[57] 解放
雨の降る午後、ジュディスが後宮を去る日が来た。
先日の襲撃の件もあって、さすがにジュディスとリリーの父親達はこれ以上粘って娘を残しておくと、自分達にいわれのない嫌疑がかけられかねないと思ったのだろう。
娘達を帰宅させることにやっと同意した。
本当は皆が揃って城を出るはずが、リリーが昨晩からひどい熱を出して寝込んでしまったので彼女と看病をするダイアナは帰宅を延期することになった。
離宮の玄関でターニャ様とダイアナが見送り、私はジュディスに寄り添って迎えの馬車がつく城の西口まで見送ることにした。
肩を並べ、しとしとと霧雨が降り注ぐ庭を眺めながら、屋根に守られた通路を進む。
前と後ろには私の護衛が、私たちの後ろには彼女達の護衛とカイルが付き添っていた。
ユリウスは他国からの客人との面会があり一緒に見送ることが出来なかった。
「ユカ様にお会いできてほんとうによかった」
以前会った時に比べて随分血色の良くなった顔が私に向けられる。
さくらんぼのような赤いぷっくりとした唇には笑みが浮かんでいた。
「私もよ」
離宮に移り何度か会ううちに、彼女は言葉少なくぎこちないが、姉のように慕ってくれるようになった。
そんな彼女と別れるのは寂しいけど、彼女にとっては辛い思い出の詰まったこの後宮から解放される。
「お家に帰ったら、しばらくゆっくりとなさるんでしょう?」
「ええ、そのつもりだったのですが、母方の別荘が西の海辺にあるんです。遠いところですがそこでしばらく過ごします」
「海辺?素敵だわ。私も海が見たいわ」
「ユカ様は海がお好きなんですか?」
「ええ。少し遠いところに住んでいたから年に1、2度行く程度だったけど。海は見ていて飽きなくて好きなの。それに私、カッパ、いえ、魚みたいに泳ぎがうまいのよ」
「海を泳ぐのですか?」
ジュディスは驚いて目をまんまるくする。
この国では、川や湖、海の側に住む民は泳ぐことはあるが、そうではない民や貴族は泳ぐことはほとんどない。
「海面で陽が照り返されるから、肌を焼きすぎてしまわないようにね。でも、少しは日にあたるのも健康にいいのよ」
「はい」
「この国の海はどんなふうなんでしょうね。私もこうやってあなたと一緒に浜辺を歩きたいわ」
潮の香りを懐かしんでいるうちに私達は後宮を出て城に入った。
ジュディスは振り返ることはなく、護衛が導くまま城の中を進む。
「あの、ユカ様、向うでお手紙を書いてもいいですか?」
「ええもちろん!私もお返事を、あまり手紙を書くのは得意じゃないけど出すわ」
「綺麗な貝殻を探して入れますね。それを見て海と私のことを思ってください」
プライベートでは筆無精なんだけど、美少女のお願いはきいてあげたくなってしまう。
角を曲がった所で前方に、衛兵がたつ開かれた西口が見えた。
頬を茜色に染め、目を潤ませる彼女の背に、私はそっと手をまわし寄り添いながら進む。
あと数メートル。
そこでなぜか前をいく護衛が足を止めた。
左手の通路から現れた一団を見て、護衛達は後ろに下がり、私とジュディスは並んで膝を折った。
「ユカ、久しいな。奥にいるはずのそなたがなぜここにいる」
私たちの目の前に現れたのは、侍従や護衛を引き連れた王だった。
わざわざここで待ち伏せしていたわけではないでしょう。
偶然に違いないけれど、嫌すぎる偶然だわ。
私は横でジュディスの肩が震えるのを感じた。
肩を抱いてあげたいけど、今は出来ない。
王は悠然とそこに立っているが、私たちにあびせる眼光は鋭かった。
「ご無沙汰しております。王にはご機嫌うるわしく。今日は王妃候補だったジュディス嬢が城を離れるために、お別れとお見送りのためにここに参りました」
「ほう、さっそく婚約者の務めをはたしておるのか、感心だな。ジュディスとやら、王妃候補の務めご苦労だった」
私の後ろで、ジュディスの肩が揺れ、更に低く平伏する。
「なんだ、せっかく余がねぎらったのだ。顔をあげよ」
私はそっと手を横に伸ばし彼女の冷たく汗のにじむ手をにぎった。
あともう少しでここから出れるのよ。
だから頑張りなさい。
私の声が届いたのか、彼女は目を伏せたままそっと顔をあげた。
「ありがたきお言葉、恐悦至極に存じます」
血の気の引いた顔で、消え入りそうな声だったがしっかりと口上述べる。
「あれも欲がないのう。妾妃は抱かぬとも並べておけばよかろうに。それともそれほどそなたに執着しておるのかな。最近仲睦まじいと耳にする」
誰よ、余計なことを吹き込んだのは。
顔を見せろと言ったくせにジュディスには視線をわずかに止めただけで、そのまま私に向ける。
私はそれを笑顔で受け止めた。
「ユリウス様のお考えまでは存じ上げませんが」
「まあよい、息子がそなたに満足しているのならそれは喜ばしいことだ。せいぜい良き王妃になるよう励むがよい」
「ありがとうございます」
表面上は未来の舅としてまともな言葉をかけてくるが、視線がねっとりと私を舐め回すように向けられている。
早くあっちに行ってくれと、お礼の言葉を告げ頭を下げたまま私は顔をあげなかった。
少し沈黙が流れた後、王は足を進め、私たちの横を通り過ぎていった。
その時王が手を伸ばし私の横髪に軽く触れたのが分かり、背に悪寒が走った。
思いがけない王との遭遇にジュディスが取り乱すかと心配したが、なんとか耐え抜き、馬車に乗る時は再び笑顔を見せてくれた。
馬車が門を出て見えなくなるまで見送ると、私はきびすを返そうとしたけど足が動かなかった。
このまま走り出し、門を抜けて城を出ていってしまいたい。
そんな思いがふくれあがる私を察してか、カイルが隣に立ち腕を取ってくれた。
「大丈夫か?気分が悪いならどこかに部屋を借りて休めるようにするが」
「平気よ、気が抜けただけかな。このまま部屋に戻るわ」
王妃候補が城を離れていってることを知った王が、このまま素直に皆を解放してくれるとは限らない。
まだ気を抜いてはだめよと、ひるみかけた自分に叱咤した。




