[70] お見舞い
病院と聞くと思い出すのは消毒液の匂い。
鼻の奥を刺激するあの匂いは、好きじゃなかった。
両親が事故に遭って危篤だと、兄がタクシーを乗りつけて私と弟を学校から連れ出した。
私が目にしたのは、あちこちに包帯が巻かれその間から色々な管をのぞかせる、集中治療室のガラス越しの父と母だった。
そして6時間後に父が、その2時間後に母が、三人が見守る前で亡くなった。
あの時兄に抱きついても、弟を抱きしめても、消毒液の匂いしか感じられなかった。
だから私にとって死を連想させる、嫌いな匂い。
私は今、城下の医療院が運営する王立病院に来ていた。
診察棟、入院棟、そして研究棟に別れた大きい施設で、以前、私が刺された時に運ばれ治療してもらった所だ。
次期王妃の視察に、院長と各棟の所長、そして上級医師達が連れ立って、ぞろぞろと行列を作り私を案内する。
前回訪れた時に驚いたのが、建物の中に満ちた匂いが、私の知る病院のそれと違ったことだった。
青々と生い茂る針葉樹林の中で吸う空気の香りに似た、決して嫌ではない清々しい匂いだった。
そのことを尋ねてみると、薬品に詳しい研究棟の所長が組成について詳しく教えてくれたけど、化学の成績がよくなった私の耳に右から左へと流れていった。
ただ、とある処理をするまでは、目や鼻を刺激しする、その場にいると耐えられないようなひどい臭いの液体なんだとか。
自身も高名な医師だった院長は、私の質問に出来るだけわかりやすく応えてくれ、病院の診療の仕組みから入院患者への対応、そして現在取り組んでいる研究について飽きさせることなく聞かせてくれた。
そして私は入院棟を数部屋まわり、難病などで長く入院している人々に声をかけ、手を握り、はげましていった。
予定されていた大部屋をいくつかまわり、最後に訪れたのは個室だった。
部屋に入ると、私と付き添うシュリを残し皆は外で待っていてもらう。
「ユカ様、視察にいらっしゃるとは噂に聞いていましたが、まさかここにお越しくださるなんて」
「久しぶりね」
入院用のベッドに足を曲げ窮屈そうに横たわっていた男があわてて起き上がる。
「無理しないでちょうだい」
「大丈夫です。もう数日後には抜糸ですから」
久しぶりに聞くバッハの低い声は、変わらず温かかった。
ジャックの剣に倒れてから1ヶ月経ち、一時は命の危険すら危なかったと言われたほどの深手だったけど、鍛え抜かれた身体のお陰か、驚異的な回復力を見せていると教えてもらった。
病院の訪問に際し、極秘で知り合いのお見舞いをしたいと伝えておいたら、容態を聞きたいでしょうと、院長が気をまわして担当医師にも引き合わせてくれた。
「もっと早く来たかったのだけど、色々あって遅くなってしまって。退院してしまわないか焦ったわ」
「そんな、自分のためにお越し下さるなんて、畏れ多いことです」
私は、彼の固くてとても大きい手の上に自分の手を乗せた。
「あなたは私を守ってくれた人なんだもの。あの時のお礼を言いにきたの。守ってくれて、ありがとう」
「いえ、自分はあなたを完全に守れなかった、任務を完遂できなかったのですからお礼を言われる資格など…」
「あの出来事は、誰もが予想できなかったし防げなかったことよ。その中でよくやってくれた。私の目の前で命がけで私を助けようとしてくれた姿はずっと心に残ってるわ」
「もったいないお言葉を。仕事ですからお気遣いは無用です」
ちょっと固い声になって私の手をそっと外す彼の顔は夕陽に当ったように赤く染まっていた。
シャイなその様子にこちらまで照れてしまう。
私はシュリに目配せをすると、彼女は手にした籠から大きな紙の包みを手渡した。
「はい、これは私と、エリス夫人とアイーダさん、そしてナナとシュリからのお見舞い。まだ食事は制限があるでしょうから、こんなものにしてみました。ほら、開けてみて」
バッハが戸惑いながらそれを開くと、驚いた顔をした。
「ユカ様、これは自分のでありますか?」
「ええ。皆で作ったのよ。こういうものであなたの身体の大きさはなかなかないでしょ?ほら、その肩にもしっかりかけられるわ」
彼が広げたそれは、お針子さんから融通してもらった端切で作ったパッチワークの肩掛けだった。
地味だけど暖かい色目の布達で出来たそれは、花柄混じりで少しファンシーだけど、不思議と彼の雰囲気に馴染む。
自分以外に見舞う者がいないと女っ気のなさを嘆くイーライの話を聞いてナナとシュリが発案した。
裁縫上手なアイーダ夫人が一晩で半分以上も仕上げてくれたのは内緒だ。
「ここ、ユカ様が縫いましたね」
「ええっ!どうして一目で分かっちゃうのよ」
バッハは太い指で示したそこは、白い縫い目がのたくっていた。
そうだった、彼には私の不器用な所がバレてるんだった。
「ありがとうございます。家宝にします」
「いえいえ、普通に使ってちょうだいね。無理をしないでちゃんと治すのよ。また私の所に戻ってきてくれる?」
「もちろんです。またお役に立たせていただけるなら」
「ありがとう、私の親衛隊副隊長さん」
バッハの大きな顔が私をまじまじと見た。
このことは自分で伝えたくて、隊長が決定しているイーライに内緒にしてもらっていた。
「引き受けてくれるでしょう?隊長のイーライと一緒に、私を守ってちょうだい」
「ええ、この命にかけて」
バッハは、拳を胸にあて座ったままの簡略の礼として身体を前に倒した。
途端に、彼の右眉の端がぴくりと動く。
彼は痛みだけでなく自分の感情にも我慢強い。
でも、一緒にいるうちに気付いたことがある。
表情はほとんど変わらないけど、何か耐える時に必ず眉が動く。
きっと、腹筋に力を込めたせいで傷が痛んだのね。
「痛むのに無理しては駄目よ。さあ、もう寝てちょうだい」
「いえ、大丈夫ですから」
私は強引に横にならせると上掛けを彼の肩上までひきあげ、つい弟に毎晩してやってたように胸の所をポンポンと叩く。
驚くバッハとシュリの視線に気付き、うっかり子どものように扱ってしたことを私は顔を赤らめ謝った。
そして彼に別れを告げた私たちは、病室を後にした。
※閑話回にしていましたが、本編に含めました。




