ち上がった。
途端にフラリと立ちくらみを起こす。
その体を母さんが支えてくれてソファーへと座らせてくれた。
母さんがため息を吐く。
そして心配そうな顔で俺を見つめて言う。
「制服はもういいから、ちょっとここで寝てなさい。風邪薬持ってくるから。喉は痛くない? 咳は?」
痛くないし、咳もない。熱だけ。
「ご飯は?」
いらない。学校に行く。
「ダメ。今日は二階で寝てなさい。こんな状態で学校に行けば絶対倒れるに決まっているんだから」
――ふいに。
テレビの電源が入り、朝の番組が流れ出す。
母さんが驚いて足元を探した。
「リモコンを踏んだの?」
いや。
俺は首を横に振り、座っていたソファーに視線を落とした。
ふいに、母さんがリモコンを見つける。
「あら。リモコン、こんなところにあるじゃな──」
言って、ここから離れた食卓の上にあるリモコンを何気に取りに行こうとしたところで、俺も母さんも異常に気付いた。
誰もそのリモコンに触れていなかったのである。
母さんは気味悪そうに腕を軽くさすった後、食卓の上にあるリモコンを手に取った。
テレビの電源を消す。
「不良品だったかしら。そろそろ新しいテレビを買い換えないといけない頃なのかもね」
明るくそう呟く母さんの声に、どこか怯えの色が混じっているように聞こえたのは気のせいだろうか。
すると突然、電話の音が鳴り響いた。
俺も母さんもその音にビクッと体を震わせる。
しばらくして。
それが電話の音であることを認識した後、母さんも俺も胸を撫で下ろした。
母さんが電話を取りにリビングから出て行く。
そして、
「あら、おはよう。……うーん。ごめんね、実は今日はちょっと息子が体調悪くて──」
電話に出た母さんの会話や声の調子から、それが母さんの友達だと分かり。
……。
俺は無言で、重い体を無理やり起こし、ソファーから立ち上がった。
勝手に薬箱から風邪薬を取り出し、それを飲んで。
二階に行って自室に入り、黙々と制服に着替えた後、何も言わずにそのまま静かに家を出た。




